2

「あっちにふれあい広場があるみたいです。行きましょう」
「加持」

触れたところから伝わる温もりが優しくて、気遣われたことが嬉しくて住田は深く頷くと檻から去った。
ふれあい広場には二つの囲いがしてあり、ひとつがヤギたち、もうひとつがウサギとモルモットの檻になっていた。
中には小さな土管がいくつも無造作に置いてあり、中に隠れているウサギや腰掛けてモルモットを抱いている子供がいた。
加持も混ざってみるが動物たちは中々すばしっこくて掴まえられそうにない。

「なんだよ。逃げやがって」

彼は動物に慣れていないのか、かなり苦戦していた。
楽々ウサギを掴まえる子供を尻目ににじり寄るが、上手くいかず逃げられてしまう。
躍起になるせいかウサギたちもそれを察知してなおさら警戒した。
対するに住田は好かれやすいのか易々と掴まえる。

「もっと優しく大事に扱わなくちゃ」
「そんなこと言ったって」

頬を膨らませ無理だと首を振る。
住田は彼を土管に座らせると、掴まえていた白い子ウサギを膝の上に乗せた。

「大丈夫だからそっと触れてごらん」
「う、うん」

恐る恐る触れてみるとふわふわ柔らかい毛が波打って心地好い。
始めは怯え、体を強張らせていた子ウサギも、徐々に落ち着いたのか逃げる素振りもなくされるがままになっていた。
小さく温かな体はドクドクと人より数倍の速さで脈打ちながらうずくまっている。

「わぁ……」

住田は久しぶりに加持の年相応な無邪気さを見た気がした。
隣で頬を緩ませウサギの相手をしている彼に淫奔さは見当たらない。
それが嬉しくて住田はいつまでも見つめ続けた。

「あ、ふふ。先生、見て?」
「ん?」
「ウサギが先生のこと好きだって。動物には好かれやすいんですかね?」

足元を見ると二匹のウサギが擦り寄っていた。
抱き上げて膝の上に乗せ、撫でてやると、気持ち良さそうに目を閉じ、次第に眠り始める。
それは隣の柵にいたヤギたちも同じだった。
餌を買って中に入ったのだが、餌がなくなったあとも引っ付き追いかけてきた。

「もう何もないって」

他にも餌をあげている人たちはいるのに、しつこく付きまとわれて慌てる。
数十頭に囲まれ恐怖に慄いている姿を加持はケラケラ笑って見ていた。

「やっぱり動物に好かれやすいんじゃないんですか」
「そんな馬鹿な」
「それか同類と思われているとか」
「なおさら困る」

柵から出るのにさえ一苦労で、出てきたときには服同様よれよれになっていた。
よほど光景が面白かったのか加持は笑ってその話をする。
どうやら当分笑いのネタには困りそうにない。
すると空からパラパラと雨が降ってきた。
見上げれば厚く重い雲が地上へ押し流されるように覆い唸っている。
とりあえず屋根のある場所に避難しようと池の傍の東屋に入った。
同じように雨宿りをしている母子が不安げに空の様子を窺っている。
降り始めは弱かった雨が急激に強くなると、外は霞み賑やかだった園内は静かになった。
あれほどいた人たちもそれぞれ雨宿りしているのか、道に人気はなくなる。

「あーあ。やっぱ傘を持って来るべきだったか」

加持は予想外の激しさに項垂れて肩を落とした。
住田が鞄から折り畳み傘を二本取り出すと、打って変わって抱きついてくる。

「先生好き好き!」
「やめろって」

嫌がりながらも内心頼られた喜びに顔がにやける。
今まで散々情けない姿を晒してきたから少しは挽回できたと思ったのだ。
単純である。

「これからどこに行く?」
「んー、もうちょっと雨脚が弱まるまでここにいませんか?」

傘を渡すと加持は礼を言って再び雨に目をやった。
先ほどより暗さを増した空は、波のようにうねりながら漂渺と続いている。
池には数え切れない波紋が広がり、ひん粉と飛びはねた。
陽が遮られて気温の下がった東屋に、冷たい風が流れこむ。

「くしゅん」

その時くしゃみが聞こえた。
加持かと思えば首を振り、奥にいた母子を指す。
四・五歳の子を連れた母親がイスに腰掛け外を見ていた。
雨に打たれて寒いのか少年がくしゃみをしている。
唇は青く、早く暖かな場所に連れて行かないと風邪を引きそうだ。

「あの……」

考えるよりも先に動いた住田は、母親に声をかけると傘を差し出した。

「これ、良かったら使ってください」
「えっ……でも……」

いきなりのことに目を見開くと困惑している。
住田が女なら母親もすぐに気を許し言葉に甘えるだろうが、若い男ということもあり警戒した様子で受け取ろうとしなかった。

「こっちにもう一本ありますので、気兼ねなく使ってください」
「でも……」

大きなお世話かと思ったが少年の状態に放っておけず、警戒されていることを承知でなるべく声を和らげる。
加持がいるおかげで逃げられはしないが、いつまでも躊躇していた。
降りしきる雨が音を掻き消す中、不毛なやりとりが続く。
しばらくして、見かねた加持が間に入って来た。

「この人学校の先生ですから、そこいらの変な男ではないと思います。怪しむなら丹戸部中学に電話でもして確認して下さい」
「お、おいっ」
「それより早くレストランかどこかに行ったらどうですか?お子さん風邪引きますよ」

彼の言葉が鶴の一声となって彼女は傘を受け取ると早々に東屋を出て行った。
そうしている間に雨脚は弱まったのか空が僅かに明るさを取り戻している。

「おせっかい」
「悪かったな」

二人っきりになると呆れたようにため息を吐かれた。

「だからといって傘二本もあるのにあげないわけいかないだろ」
「っていうか元々あの女が悪いんじゃないんですか。子供連れているならもっと天気予報に注意するべきです」

なぜか加持は異様に不機嫌だった。
言葉の端々に棘があって嫌悪感丸出しである。
普段曠達としていて怒りを表すような生徒ではなかったから住田の方がたじろいだ。

「ま、まぁいいじゃないか。結果的には受け取ってもらえたし、あの子も今頃レストランで温かなスープでも飲んでいるさ」

今の世では男の善意を受け取ってもらえないことが多々ある。
迷子になったと泣きつかれただけで、誘拐だと親に訴えられたニュースも見た。
不審がられるような事件が頻発しているのだから仕方がないし、立場を弁えるべきで、しかし無視をするのも心苦しいからそのたびに頭と心が相克した。
親切とおせっかいは紙一重で、答えは受け取り手にしか分からない。
それでも住田には子供のころから見過ごせない生真面目さがあった、優しさがあった。
教師を志したのもそういった純粋さからきているのかもしれない。

「終わり良ければすべて良しってね」
「……ったく、先生は」

飄然な態度にこれ以上何を言っても無駄だと加持は眉間に皺を寄せこめかみを押さえた。
その様子に嫌われたとショックを受けるが、彼が肩に頭を寄せてくる。

「か、かっ……」
「どうして先生は動物に好かれるのか分かった気がします」
「は?」

意味が分からなくて加持を凝視すると吹き出して笑われた。
手を握られてぎこちなく寄り添う。
雨脚はずいぶん弱まったのに、東屋を出て行こうとはしなかった。
霞が池を揺曳して睡蓮の花共々ぼやけて見える。
考えたプランではこのあとの予定もぎっしり詰まっているが、加持の嫣然とした横顔にどうでも良くなって先を急ごうとはしなかった。
互いの息遣いを感じる距離で二人は外を眺める。
園内には色とりどりの傘が行きかい賑やかさを取り戻していた。
ここだけ時間がゆっくり流れているような穏やかさが支配している。
それはきっと加持が気を許してくれているからだ。
何がそうさせたのか定かではないが、傍にいることを望んでくれたら嬉しい。
預けてくれる体の重みは優しい気持ちにさせてくれた。
その顔はいつもよりずっと幼くて非力に見える。
自分が支えてあげなければ、すぐにでも壊れてしまいそうなほど弱々しく頼りなかった。
(今、何を考えている?)
会話は途切れたまま必要とされていなかった。
それでも情意は募るばかりで目を離せなくなる。
彼はひとりなのに印象はどんどん変わっていき引き込まれそうだ。
先に待つのは茫漠とした闇なのか、燦々とした光なのか、今の住田には分からなかった。

***

月曜日の昼休み、住田はぼんやり土曜のデートを思い出しながら、職員室のデスクで携帯のストラップを付けようとしていた。
加持に急かされてお揃いのウサギストラップを買ったのだが、付けるのは初めてで、中々細い穴にストラップが通らず悪戦苦闘していたのである。
しばらくしてようやく付け終えると飾りっ気ない携帯の変化をまじまじと見た。
揺れるウサギは好物のにんじんを抱え満足げに笑っている。

あの日、動物園でのんびりしたあと、ご飯を食べて帰ってきた。
家まで送った時「楽しかったです」と思いがけないことを言われて、年甲斐もなく浮かれてしまった。
当初やる気のなかった加持が微笑んでくれたのである。
大きな進歩だ。
それだけで苦労して練った計画も無駄ではなかったと疲れが吹き飛ぶ。
(はぁ。楽しかったな)
ウサギを見ながら知らず知らずニヤニヤしていると、急に背後に影が出来た。
振り返ろうとしたところでぐいっと肩を抱き寄せられる。

「なーに、にやけているんですか」
「穂高先生!」

そこにいたのは英語教師の穂高で、彼は住田の隣のデスクに座っていた。
年が近く、赴任当初から世話になっている人物で、馴れ馴れしくあるが良い先輩だった。

「土日はデートだったんですね」
「いっ」
「さっきからずっとストラップ見ていたでしょ。先週は付けていなかったですよね、それ」
「う、うぅ……」

分かりやすい態度で見ていたのかと反応に困り果て、反論も忘れてしまった。
さらに引き寄せられると、耳元で、
「誰?まさかうちの同僚?」
と、否定する前にしつこく訊き続け、周囲の女性を見定めるように視線を流す。
穂高は興味津々で「違う」と否定をしても食い下がってきた。
それどころか紹介しろだの、友達を連れてコンパしようだの言ってくる。

「で、デートじゃないです」
「隠さないでくださいよ。やましいことしているわけではないんだし」
「そうじゃなくてっ!」

相手は同校の生徒で、あまつさえ男なのだ。
さすがの住田も口に出せず頑なに拒否する。

「いいじゃないですか。教えてくださいよ」

後ろから腕を回され羽交い絞めにされそうになる。
いつものおふざけで、住田が助けを求めても他の教師は笑って済ますだけだった。
(ああ、どうすれば)
打開策はないかと模索するが、明確な案はなくて途方に暮れる。
そのうち耳に息を吹きかけられた。
住田がくすぐり含めてそういうのに弱いことを知ってのことだ。
だが、デートの秘密だけは死守せねばと固持し続ける。
するとゴホンゴホンとわざとらしい咳払いする声が訊こえた。
住田と穂高は揃って横を向くと、涼しい顔をした加持が立っている。

「先生、大変です。ちょっと来てください」

そういうと穂高の胸の中にいた住田を無理やり引き離し手を掴んだ。
呆気にとられる穂高を置いて廊下に出ると、有無を言わさず引っ張っていく。

「どうした?何かあったのか?」

滅多に職員室にやってこない加持が来たなら相応の理由があるわけで、教室で何かあったのかと不安になる。
だが教室には向かわず、人気の途絶えた体育館にやってきた。
校舎の喧騒を遠くに感じながら中に入ると、独特の床がキュキュッと音を立てる。
今日も天気は良くなく、校庭にもほとんど人が出ていなかった。
ようやく手を離した加持は睨むように住田を見て腕を組む。

「なんで怒っているんだ?」

朝会った時は特別変化はなかったのに、今は何も言わずとも機嫌が悪いことが窺える。
何かしたかと考えも検討つかなくて困惑した。
――と、加持のズボンからウサギのストラップがぶら下がっている。

「あ、加持も付けたのか」
「…………」
「俺も付けたんだ。初めてのことで中々取り付けるのに苦労したんだぞ。土曜は楽しかったな」

住田はポケットから携帯を取り出して同じストラップが付けられているのを見せた。
お揃いというのは照れくさいけど中々良いものである。
男同士友達でお揃いなんてしないから今まで経験がなかったが、こうしてみるとくすぐったくて例えようのない気持ちだ。
見るだけで楽しかった思い出が脳裏に蘇る。
道理で女たちは出かけ先でお揃いを買うのだろうと納得したくらいだ。

「っ……もう、先生は」
「なっなんだよ」

先ほどより表情は緩んだが、依然として頬を膨らませていた。

「隙だらけなんです」
「は?何が?」
「ふぅ……とにかく、他の人にベタベタ触らせないでください」
「あっ」

すると加持がとんっと住田の胸に飛び込んできた。
ドアを背にしていた彼は携帯を持ったまま受け止めると、ぎこちなく背中に手を回す。
(まさかヤキモチ?)
穂高とのやりとりに対して妬いたというのならば、信じられない変化だ。
しかし加持に限ってそんな感情を剥き出しにするはずない。
彼は恬淡とし、恋愛に対しても希薄な部分があるから付き合い始めた。
執着のなさは時として危険を伴い、必要な感情すら気付かないまま押し流してしまう。

「罰として今日の放課後、部活が終わったらここに来て下さい」
「体育館に?」
「そうです。先生にはきっちり教えなくちゃならないことがありますので」

見上げてへへっと笑った。
先ほどまで不機嫌だったのに、シャツを握り擦りついてくる。
もう機嫌は直ったみたいだ。

「お揃いですね」
「ああ」

取り出した携帯を重ねると、ふたつ並んだストラップは仲良さげに揺れていた。

「あーあ。今日は先生の授業ないからつまんない」
「次に会うのは掃除の時間だな」

予鈴の音と共に体を離すと互いに苦笑する。
加持は携帯をしまうとドアを開けた。

「授業中からかってやろうと思ったのに」

言葉とは裏腹に邪気のない顔は住田の胸の鼓動を速めさせる。
そうして加持は飄々と教室に戻っていった。
後ろ姿がいつもより生き生きして浮かれて見えるのは欲目なのだろうか。
(まったく。あいつは何を考えているんだか)
振り回されっぱなしなのに、憎めないからおかしな気分になる。
作られた恋人で他意はないのに、金・土曜より――もっともっと前よりずっと加持に近づけている気がした。
もっと知りたいと思う自分がいた。
(それは教師として?男として?)
自問するまでもない問いが頭を過ぎり首を振る。
加持を正すための手段だったのに、住田の方が引っ張られてしまいそうだ。
奔放さがもどかしくて、掴まえてしまいたくなるのは独占欲か保護欲なのか。
親しみを抱き、愛情を感じずつあるのは明らかだった。

「……先生」

すると校舎へと続く外廊下の茂みから学級委員の川澄が顔を出した。

「おわっ、川澄!なんでこんなところに。お前授業はどうしたっ」

いきなりのことにたまげて後ずさると、表情を変えないまま川澄が柵をのぼり中に入る。

「加持のことが気になったので」
「えっ、まさか」
「大丈夫です。今見たことは他言しません」

どうやら加持のあとをつけていたようで、彼はすべてを知っていた。
本来なら由々しき事態で、しかも川澄は加持の援交を密告した人物でもある。
教師人生および人としてすべて終わった――と、絶望にのた打ち回りたくなったが、反応は予想と違った。
彼は住田を責めるどころか安堵したようで、数日間男の影が見えないことを喜んでいた。
とはいえ付き合い始めてまだ一週間も経っていない。

「毎日のようにセックスをしていたやつです。数日といえども大きな進歩でしょう。僕はあれが不特定多数の男とセックスしていなければそれでいいんです」

今しがた担任と幼馴染が男同士でいちゃいちゃしている場面を見ていたというのに、あくまで淡々と眉ひとつ動かさない冷然とした態度は年相応に見えなかった。
加持といい川澄といい変に大人びた生徒を前にして項垂れる。
自分が彼らの年のころを思い出してみたが、卑猥なビデオを友達と隠れ見て騒いでいた記憶しかなかった。
比べてみると幼稚で純粋だったと思う。
常々「最近の子は~」という言葉を聞くが、本当に時代の進み具合を感じた。
――いや、加持たちが特殊なだけだと思いたい。

「川澄は加持の幼馴染で家も隣じゃないか。そんなに気に掛けるなら、なぜ自分から支えようとは思わないんだ?」

こうして影から見守るくらいなら彼を正しい方向へ導いてあげればいい。
担任に密告したり、あとをつけたりまどろっこしい真似はしなくて済むだろう。

「僕はあれを理解することは出来ても包み込むことは出来ません」
「え?」
「だから先生にお願いしたんです。あなたは要領は悪いけど真っ直ぐで人が良いってことは生徒として十分知っています。今の加持がこれ以上自分の体を痛めつける前に先生に助けて欲しかった」

とっくに予鈴が鳴り、授業が始まった校舎は静けさを取り戻していた。
幸い次の時間に授業は入っていなかったが川澄を教室に戻らせねばならない。
だが続きを訊きたくて動けなかった。
時折吹く風に髪を乱しながら向き合う。

「どうして加持はああなった?」
「明確な理由は彼にしか分かりません。でも変わったのは小学生の時に離婚して父親と生活をするようになってからです」
「…………」
「いえ、正確にはちょっと違いますね」

 

次のページ