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「あ、あの……呼ばれてっ……」

慌てふためき見上げたが、彼はまったく気にも留めず涼しい顔をしていた。
それどころかさらに強く抱き寄せられて対応に困る。
もしロッカールームを開けられたら丸見えだ。

「ごめん。もうちょっとこうしていたい」
「――っ!」
「あと五分……いや、三分でいいから」

春芳の肩口に顔を預けた近藤は囁くように低い声で呟いた。
あまりに艶やかな声で、思わず絶句するとそれ以上何も言えなくなる。
(も、もう少し……もう少しくらいなら、いいよね)
その時春芳も気付いた。
もう少しこの腕にいたかったことを。
だから恐る恐る背中に手を回した。
恥ずかしくて死にそうだったけど、離れがたい気持ちの方が勝ったから素直に表した。
その反応に近藤の鼓動が跳ね上がったように聞こえたのは幻聴だったのか。

「どうせ巧海君と一緒なんでしょー。おとなしく二人とも出てきなさいっ!」

未だに理沙の声が聞こえている。
悪いと思っていながら、体を離せなかった。
室内には風鈴と蝉の声……そして甘い吐息が漏れている。

「それ以上に――」

近藤は目を閉じ、小さく呟いた。

「他の人に触れて欲しくなかったからだよ。春芳君に触れるのは俺だけじゃなくちゃ嫌だと思ったから引き受けたんだよ」

掠れた声は、鼓動の音に掻き消されて春芳の耳には届かない。
ただ新鮮な温もりに浸り、大人しく身を預けていた。

***

学祭前日。
ほとんどの作業は終わり、最後のリハーサルと打ち合わせが開かれた。
それまでモデルの練習では班に分かれて行っていたから、全員集合したのは初めてで気後れしてしまう。
さすがプロを目指すような人たちで、背が高く歩く姿やポーズも様になっていた。
そういう人たちに囲まれてお茶を飲んでいると、意外に気さくで感覚は自分とそう変わらないことに驚く。

「春芳君。巧海君は?」

理沙が顔を出すとそう問いかけてきた。
明日のタイムスケジュール表を渡したいらしく探しているという。

「先ほどお兄さんがいらっしゃって講堂を出て行きましたよ」
「ああ、そうなんだ。ちょうど良かった二人に用事があったんだよね」
「じゃあオレが呼んできます」
「えっいいの?」
「理沙さんが講堂を離れると他の人が困りますから」

春芳は立ち上がると渡す書類を受け取ってホールから出た。
だがエントランスは人気がなく、外にもいない。
夏の終わりの柔らか風が頬を撫でて葉を揺らした。
都会とは思えない星空を眺める。
外にはまだ明日の用意をする生徒や業者の出入りが多く、賑やかだった。
看板の取り付けや、模擬店用のテントが建てられ、準備をしている。
ここにはいないだろうと踵を返し、ロッカールームへ向かった。

「…………たほうがいい」

近くまでいくと予想通り室内から近藤の声が聞こえた。
とはいえ、いきなり入っていいか分からずドアの前で立ち止まる。
どのタイミングで声をかけるべきか判断に惑った。

「春芳君はやめた方がいい」

そんな時、中から春芳の名前が聞こえて意味なく慌てた。
声は近藤のもので、深刻な口調に聞き耳を立てる。

「どうして? お前が撮った写真も見たがいいじゃないか」
「なっ、勝手に見んなよ」
「それにお前は関係ない。決めるのは彼だ」
「……っ……」

隙間から見えたのは対峙する二人で、雰囲気から決して良い話をしているように見えなかった。
自分が何かしたかと不安がよぎり息を呑む。
近藤は眉間に皺を寄せ、厳しい顔つきをしていた。
あんな表情見たことがない。

「それでもダメだ」
「巧海。自分が見つけたからって独り占めするのはよせ。彼の未来を潰す気か」
「理沙と同じこと言うなよ。気分悪い」
「思うことはみんな同じってことだ。春芳君には人を引きつける何かがある。それを邪魔するのはやめろ」

男は声を荒げると近藤を睨みつけた。
それに対して食ってかかろうとするが、邪魔という言葉に口ごもる。
一触即発のような状況に、見守っていた春芳も焦った。
話の内容は分からないが、自分が原因であることは明らかである。

「……分かった。勝手にしろよ」

すると顔を背けた近藤は深く息をついて吐き捨てた。

「だが、先に言っておくよ。あまり期待しないほうがいい。あの子は素人以下だ。人前に立つのが苦手で、カメラ目線だって中々出来ない。学祭のショーモデルだっていっぱいいっぱいなんだよ。はっきり言って仕事なら使い物にならない」
「…………」
「もっと良いモデルなら山ほどいる。表面だけ見て選ぶなら、やめておいたほうがいい。なんなら他を紹介する」

そう言い放つ彼に、春芳の胸は痛みで溢れた。
冷めた横顔はそれ以上見ていられず、ドアから離れる。
(分かってる。自分は何をやったってダメな人間だって)
今日のリハーサルでプロを目指す彼らの意識の高さに感心した。
見劣りするのは当然で、気後れして縮こまりそうになったのも当然だ。
分かっているのに、改めて他人の口から言われると傷つく。
その弱さが嫌いだった。
(……違う、近藤さんだからだ)
喉の奥が詰まって、自然と呼吸が浅くなる。
いまだに突きつけられた現実が理解出来なくて、言葉の重さをもてあましながら思い迷った。
そのまま覚束ない足取りでエントランスまで戻ってくると、意気消沈したまま壁にもたれる。
昔から陰口悪口は当たり前だった。
みんながこぞって楽しそうに人のことを笑っていた。
げらげらと無神経な声は耳に堪え、殴り飛ばしてやりたくなったこともある。
だけど言われるのは当然だから仕方がないと諦め、前髪で顔を隠した。
そしたら余計に笑われて虐められたから家に閉じこもって逃げた。
みんな敵だと、世界は敵だと易い呪いをかけて背を向けたのだ。
家の中は自由だった。
両親は腫れ物に触るような扱いだったし、美咲は煩いけどあまり帰ってこなかったから我慢できた。
都合の良い情報しか入ってこず、不必要なものは切り捨てることが出来る。

「ね、ちょっと君」

あの時、そういって近藤に声をかけてもらわなければ一生狭い世界で満足していた。
何も知ろうとしないまま拒み続けて終わらせてしまうところだった。
モデル、デザイナー、ヘアメイク――華やかな業界を目指す人も、みんな影で努力し、必死に夢を叶えようともがいている。
髪を切る時の近藤は怖いくらい真剣で、手つきの良さからどれくらい練習を重ねてきたのだろうと考えた。
店の休憩室にはたくさんのクリームが置かれていて、パーマ液やシャンプーで手荒れがひどいからだと教えられた時は仰天した。
みんな苦しみながら高みを目指して頑張っている。
(……胸が痛い)
己の中途半端さを近藤に見透かされた気がして辛かった。
彼は決して昔の同級生みたいに安易な陰口を叩かない。
本当のことしか言わない。
つまり、今傷ついているのは図星だからだ。
自分が努力を怠っているからだ。
結局原因は自らの中にある。

「……あの、川中君……だよね?」

その時、ホールへ続く廊下からひとりの少女が現れた。
見に覚えのない彼女は窺うように春芳を見つめ、近寄ってくる。

「あたし、ほら……覚えてない? 磯部の小中で同じ学年だった鮎沢……」

春芳は怪訝な顔をした。
それは出身校だが、小学校は虐められて休みがち、中学に入っても変わらず途中から不登校になった。
ゆえに良い思い出はなく、記憶から消し去ろうと躍起になったせいか、顔も名前もほとんど覚えていない。

「実はお姉ちゃんがここのデザイン科にいてさ、あたしもショーに出るんだ。ずっと違う班だったから会わなかったけど、今日見てもしかしたらって。名前訊いたらあの川中君だったからビックリしちゃった」

まだ何も言ってない春芳を尻目に、図々しく隣のベンチに座った。
持っていたペットボトルのお茶を煽ると笑いかける。

「まさか川中君がモデルなんてね」
「……ひ、人違いじゃないですか」
「でも春芳って珍しい名前じゃない? 小学校の時からそう思っていたんだよね。うちの学年二クラスしかなかったし」
「そ、それは……」
「ガリ男って呼ばれてたの覚えてる?」
「――っ!」

春芳はその言葉に反応するように後ずさった。
忌まわしきあだ名は脳裏に辛かった過去を映し出す。
昔から食の細かった彼は、ひ弱で女子より細かった。
色白で窪んだ眼、鼻筋は通っていたが余計に目立ち、気持ち悪いと言われ続けた。
引きこもったことでガリガリ状態からはマシになったが、いまだに色が白く痩せていることがコンプレックスになっている。
しかしいくら食べても体質のせいか太れなかった。

「忘れるわけないか。だって不登校になっちゃったもんね」
「……っ……」
「芦辺ってのは覚えてる? 川中君をよくからかってたやつ。あいつなんかさー、あれから先生に怒られちゃって超かわいそうだったんだよ」

誰が――何が、可哀想だったのだろう。
こうして向き合っているはずなのに、会話が断片的に途切れて理解出来なかった。
意味は判るのに、話が通じていないような気持ち悪さが胸元を這う。
それは彼女があまりに独りよがりだからだ。
会話ではなく一方的に情報を押し付けている。
それに気付いた時、奥底から暗鬱な気持ちが広がって体を支配した。
目の前の少女は春芳を気にも留めず、好き勝手に喋り続ける。
無邪気な態度が苛立たせているとも知らず暢気だった。

「格好良くなったね。最初は全然分からなかったよ。まさか整形でもしたの? 私の周りにも結構いるんだよね」
「が、学生なのに……そんな……」
「えーっ、結構プチ整形流行ってるよ。私ももうちょい二重の幅広げたいんだよね。アイプチ面倒だし」

付けまつ毛にマスカラをふんだんにつけた目を指で開かせる。

「……って、やっぱり川中君なんじゃん。なんで他人のフリなんかすんのよー」
「…………」
「ま、虐められて不登校だったってのはめっちゃ恥ずかしい過去だけどさ。昔のことじゃん。気にしちゃダメだよ!」
「……して……」
「明日、みっことか結構友達来るよ。あの子も覚えてない? みんな同じ小中の――」
「どうして、そんなこと言えるんですか」
「えっ」

春芳はギリギリと奥歯を噛み締めた。
握り締めた手が震えるほどの昂ぶりを必死に抑える。

「どうしてそんな無神経なことっ……ペラペラ喋れるんですかっ」

激昂して彼女を睨みつけた。
その怒りを目の当たりにして、さすがの彼女も口を噤む。
相変わらず静かなエントランスは何事もなかったように無音を突き通した。
募りに募った憤懣はこれしきでは治まらず、荒い呼吸の音だけが木霊する。

「ど、どうしたの、春芳君……?」

ちょうど通りかかった理沙が心配して駆け寄ってきた。
渡せないまま持っていた用紙を彼女に突き返す。

「すみません。今日はちょっと体調悪いので先に帰ります」
「えっ……あ……」
「明日は朝八時に講堂でいいんですよね。ちゃんと来ますから安心してください」

戸惑う理沙の返事を待たずに背を向けた。
再びやってきたロッカールームには近藤たちの姿がなく、森閑としている。
自分の荷物だけ手に取ると、足早に講堂をあとにした。

***

その夜、帰ってくるなり部屋に閉じこもった春芳は膝を抱えてじっとしていた。
異様な様子に家族は声をかけられず黙って見守る。
まるで中学の時に戻ったみたいだった。
窓際に座り、ドアに背を向け、うなだれたまま動かない。
数週間もの間とは別人のような雰囲気だった。
(明日、昔の自分を知っている人が来る)
それは積み上げてきた今の自分を打ち壊す話だった。
鮎沢と名乗る女の暢気な顔がチラついて冷静でいられない。
彼女はどれほど春芳が傷ついていたか知らない。
他の大勢に混じって人を弄ぶことは楽で面白い遊びだ。
むしろ表立って絡んでくる生徒より卑劣な行為だと知らず、目の前の状況に流されている。
彼らは結局他人事で済むのだ。
どちらにも加担していない最も無責任な立場で、罪悪感の欠片もなく悪意のない言葉で何度でも傷つけようとする。
だから躊躇いなく人の辛かった過去を穿り返すことが出来るのだ。
無知ゆえの無邪気な残酷さで鋭い刃を振り回しているとも知らず、清々しいほど鈍感で幸せな人間だ。

「痛っ……」

胃から背中にかけて疼くような痛みが走って押さえる。
唇を噛み締めて耐えるが、痛みは次第に広がって体を蝕んだ。
(見られたくない。あんな姿。きっとまた笑われるに違いない。蔑まれるに違いない)
信頼していた近藤にまで酷評され、自信は既に地の底にあった。
傷を抱えたままの心は安易に過去のことだと押し流せず、棘を剥き出しにして固まっている。
その棘を和らげてくれたのは彼なのに、突き放された現実に身動きがとれなくなっていた。
益々憂色を浮かべ、ネガティブな思考に支配される。

世界は敵だと、もうひとりの自分が甘く囁いた。
また部屋にこもればいいと、優しい吐息を吹きかけてくる。
それは耐え難い誘惑で、ダメだと分かっていて引っ張られそうだった。
耳触りの良い言葉だけが纏わりついて離れない。

「……なにやってんの」

その時、背を向けていたドアが開いた。
暗い部屋にうずくまる春芳に、美咲の矢のような言葉が突き刺さる。

「放っておけよ」
「はぁ?」

苛立ったような声だった。
手元のスイッチで電気をつけると、ずかずか中へ入ってくる。
今は兄妹喧嘩をしている余力もなかった。
母親は心配そうに扉の後ろから顔を出している。

「またウジウジしてるんでしょ。本当にウザイんだけど」

強引に春芳の肩を掴むと自分の方へ向けた。

「何があったか知らないけど、どうせまた何か言われて逃げて帰ってきたんでしょ」
「別に、オレは……っ」
「逃げたってなんだっていいけど、そのウジウジするのやめてよ。いつまで引きずってるつもりなの? マジでキモい!」
「キモいって……いつも思ってたけど、それが兄に対する態度なのか」
「兄らしいことをした覚えもないくせに尤もらしいこと言わないで」

ただでさえズタボロの状態で、妹に蔑まれるのは屈辱だった。
だけど彼女は間違ったことは言っていない。
反論できないのも仕方がなく、その姿は兄と思えないほど情けなかった。
泣きたい。
喚きたい。
自分だけがいちいち転んで傷ついている。
思うように生きられないこの世界は失望と絶望の渦の中にあった。
どうして自分だけがこんな思いをせねばならないのかと、誰かに当り散らしたかった。
しかし怒鳴ったところで何も変わらない。
誰も――春芳も救われない。

「……もう黙れよ。お前には関係ない」

春芳は下を向くと再び背を向けようとした。
その態度に眉間の皺を深くさせると、美咲は彼の顔目掛けて封筒を当てつける。

「……っ……!」

痛みに一瞬顔が歪んだ。
それにいきりたって封筒を握り潰そうとしたら、差出人には近藤の名があって思わず見入る。

「それ、うちのポストに投函されてたやつ」

春芳の反応に美咲も声を抑えて呟いた。

「あんたの髪を切ってくれた人なんでしょ。中に関係者用のチケットが入ってあった。今度のファッションショーの」
「え……?」
「すごい頑張っているから見に来て欲しいって、モデルの中で一番素敵だからってさ。きっと自分ではチケットを渡さないだろうから内緒にって、お父さんとお母さんの分も入ってた」
「そんな……っ」

震える手で封筒をあけると、手紙とチケットが入っていた。
近藤らしい気遣いの手紙は可愛い便箋に綴られており、こんな状況なのに思わず笑みが零れる。
彼はいつだってそうだった。
春芳より遠くを見つめ、広い世界の中で生きている。
だからたくさんのことを教えてくれた。
手を引いて輝かしい未来へと連れて行ってくれた。
(モデルとしてのオレは、全然ダメかもしれない)
それでもかぶりを振った。
奮い立たせるように奥歯を噛み締めた。
ギリギリと覚悟を決めるように何度も噛み締めた。
深く息を吐いて、胸の奥に広がったどす黒いものを吐き出そうとする。
(ここで逃げたら、またもとに戻る。社宅の妖怪に戻ってしまう)
それは何より避けたいことだ。
この期を逃したら一生後悔するかもしれない。
過去は甘い夢で苦い幻だ。
「あの時は良かった」も「ああすれば良かった」も、幻想に囚われて美化にしているに過ぎない。
そんなものは死ぬ間際でも出来ることだ。
その時思う存分振り返れば良い。
大切なのは今で、この瞬間何を選ぶのかが重要なのだ。
(どうしたいかなんて決まってる)
世界を呪うことはいつでも出来る。
人を怨むことも、自分を嫌うことも容易い。
しかし今やれることは限られているのだ。
限りある人生、限りあるものに全力を尽すのは道理でもある。
笑われても蔑まれても、自分を突き通せなければ何も始まらない。
必要なのは他人の眼や評価でなく、自分が何をしたいかだ。

「ねえ、一度くらいやりきってみなよ。どっちにしろ後悔するかもしれないけどさ、何もしないまま終わっていいの?」

美咲はしゃがむと、うなだれたままの春芳に問いかけた。
とことんダメな兄だ。
妹に発破かけられて励まされて、嬉しいなんて情けないにもほどがある。

「……っ、だ……いやだ……」
「うん」
「このままっ……終わりたくないっ……」

春芳は小さく首を振った。
掠れた声は弱々しく、泣くのをこらえているのだと、ひと目で分かる。

「……本当に困ったお兄ちゃん……」

だけど美咲の声は優しかった。

 

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