4

柳小路は懼れていた。
ようやく得た信用を失いたくなかったのだ。
信頼しあえる関係はあまりに心地好く幸せな日々をもたらしてくれた。
大人の自分がしっかり弁え考えねばならない。
屋敷にいた時のように、安易に手を出してはならないのだ。
体だけが欲しいわけじゃない。
馨の心も欲しい。
今までどんな物にも執着を見せなかったのに、恋は強欲で、どんどん欲張りになった。
幼稚な浅ましさに眩暈がする。
そのくせ心は限りなく透明で純粋で、お得意のキザったらしい台詞すら出てこなかった。
そんな余裕すらなかったのだ。

「はぁ……我ながら格好悪い」

中学生でもあるまいし――と、自嘲気味に笑い髪を掻いた。
気持ちを切り替えようと頬を叩き立ち上がると浴室に入る。
困ったことだらけなのに、気持ちは前向きで悪くなかった。
二人にはまだまだ時間がある。
ゆっくりと進めばいいと思っていたからだ。
一方の馨がひとりになった居間で、どんな風に風呂場のドアを見ていたか気付きもしない。
余裕がないというのは本当に恐ろしいものだ。
僅かな感情のズレが、いつか戻ることのない決別を生むことを柳小路は知らない。
今まで他人に興味を抱かず、何事も執着なく順風満帆で来たから、些細な思い違いが大きな溝を生むことを知らないのだ。
そして意外と早くその状況に陥るのが人の世なのだと、彼は身を持って知ることになる。

***

翌日、柳小路は好物のドーナッツと、たくさんの卵を買って帰った。
だし巻き卵の練習を始めるつもりで意気揚々と家路を急ぐ。
昨夜はあんな風に気まずいまま眠りについたから、今日は楽しく二人で過ごしたいと思っていたのだ。
買い物袋の中には当然馨の好きなプリンも入っていて、顔がにやける。
道の先に我がアパートが見えてきた。
豪邸しか住んだことがない男が住むにはあまりに小さくみすぼらしい家だ。
父親や兄弟が知ったらさぞ笑われるだろう。
しかし以前の屋敷より、家路を急ぎたくなるから不思議だ。
ひとりの時は赴くままにフラフラ出歩いていたのに、今は帰るのが楽しくて仕方がない。
狭さゆえに必然的に四六時中好きな人の傍にいられるのだ。
大好きな書斎や書庫はなくなってしまったのに、まったく未練はない。
(結局私も俗物だったのだ)
まるで新婚家庭のような幸せだった。
見えてきた明かりのついた窓に自然と顔が緩んだのは秘密の話である。

「ただいま」

そうして浮かれ気分のままドアを開けたが、家に馨の姿はなかった。
代わりに兄と弟が居間でお茶を飲んでいる。
ミスマッチな光景に思わず固まった。
引越ししたことは知らないはずだ。

「おかえり、早かったな」
「どうしてここに……?」

馨は――、と聞く余裕はなかった。
張り詰めた部屋の雰囲気に気付くと、胸騒ぎがする。
嫌な予感が思考を蝕んだ。
おかげでそれ以上何も言えずに黙り込むと、無言で目配せする。
六畳ほどの部屋には、大の男が三人もよってたかって意味深な視線を巡らせ、様子を窺い合っていた。
嫌な予感で済みそうにないことを覚り、眉間の皺が深くなる。
最初に口を開いたのは兄だった。

「親父が脳溢血で倒れた」
「え?」
「回復の見込みは薄いそうだ」

苦患に満ちた顔の割に淡々とした物言いだ。
すかさず横にいた弟が見上げて、
「兄さん、引越ししたなんて聞いてなかったよ。まさかこんな家に住んでいるなんて」
「今は関係ないだろ。それより親父は?」
「病院にいる。集中治療室でどうにか生かされている。万が一、奇跡的に意識が戻っても、高い確率で後遺症が残るそうだ」
「そんな……」

全ての事象は唐突に起こるものだ。
つい最近まで病気ひとつせず仕事人間だった父親が、あっさり倒れて命を手放そうとしている。
現前に起こったことなのに、現実感は薄くて、どんな反応をしていいのか分からなかった。

「わざわざ、それを言いにきたのか」

ドアを背に寄りかかると、深く息を吐く。
この年になれば、ある程度起こりうる事態なのに、いざそうなればショックは大きい。
だが兄の眼は違う何かを捉えていた。
見据えるような眼差しで射抜かれ、やましいことはないのに胃が重くなる。

「……柳小路馨という少年を知っているか」
「え?」
「崇の息子だそうだ」

兄がこう切り出してくる時は大抵全てを分かった上での話で、言い逃れは出来ない状況にある。
柳小路はドアから離れてキッチンに立つと、持っていた買い物袋を上に置いた。

「今、私が養っています。それが何か問題でもありますか」
「なぜ引き取った?」
「他に養える保護者がいなかったからです」
「ほう」

毅然とした態度で向き合うと、鼻で笑われた。
彼は鞄から冊子を取り出すと、柳小路に差し出す。
受け取れば父親の遺言書で、専属弁護士のサインと父親のサインが刻まれていた。
数十枚にも渡る内容に、戸惑って顔をあげれば、隣にいた弟がページを開いてくれた。
兄の話では緊急を要するため、今日父親の弁護士がやってきてこの遺言書を渡したのだという。
携帯を確認すると兄弟や母親から着信が入っていた。
本来ならば死後に発表されるべきものだが、今回は違った。
父親自身がこれを作った時に、今のような状況時に開けて欲しいと頼んでいた。
全身動けなくなった時、意識が戻らなくなった時、呆けて判断出来なくなった時。
昔から彼は先を読む能力に長け、準備は怠らなかった。
会社のことから自身の延命治療について、はたまた墓のことまで仔細に渡って書かれている。
その父親らしい遺言書に遠い記憶を呼び起こして苦笑を漏らした。
幼少期はよく三つ先まで物事を考えて行動しろと怒鳴られたものである。

「問題は大有りだ。見てみろ。ここを」

捲られたページを見ると、遺産の分配について書かれていた。
その中には当然、母親や兄弟の名前が入っている。
だが最後に書かれた名を見て目を疑った。

「馨君の存在に親父も気付いていたようだ。私たちには近付くことすら許していなかったのに」
「崇の名前がないっていうことは、亡くなったことも知っていたのですか」
「そうだよ。これはその後書き直されたものだったんだ」

まさか――と思った。
未だに崇が家を飛び出していった日のことを思い出す。
父親はこれ以上にないほど激昂して、それこそ頭の血管が切れるかと思った。

「二度と柳小路家の敷居は跨がせんぞ」

気に入っていた清の時代の壷を自らの手で割り、暴れまわった。
柳小路は知っていた。
父親は兄弟の中でも崇を人一倍可愛がっていたことを。
ひとりだけ年が離れていたせいか、両親共に深い愛情を込めて育てた。
そんないきすぎた愛に崇は息苦しさを覚えて、あんな性格になったのかもしれない。
しかし父親はその心中を汲むことなく、愛情は憎しみに色を変えて噴きだした。
積もり積もったすれ違いは決定的な溝となり、家族を巻き込んで大きな傷となった。
遺産の件は、本来なら「やはり親だ」と納得するかもしれない。
しかし父親は頑固で曲げず、言い出したら絶対に聞かない性格をしていた。
身内にも厳しかったから、柳小路以外は言うとおり縁を切っていた。
今になって孫の存在を認め、遺産を残すとなれば混乱も無理はないだろう。
(もしかしたら親父はいつか謝ろう、許そうと思っていたのかもしれない。そう思ってこんな遺言書を残したのかもしれない)
皮肉にも丸く治まる前に問題は噴出し、今また、家族内で新たな火種のもとになろうとしている。
なぜ二人が訪ねてきたのか理解したところで、暗鬱な気持ちが広がった。

「遺言書の件は分かりました。とりあえず置いておくとして、馨をどこにやったんです」

持っていた遺言書をそれ以上見ようともせず兄に返した。

「まあ待て。それより先に質問したのは私だ。まずは答えるのが礼儀だろう」
「それはとっくに答えたでしょう。保護者が私しかいなかった。他にどんな理由がありますか」
「保護者ね……」

腕を組んだ兄は鋭い眼差しを向けると、口許を僅かにあげる。

「お前、ホモだったよな。ついでにそういった歴史の研究もしているらしいじゃないか」
「だとしても、私の性癖と研究に問題はありません」
「はっ……問題ね。私は知っているよ。昔から崇にばかり気にかけていたこと。いつもお前が間に入って守ってた」
「そのことと馨のことに何の関係があるというのです?」
「似ているよな。あの時の崇と今の馨君」
「――――!」

兄は人を蔑む時、悪意の言葉を口にする。
昔から間違ったことが大嫌いで、いつも正しい道へ進むせいか、それから外れた人間には慈悲のひとつも零さない。
彼は天からそういった強さを与えられていた。

「本当は親父が馨君の存在に気付いていることを知っていたんじゃないのか。ついでに親父の遺言書に馨君の名が入ることも」
「憶測だけで言わないで下さい。あの人の性格は私も知っています。存在はともかく遺言書なんて知るわけありません」
「そうかな。兄さんはいつだって涼しい顔をして美味しいところを持っていくんだ。昔から何でも適当だったくせに、いつの間にか大作家先生だ」

弟が口を挟んできて、益々主導権を握られる。
こうなることが嫌で、実家を離れてからは滅多に連絡を取り合おうとはしなかった。
兄弟でも根本的に価値観の違いはあるし、どうしても埋められない溝はある。
むしろ赤の他人との方が分かり合うことは簡単で、理解するのは難しくない。

「これを見ても平然としていられるか」

すると、兄は再び鞄を開けて封筒を取り出した。
テーブルにばら撒かれたのは何枚もの写真で、中には柳小路と女装した馨が映っている。
さすがの柳小路も狼狽を顔に漂わせた。
同時に、やはり――と、覚悟を窺わせるような瞳で兄を見つめる。

「親父の書斎から出てきた。デザイナーのパーティーに行ったときの写真だよな。会場に紛れ込ませた社員が全部吐いた。どうやら親父はお前たちを監視していたようだ」
「…………」
「それを薄々勘付いていたんじゃないのか。だから変装させた。ま、趣味でこんな格好をさせたとしても大問題だがな」
「兄さん、どうして隠していたんだ! やっぱり金か。それとも崇に似た馨君をいいようにしたかったからなのか」
「どっちにしろお前のやっていることは認められるべきことではない。保護者なんて良く澄まし顔で言えたものだ」
「違う! 私はっ……」

閉め切られた部屋は息が詰まって身じろぎさえ出来なくなる。
それでも必死に身の潔白を訴え、否定し続けた。
でも説得力はなかった。
馨に手を出したのは紛れもない事実だったからだ。
(純粋な恋だと、誰に言っても分かってもらえない。純粋な愛だと証明できるものは何も持っていない)
事実はいつも現前としてある。
想いは形に表せないから報われることはない。
兄の言うとおりだった。
柳小路は保護者という大義名分のもとに連れ出し、いいように扱った。
体を迫った。
たとえ金目的ではなくとも、非があるのは明らかに彼だった。

「違う、違うんだっ……そんなことを思っていない! ただ彼の幸せを願って!」
「本当に幸せを願うのなら、どうすることが最善になるか分かるはずだ」
「だってあの時は私しかいなかった。もし教えていれば兄さんが引き取ったとでも言うのですか!」
「ああそうだ。私は長男だ。それに息子も近い歳だし妻もいる。作家風情の独身男のもとよりは良い暮らしが出来るだろう」
「愚かなことを。あなたの方こそ遺産が目当てでしょうに」

吐き捨てるように言った。
我慢がならなかった。
非があると分かっていても、全てを認めることは出来なかった。

「さぁ、どうだろうな。真っ当なのはどちらか明らかだと思うが」
「なにをっ」

すると見据えたようにドアが開いた。
その先には、兄の妻と馨が立っていた。
彼は人形のように無表情で、じっと柳小路を見ていた。
瞳の色は闇より深い黒で塗りつぶされていた。
希望の欠片も残されていなかった。
智に澄んだ瞳のやや冷ややかな光がその漂いに消えている。

「……父さんの代わりはごめんです」
「か、おるっ……!」
「僕はお金より、父さんと瓜二つの顔より価値が低いですか?」
「違う、誤解だっ。君は変なことを吹き込まれているだけなんだ!」
「じゃあどうして初めての夜、僕を抱いたんですか。本当は初めから僕を父と重ねて見ていたからではないんですか」
「……っ……!」
「まだお互いのこと、何も知らないのに……」
「馨っ! 私の気持ちは分かっているはずだろう?」
「じゃあどうして昨日は何もしなかったんですか? ……避けるように突き放したんですか?」
「それはっ……」
「あなたの考えていることはいつも理解出来ない」

柳小路は言葉に詰まった。
顔を歪ませると、唇を噛み締める。
その言い合いを見ていた兄は失笑し、肩を叩いて立ち上がった。

「一度くらい親父の病院に顔を出せよ」
「……………」
「このまま大人しくしていれば、遺産は遺言書通りに分配してやる。ついでに馨に何をしたのかも不問にしてやる」
「見損ないましたよ、兄さん。あなたは一族の恥だ」

それぞれ軽蔑の眼差しを向けて出て行く。
当然、馨を連れて。
ひとりアパートに取り残されて、無情な風がドアの隙間から吹いた。
兄たちのと思われる車の音が聞こえ、すぐに遠くへ消えていく。
あとに残ったのは好物のドーナッツと買いすぎた卵くらいだった。
全て自分のせいである。
初めからちゃんと馨と向き合っていれば、こんなことに巻き込ませずに済んだ。
付けこむ隙を与えなければ、どんなことを吹き込まれても揺らがなかった。

「今度こそ……失望されたか……」

目蓋の奥に広がる暗闇は馨の眼の色だ。
(“あの子の瞳の色がアタシに似てたから、気になっていたの”)
彼もこんな絶望を抱えて生きているだろうか。
胸は張り裂けそうなくらい痛み、浅い呼吸の音だけが木霊した。

***

数日間、何もやる気が起きなくて、柳小路は一日中だし巻き卵を作っていた。
マスターの言ったとおり、レシピだけ完璧でも焼きが甘ければ美味しくない。
それでも作る手は止められなくて、皿にはいくつもの出来損ないが積み上げられた。
何も考えられなくて表情筋が動かないまま一日を終える。
目が覚めれば再びキッチンに向かった。
やる気が起きないのに何かしていないと気が狂ってしまいそうだった。
無意味だと分かっていてフライパンを振る手が止められない。
部屋には四六時中卵の良い香りがした。
何度も、何日も繰り返し焼いていれば、そのうちコツを掴み、うまく卵を巻けるようになる。
四角いフライパンに薄く卵を伸ばして、端に詰めて再び卵を流し込む。
無心になって作り続けると体が勝手に覚えだした。
初めは焼きすぎて黒こげになっていたり、ボロボロに崩れたり、生焼けで潰れていたのに、徐々にだし巻き卵だと分かるような形になる。
店で出される物に比べれば天と地の差だが、上達していくのが見えて不思議な気分になった。

「馨、味見を……」

最も上手く出来た時、ついいつもの癖で振り返ってしまった。
だがそこには誰もおらず、丸いテーブルが置かれてあるだけである。
(いないことは分かっていたのに)
習慣は恐い。
当たり前のように繰り返されていた日常が途切れても簡単に順応できない。
言葉に出すと余計に惨めで肩をすくめた。
馬鹿馬鹿しい独り言だと笑い飛ばすがうまくいかない。
渇いた笑い声は無音の中に溶けた。
孤愁に浸り目を閉じると、なかった振りをする。
そうして現実から逸らそうとするが、手元にはほどよく焼けただし巻き卵があった。
包丁で切り分けて皿に乗せる。
(食べて欲しかった。美味しいと言って欲しかった)
ふんわり柔らかく、程よい弾力のだし巻き卵は、まるで馨の頬のようだ。
初めて触れた時、あまりの温かさ、柔らかさに鳥肌がたった。
あの日の夜が嘘のように遠い。
触れたいのに許されず、抱き締めたいのに彼はいない。

「……何をやっているんだろう……」

現実から目を背けたところでなかったことには出来ないし、そんな振りさえしたくない。
だが絶望に振り回されて嘆き悲しむのも嫌だった。
紳士はいつも余裕があって従容としていなければならないし、どうしようもない時は受け入れ、不必要であれば忘れなくてはならない。
賢い取捨選択を出来るのが本当の大人だ。

「……っ……」

柳小路はエプロンを脱ぐと、適当にジャケットを羽織って出て行った。

着いたのは都内の大学病院だった。
夜遅く外来は静まり返っていて、患者も病室にこもっている。
一番豪華な部屋に父親はいた。
せっかく集中治療室を出たのに、機械に囲まれて息苦しそうだった。
心拍数だけが規則正しく刻まれている。

「母さん」
「あら……」

病室は広くて、応接用のテーブルにソファ、トイレ、洗面所、簡易ではあるがキッチンも付いていた。
これだけ広ければここに泊まれるだろう。
奥にある父親のベッドだけが異質に見えた。

「どうしたの、こんな遅くに」
「いや、兄さんから倒れたって聞かされたから……」
「そう」

ベッドに近付けば、父親は昼寝の最中みたいに穏やかな顔をしていた。
見慣れた眉間の皺もなく、安らかな顔に重かった胃が少し軽くなる。
物心ついたころから彼の顔は険しさに満ちていたのだ。

「馨君のことは訊きましたよ。あなたが養っていたそうね」
「はい」

母親は心労からか、以前より痩せていた。
あれだけ厳しい人の妻でありながら、彼女はいつも優しくて温かい。
表情を緩めると、コーヒーを淹れてくれた。
二人は父親を見ながら口をつける。

「あの人、私にも崇や馨君のことは教えてくれなかったのよ。無理にでも調べようとすれば火を噴きそうなほど怒鳴ったわ」
「そうでしたか」
「でもあなたが養っていたと聞いた時、驚きはしなかった。むしろやっぱりと思った」
「え……?」
「いつも崇のことを気にかけていたもの。だから崇もあなたには心を開いていた。仲が良かったものね」

母親の言葉に、柳小路は笑った。

 

次のページ