5

この地の人間は酷く季節はずれの嵐を恐れている。
それこそずっとずっと昔。
神に贄を奉げるほど。
(――――っ)
すると急にこめかみが痛くなった。
携帯を耳に当てながらこめかみを押さえる。

「山岡さん?」
「……あ、はい。大丈夫です。学君をお預かりします」

なんとか返事をすると電話を切った。
すると一気に痛みが引いて、ひと安心する。
(今は頭痛どころじゃないんだ)
腹が空いていたことも忘れて、冊子を持ったまま書斎に戻った。
机のライトを付けると、一心不乱に読む。
そこには驚がくの事実が記されていたのである。

持ち主はあの時の青年だった。
彼は流れるままこの地に辿り着き、屋敷で世話になることになる。
その経緯は書かれていなかったが話を進めよう。
その後、青年は主人と関係を持つようになった。
戦争に敗れ、息子を失い、家も傾き始めた主人には、青年の瑞々しさが何より救いだったのだ。
奥方と冷えきった関係だったのも大きい。
孤独だった主人の心の隙間を青年が埋めてくれたのだ。
彼の気持ちが今の山岡には理解出来る。
二人は恋に落ちた。
冊子は青年の日記だった。
その日あったことや、感じたことが生々しく書かれている。
時に官能小説を凌駕するほど卑猥な文章が並んでいた。
山岡は理解する。
その内容が夢で見たのとまったく同じだったことを。
夢の中の学こそ当時の青年だったのだ。
二人は家族に隠れて何度も情事を重ねた。
全てを失った主人には青年が新たな生きがいになったのだ。
どれほど愛し合っていたのか切々と綴られている。
だがいつまでも秘密の関係が続くわけがなかった。
奥方、娘、使用人はとっくに関係を知っている。
狭い屋敷内で隠し通せるわけがない。
特に奥方は憤った。
元は士族の娘でプライドも高かったのだろう。
男に旦那を取られたのならなおさらである。
しかし当時は家の主こそ一番偉く、従わなくてはならない存在だった。
刃向かえるわけがない。
結果矛先は全て青年に向けられた。
母子だけでなく使用人からも陰湿な虐めを受け続けたという。
青年は健気にも主人には黙っていた。
不倫への罪悪感もあっただろうが、助けてくれた家族をバラバラにしたくなかったのだ。
そんな時、主人が青年を養子にしようと言い出した。
ここまで読んでいれば分かる。
青年を後取り息子にするためではない、純粋に愛しているから家族にしたかったのだ。
山岡ですら分かるのだから、家族も皆すぐに気付いただろう。
道理で反対をしたのだ。
当時なら養子を貰ってもおかしくない話である。
むしろ家が続くためなら大いに利用すべきことだ。
しかし奥方は我慢の限界だっただろう。
夫の心を奪っただけでなく、家名や数少ない遺産すら青年の物になってしまうのだ。
許されるはずがない。
それでも青年は黙って耐え続けた。
主人の愛を信じて、どんなに辛いことも乗り越えようとしていた。

「……ということは我慢に限界が来たか、些細な喧嘩から誤って殺しに発展したのか」

そこで日誌は途切れていた。
山岡は机に置くと、立ち上がって考えてみる。
普段小説を作る時も、こうして机の前を歩くのが癖になっていた。
その方が思いつきやすいのである。

「だが、それほどまで信じていた主人を殺す動機は……。大体青年はどこに消えたというのか」

一般的なミステリならば、ここで主人の裏切りが発覚して殺人が起こる。
愛ほど憎しみに変わりやすい感情はない。
切れてしまった青年は、溜まっていた鬱憤が爆発して家族にも狂気を向けた。
最も定番のパターンであるが、スリッパの謎が残っている。
発見当初、警察は書斎の前に一人分のスリッパが置いてあったと言っている。
状況から見るに青年の物だろうということだったが、なぜそこに置きっぱなしだったのか。
当時の物はこの冊子以外何も残っていない。
日記を見るに彼の持ち物が時折なくなっていることがあったらしいが、事件には直接関係ない。
目撃者もいない。
となれば憶測で考えるしかなかった。

「ああ、分からない……っ」

いくら考えても納得の結論は出なかった。
頭をかきあげて窓を開ける。
空気を入れかえることで気分を変えたかった。
山の向こうに陽が沈もうとしている。
稜線が赤く染まり、西日の強さに影が濃くなる。
見上げれば雲が凄い速さで流れていた。
同時にカーテンが揺れる。
室内にも突風が吹いた。
目を細めて窓を閉めようとすれば、冊子が煽られてページが捲られている。

「……ふぅ、なんて風だ。まるで嵐の前兆だ」

ようやく鍵を閉めると、窓を背に一息ついた。
乱れたカーテンを直して再び謎に向かおうとした時、ある変化に気付く。
冊子だ。
風によって捲れたページには歪な文字が刻まれていた。
見つけると慌てて机に噛り付く。

「……もうすぐ季節はずれの嵐がやってくる。
奥様が丹念に刃を研いでいる。
胸騒ぎがするが、どうしたらいいのか――」

他のページと違い異様に震えた文字をしていた。
まるで誰かの視線に怯えながら危険を知らせようとしているみたいだ。
何より次のページの言葉に瞠目する。

[生け贄など、馬鹿げた昔話だろうに今も取り憑かれている。]

(贄……だと!)
瞬間、絡まっていた糸がするりと解けた。
あくまで憶測に過ぎない。
確固たる証拠は何もない。

ひたひた、ひたひた。

廊下には不気味な足音が響いてきた。
彷徨う亡霊は今も安らかになれずに屋敷を歩き回っている。

「そうか……!青年は代々この村に住んでいた一族だったんだ。しかも生贄を供える神官――ではなく、それに関わる処理をしていた子孫なのだ」

遙か昔、まだ村で生け贄を奉げる儀式をしていた頃のことだ。
当然生き物を供物として奉げると処理が付き物になる。
それはこの村以外の神事でも同じことだ。
神官自身が携わることもあるが、大体が処理を担当する家系があった。
いわゆる「穢れ多き民」である。
生き物の死に関わる僧侶や神官は崇められたのに対し、同じ関わりでも「穢れ」は忌み嫌われる存在になった。
時代と共に差別は酷くなり、村八分にされることとなった。
こんな田舎ならば昭和に入っても差別が色濃く残っていただろう。
対するにこの屋敷は古くからの名士と名高い。
青年がどれだけ憧れたかは察するに十分だ。

「とりあえず大まかな流れにして考えてみるか」

ある程度成長した彼は、出兵することで、文字書きを戦場で出来た仲間から習った。
綴りに間違いが多かったのは、学校で勉強していない――いや、差別されて通えなかったからだ。
どうにか生き延びた青年だが、同じ家には帰りたくない。
そこで戦後の混乱に乗じて都会に出た。
しかし当時の東京は食糧難にあえぎ、人ひとり食べていくのも困難だったはずだ。
そんな時、何らかの経緯で、故郷の名士の話を聞いた。
家が傾き始めていること、ひとり息子が戦死したこと。
青年は一か八かの賭けに出た。
主人との関係を見るに、彼の容姿は優れていたのかもしれない。
自覚があったとしたら、大いに賭けをする価値があっただろう。
見事都会からやってきた素性も不明な青年として潜り込めた。
村八分にされて、周辺の村民から存在を知られていなかったことも幸いだったのかもしれない。

「なるほど。奥方が反対をしたのは、関係が主であったからではない。素性を調べたからだ」

未だに結婚の際、生まれを気にする一部の人間が調査するらしい。
同郷ということは分からなかったのかもしれないが、普通の民ではないと感じていた可能性も高い。
文字書きだけではなく、行動や言動にも違いはあったはずだ。
当時であれば養子にするなどあってはならないことである。
一方の青年は、養子にさえなればこの穢れた家系とも離れられると信じていた。
だから家も家族も捨てたのだ。
とはいえ、罪悪感は残ったに違いない。
最後に書き記された、生け贄など、馬鹿げた昔話だろうに今も取り憑かれている。――は、自ら血を裏切ったことへの恐れと、何かの予兆を感じているからこその言葉だ。
だが残念なことに杞憂には終わらなかった。
村人たちが恐れる季節はずれの嵐の夜に惨劇は起こる。

「犯人は青年ではない。奥方だ。青年の荷物がなくなったのは虐めではない。少しずつ処分して殺した後に証拠が残らないようにするためだ。存在を抹消しようとしたんだ。素性も不明な人間がひとり消えたところで何も怪しまれやしない」

しかしその前に主人との間に諍いが起こってしまった。
何らかの弾みで彼を殺してしまう。
そこに青年がやってきた。
毎晩のように逢瀬を重ねていたと記載されていたから、その日も同じように書斎に向かっていただろう。
ドアを開けて無残な主人の姿を見た青年は、血のついた包丁を持った奥方に慄いたはずだ。
彼女は青年に包丁を向けた。
そこで拍子にスリッパが脱げたのか、青年は裸足のまま慌てて家を飛び出した。
外は恐るべき嵐である。
奥方が追うかどうか迷っている間に、騒ぎを聞きつけた使用人たちがやってきた。
その時にはもう気が触れていたのか、それとも興奮を抑えられなかったのか彼女は牙を剥いた。
餌食となった者たちは凶刃に倒れる。
三人もの人間を殺した奥方は、もはや娘を殺すこともいとわなかった。
最後に自らの腹を刺すが死にきれず、娘の部屋から飛び降りる。
激しい雨により、当時の鑑識技術では指紋を採取できなかった。
もしくは普段から使用している包丁で、多くの指紋が残っているため犯人の判別が出来なかった。

「うーむ。ご都合主義にも思えるが、これ以上考えようがない」

困った。
推理が笊すぎる。
道理でミステリの仕事がやってこないわけである。
山岡の得意分野は超自然現象だ。
スプラッタは書くが推理の要素はなく、人がバタバタ死んでいく話ばかりである。
今さら探偵気取りしたところで高が知れていた。

「しかし青年は逃げたとして一体どこに」

恐れるがまま逃げたとして、行き場がない。
実家に戻ったとも考えられるが、日記を読む限りありえないだろう。
近隣の村に助けを求めたという供述は残っていない。
忽然と姿を消したのだ。

“人の骨ですよ”

その時、ふいに学の言っていたことを思い出した。
山岡は合点がいったように顔を上げる。
蘇った会話は一筋の光を与えてくれた。

「彼は今回のことを神からの祟りだと考えた。血を裏切ろうとした己への罰だと思った。なら行く場所はただひとつ。あの神事が行なわれていた池に行ったんだ。三十年前に見つかった遺体こそ青年のものだったんだ」

彼は特別な家系に生まれた。
穢れと蔑まれてきた唯一の誇りは神事に参加していたということなはずだ。
なら、青年の一族にだけ神事の内容や場所が語り継げられていてもおかしくはない。
季節はずれの嵐を鎮めるための儀式。
追い詰められていた青年が、自分のせいだと思いつめて、短絡的な行動に出てしまった。
つまり、赦されるには生贄が必要なのである。

「自らが贄となったというのか……」

ポツリと呟くと、窓ガラスがカタカタ鳴った。
静まり返る村は、風のざわめきしか聞こえない。
山岡は冊子を手にして目を細めた。
死する時、何を思ったのだろう。
目を瞑ればあの池が脳裏に映る。
あんな場所でひとり孤独に一生を終えるなんて酷だ。
憶測の内容が正しければ、あまりに辛い人生である。
生まれなど、どうしようもない。
青年は忌みから解放されたかったはずだ。
愛する人といたかったはずだ。

ひたひた、ひたひた。

廊下を歩き回る足音は今なお続く。
奥方から逃げているのか、愛する男を捜しているのか。
その音は一晩中山岡の耳に響き続けた。

翌日は陰鬱な空が広がっていた。
学校から帰ってきた学がやってくると、ぎこちないまま食事をとり客室に案内をした。
夜になれば雨や風は酷くなる一方で、外は誰も歩いていない。
山岡は小雨のうちに屋敷中の雨戸を閉めて回った。
お蔭で夕方には室内が薄暗くなっている。
テレビをつければ大雨警報が出ていた。
とはいえ、この辺一体以外はさほど酷い状態ではないらしい。
居間にいても気まずくて、山岡は仕事と称して書斎に引っ込んだ。
当然執筆する気は起きなくて、形だけ机に座っている。
昨日はずっと屋敷のことを考えていたが、胸糞悪くてすっきりしなかった。
名探偵の如き謎が解けたわけではなく、憶測だけで考えた末の結論である。

「……そういえば今日は足音が聞こえないな」

いつもは煩いくらい聞こえるのに、今日に限って現象は起こらない。
考えてみれば学が来ている間は何も起こらなかった。
彼との喧嘩のあとから足音は聞こえるようになったのだ。
(仮に足音が青年の霊だとして、新たな主人を待っているのだろうか)
もし話を書くとしたら、そういった展開の方が話を膨らませやすい。
なら淫夢を見せたことや、些細なことで喧嘩になったことも説明出来る。
(そんなベタな話、いまどき新人だって書かないか)
むしろこう考えた方が面白い。
嵐の夜に乗じて、学を新たな贄に仕立てる。
歴史は繰り返されるという定番の怨恨と呪い説だ。
と、すれば亡霊本人に登場願いたいものだが、実はとっくに山岡が取り憑かれていて、学を自らの手で殺めるというのも面白い。

「――って、全然面白くないだろう!」

山岡は机に何度も頭をぶつけた。
職業病というべきか、考えがすぐホラー小説に直結してしまう。
好きな人を手にかけるなんて後味悪すぎるではないか。
(しかし捨てきれない結末でもある)
そうして自分勝手にうんうん唸っていると学の声が聞こえた。

「あ、あの先生……大丈夫ですか?」

驚いて振り返れば、心配そうにこちらを見ている。
集中していたせいか全く気付かなくて意味なく慌てた。

「や、あの…、学君…い、いつからそこに?」

この間のことを気にしているのか、部屋に入ってこようとはしない。
入り口でモジモジしているだけだ。

「……い、いえ。あの、さっきお父さんから電話があって、もしかしたら停電になるかもしれないから気をつけなさいって」
「外はそんなに酷いのか」
「はい。学校の近くの川も水位が上がっているらしくて……テレビでも警報が出ていました」
「はぁ。嵐はこれからなのに凄いな」

陽は沈んだが、明け方まで嵐は続くと言っていた。
本当に大丈夫かと不安になってくる。
都会と勝手が違うことに今さら気付いて困惑した。

「あ、あの……」

すると意を決したように彼が声をかけてきた。
首を傾げるも続きを言わない。

「や、やっぱりなんでもないです。おやすみなさい」

学は慌てたように頭を下げると、山岡の反応を待たずにドアを閉めてしまった。
廊下を駆ける音が遠くなる。
山岡は山岡で気にしていた。
以前ならまだしも、怪奇現象が起こる屋敷に、学ひとりにさせて平気だろうか。
屋敷で起こった惨劇の顛末を知ってしまった以上心配になるのは当然のことだった。
外の嵐はさらに酷くなる。
木造の家はギシギシと嫌な音を立てて軋んだ。
殴りつけるような雨風が猛烈に吹き付ける。
雨戸を閉めているのに、その威力は室内にまで轟く。
夜遅くになると激しくなる一方だ。
(心配だ。ちょっと様子を見に行った方がいいだろうか)
何もないとはいえ、どうしても気は削がれる。
あれから山岡は引き出しにしまい込んだ恋愛小説を読んでいた。
瑞々しい文章はとても自分が書いたとは思えない。
今読むと内容は稚拙だ。
怪物しか愛せないホラー作家と、明るく健気な少女の話。
どこにでもあるくだらない恋物語だった。
しかし読むたびに思いついた時の胸の高鳴りが蘇る。
だから余計に学には見られたくなかった。
いい年こいて純粋なラブストーリーなど晒せるわけがない。
ヒロインが学自身ならなおさらだ。

「……はぁ」

思わずため息を吐く。
いくらでも仲直りのチャンスがあったのに、不器用な山岡は悉くふいにしてきた。
(第一にこんな男に好かれて嬉しいはずないだろうに)
学の気持ちを知っているのに自信がなかった。
幽霊や怪物だけを相手にしてきた男は、恋愛に疎すぎたのである。
伝えたい気持ちならたくさんある。
文章で飯を食ってきたのに、皮肉にも言葉が見つからなかった。
いっそ幽霊と恋に落ちた方が楽だったかもしれない。
山岡の純情さは若い頃のままだった。

ひたひた、ひたひた。

その時、廊下から足音が聞こえた。
時計を見ればもう零時を回っている。
(ようやくお目見えか)
背もたれで体を伸ばすとイスが僅かに軋んだ。
もうとっくに慣れっこで、何事もなく立ち上がるとドアの前まで行く。
足音も書斎の前まで来たようだ。
目の前でピタリと止まる。
ドア一枚隔てて向き合うのは何度もあるのに、結局一度も姿を見たことはなかった。
そろそろ姿を現すべきである。
見計らってドアノブに手をかけると扉を開けた。

「いい加減――――」

成仏しろ――と、言いかけて止まる。
幽霊しかいないと思われた廊下に少年が立っていたからだ。

「あ、えっと……すみませ……っ」

寝巻き姿の学は、眉間に皺を寄せた山岡を怒っていると勘違いして後ずさりする。
(霊じゃなかったのか!)
てっきり姿の見えない住人だと勘違いしていたため、粗暴な態度を取ってしまった。
学は明らかに傷ついた顔で泣きそうになると頭を下げる。

「ごめんなさいっ……!」
「あ、待てっ」

逃げようとする彼の腕を咄嗟に掴むと、強引に引き寄せた。

「あ……っ……」

暗闇が支配する廊下で、力強く抱き締める。
学は状況に驚き何も出来ずにいた。
しばらくの間身を寄せる。

「す、すまない」

我に返ると手を離した。
衝動で大胆なことをしてしまったと恥ずかしさでいっぱいになり、合わせる顔もなく背を向ける。
気まずい空気が流れた。
だがこのままでいるのは賢明ではない。
山岡は勇気を出して書斎に入るよう促した。

「ちょうど学君に話したいことがあったんだ」

とりあえず自分も落ち着かなくてはと、お茶を淹れようとする。
だが二人して書斎に入った途端、急に電気が消えた。
室内が暗闇に閉ざされる。
明かりに慣れていたせいか、いきなり暗くなると目先の物すら見えなくなった。

「停電か。夕方そんな話をしていたな。ちょうど懐中電灯が――」

そう言って棚に向かおうとしていたところで、後ろからしがみ付かれた。
相手は当然学で、酷く怯えている。

「ど、ど、どうした?怖いのか?」
「……っ……はい……」
「そうか。幽霊は平気でも停電は怖いのか。真っ暗だもんな」
「…………」

しっかり抱きつかれて身じろぎ出来ない状態だった。
戸惑っていると学がポツリと話し始める。

「本当はお化けも駄目なんです……」
「え?」

彼は震えていた。

「先生の本が好きなのは嘘じゃありません。怖い怖いと思いながら一ページずつ捲るのが楽しみでした。でも、やっぱり怖がりなんです……この屋敷とか、山の池とか…実際の場所は苦手で……」
「そんな……屋敷にも出入りしていたのにか?」
「平気な振りをしていたんです。先生といっぱいお話したくて、ずっと一緒にいたかったから」
「じゃあ、あの池も……」

問いかけると小さく頷いた。
嫌われることを覚悟しているのか、涙声になっている。

「先生が喜ぶんじゃないかと思って、本当は怖くてたまらなかったのに、好きな振りをしてしまいました。興味があって調べたんじゃないんです。先生に好かれたくて、探したんです」
「…………」
「打算的で恥ずかしい。僕は嫌われて当然です」

少しだけしがみ付く力が強くなった。
それを感じて目を瞑る。
(そうか。ずっと私のために我慢をしていたのか)

「今日も迷惑かけないように、我慢していたんですけどっ…やっぱり夜にひとりでいるのが怖くて…、嵐なら特に…何か出るんじゃないかって心細くなったんです。お願いします。今夜だけ、ここに……」

彼の言っていることは嘘じゃないだろう。
でもその気持ちが嬉しかった。
我慢してでも一緒にいたいと思ってくれたことが、途方もなく嬉しかった。
(年下に我慢させているのに何を喜んでいるんだ)
情けないのに自然と口許が緩む。
同時に今までのことを思い出して切なくなった。
停電程度で震え上がるほど怯える子が、必死に隠して傍にいようとしてくれた。

「その気持ちは作家としてか?それとも男として?」
「……っ……」
「散々酷いことをしてきた男を君は許してくれるのだろうか」
「せ、せんせ……」

山岡はゆっくりと彼の手を掴み体を離した。
振り返ると向き合い、その体に触れる。
完全な闇の中では輪郭しか分からなかった。
今どんな表情をしているのか知りたくて歯痒い。

「酷いことは何もされていません」
「学君」
「始めはただのファンでしたが、今、僕は先生に恋をしています」
「…………」
「確かに怖いのは苦手ですけど、先生が嬉しそうにそういう話をするのを見ている時が幸せでした。子供みたいに楽しそうで、僕もわくわくしていました」

そう言ったところでパッと明かりが点いた。
眩しさに目を細めながら驚いた二人は見上げ、電球が点いたのを確認すると互いの顔を見合う。

「……っ……」

無性に照れくさかった。
暗闇でなら言えそうなことも言えなくなる。
だけど見たかった顔に笑みが零れた。
彼は想像通りの顔をしていた。
顔を赤く染め、必死に泣くまいと堪えていた。

「これじゃどちらが先生か分からないな」
「せんせ……?」
「君からたくさんのことを学んだ。私には知らないことがたくさんあった。それを学君が教えてくれたんだ」

そっと頬に触れる。
科学で説明できないことが超自然現象なのだとしたら、彼に惹かれていることもその一種なのだろうか。
たったひとりのために、泣き、笑い、怒り、人間とは忙しいものだ。
お蔭で他のことはどうでもよくなる。
些細なことなど恋をする二人には見えなくなる。
山岡は抱き寄せると額にキスをした。
いきなりのことに学は動揺して涙を引っ込める。

「私も学君が好きだよ」
「!!」
「どうしても惹かれていくのを止められなかった。こんな男が君のような少年に恋をすること自体ホラーかもしれない。いや、出来損ないのコメディかな」

素直に自分の気持ちを認めると、途端に心が軽くなった。
置かれた状況に笑いが止められなくなる。
学は首を振った。
だが彼も笑っていた。

「違います。先生、これは恋の話です。普通の恋じゃないかもしれないけど、きっと幸せな恋の話になります」
「……ああ、そうだな。化物も殺人鬼も、幽霊さえ出てくる機会はないだろう」
「はい、先生……」

そうして二人はやり直すように静かに抱き合った。
互いの体に触れて、火照りを共有するように過ごした。
初めて抱いた時と違い、山岡はひたすら大切に抱いた。
小さな体が壊れてしまわないように恐れるほどだった。
学はそれほど深く愛されて幸せそうに笑っていた。

その日、山岡は不思議な夢を見た。
さらさらと涼しげな葉音と清らかな水の流れにうっすら目を開けると、山間の泉に佇む二人の後ろ姿が映った。
体格の良い男と、線の細そうな青年。
いかにも高そうな洋装の男と、薄汚れた着物を身に纏う青年はちぐはぐに見えた。
風が騒ぐ。
まるで嵐のように強い風が吹き荒ぶ。
乱れる前髪をそのままにしていると、急に風がやんだ。
まるで風そのものに意志があるかのようだ。
それまで背を向けていた青年が山岡の方に振り返る。
表情が見たくて目を凝らすが、木々の間に射し込む光がその顔を霞ませていた。
僅かに見えた口許が、穏やかに緩んでいる。
だが見続けることは敵わなかった。
元々光が射さない場所だろうに、眩しくて目を細める。
青年は山岡に頭を下げると、隣の男と見つめ合い互いの手を重ねた。
その姿を見て咄嗟に声をかけようとするが、言葉が出ず立ち尽くす。
埋まらない距離。
動けない身体。
そのうち辺りには光が満ちて、山岡の意識は薄れた。
歯がゆくて顔をしかめる。
だが、その直前、誰かの笑い声が聞こえた気がした。
それはとても無邪気で楽しそうな声だった。

あれだけ激しかった嵐は、朝方には治まり、何事もなかったように東の空から陽が覗いた。
山岡の言うように脅かす者は現れなかった。
同時にこの屋敷で足音が聞こえてくることは二度となかった。
青年の霊が何を伝えたかったのか分からない。
山岡は零感で鈍感な男だ。
あげくミステリに疎く、探偵役は務まらない。
呆れて出て行ったのか、幸せな二人を見て寂しくなったのか、存在を確認するような出来事は起こらなかった。
冊子はいつの間にか無くなり、どこかへいってしまった。
あえて探しはしない。
ただ願った。
彼も愛する人の傍にいられるように。
自由に羽ばたくことができますように。

翌朝、清々しい気持ちで目が覚めると、抱いて寝たはずの学がいなかった。
窓から心地好い陽の光が射している。
起き上がると学が机に座っていた。
珍しい姿に欠伸をしながら上半身を伸ばす。

「学君?」

よほど集中しているのか、声をかけても無反応だった。
山岡はベッドを降りると、気付かれないようにこっそり近付く。

「何をしているんだ」
「う、わああああああ!」

目の前までくるとイスごと抱き締めた。
突然のことに驚いたのか、学の絶叫が木霊する。
早朝に聞くには耳に痛い声だった。

「お、お、脅かさないで下さい」
「すまない。それより何を読んでいるんだ?」

彼の肩越しに見下ろすと、そこには恋愛小説の原稿があった。
昨夜机の上に置きっぱなしだったのを忘れていた。
学は一度怒鳴られていることもあり、ビクビクしながら紙切れを差し出す。

「あ、あのっ……朝起きて窓を開けようとしたら、机に原稿があって、その上にこの紙が置いてあったので読んでしまいました」
「え…………」
「だめ、でしたか?」

また怒られるのではと不安げだ。
しかし山岡は困惑してそれどころではなかった。
学が持っていた紙には一言。
「学君へ、捧ぐ」
――と、書かれていた。
当然山岡は書いた覚えはないし、こんな書体ではない。

「あっ」

思い当たる節に顔をあげた。
(まさか――――)
同時に頭の奥から清涼な風が吹いてくる。
確証はないのに、なぜか答えは正しいと思った。
間違いないと思った。

「幽霊のくせに生意気な」
「え?」
「……まったく」

戸惑う学の体を抱き締めた。
力を込めると嬉しそうに擦り寄ってくる。
屋敷は幸せに満ちていた。
嵐は去って平穏な日常は戻ったのだ。
ふと山岡は思い付く。
学から表紙の原稿を受け取ると、丸めてゴミ箱に投げ捨てた。
戸惑う傍で首を振る。
新たな用紙を持ってくると、題名を書き直して彼に笑いかけた。

「ホラー作家の恋愛小説」

ホラーでしか文才を発揮できなかった男は、その本で新たな境地を開拓することになるのだった。

END