ホラー作家の恋愛小説

血に餓えた獣、怨恨に沈む亡霊、鋼鉄の殺人鬼。
魅力的な怪物をこの手で生み出すのは夢だったし、それで飯が食えるのなら最高の生活だ。
だが、山岡にはもうひとつ大きな夢があった。
それは怪奇現象が起こる屋敷で幽霊と共に暮らすことである。
ホラー作家の割に霊感がない・もしくは霊を信じていない人は多い。
山岡は前者の人間で、座敷わらしが出ると評判の旅館や心霊スポット、事故物件にも多く住んできたが、霊の存在を感じたことはなかった。
一緒にいる友人は見た聞いた感じたとわめく割に本人は一切ない。
不服だった。
姿を見せろと待ち構えているのに、自分だけ無視されている。
それでも夢を持ち続けて十数年過ぎた。
ホラー界では結構な知名度を誇るようになったが、依然として希望は叶わない。
そんな時知人を通して紹介されたのがある屋敷だった。
建てられたのは大正の末期で、当時にしては珍しく洋風の佇まいである。
地元の名士の屋敷だったそうで、空襲もない田舎は焼けることなくそのまま残っていた。
所以はこうである。
戦争で跡取り息子を亡くし、没落の一途を辿っていた一家の前に、ある日謎の青年が現れる。
息子を亡くしていた主人は青年を可愛がり養子にすることを決めた。
素性も不明な青年を――である。
当然周囲は猛反対し、諍いが起きたが主人は断固として揺るがなかった。
事件は季節はずれの嵐の夜に起こる。
その日たまたま注文を預かっていた酒屋の息子が届けにあがろうと屋敷を訪れた時のことだ。
何度も戸を叩くが返事はない。
没落といえども使用人を雇っている家に人気がないのはおかしな話だった。
窓からはうっすら明かりが漏れている。
カーテン越しに人影が映っていたが、呼びかけても気付く気配はなかった。
雨風が酷くて聞こえないのか――?
男は品物を抱えて扉を開けた。
見れば玄関にはたくさんの靴が並んでいる。
恐る恐る上がりこんだ男は、居間で惨劇の現場に遭遇した。
使用人たちが見るも無残な姿で息絶えているのである。
飛び上がった彼は大慌てで明かりの灯った二階へと走った。
主人の名を呼び部屋へと駆け込む。
しかしそこにいたのは“生きた”主人ではなかった。
窓際の机に持たれる彼は白目を向いたまま死んでいる。
他の部屋では娘が惨殺されて横たわっていた。
奥方は裏庭で腹に包丁が刺さったまま死んでいた。
唯一発見できなかったのは、謎の青年だけである。
地元の警察は検挙に乗り上げたが、素性も分からぬ青年を見つけることは適わなかった。
奇妙なのは亡くなった主人の部屋の前に青年の物と思われるスリッパが置いてあったことだ。
まるで今まさに部屋をノックし、主人を殺しに来たような格好である。
青年はどこに消えたというのか。
結局戦後の混乱も相俟って、犯人は見つからないまま捜査は頓挫した。
その後多くの人手に渡ったが、恐ろしい怪奇現象が起こりすぐ空き家になった。
地元民は祟りを恐れて取り壊しも出来ず、文化遺産にでもなりそうな屋敷はそのまま守られてきた。
季節はずれの嵐の夜になると聞こえてくるという。
屋敷内にいる人間を皆殺しにすべく歩き回る足音が――。
青年は何者だったのか。
鬼か悪魔か、それとも気の触れたサイコキラーだったのか。
今はもう知る術はない。

「……なんて、本当に小説にありがちな話だな」

引越し当日、まじまじと屋敷を見上げて興奮に胸躍った。
上記の話だけで即決した山岡は初めて現物を見ると目を輝かせた。
本来ならもう人に貸すことはなかったはずが、知人の伝手で特別に住まわせてもらえることになった。
それは彼が著名な作家という付加価値のおかげでもある。

「いやぁ、お恥ずかしい限りです。一応山岡さんがいらっしゃる前に一通り掃除は済んでいますが……」
「とんでもないですよ。こんな素晴らしい屋敷に住めるなんて感激です。本当にありがとうございます」

引越しの手伝いに来てくれたのは、管理人の犬養さんである。
地元の役所に勤めている彼は、愛想がよくて初対面から好印象だった。
始めは「こんないわく付きの家に住むなんて」と不審がられたが、夢を話すと快く承諾してくれた。
「きっと夢が叶いますよ」と、苦笑いを浮かべる。
内装や家具はほとんど当時のままらしく、アンティーク好きには堪らないだろう。
これでも建てられた時は最先端だったに違いない。
急な引越しだったが、都心までは二時間かからなかった。
近くに山や川があり、広がる田畑は都会に疲れきっていた山岡の心を優しく包み込んでくれた。
田舎といえども人は温かく迎えてくれたし、あの屋敷に住むことを告げると困惑した顔で見合った。
(よほどの屋敷ってことか)
反応を見るのが楽しくてわくわくした。
出来れば恨みつらみの妖艶な女幽霊が良かったが、この際出てくれるなら誰でも良い。
山岡は新生活に胸を膨らませた。

その後近所の人にも手伝ってもらい、引越し作業はすぐに終わった。
元々パソコンさえあれば構わない性質である。
荷物も少なかったため、夜にはゆっくりと執筆に向かうことが出来た。
二階建ての屋敷は、玄関入って右手にキッチンと居間がある。
廊下を奥へと行けば、元は使用人の部屋だろう和室が二部屋あった。
その横には風呂と洗面所、トイレがついている。
どれも犬養さんがリフォームしてくれたらしく比較的新しい仕様だった。
階段をあがれば洋室和室共に二部屋ずつある。
さらに元主人の書斎・寝室があった。
ひとりで住むには広いくらいで、みんなが帰ったあと探検気分で見回ったくらいだ。
聞いていた昔話を思い出しながら、ここで誰が死んだと考えては身震いする。
当然恐怖以外に期待感もある。
だが残念なことに引越し当日は霊とご対面することはなかった。
一通り探し終えたところで諦めると、締切が近い原稿に取り掛かることにした。
そうして今に至る。

「はぁ……ま、初日からってわけにもいかないか」

望みはまだある。
例えば寝ている時に金縛りにあうとか、暗くしたベッドの横に白い影が走るとか。
(……こうして仕事をしている時に足音が聞こえてくるとか)

……ひたひた、ひたひた。

その時だ。
耳の奥に僅かな足音が聞こえた気がした。
無音の室内は音をよく通し、微かな気配を感じ取ることが出来る。
(ま、まさかな)
引越し作業で疲れているのだろう。
山岡はもう若くない。
肉体労働なんて久しくしていない身で引越しは体に堪えた。
普段は日中ずっと机に向かっているのだから衰えは早いだろう。
一度パソコンから顔をあげると、引き出しにしまっていた目薬を取り出した。
目に点して爽快感を得る。

ひた、ひたひたひた――。

「……っ……!」

すると再び足音が聞こえた。
絨毯の上を擦るような不可思議な音。
それは先ほどよりずっと大きく聞こえた。
階段を上がってきたのかもしれない。
まるで二階を彷徨うように近付いては遠のく。
(主人を殺した青年の足音……)
脳裏に映るのは血まみれの包丁を持ち、次の獲物を探している鋭い眼差しである。
本来ならば被害者である一家の霊が現象を起こすはずだ。
なのに実情は青年のものと思われるのも多い。
(…………なぜだろう)
ホラー作家ならじっくり考えてみたい話である。
しかし今はそれどころではなかった。
ようやく不可思議な現象に遭遇したのだ。
楽しまなくては引っ越した意味がない。

ひたひた、ひたひた……。

そうこうしている間に、足音はこちらに向かってきた。
山岡は息を呑むと、カメラを片手に音をたてないように立ち上がり、扉の前までやってくる。
同時に足音も部屋の前で止まった。
興奮と恐怖に汗が流れる。
一瞬の静寂が永遠のように感じると、意を決してドアノブに手をかけた。
(よし)
己を奮い立たせると、勢いに任せて扉を押す。

「ふはははははっ!ようやく現れたな、亡霊め!」
「うわあああああ!」

目をギラつかせて鼻息荒く声を張り上げると、途端に叫び声が聞こえた。
ゴン――!と、鈍い音をさせると、現れた少年は尻餅をつく。

「いたた……」
「な、な、なんだっ。お前!」

そこにいたのはどこにでもいる平凡な子供だった。
いきなり扉を開けられて額をぶつけたのか頭を押さえている。
山岡は想定外のことに飛びのくと、怪訝しく少年を睨んだ。

「い、犬養です。管理人の犬養の息子です!」
「はぁ?」
「勝手に上がって申し訳ないと思ったんですけど、玄関は開いていたし、呼び鈴鳴らしても返答がなかったので気になって来たんです」
「なな、何を勝手に」
「昔祖父が家を貸した時、返答がなくて慌てて上がったら、人が倒れていたと聞いていたので、心配だったんです」

犬養の息子・学(まなぶ)は必死に弁解しようとしていた。
どうやら母親から夕食のおそそわけを持たされたらしい。
ぶつかった拍子にから揚げや散らし寿司が零れてしまった。
廊下に散乱して酷い有様である。
(なんだ。幽霊ではなかったのか)
期待が外れて肩を落とすも、興奮して恥ずかしい姿を見せてしまったことに気付く。
年甲斐もなく騒いでしまい、慌ててカメラを隠した。
気を取り直して、食べ物を拾う。

「それはすまないことをした。てっきり幽霊とばかり思って驚かせたばかりか、折角の好意を無駄にしてしまった」
「い、いえ。僕ももう少し考えれば良かったんです。早とちりしてごめんなさい」

学は恥ずかしそうに笑った。
ドアに当たった部分が赤く腫れてたんこぶになっている。
さすがにそのまま返すのは申し訳なくて、手当てをすることにした。
彼を部屋に入れると途端に目を輝かせる。

「うわ……これ、もしかして書き途中の原稿ですか」
「あ、ああ。そうだが」
「ちょっと見ていいですか?」

パソコンにかじりついて見ている。
その姿に苦笑しながらダンボールを漁った。
絆創膏を探すためである。

「なに?君は小説とか読むの?」

見つけ出して学に歩み寄ると声をかけた。
彼は振り返ると深く頷く。

「大大大好きなんです。祖父の影響で読み始めたんですけど、山岡先生の本は全部持っています!何度も読み返しているんです!」
「え、あ。私?」
「そうです!」

まさか自分の読者だと思わず素直に驚いた。
彼の年齢で読むには過激すぎる。

「だから今日楽しみにしていたんです。まさかあの山岡先生がうちの近くに引っ越してくるなんて夢みたいで。本当は引越しの手伝いもしたかったんですけど、生憎今日は学校で伺えなかったんです」
「そうだったのか。だが先生なんて言われるとむず痒いな」

作家といえども先生扱いされることはない。
しかもこんな若い子に「先生」と呼ばれたら照れくさいだろう。

「何を言っているんですか。僕から見れば憧れの大先生ですよ!もっと胸を張ってください」
「は、はぁ」
「生原稿が見られるなんて感激です。今日は眠れないかもしれない!」

怪我の痛みも忘れて恍惚としている。
よほど山岡を憧れていたのだろう。
純粋な好意は嬉しい。
態度が素直で嫌味がない分こちらも受け取りやすかった。
ホラージャンルは元々一般受けしないし、出不精の山岡にサイン会の企画もないから読者の声を生で聞く機会は少なかった。
あまりに喜ぶ姿に良い気分で提案する。

「良かったらまた遊びにおいで」
「本当ですか!やったあっ」

学はガッツポーズすると手当てを受けて意気揚々と帰っていった。
翌日犬養さんが果物を持って「うちの息子がすみません」と謝りにきたが、山岡は否定する。
むしろなぜこの屋敷に住むことが出来たのか分かった。
学がファンだから特別に貸して頂くことが出来たのだ。
(うむ。私もまだまだいけるな)
期待の霊は現れなかったが、新しい刺激に感化されて、意欲的に仕事に取り組むことが出来た。
聞けば先月出した新刊の売れ行きも好調で、長編の打診もいくつかきている。
そうして数週間経った。
相変わらずのどかで優しい日々が続いている。
田んぼは実りを迎え、金色に光り輝いていた。
ベランダからは南の棚田がよく見え、陽が沈む時は朱色に染まる。
だいぶ涼しさを増した風に吹かれながら一息吐くのは、なによりも贅沢な休憩だった。

ひたひた、ひたひた。
ぼんやり外の景色を眺めていると、廊下から足音が聞こえてくる。
幽霊ではなく学だ。
引越ししてからだいぶ経ったが、未だに怪奇現象とは遭遇していない。
学はあの日から毎日のように山岡のもとへやってきた。
差し入れを持って訪ねてくる。
彼が来ると良い休息になった。
今まで都会のコンクリートジャングルに囲われ、誰とも接することなく机に向かい続けていた。
時折編集部から連絡ある以外、話す相手はいない。
酷い時には陽が昇り沈むまでの間に一言も発さないことがあった。
さすがに寂しくて、テレビに向かって話してみたが、余計に辛くてすぐやめた。
今は違う。
聞いていた幽霊は出ないが、あの時の暮らしよりはいい。
山岡は屋敷に馴染み始めていた。
すると足音が止まりノックの音が聞こえた。
「どうぞ」と声をかければ、扉から学が現れる。

「あ、先生!こんにちは。休憩中でしたか」

風呂敷を抱えて中に入って来た。
開ければ美味しそうな大福がたくさん入っている。

「ああ。そろそろ来る頃だと思ってな」
「さすが先生です!」
「何がだ」

学は上機嫌で奥のソファに座った。
現在も屋敷に鍵をかけていない。
つまり勝手に入って来いということである。
屋敷にインターホンはなく、チャイムを押されたらわざわざ玄関まで行かなくてはならないのだ。
二階の一番奥の書斎からだと億劫である。
特に原稿が調子良く進んでいる時に邪魔が入ると気が散るのだ。
せっかくの集中力が途切れて苛々する。
だから自由に行き来するように伝えた。
学は幼くも状況を理解し、原稿をしている時は大人しく本を読んで待っている。
そういう子だからこそ、山岡は邪険にすることなく受け入れたのかもしれない。

「やっぱりこちらにベッドを持ってきたんですね」
「ああ。ちょうど君のお父さんが手伝ってくれると言うのでな。それに書斎といえども広いからベッドを置いても窮屈にはならない」
「あーあ。僕も手伝いたかったな」
「日中は学校だろう」
「そうですけど……」

学は悔しそうに頬を膨らませる。
どうやら引越しを手伝えなかったことを未だに残念に思っているらしい。

「学生の本分は勉強だ。ちゃんと宿題やっているのか?」
「う。……ま、まだですけど」
「ならこんなところで油を売っていてはだめだろう。ご両親が怒ってここへの立ち入りを禁止したらどうするんだ」
「そ、それは嫌です!」

そう言うと慌てたように立ち上がった。
山岡に大福を渡すと、泣きそうになりながら帰ろうとする。

「僕勉強頑張ります!」
「よろしい」

元から素直な性分で、聞きわけがいい。
特に山岡の言葉は絶大で、何でも大人しく聞いてくれた。
その姿が微笑ましくて思わず笑ってしまう。

「よし。じゃあ次のテストで満点取ったらどこかに連れて行ってあげよう」
「ほ、本当ですか!」

途端に目が輝きだした。
「学君の好きなところに連れて行ってあげる」と付け加えれば、なお輝く。
彼は大喜びで帰っていった。
その後姿をベランダから眺めつつ、大福を頬張る。
(……美味い)
学のための約束だったが、山岡自身も楽しみにしていることに今は気付かなかった。

翌週、学は満点の答案を持って現れた。
聞けば行きたい場所があるという。
その週の休み、二人は揃って出かけることになった。
学の両親も大喜びで送り出してくれた。
そろそろ収穫も始まるだろう田畑を横目に歩き続ける。
てっきり都会に行きたいと言われると思っていたが、どうやら違うようだ。
その素朴さも学らしくて、後姿を見ながらクスリと笑う。

「なんですか?」
「いや、なんでもない。それよりどこに行こうというのか?」
「へへ。秘密です」

秋の山は見事に紅葉していて美しい。
過ごしやすい季節になり、風は冷たいが日差しは温かかった。
行楽日和で多くの登山客とすれ違う。
だが学は山に登ろうというわけではなかった。
途中でハイキングコースから抜けると獣道を行く。
山岡は軽装だったため、少し戸惑った。
道があるとはいえ、整備されておらず葉も生い茂っている。
学は迷うことなく葉を掻き分けて進んだ。
時折振り返るのはちゃんと着いて来ているか心配だったのだろう。
それからしばらくして坂を下っていることに気付いた。
始めは山頂に向かい登っていたはずだがなぜか。
山の途中で反対方向へと歩き出し、隣の山との境に向かっている。
(まさか迷いはしないだろうな)
都会生まれの都会育ちは自然に慣れていない。
僅かな不安が胸を過ぎると、学に問いかけようとした。
だがその瞬間急に止まると、後ろにいた山岡は背中にぶつかる。

「到着です」
「え、あ……」

山間に突然開けた場所に出た。
山の麓にいるはずが、そこだけ穴が開いたみたいに広がっている。
中心には池があった。
透明度の高い水が湧き出て涼しげな音を奏でている。
振り返れば向こうの山の稜線が波を描いていた。
追い風に髪が乱れ、手で掻き分ける。

「こ、ここは……」

山岡は疲れも忘れて足を踏み入れた。
場所を囲うように大木がならんでいる。
池の傍まで行くと腰を下ろした。
深くはないだろう池の底まではっきり見える。
手で掬えば冷たさに目を細めた。
清々しい空気に深呼吸して辺りを見回す。
山岡のように鈍感な人間でも違いを見出すことが出来た。
つまりそれほどの場所ということか。

 

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