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(服を見てるんだ、バカ!)
そう言い聞かせるのに、勝手に目が泳いで体が強張った。
最近気付いたが、近藤はよく可愛いと口にする。
確かに年齢差はあるが、明らかな子供扱いはちょっと癪に触った。
子供といえども高校生だからだ。
(まぁ、近藤さんから見たら子供だけどさ)
どうして今さらそんなことが気になるのか不思議だった。
ただ日増しに鼓動は速まって、些細な言葉や仕草に気を取られてしまう。
それまで視線には嫌悪感しかなかったのに、近藤の視線は眩しくて照れくさい。
どちらも下を向くのは一緒なのに、内なる感情は全然違って戸惑った。
本人もどう説明していいのか分からない。

「髪型どうしよっかな」
「俺も期待してますからね。そのために今頑張ってるんで」
「おう、任せとけ」

さりげなく髪の毛に触れる大きな手のひらは慣れない。
そこから一気に熱が広がってジリジリと焼けるように熱くなる。
夏の夜風が涼しく感じるほど、暑くなって熱気に溶けてしまいそうだった。
平静を保とうと目を瞑る。
だがいつまで経っても火照りは治まらなかった。

帰りは車で社宅の前まで送ってもらった。
冷房の効いた車内は気持ち良くて、背にもたれながら流れてくるラジオを聴く。
外の景色は華やかな都会から徐々に人気がなくなり閑静な住宅地へと続く。

「そういえばご家族には挨拶しなくて平気?」
「え?」
「だってこう毎晩出歩いていたら心配するんじゃない? もしあれだったらご挨拶に伺うよ」

信号にあたってブレーキを踏むと車は止まった。
近藤は助手席へと振り返る。

「大丈夫です」

むしろ、毎日のように繰り返されていた兄妹喧嘩がなくなり、平穏な毎日が訪れていた。
春芳が家にいないのも一因だが、部屋に引きこもってウジウジすることがなくなったことが大きい。
夜遅くまで帰ってこないことが多かった美咲は、家で家族と共に晩御飯を食べるようになった。
顔を合わせるたびにキモいだウザイだ罵っていたのに、もう何も言ってこない。
当初心配していた母親も、楽しそうな息子に安堵し、笑顔で見送ってくれるようになった。
家に帰れば温かい風呂が用意されていて、湯上りに冷蔵庫を開けると、冷えた麦茶と好物のプリンが置いてあった。
あれだけバラバラだった家族が、それぞれに変化を感じ、ひとつにまとまろうとしている。
普段から無口で春芳がどんな状態になっても口を利かなかった父親は「頑張れ」と応援してくれた。
数ヶ月前には想像すらしていなかった未来が現前としてある。
あれだけ外に出ることを恐れ、人に嫌悪を抱いていた春芳は、一日のほとんどを外ですごし人の中で生きている。

「それより近藤さんはお店平気なんですか?」
「平気って?」
「夕方から夜って忙しい時間帯じゃないですか。出なくてもいいんですか?」

理沙の言っていた人気の美容師という言葉が引っ掛かっていた。
もとは自分が強引にやりだしたことで、巻き込んでしまったという負い目を感じていたのだ。

「大丈夫だよ。うちの店、兄貴の店って言ったじゃん。兄貴さ、昔っから理沙に弱いの」
「り、理沙さんとは……その、昔からの知り合いなんですか」
「そ。実は幼馴染なんだよね。腐れ縁ってやつ。だから今回の件は兄貴も分かっているし、その分出かけるまでがっつり働くってことで許してもらってるんだ」

信号は青に変わり、車が動き出した。
ラジオではCM明けのディスクジョッキーが陽気に次の曲を紹介しようとしている。
(幼馴染……か)
どうりで親しげだと思った。
でもそれ以上踏み込んだことは聞けなくて、車内は無言になる。
会話の継穂がなくなると、妙な気まずさが支配して身じろぎ出来なくなった。
車は河原沿いの道に出ると右折する。
周辺は夜になると車の往来がなく、静かなため益々居心地悪くなった。

「……気になる?」

ふいに車が止まった。
驚いて顔をあげると、近藤が視線を投げかけている。
見透かすような眼差しは、人に囲まれている時より鋭くて怖かった。
緊張で左胸が痛くなる。
こういう時、どう返事をすればいいのだろうか。
春芳は当惑したまま総身を硬くして、窓の外に目をやった。
遠くの橋を渡る車のライトがぼやけ、ゆらゆら揺曳して幻想的に映っている。
気の利いた言葉が出てこなくてシートベルトを掴んだ。
浅い呼吸に節々が強張る。

「ごめん」

すると近藤の手が頭を撫でた。

「怖がらせるつもりじゃなかったんだ。お願い、怖がらないで」

その仕草に見やると、彼の瞳は切なげに揺れ、困ったように笑っていた。

「ちっ……」

咄嗟に声を荒げる。

「違います! 近藤さんは怖くないですっ。だって近藤さんは神様のような人です。そんなっ……怖くなんか……っ」
 
困らせたくなかった。
だって困らせるようなひどいことをしていない。
勝手に自滅して動揺しているだけなのだ。
彼は何も悪くない。
人に不慣れな自分が悪いのだ。

「ははっ。神様って大げさすぎだよ」

必死な春芳に、近藤はようやく砕けた笑みを見せた。
そうして目を細めると、髪に口づけ、細い手に指を這わす。

「……んっ……あ、あのっ……」
「神様は嫌だな」
「あっ……っぅ、ごめんなさ……っ、と、特別って意味で」
「ん、特別だと嬉しい」

狭い車内、近藤の吐息を耳に感じて痺れそうになった。
絡めるように繋いだ手のひらは、自分を変えてくれた魔法の手である。
その感触に狼狽し、身を硬くすると座席が軋んだ。
止まったままの車は、ライトが前方を照らし威嚇している。
二人っきりの世界を邪魔するなと言わんばかりの強い光だった。

「俺に触られるのは嫌?」
「う……っん、んぅ……」

掠れた声に辛うじて首を振る。
すると耳にキスをされた。

「じゃあこれからはもっと触れることにする」
「えっ……」
「神様から昇格できるように」

甘ったるく微笑んだ彼は相変わらずキラキラオーラを放っていて眩しかった。
女だったらとっくに胸を矢で射抜かれていただろう。

「っ、あの、その……近藤さんはよくこんな風に触れているんですか」
「は?」
「だからっ……ふ、普通、親しい人とは、こういう触れ合いをするものなんでしょうか」

近藤のような人種と関わったことがなく、真顔で訊いていた。
学校でも派手な生徒は大抵数人の仲間とつるんでいて、体育の授業や休み時間など、肩を組んだり、じゃれ合ったりしているのを見たことがある。
それと同じなのかと思っていた。

「ぷっ」

すると近藤は吹き出して体を離した。
いつものように頭を撫でてハンドルを握りなおす。

「しないよ。他の人には絶対にしない。春芳君が特別で、春芳君にしかしたくないと思っただけ」

ようやく車は動き出した。
いつの間にか騒がしいラジオは終わり、しっとりしたクラシックが流れている。
耳に心地好い重低音が車内に響いた。
(……どういう意味だろう)
社宅に向けて走り始める。
だが春芳は音楽さえ耳に入ってこないほど、近藤の言葉を反芻していた。

数週間後、準備は終盤に入っていた。
講堂ではショーに使うランウェイや座席の用意が進んでいる。
近藤も生徒指導の傍ら大道具の設置手伝いをしていた。
シャツにスエット、頭にタオルを巻いて汗びっしょり動き回っている。
春芳も手伝うと志願したが、モデルに何かあったら大変だと断られた。
だから休憩がてらこうして二階席の隅から働く様子を見守っている。

「こんばんは」

その時背後から声をかけられた。
振り返ると見知らぬスーツ姿の男性が大きなお菓子の箱を持って立っている。

「……こ、こんばんは」

いまだに慣れない人の前は苦手で、どもり癖は直っていなかった。
下を向いた春芳はモジモジしながら頭をさげる。
男はそんな様子をじっと見つめ視線を逸らそうとしなかった。
それどころか隣に座ってきたので狼狽する。

「君が春芳君だね」
「えっ?」
「弟から話は聞いてるよ。私は巧海の兄だ」

ずいぶん温和な声で、恐る恐る顔をあげた。
すると強い瞳とぶつかって再び目を逸らす。

「ふむ。聞いていた以上だ。先ほどの練習風景も見させてもらったがいいね。身長は低いがスタイルはいいし、顔も悪くない」
「は、はぁ」
「いや、悪くない――じゃないな。すごく良いよ。写真も見たけど春芳君は写りもいいね。君のようにすっきりした顔立ちならどんな服も似合いそうだ」

初対面だというのに彼はせかせかと言葉を連ねた。
相槌を打つ間すら与えてもらえず、気の抜けた声がこぼれる。
よく見ると、目元は近藤に似ているし、背も高い。
彼が髪を黒く染め、スーツを着たらこんな感じになるのかと感心したように見とれた。

「ちょっと何やってんの」

すると急に肩を掴まれた。
驚いて振り向くと口を尖らせた近藤が首にタオルをかけている。

「おお、巧海。真面目にやっているようだな」
「失礼な。これでも忙しく働いてるんだけど」
「店を休んでいるんだ。当然に決まっているだろう」
「やな感じ」

そう言い返すが、いつまで経っても春芳の肩から手を離さなかった。
それどころか男との間に割り込んでくる。
なぜ引き離そうとするのか謎で、首を傾げたが、兄弟の会話には入れず黙って様子を窺っていた。

「これは差し入れだ。みんなで食べてくれ」
「サンキュー。あ、あと理沙なら別棟の校舎にいるけど呼ぶ?」
「いや、もう帰る。用事は済んだ」

男は体を捻ると近藤の影に隠れた春芳に笑いかけた。
意味が分からず訝しそうな顔をすると、近藤の手が腕に回る。

「あっそ。じゃあ」
「え……あっ……」

何か言う前に引っ張られて、手を振る男から逃げるように連れて行かれた。
手には渡されたお菓子の箱が握られている。
すれ違ったスタッフに事情を説明して渡すと、再び春芳の腕を引っ張ってどこかへ連れて行ってしまった。
着いたのはスタッフの私物が置かれたロッカールームで、扉を閉めるとこもった熱気に汗が噴き出した。
作業中のスタッフの声や、校舎に残った生徒たちの声が遠くに聞こえる。

「兄貴に何か言われた?」
「え?」

二人っきりになると、掴まれた腕が離された。
その代わり、逃げられないよう春芳の体を壁に押し付け頬に触れる。
背にした冷たい壁が気持ちよく思えるほど体は火照っていた。
それは室内にこもった熱気のせいなのか。
近藤は「触れる」と宣言した夜から、少し変わった。
以前にも髪に触れることは多々あったが、こうして手や腕、顔に触れることはなかった。
スキンシップに慣れてない春芳だったが、嫌ではないから必死に応えようとする。
(怖いわけじゃない)
あの時のような切ない顔をさせたくなかった。
近藤に触られると、心臓が爆弾みたいにいつ破裂するか分からない状態になる。
余裕がなくなって息苦しさに眩暈までする。

「何も……言われてません……」

なのにいざ離れると、後ろ髪引かれるようなもどかしさがよぎった。
もっと触れたいのだと気付いたのはつい最近のこと。

「……そう」

近藤は離れると閉め切った窓を開けた。
部屋に生温い風が流れ込んでくる。
吊るされた風鈴が揺れて涼しげな音が響いた。
描かれた金魚がくるくると回り、気持ち良さそうに泳いでいる。
周辺は緑も多く、蝉の声が何重にも連なっていた。
今年も残暑は厳しく、暦の上ではとっくに秋なのに暑さは引かない。

「そういえばランの練習はどう? 順調にいってる?」

近藤は振り返ると仕切りなおすように明るい口調で切り出した。
それに安堵しながらどこか寂しさは募る。

「が、頑張ってます。ただ歩いてポーズを決めるものだと簡単に考えていたんですけど、色々難しくて勉強になります」
「そっかそっか」

嬉しそうに頷くと首にかけたタオルで顔を拭き、汗で湿ったシャツを脱ぐ。
話している間にロッカーから着替え用のシャツを取り出していた。
その姿すら眩しくて、同性だというのに直視できない。
意味なく慌てて、つい早口になってしまう。

「で、でも大丈夫です。教えていただいたとおり近藤さんのことを考えてますから。そ、そうすると本当に余計なことを考えなくて落ち着けるんです」

むしろ最近は考えすぎな気がしていた。
授業中のような必要ない時まで彼のことを考えている。
先生に「何をぼうっとしているんだ」と注意された時は冷や汗が出た。

「……やっぱり近藤さんはすごいです」

あれだけ周囲の目が気になり、そわそわ落ち着かなかったのに、ぼうっとしていることで怒られた。
電車の中でも、化粧をしている女性がいたことすら気付かなかった。
以前はあれだけ羨んでいたというのに。

「だから……その……あの……」

話を続けようにも返事がなくて、室内は静かなままだった。
無反応なことに戸惑い、いたたまれなくなる。
(何か変なことを言っちゃったかな)
着替えが目に入らないように背を向けていた。
意識しないよう指を絡めて気を紛らわせていたのに困惑する。

「春芳君」
「あっ……」

その時だ。
ふいに後ろから抱き寄せられて、無意識に肩が上がると、強張ったまま固まる。
驚いて瞬間鼓動が跳ね上がった。

「俺も……いつも春芳君のことを考えているよ」

後ろから包み込むように抱き締められると、微かに汗の匂いがした。
男の汗なんて暑苦しくて嫌なのに、近藤のだと思うと嫌悪はない。
それどころか、

「あ、あ、あの……ふ、服っ……!」
「んー、暑いからもうちょいこのまま」
「え、えええっ、えっ……っぅ……」

素肌のしっとりとした感触に、体温が急上昇する。
とっくに着替えたと思っていたのに、見れば上半身裸のままだった。
(い、今、肌に触れて……っ)
前に回っている腕がしっかり囲って身動き取れない。
ぎゅっと抱き締められて、逃れようのない状況にあたふたした。
ただでさえ慣れないのに密着しすぎである。

「んぅ……っ……」

赤くなった耳を甘噛みされて変な声が出た。
無意識にビクッと震えるが、拒絶の意志は見せない。

「はぁ。こうしていると落ち着く」
「えっ……うそっ……」
「あれ、落ち着かない? 俺はずっとこのままでもいいんだけど。春芳君の体抱き心地いいし」

(だ、抱き心地?)
軽々しい台詞に動揺が露になる。

「無理っ、むりです! ……こ、こんな格好でいたら……落ち着きません」
「えぇ……嘘っ。ちょっとショック」
「ん、ひゃ……っ、どこ触って……あっ、ん……だ、だってこのままでいたらドキドキしすぎて死んじゃいますっ」

今だって心臓が破裂せんばかりに脈打っているのだ。
ずっとこのままでいたら本当に心臓が止まってしまう。
それに対して彼はくすっと笑った。
首だけ振り向くと、柔らかな眼差しに気付いて言葉が途切れる。
(なんて……顔……)
あまりに優しい顔をしていたから、そのまま見とれてしまった。
春芳は人の目を見るのが苦手で、顔すら滅多に見ようとしない。
だけどその時は目が逸らせないほど深く入り込んでいて抜け出せなかった。

「俺もドキドキしているんだよ」
「……っぅ……」
「ほら、こうして耳をつけて、鼓動を聞いて?」

一度離した近藤の手は、春芳の体を正面に向けると再び抱き締めた。
そうして自らの腕の中に閉じ込めると、後頭部を撫でる。
サラサラとした髪の毛が指の間を零れた。

「あ……本当だ……」

胸元にうずくまると、左胸に耳をつけて鼓動を聞く。
それは自分のに負けないくらい速くて、音を聞いているだけで酔ってしまいそうだった。

「同じ……」
「うん、同じ。むしろ俺の方がドキドキうるさいかもしれない」
「え?」
「春芳君のことを考えると、触れると、いつもこんな風になる」
「く、苦しくないですか? オレは苦しくて目の前がぼやけます。熱出したときみたいに朦朧として……」
「あはは。なるなる。俺もそうなるよ」
「じゃあ」
「ん、でもこうしていたい」

近藤は増して力を込めると強く抱いた。
素肌の感触は恥ずかしいのに気持ち良くて不思議に思う。
だが近藤の言葉を頭のどこかで理解していた。
抱き締められるのは意外と心地好かったからだ。

「そういえば、どうして今回のショー、参加してくださったんですか。理沙さんには毎年断っていたと聞きましたけど……」
「うわっ。この状況でそれ訊く?」
「えっ……あっ。ご、ごめんなさい。昔から空気読めなくて」

失敗したとうろたえるが、その様子に背中を擦られた。
顔をあげると耳まで赤く染めた彼が苦笑している。

「違うの。あんまり煽られると俺でも困っちゃうなって話」
「こ、困らせましたか!」
「だからー……ったく。やっぱり可愛いなぁ、もう」
「全然理解出来ないんですけど」

近藤は時折難しいことを言う。
(何が可愛いのだろう)

「どうして参加したかって、分かることじゃん。春芳君の傍にいたかったからだよ」
「お、オレの?」
「ん。なんか会った時から惹き付けられるっていうか、放っておけなくてさ。心配はもちろんあったんだけど、それ以上に――」
「はーるよーし君ーっ!」

するとその時、扉の向こうから理沙の声が聞こえた。

「春芳君ーっ! どこにいるのー!」
「こっ、この声っ」

自分の名前が聞こえて、やましいことはないのに心臓が軋む。
休憩時間はとっくに終わっていて探しにきたようだ。
春芳は急いで戻ろうと身じろぐが、近藤は抱き締めたまま離そうとしない。

 

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