3

第一に、自分なんかいなくなればいいと思っていた。
いなくなって両親と美咲と三人で暮らした方が幸せになれる。
みんな内心そう思っていると決めかかっていたから、連絡しなかった程度でこんな大事になっているとは思わなかった。
春芳は邪魔者ではなかった。
厄介者でもなかった。
その事実が、無性に嬉しい。

「ご……ごめん……」

彼は声を振り絞って謝った。
その言葉に二人は再び固まる。
せっかく泣き止んだ母親はまた泣き出し、美咲は信じられないといった顔で口を開けたまま春芳を見ていた。
よほどありえない言葉だったのだろう。
結局父親が帰ってくるまで、母親は彼を離さなかった。

***

彼の周りで起きた変化はこれに留まらなかった。
一週間後、春芳は学校に行った。
少しは今の髪型に慣れたつもりだったが、過剰な意識は消えず、相変わらず下を向いて登校する。
むしろ前より意識しすぎて行き交う人の視線が気になった。
教室に入ると、案の定クラスメイトたちは春芳だと気付かなかった。
中に入った途端静かになると、席に座るまでクラス中の視線が集まる。
嫌な静寂だった。
だが、それが春芳だと分かった瞬間、凄まじい声が教室内外に響いた。
あまりの声に他のクラスや職員室から先生がやってきたほどだ。

「やばいよ。超カッコイイじゃん!」
「マジで川中かよ。スゲー」
「髪どこで切ったの? めっちゃ似合ってる」

それまで恐くて話もしなかった連中が、押すな押すなと彼の席に集まって凄まじいことになった。
はじめは笑われると怯えていたが、投げかけられる言葉に悪意はなく、恐る恐る顔をあげる。
そこには信じられない世界が広がっていた。
みんなが輝かしい瞳で自分を見ている。

「絶対今の方がいいよ!」

変わったことを受け入れ、むしろ純粋に褒めてくれた。
今まで口ひとつ訊かなかったクラスメイトが矢継ぎ早に質問をしてくる。
春芳は前と変わらず陰気なままで、ただ髪を切っただけだ。
それなのに自分を見る目が大きく変わっている。
中学までは気持ち悪いだの不細工だの笑われていたのが、嘘のように逆のことしか言われなかった。
その変化に戸惑いながら、内心安堵し、くすぐったい気持ちでいっぱいになる。
思い出すのは髪を切ってくれた近藤のことで、家族や学校の変化を伝えたいと思った。
髪型を褒めてもらったことも含めて話したいと思った。
(もう会うこともないのに)
彼の仕事がカフェやコンビニなら気軽に会いに行けるが、髪を切った今、美容院に行く必要はない。
もう互いの用は済んでしまったのだ。
髪を切りたい彼と、変わりたい春芳。
美容師と客という関係なのに、それ以上を思ったところでどうしようもない。 
目を閉じれば真剣な眼差しとハサミの音が蘇ってくる。
彼はそっと短くなった前髪に触れた。
今日も空は青い。
でも春芳の席からは見えなかった。
たくさんの人が集まって囲み、壁になっていたからだ。

放課後、クラスメイトからの誘いを断り、急いで昇降口を出た。
やはりどうしても近藤と話したくて、帰宅前に美容院に寄ろうと思ったからだ。
すると校門まで来たところで、他の生徒の様子がおかしいことに気付いた。
門を通りすぎる生徒がチラチラ横を見ながら去っていく。
彼女たちは小声で何かを呟いていた。
(何かあるのか?)
春芳もそれに倣って門の横を見ながら通りすぎようとする。

「あ、春芳君っ」
「――――!」

すると校門の前にいたのは近藤だった。
今日もキラキラオーラは健在で、そこだけ華やかになる。
彼は春芳の姿を見つけると笑顔で手を振り近寄って来た。

「待ってたんだ」
「え?」

会いに行こうとしていた人が目の前にいて狼狽する。
しかも自分を待っていたのだ。
理由が分からず困ったように窺うと、嬉しそうに笑った顔が見える。

「うんうん。やっぱり可愛い」
「はっ、あ……ちょっと」

彼は突然鞄から櫛とワックスを取り出すと、春芳の髪を整えだした。
困惑を気にも留めず、ささっとアレンジを加える。
またあの手が触れているというだけで緊張して固まった。
恐々見上げるとこの間のように真剣な顔をしていた。
その表情に心臓が跳ね上がって再び下を向く。

「よし。完成」
「ど、どうも……」
「二倍可愛くなった!」

毛先を遊ばせワックスで固めると、それだけで雰囲気が変わる。
手鏡で出来上がりを見せられると素直に感動した。
近藤の手はやはり魔法の手だ。

「ね、見て。あれ」

そうして感心していると周りの声に気付いた。
通る生徒がみんな二人のことを見ている。
視線を感じて我に返ると、急に恥ずかしくなって消えたくなった。
ただでさえキラキラオーラの彼といたら目立つのに、自分のような人間が隣に立っていたら笑い者だ。

「あ、あの……ここだと目立つので」

春芳は目を泳がせて何とか提言した。
それに対してまったく気付いていなかったのか、彼は手を叩き詫びるように後頭部をかく。
促されるようにして二人は歩き始めた。
夏間近の午後は蒸し暑く、何もしなくても汗が流れた。
他の生徒たちに混じって葉桜の坂を下る。

「ごめんね。春芳君に会えたら嬉しくてつい。この間、連絡先聞き忘れてさ、学校に行けば確実に会えると思ってストーカーまがいのことしちゃった」
「い、いえ……」

オレもあなたの店に行こうとしていました――なんて言葉は喉の奥で詰まったまま出てこない。

「……すごいですね」
「何が?」
「オレなんか人の目が気になっちゃって、あんなところで待てません」

きっとこの人は今までもずっと視線の中にいたのだ。
だから見られることに慣れ、些細なことであれば気にしない。
そういう環境で暮らしてきたのだと思うと、改めて世界の違いを感じとることが出来る。

「だから嬉しかったんだって」

すると近藤はそっと髪に触れて目を細めた。

「早く会いたくてそわそわしてた。会えたあとは、もう春芳君しか眼中になかった。他人の目なんて気にならないよ」
「そんなっ、まさか……」
「人って案外単純なもんなんだよ。たったひとりのことを考えれば意識は分散しない。もし他人の目が気になるなら俺のことを考えてよ」
「近藤さんのこと、ですか?」
「ん、そう。そうすればきっと他のことなんて気にならなくなる」

どういう原理かと思った。
たしかに集中すると周りは見えなくなるが、そんな簡単にいくのだろうか。
今でさえ、ほとんど近藤の顔を見られないのに。
(でも、それで少しでも変われるなら)
春芳は変化の続きを望んでいた。
髪型を変えるというきっかけを掴んだ今、次の一歩を踏み出すのは自分の力である。
近藤のことを考えて少しでも他人の目が気にならなくなるのなら一日中考えていたかった。

二人はその後、近藤の店に行った。
前回髪の毛を切ったとき、カットモデルの写真を撮り忘れたため、再度髪型を整えて撮影をすることになった。
写真が苦手な春芳は思わぬ苦戦をしいられる。

「笑わなくてもいいから、カメラを見て」

あくまで髪型を見るもので、顔のパーツは関係ない。
写真だって雑誌に載るものではなく、ただの記録用だ。
頭では分かっているのに、カメラ目線というだけで意識して上手くいかない。
ぎくしゃくした態度にさすがの近藤も苦笑を漏らした。
その時、急に休憩室のドアが開いた。

「巧海君っ、今日こそ覚悟してよね!」

現れたのは金髪の美女で、悩ましい姿態を惜しげもなく晒した服は、布地が少なく目のやり場に困る。
いきなりの登場に春芳は瞠目し、近藤は眉を顰めて嫌な顔をした。

「あら、撮影中?」
「そうだよ。邪魔だからどっか行け」
「ひっどーい!」

サラサラとした髪の毛はゆるくウエーブかかっており、フランス人形みたいだ。
濃い化粧は自己主張の強さを窺わせ、真夏でも風邪を引きそうなチュートップは見ているだけで寒い。
目をどこに置いていいか分からず、小さく会釈した。
近藤の周りにいるのは、苦手なタイプばかりである。
女性ならなおさらだ。

「きゃあああああああああ」

すると彼女は突然悲鳴をあげた。
何事かと目を見開く春芳に突進すると、その肉感的な体で思いっきり抱き締める。
ヒールの高い靴を履いていたせいか、彼女の方が背が高かった。
芳しい香水の匂いと、女性特有の柔らかい体、そして胸。
そういうものを全部感じて指先ひとつ動けなくなる。

「どうしたの、この子! 超可愛いじゃんっ。なんで隠してたのよ!」

ぎゅうっと抱き締める力が強くなった。
母親にさえこんなに熱情的な抱擁は受けたことがない。
ただでさえ人が苦手な春芳は、まともに息さえ出来ずにこのまま死んでしまうかと思った。

「理沙っ、分かったから離せって!」

見かねた近藤は大慌てで二人を引き離すと、自分の後ろに隠した。
ようやく解放された春芳だが、心臓は激しく脈打ち眩暈がする。
二人の反応に彼女は眉を顰めた。

「なぁに。私の誘いは断っておいて、自分はちゃっかり可愛いモデルを独り占めするつもり?」
「お前のそれと俺のは関係ないだろ。この子には近付くな」
「はぁ? なにそれっ。独り占め反対! 可愛いものはみんなで愛でるべきなのよ!」

どうやら二人は知り合いらしい。
いや、知り合いより仲が良さそうな雰囲気だった。
(理沙って……呼び捨てだった)
近藤の背中に身を隠していた春芳は小さな胸がチクンと痛む。
それは見に覚えのない痛みだった。

「ね、そこの君っ」

理沙が背中越しに声をかける。

「いきなりで悪いんだけど、ファッションモデルやってみない?」
「ばっ……ふざけんな。何勝手に誘ってんだよ」
「あら。この子どっかの事務所に入ってんの? だったらそこの連絡先教えなさいよ」
「モデルじゃないし事務所にも所属してない。一般の子!」
「だったらなおさら良いじゃない。ちょっともう少し見せなさいよ」

目の前で大人二人が押し問答をしている。
春芳は止める勇気すら持てず、困惑したまま事の成り行きを見守っていた。
その時ふと理沙と目が合う。

「……うん。マジでいいじゃん。ちょうど良かった。男性モデルが足りなくて困ってたの」
「無理無理。この子はダメ!」
「なんで巧海君が決めちゃうのよ。私は彼と話したいの。第一大げさな話じゃなくて毎年恒例の学祭での話よ」
「それでもダメ!」
「ね、君は? お姉さんを助けるつもりない?」

彼女は近藤と掴みあいながら春芳をじっと見つめた。
グロスでテカテカした唇がゆるりと上がり、目を輝かせている。
その迫力は美咲以上で、小心者の彼は縮み上がってしまいそうだった。

「お願いっ。人助けだと思って」

(人、助け……?)
だがその言葉に目を瞠った。
今までの十数年間、記憶の中にいた自分は常に足手まといの厄介者だった。
その姿が唐突に過ぎり胸の奥を突いたかと思えば、心臓を鷲掴みにする。
ふいに芽生えたのは恐れ以外の何かだった。
いつもなら目を逸らし、相手の背中に隠れ、全てが終わるのを待っていただろう。
膝を抱え、目や耳を閉じ、うずくまっているのは楽だった。
そうすれば嫌なものは見えないし、聞こえない。
心の平坦を保ち、ひとりきりの世界で生きていける。
だが本当は心のどこかでその弱さを辟易としていた。
あと少しの勇気があれば違った生き方が出来るかもしれない。
漫画や小説の主人公みたいに人生を切り開くことが出来るかもしれない。
他人を恐れ、他人の目に萎縮したまま狭い部屋で生きるのは酷なことだった。
望みと願いはいつも矛盾する。
そのうち何がしたいのか分からなくなって逃げる癖を覚えてしまう。
本当はいつだって変わるチャンスがあったのに。

「あの……」

下を向いていたら、水たまりに映った空しか見えない。
でも勇気を出して顔を上げれば、渺茫とした空を眺めることが出来る。

「お……オレに出来ることがあるなら……やら、やらせて……ください」

その言葉に近藤は目を見開いた。
思わず掴みあっていた手が止まる。

「が、頑張りますので……手伝わせてください……」

怯えながら意を決したように理沙を見つめた。
それでも胸元に不安が纏わりつくから、震えた手でシャツを握り締める。
すると途端に彼女の目が和らいだ。
心配した近藤は振り返ると春芳の肩を掴む。

「分かってる? 彼女の言っているのはショーモデルなんだよ。たくさんの視線に晒された中で、歩いたりポーズきめて表現しなくちゃいけないんだよ」

カメラすら見られない人間が大勢の前に立つなんて無理に等しい。
それは春芳も重々承知の上だった。

「か、変わりたいんです」

彼は声を震わせながら真っ直ぐ近藤を見上げた。

「せっかく近藤さんが変わるきっかけを作ってくれたんです。もう一歩踏み出したい」
「春芳く……」
「オレ、今までどこに行っても役立たずで邪魔者で……そんなオレでもっ……す、少しでも、誰かの役に立てるなら何かしたいんです!」
「だけどっ、これは」
「なら近藤さんのことを考えます」
「――っ!」
「ずっとずっと近藤さんのことを考え続けます。近藤さんのことだけを考えます! そしたら他の人のことは考えなくて済みます。どんな大勢の前に立っても大丈夫です」

心配してくれるのは嬉しかった。
彼の瞳はいつだって真剣で、本当に想って言ってくれている。
春芳も強くそれを感じていた。
だからこそ何かしたかった。

「お願いします。オレにやらせてください」

春芳は深々と頭を下げた。
室内はしんと静まり返る。
店内でかかっているジャズが僅かに聞こえる程度だった。
やりとりを見ていた理沙は黙って様子を窺っている。

「ああもうっ!」

その静寂を破ったのは誰でもない近藤だった。
下げたままの春芳の頭をくしゃくしゃに撫でる。
窺うように見上げると、そこには満面の笑みを浮かべた近藤がいた。
瞬間、春芳の胸が鼓動を速める。

「分かった! 分かったよ。俺の負けだ。その代わり俺も参加する」
「え?」

彼は理沙の方に振り返ると、前髪を掻いた。

「理沙、俺も引き受けてやるよ。ヘアメイクの指導と監修をすればいいんだろ」
「マジで!」
「その代わり、この子のヘアメイクは俺がやる。それでどうだ?」
「オッケーオッケーっ、むしろ大歓迎よ! 超嬉しいっ」

彼女は体いっぱいに喜びを表現すると、それぞれに力強い握手を求めた。
急いでメモ用紙に連絡先を書くと、春芳に渡して笑顔で立ち去る。

「また連絡するからー!」

手を振った彼女は、ヒール独特の足音を響かせながら部屋を出て行った。
それも徐々に遠くなるとまやかしのように消える。
まさに嵐のような人で、室内は再び静けさを取り戻した。
残された二人は窺うように相手を見つめ頬を緩める。

「撮影、再開しよっか」
「は、はい」

肩にかけていたカメラを春芳に向けた。
彼は一度深く息を吐くと、真っ直ぐカメラを見るのだった。

***

世間でいう夏休みが始まった。
しかし通信制の学校は登校せねばならない。
むしろ通常の学校が休みの分、登校日数は増え、毎日のように学校へ通っていた。
その間にモデルの話も進み、春芳は珍しくも忙しい毎日を送っていた。
理沙は服飾学校の講師をしており、八月の最後の週に行われる学祭でのファッションショーの指揮をとっている。
生徒はテーマを決めて服を作るデザイン科と、ヘアメイクを担当する科に分かれて、日夜作業に追われていた。
モデルの大半はモデルクラスの生徒で、他には生徒の友人・知人も含まれている。
学校を終えると店で近藤と待ち合わせし、車で服飾学校へと向かった。
生徒の練習台になったり、ポーズや歩く練習があったり、近藤たちの打ち合わせにも参加した。

「巧海君って結構人気の美容師なのよ。雑誌にもよく紹介されているし」
「へぇ……」

鏡の前で着付けられていると、隣にやってきた理沙が近藤の話をした。
そのせいか生徒を見て回る彼が目に入る。
(そんなすごい人だったのか)
的確にアドバイスし、質問に答える姿は二人でいる時と違った印象だ。
誰とでも打ち解け、輪に入っていける能力はすごいと思う。
そういう人だから春芳の警戒心を解いたのかもしれない。
彼は当初から壁を作らず、人懐っこい顔でするりと心の中に入ってきた。
その要領の良さは羨ましい。

「先生、出来ました」
「どれ」

傍で黙々と作業していた生徒が顔をあげた。
春芳は彼のモデルで、テーマは「貴族の優雅な午後」だった。
ベージュの小さなシルクハットに同じ色のジャケット、立て襟に蝶ネクタイとオーソドックスだが形は奇抜で、至るところに造花が縫い付けられている。
ジャケットは燕尾服に近いが、ウエストのカーブがきつく、内側に針金が入っているため裾がふんわり広がった。
下半身はかぼちゃパンツに白のニーソックス、レザーブーツと全体的に奇妙な出で立ちだった。
それを見ながらどこの仮装大会に出るつもりだろうと首を捻る。
意見を求められることも多々あったが、難しすぎて何も言えなかった。

「んー、ブーツに花をつけるのは面白いけど、だったら腕にも蔓とか巻いてみたら」
「実は右肩にフクロウのオブジェを乗せるつもりだったんです」
「なら片腕だけとか」
「なるほど」

春芳は黙って指示されるまま動く。
いまだに緊張は消えないが、生徒たちの熱気を感じてワクワクしていた。
思えば中学は不登校で高校も通信制なせいか、大勢が一丸となってひとつの目標に向かうということをしたことがなかった。
賑やかな雰囲気の中で準備をする、その手伝いをするというのは一員になった気がして楽しい。

「ちょっと何隠れて見てんの」

すると理沙の声に振り返った。
遠目から見つめる近藤に気づいて、意味なく慌てる。

「いや、可愛いなと思って」
「ったく、巧海君はそればっかり」

近くまでやってくると下から上までじっくり見られた。
眼差しの強さに困惑すると思わずうろたえる。

 

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