世界は敵だ。
些細なことから被害妄想に取り付かれた春芳(はるよし)は、殻を作って外界を遮断した。
自宅に引きこもると、中学にはほとんど行かず、高校は通信制の学校に通っている。
通信制といえども週に二日は登校せねばならず、前日は眠れなくなるほど憂鬱になった。
外の世界が恐い。人の視線が恐い。
人混みを見ただけで慄き、悚然として立ちすくむと、下を向いて足早に去る。
平然と電車内で化粧をする女性を見た時はいつもその鈍感さを羨んだ。
学校は電車で三十分、降りれば眩暈のするような大都会が待っている。
「ね、ちょっと君」
帰りの午後、台風一過で眩しいほどの青空は、狭いビルの間から顔を出していた。
春芳は、水たまりに映る空で蒼さを知った。
焼けたコンクリートと湿気が合わさって、むっとする熱気が込み上げる。
「君だよ、君!」
「――っ……!」
ふいに肩を叩かれた。
大音量のヘッドホンで外の音を掻き消していたから、いきなりの感触に飛び上がるほど驚く。
振り返るとベージュ色のズボンが見えた。
「なん……ですか……」
何の用かとうろたえるが、それを露骨に出したくなくて平然を装う。
しかし相手にしてみれば警戒心丸出しで、取り繕いは無意味だった。
「俺、近くの美容院で髪を切っているんだ」
「はぁ」
「遠目から見ていたんだけど、いい髪質だと思ってね。良かったら切らせてくれない?」
「は、ぁ?」
急に何を言い出すのかと思った。
(さすが都会。怖っ)
唐突な出来事に返事が出来ず、総身を硬くする。
髪を切らせてもらうのにナンパまがいのことをするなんて知らなかった。
「うんうん。やっぱり良い髪の毛だ」
「ちょっ、何を!」
困惑しているのをいいことに、男は勝手に髪を触り始めた。
春芳は動揺して抗うが、まったく気にする様子はない。
その馴れ馴れしさに、背筋を冷やすと手を振り払おうとする。
「や、やめろっ!」
「おっと」
だが予想外に男は身軽に退いた。
「わっ……!」
叩くつもりだった手が空振りに終わると、勢いのまま振り回したせいでバランスを崩し、よろけた。
引きこもりで運動不足のせいか踏ん張る力もなく倒れこむ。
びちゃん――!
運悪く後ろの水たまりに尻餅をつくと、一瞬にしてズボンに水が染みた。
しかし恥ずかしさが勝り、転んだ痛みさえ感じず慌てて起き上がろうとする。
「大丈夫?」
それに対して男は心配そうに手を差し出した。
道行く人はみんな二人を見ている。
ただでさえ目立つことが嫌いなのに、なぜこんな形で注目を浴びなければならないのか。
激昂して今すぐにでも殴ってやりたかったが、小心者の引きこもり少年にそんな勇気はなく、かといって鬱憤を晴らさなければ頭の血管が切れてしまいそうだった。
「……くっ……」
苦しまぎれに無言で睨みつけると、手を借りずに起き上がった。
鼻より下まで伸びた長い前髪の間から男を睨む。
これが精一杯の感情表現だった。
しかし春芳の心中を汲むことなく、男はまったく違うことを考えていた。
「あっ、ああっ!」
急に声をあげたかと思えば、今度は春芳の双頬を手で押さえる。
(え、なにっ?)
咄嗟に下を向こうにも両手で押さえられて逃げられない。
それどころか男の顔がぐぐっと近付いてきて前髪が触れた。
家族でさえこんな距離で話したことはない。
春芳にとっては未知の領域で、そこまでくると拒絶さえ出来なくなった。
息さえ止まり、体を強張らせたまま固まる。
男は同性から見ても端正な顔立ちで、整った目元に秀でた鼻梁は嫉妬すら忘れてしまいそうだった。
まるで少女漫画に出てきそうなキラキラオーラを放っている。
だから余計に顔を見られたくなかった。
春芳は顔に異常なまでのコンプレックスを持ち、前髪で殆どを隠している。
妹には男版貞子だと笑われた。
引きこもり始めて数年、髪を切らず不衛生な長髪のまま伸ばし続けている。
下を向くのも人が怖いだけじゃなく、顔を見られたくないという理由も含まれていた。
「や、や……っ」
息を止めたまま胸元が詰まって声が出なかった。
冷や汗が背中を流れる。
心臓は激しく脈打ち、そのまま爆発しそうだ。
(……もうだめだ。死ぬ……)
激しい吐き気と眩暈を覚えたところで、ふっと意識が遠のいた。
途端に体中の力が抜けて、立っていられなくなる。
(やっぱり外の世界は嫌いだ)
膝が折れると、なす術なく前のめりに倒れて男を驚かせた。
「えっちょっと! 大丈夫!」
それに答える余裕があれば始めから倒れたりしない。
意識を失う直前まで男に対して――いや、世界に対して呪いの言葉を吐き続けた。
そうして苦しさから逃れようとしたのだった。
***
次に目が覚めたとき、真っ先に見えたのは見知らぬ天井だった。
白壁に病室かと思ったが、病院特有の嫌な匂いはしない。
それどころか爽やかな柑橘系の匂いと、微かに流れるジャズが聞こえる。
額が冷たくて気持ちいいと思えば、タオルが置かれていた。
起き上がってみるとソファに寝かされている。
部屋には机と観葉植物、ドリンクサーバーしかなかった。
床はフローリングで靴はソファの下に置かれている。
濡れた制服は脱がされたのか、違うズボンを履いていた。
慌ててパンツを確認したが、幸いこちらは替えられておらず、嫌な湿り気が残っている。
体調も良くなっており、春芳自身も冷静だった。
彼は周囲に人の気配がないことを不審に思い、靴を履いて立ち上がると辺りを見回した。
恐る恐るドアを開けると音楽が大きくなる。
人の声も聞こえた。
部屋を出ると細長い廊下が続いていて、不安なまま曲がり角までくると、息を殺し慎重に顔を出す。
「――――っ!」
その先は大きなフロアになっていた。
「いらっしゃいませ」
女性の甲高い声と共に数人の声が連なる。
ホールには数台の全身鏡と特殊なイス、そこに座る女性と後ろに立つスタッフが髪の毛を切っていた。
中には先ほどの男もいて、手前で女子高生の髪を乾かしている。
舗道側は全面ガラス張りになっていて、外の様子が丸見えだ。
かなり広い店内は次から次へと客がやってくるし、シャンプーにブローにと人が慌ただしく動き回っている。
(美容室……だよな)
ひとむかし前、カリスマ美容師なるものが流行り、テレビで紹介していたが、実際に見たことはなかった。
春芳にとって違う世界の出来事のように思っていたからだ。
(これからどうしよう)
逡巡しながら頭を抱える。
制服を受け取ってさっさと帰りたいところだが、忙しそうで声をかけづらい雰囲気である。
普段滅多に人と接しないせいか、些細なことにも臆病になり尻込みした。
華やかなフロアで、そこにいるのはお洒落で気取った人種である。
百倍の勇気を振り絞っても廊下から動くことは出来なかった。
そうして懊悩としていると、若いスタッフが前を通った。
お互いに「あっ」と、目を開いた。
彼女は春芳の姿を見るなり振り返ると男に声をかける。
「近藤さーん。目が覚めたみたいですよー!」
その声に多くの人が春芳を見た。
目は口ほどに物を言うというが、視線は言葉よりも強く、彼にとっては暴力そのものだ。
血の気が引いて、サッと廊下の奥へ隠れる。
そのまま壁にもたれて息を吐くと、しばらくしてフロアは賑わいを取り戻した。
(自分だけが引きずられている)
意識するほど他人は見ていないし気にしていない。
頭では分かっているのに、勝手に忖度して弱気になった。
そんな幼稚さを忌々しく思いながら、頭より先に体が動いて逃げてしまう。
「気分どう?」
「う、わあああああ!」
するとあの時の男がひょっこり顔を出した。
唐突で心臓に悪い。
気を落ち着かせようとした矢先で、うっかり口から心臓が出てしまうかと思った。
彼と共に、もといた部屋に戻ってくると一息つく。
「制服は今洗濯と乾燥機にかけてるから、もう少し待ってね」
「…………」
「いやぁ、いきなり倒れるからびっくりしたよ。体どっか悪いの?」
「い、いえ」
まさか人の視線でパニックを起こし、貧血で倒れたなんて情けなくて言えない。
適当に話を濁すと目を泳がせて黙りこんだ。
大都会の真ん中にあるとは思えないほど静穏な空気が漂う。
彼はお茶を持って来ると、春芳の隣に座った。
その近さに思わず苦い顔をしたが、前髪で隠れて表情までは分からないだろう。
「急だったからうちの店に連れて来ちゃった。ごめんね」
「いえ」
「これ、俺の名刺。よろしく」
男――近藤は自らの名刺を差し出すと人の良さそうな顔で笑った。
(チャラいやつ)
春芳はこういった軽々しいタイプが嫌いで、そっけなく受け取った。
クラスにも彼のような男がいる。
いつも数人で群れて、女と服と流行の話しかしないやつらだ。
通信制の学校は、春芳のような引きこもり不登校タイプと、遊びに夢中で学校へ行かず不登校になったタイプがいた。
いわば水と油のような関係で、同じクラスでも話したことはない。
だらしなく着崩した制服、染髪やパーマした髪の毛、近くを通るだけで気持ち悪くなる香水の匂い。
加えて面白がるためには人を傷つけるのもいとわない性格は合うわけない。
昔からそういった連中に面白おかしくあだ名を付けられて笑われた。
彼らは楽しいだろうが、当人は嫌な気分にしかならない。
少しでも反応すれば余計にからかわれるから近付かないのが一番だった。
そうして中学のころの春芳は不登校になり、現在は週に二日の登校に頭を悩ませている。
(……どうせこいつも同じだ)
明るく笑いかけながら陰で笑っているに違いない。
春芳の被害妄想は過大しているが、もとは経験から打ち出されたもので、考えすぎだとは思えなかった。
「君、名前は?」
近藤は彼の素っ気なさに気付かず、先ほどから笑顔を絶やさなかった。
嬉しそうに顔を綻ばせている。
一方の春芳は口を開かず、下を向いたままだった。
妙な静寂の中、黙々と時間だけが過ぎていく。
さっさと仕事に戻ればいいのに、動こうとする気配がなかった。
それどころかずっと見ている。
春芳は横からの視線を感じて身じろぎひとつ出来なかった。
浅い呼吸をしながら、紙コップのお茶を見つめる。
冷たい飲み物は緊張で渇いた喉を潤してくれた。
冷静さを装うためにひとくち口にする。
話の継穂を失うと、それはそれで気まずかった。
返事をしなかったのは春芳なのに、静かな空間に居心地の悪さを感じる。
その時、小さな電子音が聞こえた。
「あ、制服出来たかも」
近藤はドアの方へ振り返ると席を立った。
ようやく視線が逸れたことと、帰られることに安堵の息を漏らす。
さっさとこんな店から立ち去って家に帰りたい。
傍に置いてあった鞄を引き寄せ、携帯を見るともう六時近かった。
日は長く、てっきり四時前だと思っていたから慌てる。
春芳は学校と家の往復しかせず、寄り道なんて一度もしたことがなかった。
「おまたせ。制服出来たよ」
近藤が制服を持って現れた。
乾燥機から出たばかりの服はまだ温かく、洗剤の甘い香りがする。
「あ、ありがとうございました」
着替え終えると脱いだズボンを渡して礼を言った。
これでやるべきことはやったと帰る支度をする。
頭を下げて足早にドアへ向かうと、突然立ちはだかるように近藤が通せん坊をした。
それに対して春芳は、その隙間を掻い潜り、どうにかドアノブを掴むも、背後にいた近藤によって扉を押さえられてしまうと、動けなくなる。
春芳は思わず振り返った。
「あ、あの――」
「ね。どうして顔を隠してるの?」
「なっ……」
逃げられない状況にいると分かっていて、近藤は顔を覗きこんできた。
その無神経さに僅かな苛立ちを覚える。
やっぱり軟派な男は嫌いだ。
軽率で身勝手に踏み込んでくる。
無意味な図々しさに反吐が出そうだった。
「君、すごく綺麗な顔しているのに」
(嘘言うな。お前なんかに言われたくない)
「髪の毛も綺麗。一度も染めたことない?」
(学生なんだから当たり前だろ。だいたいそんなお金もったいない)
気分を害していることに気付かないのだろうか。
憤激を招くとも知らず、ペラペラと喋り続ける近藤をぶん殴りたくなる。
だが実際には行動を起こせず、いつも頭の中でコテンパにして終わるのだった。
(オレが本気を出したらこんなやつボコボコに出来るのに)
やる勇気はないくせに、妄想だけは一人前で勝手に勝った気になって満足しているのだ。
小心者にありがちな陰険さである。
「ね、俺に切らせてよ。お金はいらない、むしろなんだったらご飯でも奢るからさ」
「は?」
「最高に格好良い男にするよ。命を賭けてもいい! 絶対に後悔させないから君の髪を切らせてよ」
近藤は春芳の肩を掴んだ。
間近で見る瞳は輝いていて鬱陶しいくらいだった。
その眩しさに春芳の我慢が限界に達して、とうとう憤怒を表す。
「……からかうな」
「へ?」
「無責任なっ……っぅ、無神経なこと言うなっ! お前なんかにオレの気持ちは分かんないだろ! 勝手に土足で踏み込んでくるな」
「あ、えっと」
「すごいムカつく。お前みたいなやつ大っ嫌いだ!」
思いっきり力をこめて近藤の体を押し退けた。
いきなりのことに目を丸くしている。
ざまあみろ――そう、思った。
いまだ怒りに身震いしながら乱暴にドアを開けて出て行く。
「ま、待って」
近藤は大慌てで声をかけてきた。
それでも無視してずんずん廊下を進む。
「気に障ったらごめん。あのっ、でもからかったんじゃなくて本心だから! ……もし万が一、気が変わったら俺のところに来て。いつまでもずっと待ってるから!」
近藤の必死な声を振り切って、春芳は美容院を飛び出すと、夕方の雑踏に紛れた。
***
自宅に帰ってきた春芳は一目散に部屋へ向かうと、窓際の机に腰掛け本を読んだ。
黙々と好きな活字を追うことで昂ぶった気持ちを静めようとする。
台風の名残で風が強いのか、窓ガラスはカタカタと音を立てた。
不安を煽るような音に顔を顰めると、中途半端に開いたままのカーテンを閉める。
「ただいまー」
その時、向こうの部屋から声が聞こえた。
妹の美咲だ。
家は玄関の横がダイニングキッチンで、晩御飯を作っている母親と会話している。
「まじキモいんですけど。ありえないし」
「美咲、もう帰ってきているのよ」
「だって本当のことだもん」
仔細には聞き取れなかったが、どうせまた自分の悪口を言っているのだろう。
声の抑揚から鋭く察知すると、傍にあったヘッドホンに手を掛けた。
聞きたくない声は遮断するのが一番だと知ったのは数年前。
それ以来、春芳にとってヘッドホンはなくてはならない物になった。
雑音は無視をするのに限る。
いちいち気にして神経をすり減らしても誰も同情してはくれないのだ。
しばらくして後ろのドアが開いた。
背を向けていた彼は気付かない振りをしてページを捲った。
引きこもりだがテレビで見るような密室で暮らしているわけではない。
残念ながら春芳の家は社宅住まいで、引きこもりになれるようなひとり部屋がなかった。
もう高校生だというのに妹と同じ部屋を使っている。
引きこもりたくても物理的に無理だったのだ。
そのおかげで世界との接点を失わずに済んだわけだが、春芳からすれば鬱陶しいことこの上なく、典型的な引きこもり連中を羨んだ。
誰にも邪魔されず、煩く言われない部屋で己の世界を築けたら幸せなことだ。
「ねえ、ちょっと!」
すると後ろから強引にヘッドホンを奪われた。
振り返れば茶髪に染めて派手なメイクをした妹が仁王立ちしている。
彼女は春芳と真逆の性格で、友達も多く毎日遊び歩いていた。
その割に勉強も出来るし、近所の評判も良い。
春芳が持っていないものを全て持っていた。
「……んだよっ」
「あんたさー、今日帰ってくるの遅かったんだって?」
「それがなんだよ」
いつから「お兄ちゃん」と呼ばれなくなったのだろう。
近年は兄というより汚物を見るような目でしか見られていない。
「二階の富田さんが近くで会ったって。あんたまた無視したでしょ」
「…………」
「やめてよね。ただでさえキモいのに、そういう態度とってるからお母さんも肩身が狭くなるの。社宅中であんたの話してんのよ。社宅の妖怪だって噂されてんだからね!」
「しょうがないだろ。今日は学校の日だったんだ」
「だったらいつものようにさっさと帰ってきなさいよ。人の多い時間帯に出歩かないで!」
「そんなのっ」
(オレの勝手だろ!)
そう言いたいのをぐっとこらえた。
いつも美咲とは言い合いになって平行線のまま終わる。
どちらかが引かないと手が出るような喧嘩になる。
(オレだって家から出たくない。部屋の中で暮らしていたい)
昔一度だけ扉にバリケードを張って部屋に入られないよう試みたが、あっさり失敗に終わった。
部屋がなくなった美咲が癇癪を起こし、春芳より激しく暴れたからだ。
感情に素直な彼女はいつだって豪快に笑い、泣き、怒る。
そういうのを間近で見ていたから兄の春芳は、感情を表に出すことを苦手とし、何でも我慢することを覚えた。
「マジで気持ち悪い! あんたみたいなのがあたしの兄妹なんて死んでも思いたくない」
「………………」
「こんな家早く出て行ってやるんだから。最悪っ」
美咲は奪っていたヘッドホンを力の限り叩き付けると、春芳を睨んで部屋を出て行った。
せっかく帰ってきたのに、鞄を引っ手繰ると母親が止めるのも聞かずに家を飛び出す。
激しい足音は徐々に遠のくと、闇に紛れるように消え、何事もなかったように静かになった。
残されてひとりきりになった部屋。
隣のキッチンでは母親が深いため息を吐き、再び晩御飯の用意を始める。
反抗期を迎えたせいか益々美咲は手に負えなくなった。
だから母親は彼女の好きにさせている。
父親は朝早くに出かけ、夜遅くに帰ってくるため家族はバラバラだった。