紳士の甘美なる人生

柳小路(やなぎこうじ)は人生に満足していた。
何百年と続く地方の名家で、祖父は元政治家、父親は実業家で、母親は海外の老舗メーカー創業者の孫。
兄は父親と同じく実業家として第一線で働いているし、弟は大学で遺伝子の研究をしている。
柳小路自身はのんびりエッセイを書いたり、翻訳したりで気ままな生活を続けていた。
その翻訳もたまたま海外で面白い本を見つけ、日本で出版したところ大当たりでシリーズは全てベストセラー。
おかげでこじんまりとした個人事務所も、ビルの最上階にオフィスを構えるようになった。
いつの間にか磐石な地位にまで上り詰めていたのだから不思議である。
金はあるところにはある。
世の中を巡っているようで、実は、一定のところにだけ循環しているのだ。
だから自分は生まれてこの方金銭的不自由を強いられていないのである。
湯水のように使っても惜しくない。
もしかしたらそういった執着のなさが金が寄ってくる一因なのかもしれない。
しかし、反対の人間もいる。
どんなにあくせく働こうが、いつまで経っても貧しい部類の人間だ。
運に見放されて何をやってもうまくいかない。
悉く失敗し、どん底を味わう不幸な人生を送る人だ。
可哀想だと思うが、そればかりはどうしようもなく、哀れむほかない。
柳小路は金持ちだが神ではないのだ。

「君は本当に可愛げない人だね」

それは何も他人の話じゃない。
凡人が夢見るような恵まれた家庭に生まれても、そういう運命を辿ってしまうのだ。

「あなたのような人に可愛いと言われても嬉しくはないです」

柳小路にはもうひとり弟がいた。
歳の離れた末っ子で、甘やかされて育ってきたわりに反骨精神を持ち、幼いころから変わった性格をしていた。
高校を卒業すると、音楽で生きていくと言い張り家を出て行った。
アルバイトをしながら仲の良いメンバーとバンドを組み、地元ではそれなりに人気のグループになった。
その後順調に事務所に所属し、推してもらえたおかげかタイアップを任されるなどして、テレビに出ることも多くなった。
誰が見ても成功しかけていた。
しかし彼はその波に乗り切れなかった。

「ははっ。そういうところはあいつに良く似ているな」

事務所のバックには父親の存在があった。
つまり成功の裏には大きなコネがあったのだ。
家の力が嫌で突っぱねたのに、結局は家の力でのし上がろうとしている。
若さゆえの青臭さか反骨精神の表れか、事実を知った時、彼は絶望した。
そのまま表舞台から姿を消すと、行方は分からなくなった。
父親はそんな態度に怒り、探そうとする母親を止め、兄弟たちも接触を禁じるように伝えた。
しかし柳小路だけは内緒で探し出していた。
接触はしなかったが、その後の彼を見守り続けた。
それはなぜか。
面白かったからだ。
柳小路の仕事も、元は家柄のおかげで回してもらえていた。
でなければ実績なく無名の人間がのんびり執筆だけで生きていけるわけない。
重々承知の上だった。
むしろ賢く生きていくためには使えるものは使うが当然で、利用しない弟の方が愚かだと思っていた。
コネも大事な武器のひとつである。
現在実業家として働く兄だって始めは同じだった。
ゆえに金はあるところにだけ循環し続ける。
それを拒絶した弟は、その後下町の小さな工場で働き始めたが、不況に円高というダブルパンチに耐え切れず閉鎖。
その間にどこぞの女と結婚、一児をもうけたが、職を点々としてだいぶ苦労したようだ。
いつ泣きついてくるかと思えば音沙汰もなく。
ようやく見つけた会社で営業職につき、やっと生活は安定するも、先延ばしにしていた新婚旅行先で事故に合い夫婦揃って死亡。
絵に描いたような不幸な人生の先に待っていたのは、ひとり残された子供がぽつんと両親の遺影の前で座っている光景だった。
無意味、馬鹿馬鹿しいという言葉がこれほど似合う一生も珍しい。
通夜に駆けつけた親戚は当然柳小路だけであった。
周囲のひそひそ哀れむ声の間をかき分ければ、少年が座ったままこちらに背を向けている。
その小さな背中があまりに不憫で眉を顰めた。
泣きもせず並んだ両親の写真を見つめ動こうとしない。
僅かに震える顎に気付き、彼はハンカチを差し出していた。

「君を迎えにきた」

用意していなかった言葉が咄嗟に出て、困惑する。
少年は柳小路の方に振り向くと顔をあげた。

「あなたは……?」

その時には全てが始まっていたのだと思う。

***

「別に……そんなこと知りません」
「ほう。父親と比べられることは嫌いか」
「だから別にって言っているでしょ! だいたい男なんですから可愛げなんて必要ないんです」

少年――、馨(かおる)は両親の葬儀後、柳小路の家にもらわれた。
他の兄弟はもとより両親にも内緒である。
絶縁状態にあったせいで、彼に子供がいたことや事故で亡くなったことも知らないだろう。
知っていても父親は頑固だから知らん振りを突き通すに決まっている。

「そうか。だが、私は可愛い子の方が好みなんでね」

柳小路の家は、都内でも有数の高級住宅街で、その中でも大きなお屋敷だった。
今どき使用人のほかに庭師や運転手を雇っている。
家は両親が立ててくれた。
柳小路家の人間ならまず立派な家に住み、一流品に囲まれる生活をするべきという方針からである。
持っている物で人間の差が出るというのは、両親だけでなく祖父祖母も同じ考えだった。
つまり柳小路家代々の決まりごとなのである。
金に執着ない柳小路はどうでも良かったから好きにさせた。
書庫・書斎さえあれば何でも良い。
そのついでとして、屋敷には可愛いメイドならぬ若くて可愛い顔の使用人を雇わせた。
誤解しないように言っておくが、女ではなく男のである。

「変態! 僕はおじさまの言いなりにはならないですからね」

馨はプイッと横を向くと鼻息荒く、リビングを出て行った。
学校まで車で送らせると言ったのに、早速断られて、朝の凄まじい通勤電車で登校している。

「変態とは失敬な。ローマ皇帝や平安貴族も可愛い少年を愛でるのは当然の文化だったのだよ」

柳小路はフキンで口を拭くと席を立った。
二階のリビングの窓から見下ろせば、先ほど出て行った馨の後ろ姿が見える。
パタパタと駆けるたびに体に見合わぬ鞄が上下した。
視線を感じたのか、ピタリと止まると振り返り、柳小路に向けてあっかんべーをする。
その様子を笑顔で流し手を振ると、さっさと行ってしまった。
ここまで順風満帆な人生を送ってきた彼だが、どうも馨の件に関してはうまくいかない。
いや、違う。
生前、彼の父親ともうまくいってなかった。
柳小路は兄弟の真ん中ということもあり宥める役割を買っていた。
兄と弟が馨の父親――崇と喧嘩した時、仲裁に入るのはいつも彼で、間を取り持っていた。
その割に好かれない、懐かれない。
現在の馨まんまのやり取りが繰り広げられていた。
好かれる努力をしたかと問えば厳しいが、嫌われるようなことはしていなかったつもりだ。
親子揃って思い通りにならないことが悔しいやらおかしいやら。

「……ふん。理想と現実は異なるものだ」

連れてきた当初、馨に懐かれ「おじさま、おじさま」と言い寄られる未来を想像していた。
言いつけを守っておじさまとは呼んでもらえるが、好意はまったく感じない。
無理もなかった。
本人はさほど異常に感じていなかったが、少年愛という変わった性癖を持ち、その研究にも手を出している。
いい歳して独身で、屋敷には男しかいないとなれば警戒するのは当然だった。

***

その週の金曜日、知り合いのデザイナーが新たなブランドを立ち上げるということで、パーティーに出かけることになった。
一部が業界人用のファッションショーで二部が立食会になっている。
柳小路は立食会に招かれていた。

「なんだね、その顔は」
「…………」

移動中の車内、重い空気が漂っている。
週末の騒がしさの中を突っ切るベンツは今年買ったばかりの新車だった。
父親はクラシックカーを好み、兄は国産車でなければ乗らない、弟はスポーツカーマニアで自宅に数多くの派手な車を所有している。
車だけでもそれぞれ個性が突出していて、気が合わないことは明白である。
無論、柳小路は興味なくて運転手が選んだ車を買った。

「仕方がないだろう。今日行くのは子供服のブランドだ」
「…………」
「黙り込むのは自由だが、その顔はいただけない。いいかい、一流のレディはいつどんな時も笑顔を忘れないものだ」

隣に座る馨は完全に無視を決め込むと、一切口を開かない。
静かな車内には時折バツの悪そうな運転手の咳払いが聞こえるだけだ。
夕方彼が帰って来た時からこの調子で困ったものである。
だが全ての原因は柳小路にあった。

「僕は、レディじゃないっ」

ようやく喋ったものの険悪なムードは変わらない。
膝に置いた手を握ればふんだんに使われたレースが皺になった。

「だが今の君はどこをどう見てもレディじゃないか」

学校から帰ってきた馨は、使用人に風呂場へ連れて行かれると、見違えるような姿で戻ってきた。
緩いウェーブのかかったかつらに軽く化粧をし、水色のフリフリとしたワンピースを着せられている。
どこから見ても金持ちのお嬢様だ。
その姿に柳小路は満足げに頷いた。

「なぜです。子供服なら別に男の格好でも構わないのに、わざわざ女装なんか」
「ふむ」
「一晩限りなのに、こんな高そうな服買って馬鹿じゃないですか。おじさまのことだから何か考えがあるんじゃないですか」

馨はわずかに車の窓を開けて、隙間から外の様子を見ていた。
明らかに怒っているが拒絶はしない。

「さぁ。しいていうなら私の趣味かな」
「は?」
「女装した君を見てみたかっただけだ」
「……っ……」

柳小路の言葉を最後に、再び馨が口を利かなくなったいうまでもない話である。

***

会場は日本有数のホテルで、着いた時には立食会が始まっていた。
ファッションショーに出たモデルや、業界人も混じり大広間は華やかである。
中にはテレビでよく見る芸能人や著名人も我が子を連れて参加していた。
記帳を済ませ会場入りすると、すかさずウエイターがシャンパンやジュースを渡してくれる。
見上げれば巨大なシャンデリアが重そうに吊るされて輝いていた。
奥には壇上があり、右側にビュッフェ形式の料理が並んでいる。
とはいえ、一般客の食べ放題と違い、腹いっぱい食べようとしている人はいない。

ぎゅるるるるる……。

その時、匂いにつられて馨の腹が鳴った。
気付いて顔を赤くすると腹を押さえる。
今の時間まで何も食べていないのだから、腹を空かせるのは当然だ。

「あっ…ぅ……」

あまりの音にバツの悪そうな顔がこちらを向く。
彼といると予想外のことばかり起こるからおかしかった。
柳小路はくっくっと笑いを堪えると促すように背中を叩く。

「大変だ。早く満たさないとレディの腹にまで嫌われてしまう」
「なっ……べつにっ」
「さ、好きな物をとってきなさい。ただし今の君は立派なレディだ。あくまでも上品に。ウエイターやシェフに礼を忘れないよう気をつけなさい」

馨は不服ながらも言いつけを聞き、頷いてビュッフェへ向かった。
よほど腹が減っていたのだろう。
それがおかしくて思い出すように笑い後ろ姿を見送る。
口を開かなければ欲目なしに愛らしいお嬢様だった。

「――あら、柳小路さんじゃないの」

すると不意に声をかけられた。
振り返れば言葉遣いに反して逞しい体が目に入る。
それだけでも十分なギャップだった。

「和久井君」

紫に染めた髪色に、ファンキーなアフロ頭がより困惑させる。
開いたシャツから見えた胸筋は盛り上がっていて男らしかった。
そのくせつけているアクセサリーは女性的なデザインばかりでちぐはぐである。
こんがり焼けた肌は無駄にエネルギッシュでいつ見ても圧倒された。

「ご挨拶が遅れて申し訳ない。このたびは新ブランドの設立おめでとうございます。そして今夜はお招きいただきありがとうございます」

頭を下げると体に似合わぬ内股が見えた。
彼こそが主賓の知り合いであり、世界的に活躍するデザイナーでもある。
見てくれどおり柳小路同様性癖が変わっており、同性愛者だった。
知り合ったのは新宿三丁目の古びたバーだから面白い。

「やぁね。アタシと柳小路さんの仲じゃないの。散々お堅い挨拶回りしたんだから勘弁して」
「すまない。しかし、君は相変わらずのようだね」
「ええそうよ。アタシはどこにいってもアタシなの。媚びるのは好みの男とスポンサーの前くらいかしら」

ケラケラ楽しそうに笑うと、派手なメイクの奥にある瞳が優しくなる。
シュミは違えど性癖は似ていて話は合った。
もとはニューヨークのドラァッグクイーンで、見出されてこの地位まで上り詰めた男である。
見かけどおりただものではなかった。
むしろ曲者と呼んだほうが正しい。
教えられた名前は日本名だったが、顔は日本人らしくない。
ゆえに本名かどうかさえ怪しくて、一切が謎だった。
それが気に入って余計な詮索もせず交友を続けているが、彼も柳小路のそういったところが好きで付き合っている。

「お、おじさま……」

すると小皿を持って馨が戻ってきた。
明らかに不審者な和久井にどう反応していいか分からず狼狽している。

「馨、ご挨拶しなさい」

柳小路は小皿を取り上げると、前へ促した。
彼は頷くと以前より教えられた挨拶をする。
女装をしているせいか上擦り、中性的な声をしていた。
これなら一般人には女として通用するだろう。

「まぁまぁ、どうしたの。こんな可愛い子連れちゃって! アタシ聞いてないわよ」
「ここ最近は君も忙しかったからね。言い忘れていたよ。彼女は私の大切な人だ」

見下ろすと未だに戸惑ったままの馨と目が合った。

「彼女――ね」

和久井は意味深な笑みを浮かべるが、それ以上追及しようとはしない。
彼はファッションデザイナーだ。
もしかしたら彼女ではなく彼であることに気付いているのかもしれない。
それを口にしないところが、やはり好きだと思った。

「じゃあ特別、お嬢ちゃんにアタシの名刺をあげる。住所と電話番号が書いてあるから何かあったらいつでもかけてきてね」
「え、あっ…ありがとう、ございます」
「まだ日本にいるのか」
「んふふ。当然でしょ。新ブランド立ち上げたんですもの、当分は日本にいないと。それに中国や韓国も視野にいれているから、ニューヨークにいるより動きやすいわ」

そう言って柳小路の頬に盛大なキスマークを残すと、颯爽と身を翻して去って行った。
再び業界人の挨拶回りをするのだろう。
厚ぼったい唇に真っ赤なルージュのおかげで描いたようなキスマークだった。
さすがの馨も引いたみたいで苦い顔をしている。
せっかく腹を空かせていたのに、小皿を食べるのも忘れて和久井の後ろ姿を見送った。
ただでさえ大きいのに、アフロ頭のせいで人より頭ひとつ飛び出ている。

「馨に良いことをひとつ教えよう」
「え?」

柳小路は眉間に皺を寄せたままの馨の頭を優しく撫でた。

「格好や性癖だけで人を見るのは怖いことだ。目に見える形だけに囚われていると、瞳は濁り、大切なものを見誤る」
「…………」
「彼は有能で素晴らしい人だ」

思うところがあったのか、馨は反論せず頷くと、もらった名刺を大事にしまった。
その素直さが可愛く思う。
柳小路は少しでも彼の人生を豊かにしてあげたかった。
どんな言葉もどんな教えもいつか必要とされる時がやってくる。

「あ、お皿返してください」

すると思い出したように馨は見上げた。
返せ――と、手を差し出している。
だが取られないようにあえて上に持ち上げた。
対して不服そうな顔をする。

「もう用は済んだ。これからはプライベートな時間だ」
「はぁ?」
「上に部屋を取ってある。食事ならそこで済ませればいい」
「あっ、ちょっと」

柳小路は皿を持ったまま会場をあとにしようとした。
元々ファッション業界に友人はいないし、和久井に祝辞を述べられれば良かった。
むしろ早く立ち去るべきだと足早に出口へ向かう。

「おじさま……まさかっ」
「そのまさかだ。言っただろう。ソレは個人的な趣味だと」
「……っ……」
「今日はレディだ。たっぷり可愛がってあげよう」

立ち止まって馨に囁くと、途端に耳まで赤くなった。
しかし顔は険しく睨んでいる。
そのギャップが煽っているともしらず、靡くスカートに目を細めた。

「……ま、本当はスカートより短パンの方が好きなのだけれど」
「あっ……あなたって人はっ」
「時間は有効に使わなくては。さぁ行きますよ」

空いてる腕を差し出すと、彼は渋々手をとった。
それに満足し引き寄せるとエスコートする。
一度振り返って会場を見回すと、意味ありげに視線を広げて立ち去った。

 

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