「ここは遙か昔、周辺を取り締まる神官が神事をした場所です」
「え……」
「近くの史料館で読んだ限りですと、何百年も前の話らしいんですが……」
隣に腰掛けた学は難しい顔をして山岡を見る。
「当時はもっと寂れた集落だったようで、特産物もなかったと聞いています。何年かに一度、季節はずれの大きな嵐がやってくるようで、祈祷のために池を使ったといわれています」
「へぇ」
「さらにですね……」
彼はニヤッと笑った。
周囲を気にするように見回したあと、山岡の耳に近付く。
「日照りや洪水もあるほど天候は不安定だったらしく、この池を水の神様に見立てて贄を捧げたようです」
「え……あ、なるほど」
日照りの原因は雨が降らないこと、洪水は降りすぎて川が決壊してしまうこと。
どちらも雨――すなわち水が関係しているのだ。
「つまりこの辺一体は独自の宗教文化があったということだね。水の神か。元は蛇か?それとも……」
「さぁ、詳しくは分からないんですけど、とにかくここは供物を捧げていた場所ということで色々ないわくがついているんです」
「ああそうか。贄は人。つまり生贄をこの池に捧げることで水の神の怒りを鎮めていたということなんだね」
「そうです!さすが先生」
「いや、昔から世界中でそういった神事は数多く行われてきたんだ。特に農耕民族に所縁は深いんだよ。さらに水に関係していえば、日本には人柱といって洪水を繰り返す川や、新しく橋をかける際に人を埋めて災いから守るようにしたという言い伝えが残っているんだ。まさに人の柱。人柱ってわけ。農耕でいえばアステカやマヤ文明が有名で――」
その後、延々と山岡の薀蓄は続いた。
作品は民俗学に関係した話が多く、並みの学者より精通している。
他の仲間でこういった話になると、周囲は退屈そうにそっぽを向くが、学は真剣に山岡を見つめて頷いた。
たまに出てくる相槌が心地好くて、話はヒートアップする。
それこそ最初の生贄の話がどこかへいってしまうほどに。
「……というわけなんだよ」
「おおお」
好き勝手に話し終えて満足げに息をついた。
そんな山岡を尊敬の眼差しで見つめている。
「しかし君も本当に物好きだね。私の小説だけでなく、こういったいわく付きの場所まで興味あるなんて」
「い、いえ。先生の話はとても面白いですから」
「でも屋敷にも平気でやってくるし怖くないの?」
見た目強そうには見えない。
仲良くなった地元民にお茶の誘いをしたことがあるが、屋敷に入るのを躊躇っていた。
地元ゆえ今までの歴史を見てきたというのも相俟っているのだろう。
怪奇現象なんか起こりませんよ――と言えど、気持ち悪いものは気持ち悪い。
学の父親ですら恐る恐るなのに、彼はまったく気にした素振りもなく毎日やってきた。
神経が図太いとしか言いようがない。
「いや、あはは……」
学は困ったように笑うと濁した。
それ以上触れられたくないみたいだ。
敏感に感じとると山岡も聞くのをやめる。
「あ、それから別にもうひとつこの場所にはいわれがあるんです」
話題を変えるように学は手を叩いた。
「ここが見つかったのは、実は結構最近で、三十年ほど前らしいんです」
「へぇ」
「文献に神事は残っているのに場所だけは知られていなくて」
「まぁこんなところじゃ中々見つけようがないな」
「ですよね。で、偶然地元の人が見つけたんですけど、その時池にあるものがあったんですよ」
「あるもの?」
なんだろうと前屈みになる。
山岡が興味を示したのが嬉しいのか、学は意気揚々話した。
「人の骨ですよ」
「ほ、骨だって!」
「そうです。池の中に骨があったそうです。ただ水の中でしょう?しかも外だということで損傷も酷くて、殆ど残ってなかったらしいですけど。ま、あったとしても今ほど鑑識技術も高くなかったみたいですし、調べるのは難しかったでしょうね」
「…………」
「さすがに神事で使われた生贄ではないでしょうが、今も気味悪がられて近寄る者はいないみたいです」
(そうか。だから学君はここに私を連れてきたのか)
その好意が嬉しかった。
学のためを思っての外出だったのに、山岡のことを考えていてくれた。
思うより彼は大人なのかもしれない。
山岡は嬉しくなって、靴と靴下を脱ぐとズボンを捲る。
「最高の場所ではないか。さあて。人の血を吸った池はどんな味なのかな」
「え、あっ……せ、先生!まさかっ」
そのまさかで山岡は躊躇いなく池へと入っていった。
とはいえ、浅く浸かっても膝上くらいまでしかない。
「君の話だと、ここは心霊スポットになっているんじゃないのか?だから気味悪がって誰も近寄らない」
「そっそうですけど……。止めて下さい!もし本当に何かあったら」
「池や川・海で多いのは、やはり足を引っ張られるというヤツだな。もはや王道といってもいいだろう」
「じょ、冗談を!」
「あの場合不思議なことにどんな浅瀬でも溺れてしまうんだよ。まるで――そう。水底から手で引っ張られて飲み込まれるように……」
「先生っ、分かりましたから……もう止めて……!」
その時だった。
急に山岡の顔色が変わった。
「……っ……」
「せ、先生……?」
さっと血の気が引く。
その違いは学にもすぐ伝わった。
するといきなり山岡の体が池に沈む。
「うわあああああああ、なんだっ……わっ、学く……!」
水面は激しく揺れた。
弾けた水しぶきが荒々しく山岡の体を濡らす。
「ちょっ……ま、待ってくれっ!わああ、ああっ、ああああっ!」
「先生っ!やだ、嘘っ……どうしたんですか、先生!」
顔は恐怖に歪んでいた。
見えない足先で何が起こっているのか定かではない。
尋常じゃない様子に学は彼の手を引っ張った。
しかし強い力が加わって振り解かれる。
そうしている間に腰まで水に浸かってしまった。
助けを乞う表情が学を捉える。
「助け…ったすけて…くれえええ、あああああ…っ!」
「せんせ…っ!先生っ!」
不意に日差しが翳った。
途端に辺りは暗さを増して、冷たい風が吹き付ける。
さわさわと軽やかな音が不吉に変化した。
気が動転した学は必死に山岡の腕を掴み引っ張ろうとするが敵わない。
そのうち泣きそうなって、我慢できずに山岡は吹き出した。
「ぷっ。なーんてな!」
「…………へ……」
「冗談だよ!引っ張られてなんかない。池に座り込んだだけ」
あれだけ激しく揺れていた水面が静かになると、透明な水中には座った足が見えた。
同時に雲間から太陽が現れ、二人の頭上に降り注ぐ。
まさかそんなに反応してもらえるとは思わず、山岡は苦笑した。
ほんの僅かな悪戯だったからだ。
学がこんなに取り乱すとは思わない。
「学君。驚かせたならすまない」
固まってしまった彼に、声をかけたが返事はなかった。
先ほどまでの騒ぎが嘘のように静まり返っている。
「本当に悪かったって。まさか本気になるとは思わなくて」
久しぶりの茶目っ気がやりすぎだったと気付かず頭を撫でる。
それでも学は下を向いていた。
謝るが一言も口にしない。
「学君?どうし――」
さすがに心配になって顔色を窺おうと傍に寄った。
その表情を見て思わず口を閉ざす。
「……ひっぅ…………」
学は泣いていた。
泣くまいと堪えた瞳から大粒の涙を流していた。
静けさの戻った場所に、拙い泣き声が響く。
山岡は衝撃に目を瞠った。
(まさか、そんな……)
泣くほどのことだったのかと戸惑う。
なんて声をかけてやればいいのか分からなかった。
触れていた手を遠ざけると、どこに置いていいか迷って引っ込める。
「ひっぅ……ほ、本当…に、しんぱいっ……したんです……」
「学く……」
「先生の馬鹿!」
「わっ――!」
山岡は尻餅をついた。
学が抱きついてきたからだ。
二人して池に沈み、ずぶ濡れになる。
「ひっぅ……ひっぅ……」
彼の体は温かかった。
冷たい水に浸かっているからこそ分かる体温だったのかもしれない。
山岡は小刻みに震える体をそっと抱き締めた。
背中に手を回し、落ち着かせようと優しく撫でる。
腕の中の彼は泣き続け、しがみ付くと離れようとしなかった。
サラサラとした髪の毛が首筋を掠めてこそばゆい。
「せ、先生が……いなくなったら……どうしようかと思いました……」
「そんな大げさな」
「いえっ!先生がもし引きずり込まれちゃったら……ぼくっ」
思い出してまた泣き出してしまう。
(私のことで泣いてくれるのか)
流す涙は本気の涙で、ようやく軽率な行動をとってしまったことに後悔する。
「あ、ああ。新刊が読めなくなるって?」
だからといって真面目な空気は苦手で、つい茶化すようなことを言ってしまった。
人付き合いが下手なのは元来の性格である。
この歳になれば直しようもあるまい。
「違います!!」
すると学が勢い良く顔をあげた。
泣きすぎて腫れた目元と赤くなった鼻が痛々しい。
「始めは確かに大ファンってことだけでしたけど……僕はっ……」
「…………」
「じゃ、じゃなくて、今はっ……先生自身が、と、とても……大切です……」
言うに従い小声になっていったが、山岡の耳にはハッキリ聞こえた。
同時に心臓がドクンと鳴って困惑する。
ストレートな物言いにはいつも驚かされた。
だからといってドキマギする必要はない。
愛を告白されたわけではないのだ。
ただ近所の少年に懐かれだけ。
「あ、そ、そうか……」
分かっているのに声は裏返った。
互いの鼓動を感じるが、それは限りなく速い。
「ひっぅ……絶対にこんなこと……しないで下さい……」
「ああ。約束する」
「それから絶対に……っく……ぼ、僕の前から……いなくならないで下さい……ひっく……」
「ああ。それも約束する」
嗚咽混じりの声が甘く感じるのはなぜか。
触れた肌が熱い。
布を通してのはずなのに、濡れたせいか痛いくらい伝わってきた。
胸元にいる学はまだ震えている。
なのに耳は真っ赤になっている。
怪奇現象より不可解な状況に混乱は渦を増した。
先程より水が心地好く感じるのは体温が上がったせいか。
上がるほどの異変が体に――心にあったせいだ。
(何考えて……)
未だに泣き続ける学を抱き締め空を見上げる。
雲は流れて透き通るような青さだけが残っていた。
思考を分析できないほど愚かではない。
今まで数多くの人物を書いてきたのだ。
今、自らが考えていることは痛いほど分かる。
同時に頭の奥が花開いた。
石榴のように弾けた粒が体内を巡ると、雨のように言葉が降ってくる。
記憶するのもままならないほどの量が溢れて溶けた。
芸術家はそれを譬喩してこう言う。
神が降りてきた――と。
その後、家に帰ってきた山岡は真っ先に書斎に向かうと、ダンボールを引っくり返した。
取り憑かれたみたいに原稿用紙を見つけると、机の上のパソコンを除ける。
パソコンが使えるようになってから、四百字詰めの原稿用紙を使う率は極端に減った。
彼は鉛筆を片手に怒涛の勢いで文字を埋めていった。
なぜ手書きなのか分からなかったが、キーボードを打つ間さえ惜しかったのだ。
池で学を抱き締めた時から文章が溢れて止まらない。
追いかけられているような焦りに手を動かした。
それさえ遅く感じてもどかしかったほどだ。
こんな感覚知らない。
見る間に原稿用紙が増えていく。
山岡は時間を忘れて執筆に没頭した。
食事も睡眠も忘れてひたすら書き続けた。
ようやく我に返ったのは東の空に陽が昇り始めた頃だった。
たった半日で一作書き終えてしまった。
出来上がった原稿はどれも酷い字だったが信じられないスピードで書き上げた。
(まさか自分にこんな話が書けるとは)
綴られている文章には怪物も幽霊も殺人鬼さえも登場しない。
淡く艶やかな言葉が羅列されている。
狂気と恐怖だけの世界しか知らない男が書いたとは思えないほど、美しい話だった。
作家生活を何十年と続けていて、どこに眠っていたのか本人さえも不思議に思うほどである。
最後に題名を完成させると一気に疲れが押し寄せた。
若い頃は勢いに任せて徹夜をしていたが、年と共に体が持たないことを覚り、現在は無理にでも規則正しい生活をしている。
急に視界が濁り、倒れこむようにベッドへ身を委ねた。
山岡は満足感と共に目を閉じると死んだように眠る。
机の上には出来たばかりの原稿が散乱していた。
一枚目には大きくこう書いてある。
「恋わずらい」
ホラー作家による人生初の恋愛小説だった。
***
山岡が次に目覚めたのは昼過ぎになってからだ。
「うわあああああああ」
真夏でもあるまいし、汗びっしょりかいて叫び声と共に起き上がる。
「はぁはぁ……はぁ」
ぐったりと項垂れると額に手をおいた。
山岡は夢を見た。
この屋敷に青年が訪ねてくる夢だ。
その時の山岡は小説家ではなく、一家の主人で、妻や娘・使用人もいる富豪だった。
ある日突然現れた青年は、主人の渇いた心を埋めるように馴染み、簡単に奪うと翻弄する。
それに我慢できず押し倒すと、勢いに任せて犯してしまった。
いやらしく交わる感触は妙にリアルで、現実の世界でも支障をきたす。
「はぁ……くそっ」
山岡の下半身は熱くなっていた。
夢精しないだけマシなのかもしれない。
だがこんな夢を見るのは何年ぶりだ。
(溜まっているのか、私は)
年を取るにつれて性欲も治まっていくはずである。
何をいまさらと戸惑った。
「……くっ」
それでも目を瞑ると、青年との淫靡な行為が蘇る。
自然と勃起した性器に触れ、扱き始めた。
こうなれば出してしまう他ない。
まるで夢の続きを求めるかのように妄想が広がっていく。
同時に扱く手が速くなった。
息を押し殺して犯される青年を思い浮かべる。
その顔はなぜか学によく似ていた。
一通りの処理が終わると、ぐったりしたまま携帯を見た。
不在着信が入っている。
山岡は気だるい体を持て余しながらシャワーを浴びて、履歴に残っていた編集部にかけた。
「あ、山岡さん」
出たのは担当の編集者である。
彼は長らく山岡の担当をしていた。
「こんにちは。せっかく電話を頂いたのに出られなくて申し訳ない」
「いえ、こちらこそありがとうございます。ちょっと今書いてもらっている原稿のチェックをしたくてですね――」
山岡は電話を片手に机に座ると、端に除けておいたパソコンの電源を入れた。
その時、書いた恋愛小説が目に入って複雑な気分になる。
「なるほど。分かりました。じゃあちょっと今出来ている部分だけで構いませんからメールで送って下さい」
「分かった」
「では、またお電話します」
「あ、あの……」
すると山岡は編集者を引き止めてしまった。
勢いで声をかけたことに若干の後悔が募る。
「どうしました?何か分からない点でもありますか?」
そんなこと珍しくて、電話口でも彼のきょとんとした顔が窺える。
「いや、あの……もしもの話なんだが……」
「はぁ」
「もし私が、恋愛小説なんかを書いたら……どう思う?」
「山岡さんが恋愛小説ですか」
突拍子もない話だったのか声が裏返っていた。
しばらく間のあいた後、携帯から笑い声が聞こえてくる。
「ああ、分かりました。恋人同士の二人がシリアルキラーで人々を殺しまくっているというやつですね」
「い、いや……そういうのではなくて」
「じゃあ雪女とか?」
「だから……ふ、普通のだな……」
するとまた間があいた。
嫌な間だ。
何か誤ったことを言ってしまったのかもしれない。
次に聞こえた編集者の声は真剣だった。
「山岡さんが普通の恋愛を書くんですか」
「…………」
「さすがに今さら読者はそんなの求めてないでしょう。ミステリならともかく、山岡さんといえばホラーですからね。ご自身も読者も物足りなく感じるんじゃないですか?」
「…………」
「あ、でももし書いてあるのであればぜひ拝見させて下さい」
「いっいや……別に、ただもしもの話をしただけだ。忘れてくれ」
「そうですか?」
「ではまた」
山岡は携帯を切ると、適当に放り投げた。
机の上にある原稿用紙を掴んでベッドまで戻ってくると寝そべる。
(何考えているんだ。私にはホラーしかない)
無我夢中で書き続けた己を嗤う。
だが読み返してみると、本当によく出来た小説だった。
語彙も普段と違い、まるで別人が書いたみたいだ。
次第に物語にのめり込んでいくと、時間も忘れて読み耽る。
そしてある事実に気付いてしまった。
どう見てもヒロインの少女が学そっくりだったのだ。
もし彼がこれを読んだらひと目で気付くだろう。
自分がモデルだということに。
ひたひた、ひたひた。
するとその時足音が聞こえた。
ぎょっとして時計を見ればもう学校が終わっている時間である。
山岡は枕元に原稿を隠すと、慌てて机に座った。
まるで今まで執筆をしていたかのように装う。
コンコン
「失礼します」
ノックの後に学の声が聞こえた。
山岡は気のない素振りで「どうぞ」と言う。
現れたのは焼き芋を持った学だった。
途端に甘く香ばしい匂いが部屋に広がる。
「あ、す、すみません。仕事中でしたか」
「いや。ちょうど一区切りついたところだ」
まだ何も仕事をしていないのに、どの口が言うのか。
学は昨日のことを意識しているのか目を合わせようとしなかった。
微かに染まった頬が恥じらいを伝えてくれる。
山岡は山岡で昼のことを思い出していた。
(学君相手に抜いてしまった)
嫌な罪悪感が纏わりついて顔を合わせられない。
(昨日の私はどうにかしていた。さっきの私もどうにかしていたんだ)
本来なら子供の彼に欲情を抱く必要はない。
そこまで性欲を持て余していない。