6

その日は久しぶりの快晴で、見事な夕陽が二人の頭上に浮かんでいた。
顔を見合わせて互いに会釈すると別れる。
彼女の後ろ姿を見ながら無性に加持を抱き締めたくなって皮膚が疼いた。
(大切なこと、忘れちゃだめだよな)
あの時も、今も、加持によって救われている。
助けたいと思ったのは住田なのに、彼は加持によって楽しい毎日を送らせてもらっていた。
こうして満ち足りた日々を送っているのは、紛れもなく彼のおかげだった。

「…………先生」

すると後ろから声をかけられた。
噂をすればなんとやらで加持がいたのだ。

「おおっ、ちょうど良かった!今な――」

心配かけたことを思い出し、払拭させようとこの間の母親が来たことを話そうとする。
しかし言い途中で遮るようにしがみつかれた。
さすがに正門でくっつくのは危険で狼狽する。

「お願いします。僕と別れてください」

加持が口にしたのはとんでもない言葉だった。
いきなりのことに住田は理解できず、怪訝そうに見下ろす。

「は?何言って。大丈夫だぞ。今の呼び出しは――」
「知っています。心配であとをつけ、話は全部訊いていました」
「なら……」

体を離し肩を掴むと、加持はなぜか泣きそうな顔をしていた。
そんな辛そうな顔は初めて見たせいか声を失ってしまう。

「もう耐えられないんです。先生があまりに綺麗すぎて、眩しすぎて……」
「ど、どういうことだよ」
「先生は僕なんかと付き合ってはだめな人です。もっと素晴らしい人が似合っています」
「そんなことない!」

急に何を言い出すのかと思った。
自分が出来た人間ではないことは周知の事実だ。
なのに加持はいつも住田を眩しいという。
ワケが分からなかった。
そう問いただそうにもこの時の加持は決意し、揺るぎない瞳で見ている。
それが最善であると疑わずにいる。
だが易々と了承するわけにはいかなかった。
なんとかして話をしようするが、加持は頑なに拒否し、首を振る。
最後には力なく笑い、手を離した。

「元々お遊びの恋人ごっこだったんですから、ここら辺でいいじゃないですか。大丈夫です。別れたからといって、もう二度と男と関係は持ちません。お金ももらいません」
「か、加持っ!」
「さようなら、先生」
「……っ……」

彼は住田の反応を待たずに走り去った。
対して引き止められなかった。
お遊びの恋人ごっこという言葉が頭にこびりついていたからだ。
確かに始めはそうだったが、彼を知るに従い惹かれていき、本物の恋人のつもりだった。
だから今、この状況でお遊びなんて言われるとは思わなかった。
(加持はずっとそう思っていたのだろうか)
時折感じた不安の正体はこれだったのだろう。
じりじりと焼けるような夕陽の暑さが身を焦がす。
結局住田と加持の距離が埋まることはなかったのだ。

翌日、何度か加持と話し合おうと引き止めてみるが、応じることはなかった。
無視をされて冷たくあしらわれて、ようやく本当に必要ない存在だったのだと気付く。
おかげで一日中ひどく落ち込み抜け殻のようになっていた。

「住田先生!今日こそは飲みに付き合ってくださいね」

放課後、職員室に戻ってくると穂高が明るく迎えてくれた。
冷房が強くかかった部屋は、廊下の暑さと雲泥の差で、少し寒い。
持っていたハンカチで汗のあとを拭くと頷いた。

「いいですね。飲みに行きましょう」

何もかも酒を飲んで忘れてしまいたくて自暴自棄に答える。
こういう時大人は楽だ。
アルコールは気持ち良く酔わせてくれる。
学生時代、初めて女子に告白して「無理」と振られた時は、二リットルのコーラを買って飲みまくった。
だが苦味と喉の痛みだけが強く響いて、余計に辛くなった。
そのうち虚しくなって笑いが込み上げてくると、ひとしきり笑ってついでに泣いて、あとはふて寝をして忘れた。
青春の苦い思い出は涙と共に消え去り、以降一度も泣いてない。
振られることに慣れると、あらかじめ身構えることを覚え、だめでもすぐ次に移れた。
そのうち面倒くさくなって女子に近づくことはなくなり、苦手意識だけが残った。
おかげで花の大学生も地味なバイト生活で終わることになる。
社会人になって初恋の時のような――いや、それ以上の失恋を体験するとは思わなかった。

「はぁ……」

住田は深くため息を吐くと、さっさと仕事を終わらせて穂高と飲みに行くことする。
ガラガラ――。
しばらくして職員室のドアが開いた。
出入りの激しい扉は年中ガラガラうるさい。
放課後は教師や生徒がうろちょろするため、よりいっそううるさかった
いつものことで気にする素振りもなくパソコンを打ち続ける。

「はぁ…はぁ…先生……」

だが入ってきた誰かは住田に用があったみたいだ。
席の真後ろで呼ぶ声がする。

「川澄?」

振り返ると息を切らした川澄だった。
額に汗を浮かべ、荒い呼吸に肩が上下している。
取り乱す姿は初めてで何ごとかと手を止めた。

「加持がいないんです!」
「え?」
「今日部活がないから一緒に帰ろうと思ったんですけど、どこにもいないんです」
「なんだって」
「クラスのやつに訊いたら先輩と出て行ったっていうから、まずい事態になったかもしれません」
「――!!」

それを訊いていても経ってもいられなくなった。
深刻だったとはいえ、こんなに早く事態が動くとは思っていなかったのは失態である。
とはいえ、今は反省より行動あるのみで大慌てで立ち上がった。
男として振られたとしても関係ない。
加持を守るのが第一の使命なのだ。

「お願いします。先生、助けてください」
「当たり前だ!いますぐ探しに行くぞ」

ワイシャツの上から着ていたジャージのチャックを上げると、携帯を持って探す用意をする。
それを見ていた穂高が口を挟んだ。

「どうしたんですか?上級生と出て行ったからって心配するようなことがあるんですか」

慌てる二人に対して暢気な顔をしている。

「そうなんです。大変なんです」
「だから何が?」
「詳しく説明している暇はないんです。お願いします。穂高先生もうちの加持を探してください!」

状況を理解しないまま穂高は住田に連れられて探しにいくことになった。
体育館や部活棟など、人が来なさそうな場所を重点に探す。
荷物は置きっぱなしで、靴もまだある。
ならきっとどこかにいるはずなのだ。
広い敷地をくまなく探す。

「はぁっ、はぁっ…いました?…」
「いえ、いませんでした。…となると、あとは校舎ですね」
「校舎……まさか校内で……」

すると校内を探していた川澄が顔色を悪くして現れた。

「先生、図書室に鍵がかかっているんです。おかしくないですか」

その言葉に顔を見合わせると、職員室で図書室の鍵を取り、四階まで駆け上がる。
住田はとにかく加持の無事を祈った。
暑さと疲れで息を乱しながら階段をのぼる。
普段運動と無縁な生活を続けている体には酷な運動だ。
穂高も同様で、ヒーヒー言いながらついてくる。
とっくに誰もいなくなった校舎は静かすぎて不気味だ。
職員室のある一階以外は物音ひとつしない。
時折楽しそうな女子の声が響いて、どこかの教室で談笑しているのだと覚る。
そうこうしている間に図書室へとたどり着いた。
穂高はまだ下の階にいる。
待っている余裕はなく扉に手をかけたが、鍵がかかっているため動かなかった。
図書室は最後に教師が閉めるため、普段は開いているはずである。
ガチャガチャ――、ガチャッ!
気勢をあげて鍵を開けると乱暴に扉を引いた。
住田と川澄はなだれ込むように室内に入る。
窓は締め切られていて、嫌な湿気がまとわりつくような気がした。

「加持っ……加持!」

見渡しても誰もいない。
だからといって諦めず、真っ先に資料室へ向かうとドアを開ける。

「か、加持――!」

そこで住田は喫驚して息を呑んだ。

「ふぐ…っ、ふっ……」
「やべっ!住田っ、くそっ」

加持がいた。
縛られた彼は猿轡をかませて声が出ないようにされていた。
シャツやズボン、パンツが脱がされて、無残な姿態を晒している。
彼を取り巻くように三人の上級生が囲んでいた。
教師の登場で顔面蒼白になると、勢い良く住田を突き飛ばし、逃げて行く。
静かな図書室にドタドタと激しい足音が木霊した。
その音に川澄が気付いたが、取り押さえることは出来なかった。

「ひぃ……ひぃ……」

そこにようやくヘロヘロの穂高が到着する。
完全に息があがっていた。
上級生はまだ他に教師がいたのかと舌打ちするが、彼の状態に逃げる姿勢をやめない。

「穂高先生!そいつら捕まえてください!」
「はぁ、はぁ……えっ?」
「加持を襲って乱暴しようとしていたんです!」
「はぁ…っ、な、なんだって!」

脇をすり抜けていく生徒たちに目を見開いた。
ぐったりする体をもてあましながら、そのあとを追う。
川澄も上級生たちを追いに走り去っていった。
住田も追おうと思ったが、この状態の加持を放っておくことは出来ず、資料室のドアを閉めると歩み寄る。

「大丈夫か?」

猿轡を外してやると、着ていたジャージをかけてやる。
状況を見るに着衣の乱れだけで、体液だとか皮膚が傷つけられた様子はなく、強姦・暴行寸前だったことが窺える。
だが当人にしてみれば恐怖は同じで、こんな狭い部屋で体を縛られてどれだけ辛かったか。
彼の体は小刻みに震えていて、住田の問いにも答えられないようだった。
その姿に胸をえぐられたような痛みを覚えた。

「……ごめん」

着せてやったジャージを掴み呟いた言葉が震える。
加持は目だけ住田の方に向けると、僅かに揺れた。

「結局加持のこと助けてやれなかった。守ってあげられなかった」

住田は顎を震わせて涙を零していた。
必死に泣くのを我慢していたのか酷く顔が歪み、苦悩に満ちている。
大の男が涙を流す姿なんて初めて見たのか衝撃だった。
なにより彼は自分のために泣いている。
自分を思って泣いてくれている。

「ごめん。ごめんな……」

体からは汗の匂いがした。
この暑さの中、一生懸命探し回った証が体に刻まれている。

「せんせ……、男が簡単に泣かないの」

加持はようやく表情を緩ませると住田の背中に手を回した。
涙で濡れた目元に優しくキスをする。

「そんなこと、ないですよ。先生は教師としても、人間としても素晴らしい人です」
「そんなっ……おれっ……」
「僕は先生によって救われました」
「……っ……」
「ありがとうございます」

吐息が触れた。
目元から唇を離した彼は、穏やかな顔で住田を見る。
どうしてそんな満ち足りた顔で微笑んでくれるのか不思議だ。
(俺は何も出来なかったのに)
戸惑う住田に「へへ」と笑った彼は、汗くさい胸元に擦り寄るのだった。

襲った上級生たちは穂高と川澄の執念により捕まえられた。
住田は加持を連れて先に帰ると、家に寄って行った。
ベッドへ寝かせて、ようやく安堵する。
何度か保護者に知らせることを勧めたが、加持は頑なに嫌がって訊かなかった。

「今日は安静にしてゆっくり休みなさい」
「はい」
「明日もし辛いんだったら電話くれな。電話が嫌だったら俺の携帯にメールしてもいいから」
「はい、分かりました」

風呂に入ってパジャマを着た彼は大人しく頷く。
ふかふかなベッドはひとりで寝るには広すぎる大きさで、住田も何度か一緒にここで眠ったことがあった。

「鍵は閉めたら郵便受けに入れとくから、明日忘れないように」
「はい」

いつもより静かな加持を気遣い、住田はそのまま出て行こうとした。
本当は離れがたくて、せめて今夜一晩は見守っていたい。
でもまたあの辛そうな顔をさせたくはなかった。
自分の何が綺麗で、何が眩しいのか分からないが、あの顔は悲しい。
だが意志とは関係なしに足が止まって下を向く。

「先生?」

その様子に加持は首を傾げた。

「最後に言わせてもらってもいいか?」

住田は顔をあげる。
振り返り見つめ合うと意を決して自らの想いを告げることにした。
このまま終わりたくないと思ったからだ。
今、ここで出て行ったら、明日はまた無視されてしまうかもしれない。

「俺は加持が言うような素晴らしい人なんかじゃない」
「…………」
「ましてや綺麗でも眩しいわけでもない。気がついたらいつも加持のことばっかり考えている最低の教師だ」

公私混同しっぱなしのどうしようもない大人なのは、十分知っている。

「お前の抱えているものは俺じゃ受け止めきれないかもしれない。頼りないし、男のくせに泣くし、いいところがないのは分かってる。でも俺は加持の傍にいたい」
「せんっ……」
「だって好きだから」
「……っ……」
「加持が好きで……好きで、どうしようもなく惹かれているんだ」

とうとう言ってしまった。
別れた翌日に告白する住田のチャレンジ精神は見事だが無謀ともいえよう。
鞄を持っている手が力みすぎて震えた。
平静を装っているが内心胃がキリキリ痛むし、心臓は破裂しそうである。

「加持が好きだ。大好きだっ。恋人ごっこじゃなくて本当の恋人になりたいんだ!」

彼が持っているのは熱意のみで、それで押し切ろうとする。
伝わってるか不安だったが、この際何も考えず当たって砕けろの精神を貫いた。
そんな実直さに呆気にとられていた加持が吹き出す。

「ぷっ、ははははっ――!」

真面目な告白だったのに腹を抱えて笑われた。
さすがの住田もショックで肩を落とすと、やっぱり出直そうかと思案する。

「やだな、もう。ははっ」

だけど楽しそうに笑う顔を見て、凄く嬉しいと思う住田は単純かつ青いのかもしれない。
その顔に張り詰めていた心のもやもやが解けて楽になった気がした。

「先生ってすごい」
「なにがだよ」
「だって僕が越えられなかった壁を、いとも簡単に乗り越えてしまうんですもん」

まだ笑い足りないのか、目尻に涙を浮かべて笑っていた。
彼は起き上がると手招きする。
誘われるがまま近付くと、ぐいっと引き寄せられてベッドに乗りあがった。

「本当に僕でいいんですか」
「いいに決まってる」
「僕……こうみえてヤキモチ妬きの独占欲が強い、扱いにくい人間なんです。川澄なんか、しょっちゅう僕のことっ――」

住田は言い途中の加持をベッドに押し倒した。
加持は驚いて口を噤むと、黙って見上げる。

「他の男の話は禁止」
「あっ」
「――なんて、俺だってヤキモチ妬きの独占欲が強いんだ。あげく童貞を卒業したばかりで大人の余裕もなし」
「せ、せんせ…っ…」
「でも加持がいいんだ。誰でもない加持じゃなきゃ嫌なんだ。俺が傍にいて欲しいと思ってる」

一瞬加持の目が潤んだ。
唇が震えて噛み締めたように見えた。
それを必死に押さえ、強がる健気さにこっちが参ってしまう。

「加持が好きだよ」

先ほどのお返しに、今度は加持の目元にキスをした。
僅かに濡れた感触がして微笑む。

「泣かせようったって無駄ですからね」
「分かってるよ」
「も、ほんと。あー、やだっ。ばかみたい」

顔を背けると手で隠してしまった。
その仕草すら愛しくてじっと見つめる。

「好きな人に必要とされることがこんなに嬉しいなんて知りませんでした」
「うん」
「今日だって、今までなら全然平気だったんです。何人だろうとどんとこいだったんです」
「うん」
「でもあの時は嫌悪感しかなかった。好きでもない人に勝手に触られて、何が気持ちいいのかも分からなくて怖かったんです。お金をもらっても、もうあんなことしたくないっ」

当初金に執着し、体を売って稼ぐことに躊躇いすらなかった彼が吐き捨てるように言った。
その顔を見たくて手をどけると困惑した表情が見えた。
サラサラとした髪に触れ、キスをすると眉がピクンと動く。

「罰だと思いました。今までそうして生きてきた付けが回ってきたのだと」
「そんなことないよ」

住田は否定したが、彼は首を振った。

「そうじゃないんです」
「え?」
「僕自身に対する付けなんて、どうでもいいんです。……本当に辛かったのは、先生は助けに来ないって現実でした」
「加持……」
「一方的に別れて、翌日も無視して……。きっともう愛想を尽かされたと思いました。だから助けには来ない。僕は報いをうけて再び男たちとセックスする。先生との約束さえ守れずに、また体を汚す」
「…………」
「そしたらもう二度と顔向けできません。僕は今度こそあなたに愛してもらう資格がなくなる。それに気付いた時、今までの自分の行いに後悔したんです」

加持は「ごめんなさい」と、呟いた。
そうして住田の様子を窺い、引かれてないか確かめる。
一方の住田は表情を崩さずに訊いていた。
見上げる瞳と目が合うと、柔らかく微笑んだ。

 

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