犬が星見る

「ウエンディ、散歩に行こっか」

金曜日の夕方、庭のびわの木に鎖を繋がれ、ぼんやりと塀に空いた穴から外の様子を窺っていた。
だいぶ暑さは増して、毛むくじゃらの体を煩わしく思いながら道の向こうを見続ける。
その時縁側から顔を出したご主人は僕に向かって笑いかけた。
支度を済ませた彼は靴を履き替えてやってくると、鎖からリードに変える。

「南、これから散歩に行くの?」

そこに彼のお母さんが現れた。

「うん」
「あらそう。あ、悪いんだけど帰りに松沢さんのとこに寄って砂糖を買ってきてくれないかしら。あそこならウエンディを連れていても大丈夫でしょう?」

彼女は小銭要れを差し出した。
松沢さんは多摩川の近くに店を出している。
こじんまりとした商店で、中に入らなくとも店先で買い物が出来るため、よく散歩の帰りにおつかいを頼まれる。
向こうも分かっているから気にした様子もなく対応してくれた。

「分かった。じゃあ行ってくる」
「よろしくね。気をつけてね」

彼女は心配そうに見送る。
その視線を感じとると「ワン」と、吠えた。
(大丈夫。僕が守るよ)
そう言ったつもりなのに、人間には伝わらない。
母親は苦笑いを浮かべた。
それは僕への返事ではなく、ご主人の顔色が優れないからだ。

「さぁ、ウエンディ。行くぞ」

リードを引っ張られて狭い通路を過ぎると見慣れた道を歩き始める。
僕は大人しくご主人に歩幅を合わせた。
時折窺うように見上げる。

「はぁ。夕方といえども暑いな」
「ワン」

額を流れる汗を拭っている。
毎日の楽しみである散歩はご主人の日課で、いつもお決まりのコースだった。
学校から帰ってきた彼が僕を連れて町内を回り、多摩川で遊んで家に帰る。
今の時間帯は西日が強くて、じっとりとした暑さだった。
日中よりは酷くないにしろ毛むくじゃらの体にはしんどい。
焼けたアスファルトは熱した鉄板のようで、嫌な感触がした。
だがそれより気になるのはご主人の様子である。
母親が心配する通り、ここ最近の彼は様子がおかしかった。
見上げれば、いつにも増して寂しげな横顔が見える。
元々ご主人は社交的でなく、友達のいない孤独な人だった。
(そうだ。あの日も、こんな顔をしていた)
蘇るのは今と同じ、暑い夏の日の記憶である。
目を閉じると、まだ幼く小さな子犬だったころを思い出す。
どうして僕がこの町に来たのか。
実はよく覚えていない。
母親や兄弟たちと車に乗せてもらったことは覚えているのに、気付いたら独りぼっちで見知らぬ道を駆けていた。

「ワンワン、ワンワン」

好奇心旺盛で、見るもの全てが真新しく感じた。
寂しさや不安はまだない。
新鮮な景色に気を取られて、このあと自分がどうなるのか分かっていなかった。
緑豊かな街の一角を風を切って走る。
そんな時、曲がった道の先に黒いランドセルが見えた。
体が小さいのか異様にランドセルが大きく見えて、それ自体が歩いているのかと思った。
人見知りをしない僕は、すぐにその背中に追いついた。

「ワンッ」

(君、誰?)
愛想よく声をかけたつもりだったのに、彼はひどく驚いて飛びのいた。

「うわああああ!……び、びっくりした」
「ワンワン」

(遊ぼ、遊ぼ!)
ひとりで走り続けるのに飽き始めていて、仲間を見つけたと思った。
めいっぱいに尻尾を振って喜びを表現する。
すると彼は泣きそうな顔で笑った。
当時はどうしてそんな顔をするのか分からなかった。
ただ胸の奥がツンとして僕まで泣きそうになった。

「首輪がついてる。どこかに飼い主いるのかな」

彼は辺りを見回す。
しかし周囲には誰もいなかった。
当然だ。
僕ははぐれて迷子になってしまったのだから。

「よしよし」
「はぁ、はぁ、はぁ」

小さな手が僕の頭を撫でる。
ぎこちないのはきっと犬に接したことがないのだろう。
その手の感触が気持ちよくて目を細める。
だが次の瞬間には僕の鼻が良い匂いを嗅ぎあてていた。
(おなかすいた)
本能のままに生きる犬はこの匂いに敏感である。
せっかく彼と遊ぼうとしていたのに、興味は次に移っていた。
よく見ると、さらに奥の道には良い匂いの元を持っているお姉さんがいる。

「ワンワンッ」

僕は彼のもとを飛び出して、お姉さんに向かい駆け出した。
その後ろ姿を彼がどんな気持ちで見送っていたのか、今考えると、胸が潰れそうになる。
だが人と違い理性も利かない。
まだ子犬だったのだからなおさらだ。
その後、お姉さんからパンを貰った。
彼女は僕が迷い犬だと気付いたのか、家に連れて行ってくれた。
家には犬の先輩がいた。
優しいお兄さんだった。
どうしてここに来てしまったのか分からない。家族とはぐれてしまった――と、言えばドックフードとミルクをわけてくれた。
しかしこの家にはいられなかった。
帰ってきた父親が「犬は二匹も飼えない」と、首を振ったからだ。
その日の夕方、近所のペットショップに連れて行かれた。
難しい話はよく分からなかったけど、もう二度と家族に会えないのではないかと思った。
(寂しいよ。怖いよ)
この先どうなってしまうのか不安になる。
言葉が通じないのがもどかしい。
檻に入れられたまま他の犬や猫たちの話を聞いた。
売れ残ると怖いところに連れて行かれるという話だ。
だからみんな買い物客が来ると、より魅力的に見えるように自らが考案した茶目っ気たっぷりな仕草でお出迎えする。
中々シビアな世界だ。
到底僕のやっていける世界ではない。
その時、話を聞きつけた近所の人が僕を欲しいと言って来た。
処遇がようやく決まった。
まずはひと安心する。
しかし家に連れて行かれると、また犬の先輩がいた。
今度は意地悪なお兄さんだった。
僕が来たことにより愛情を独り占め出来なくなる、もしくは捨てられるかもしれないと、不安で威嚇され吠えられ続けた。
(仲良くしたかったのに)
四六時中吠えられたのではたまったもんじゃない。
しかも先輩犬は小型犬で「キャンキャン」と、耳に響く煩い声をしていた。
さすがのご主人もこれには辟易して、降参するしかなかった。

「もしもし――あ、佐伯さん?実は今ね……」

そうして次の家が決まった。
その日の夜、新たな飼い主となる家に連れて行かれると、あの時の少年が同じように泣きそうな顔で笑っていた。

「よしよし」

相変わらず頭を撫でる手はぎこちない。

「迷い犬なんだってね。元の飼い主が見つかるまでよろしくね」

結局、母親や他の兄弟には二度と会えなかった。
元の飼い主は見つからなかった。
だけど今はこれで良かったのではないかと思っている。
僕はご主人が大好きだからだ。

***

気付くと、多摩川まできていた。
夕方になると、ゴルフ場は犬連れの集まりに変わる。
見上げた空は西の向こうが夕陽に染まり、順々に青味がかっていた。
まだ薄い空に白い月が浮かんでいる。
河原の風は心地好く毛を揺らした。
幾分涼しく感じる。

「涼しい……ね」

ご主人が僕に笑いかけた。
僕は同調するように頷く。
その顔も寂しさの色は消えていない。
彼はいつも儚げだった。
僕がちゃんと掴んであげないと、どこかに飛んでいきそうな危うさがあった。
それは一緒に暮らし始めた時から変わらない。
ご主人は友達がいなかった。
人見知りに引っ込み思案な性格が災いして、うまく馴染むことが出来なかったのである。

「ウエンディ。君が僕の一番の友達だ」

その代わり、僕にたくさんの愛情を注いでくれた。
いつも、どんな時も一緒で、迷い犬だったことさえ忘れてしまうようだった。
感情を表に出すのが苦手だろうに、僕の前では素直に表情を変えてくれた。
時に泣き疲れて一緒に犬小屋で寝たこともある。
彼は小さな体に抱えきれないほど寂しさを背負っていた。
(少しでもご主人を慰めることが出来ればいいのに)
僕は黙って泣き言を聞くだけである。
時に無力さに打ちひしがれて胸が潰れそうになった。

「ウエンディが来てからあの子もずいぶん明るくなったわ」
「やっぱり飼って正解だったかもな」
「そうよ。だって南が自分から欲しいなんてねだること滅多にないんだもの」

僕を抱き締めたままうたた寝してしまった彼を優しい眼差しが包んでいる。
小さな鼓動が皮膚を通じて伝わってきた。
規則正しく上下する胸に穏やかな声が投げかけられる。
僕はちゃんと知っているんだ。
不器用ながら一生懸命生きるご主人と、それを見守る温かな家族の絆。
(ううん。それだけじゃない……)
ご主人の家に飼われるようになって半年が過ぎたころ、塀の隙間から僕を窺う瞳が見えた。
毎日のように通りかかっては見ている少年がいる。
尻尾を振って近付けば途端に逃げてしまう。
大慌てで駆けていく後ろ姿に首を傾げた。
それから間もなくしてのことだ。
ある日、ご主人が隣のクラスの男の子を連れてきた。

「ウエンディっていうんだ」
「ワン」

(こいつ、知ってるぞ!)
少し恥ずかしげに、でもすごく嬉しそうに現れたのは、すぐに逃げてしまう少年だった。

「矢崎君っていうんだよ」
「ワンワン」

彼の家は多摩川の近くのマンションで、ペット禁止らしく飼えないのだが本人は無類の動物好きだった。
散歩の途中のご主人と僕を偶然見かけたらしい。
だが同じクラスになったことがなくて、声をかけるのを躊躇していたようだ。
道理でここ数日近くをうろうろしていたのか。
体は大きくて、いつご主人を苛めるのかと警戒していたが、そんなことはなかった。
むしろその日から散歩にひとり増えた。
せっかくご主人を独り占めしていたのに、少年が加わったからだ。
(矢崎のくせに生意気だ)
僕はご主人の隣を譲らなかった。
二人が並ぼうものなら間に割って入った。
今までずっと一緒だった。
僕がご主人の最高の相棒だったんだ。
その座を許すことはできない。
なのに悔しいことに矢崎は良いやつだった。

「今日さ、矢崎君んちでゲームしたんだ」
「今日さ、学校で矢崎君と飼育小屋の掃除をしたんだ」
「ウエンディ。今日は矢崎君が風邪で休んだんだ。大丈夫かな」

嬉しいこと、楽しいこと、悲しいことは全部矢崎絡みになってしまった。
僕の前だけで屈託なく笑う顔が、彼の前では弾けるような顔で笑うようになった。
ご主人が笑うようになって嬉しい。
友達に出会えたことが嬉しい。
彼の世界が広がっていくことは正しくて喜ばしいことだ。
いつまでも僕だけのご主人でいれば、いつか彼の精神は朽ちてしまう。
毎朝深いため息を吐いて登校した背中は、生き生きと楽しそうに小さくなっていく。
心なしか重たいランドセルが軽くなったように見えた。
ご主人の幸せは僕の幸せなはずなのに、どうして胸が締め付けられるのだろう。
自分だけのご主人じゃなくなることが嫌だった。
塀の隙間から見送ると「くぅん……」と、寂しげな声がもれてしまった。

だが、その矢先事件が起きた。
ご主人と矢崎が喧嘩したのだ。
原因は分からないが、以降仲直りするまでの間、彼が家にやってくることはなくなった。

「あんなやつ、知らない!」
「ワンワン」

(そうだ!そうだ!)
かなり怒っていたが、語りかける言葉には嫌悪以外の意味も含まれていた。
呟く言葉には必ず矢崎の名前が入っていた。
(そんなに嫌いなら無視すればいい、また僕とご主人だけで遊ぼうよ)
何度もそう言ったけど伝わるはずがない。
しかし相当拗れていたのか、中々解決の糸口は見つからなかった。
僕は知っている。
ご主人が知らない大切な秘密。
それは喧嘩の最中のことだ。
ご主人が習い事でいないことを知ってか、矢崎が僕に会いに来た。

「ワンワン!ウーッ、ワン!」

(何しに来たんだ!とっとと帰りやがれ)
威嚇して睨みつける。
矢崎は困った顔で塀によじ登った。
いつの間にか軽々と登れるほど大きくなっていたのである。

「な、なんだよ。そんなに吠えるなって、見つかるだろ」

手には好物のジャーキーが握られている。
(ふんだ。餌付けをしても無駄だぞ)
そう思いながらも、良い匂いに弱いのは相変わらずだ。
「おすわり」と、言われると姿勢を正して座ってしまう。
勝手に尻尾を振ってしまうが、断じて媚ろうとしているわけではない。

「よしよし、いい子いい子」
「ウゥー」

ようやく矢崎の顔が綻んだ。
僕にジャーキーを咥えさせると、頭を撫でる。
彼の手はご主人と違って冷たかった。
毛で覆われた体にはひんやりと気持ちよくて戸惑う。
ご主人の優しい温かさとは違った心地好さだからだ。

「なぁ、ウエンディ。南の様子はどうだ?怒っているよな……きっと」
「ワン」
「なんて、お前に聞いてもしょうがないことくらい分かっているんだけどさ」

(なら聞くな、バカ!)
彼はどさくさに紛れて隣に座りやがった。
しかも僕に体を寄せて背中をゆったりと撫でている。
よほど喧嘩に参っていたのか独り言を呟くように矢崎はしゃべり続けた。

「はぁ。俺としては、もっと南の良さをみんなに知ってもらいたいんだけどさ」
「…………」
「上手くいかないんだよな……。ま、俺が強引すぎるかもしれないんだけど」

やれやれと後頭部を掻く。
僕は彼をじっと見つめた。
自分の考えていることと、まったく違うことを考えていたからだ。

「そうしたらきっと、もっと……南だって友達が増えて楽しくなるだろうに」
「ワウ……」
「なんて、無茶したって上手くいきっこないに決まっているよな」

同意を求めるように笑いかけられる。
その顔は悲しそうで文句を言えなかった。
(こいつは……僕は……)
己の浅はかさに気付くと嫌悪する。
彼の――人間の考えていることは難しかった。
僕だけの主でいて欲しいのは犬特有の考え方なのか。
より多くの人に良さを知ってもらいたいと願うのは人間だからこその考えなのか。
(違う。きっと矢崎だからだ)
ご主人を思えば後者であるべきなのは当然で、それをさも当たり前のように言う彼が悔しかった。
負けた気がした。
そんなことで喧嘩するほど、想っていた事実に気付いてしまったからだ。

「誰か、いるの?」

その時、通路から声がした。

「ウエンディ?」

薄暗い通路から顔を出したのはご主人だった。
習い事を早々切り上げて帰ってきた彼と鉢合わせになる。
座り込んでいた矢崎は反応が遅れて、大慌てで立ち上がった。

「や、矢崎く……!」
「南っ」

姿を現した彼は、驚いて後ずさる。
それを矢崎が掴んで引き止めた。

「ご、ごめん!」
「……っぅ……」
「ずっと謝りたかったんだ。俺、南の気持ちも考えずに先走っちゃって……」

勢い良く頭をさげる。
だがご主人は顔を背けた。
その横顔が酷く辛そうだった。
唇を噛み締めて顔を歪ませる。
だが怒っているわけではなかった。
ここ数日、矢崎の話になるといつもこんな顔をしていた。
苛立ちなんかよりずっと複雑で耐え難い表情。
(ああ、そうか……)
僕は気付いてしまった。
だからご主人の服の裾を噛んで引っ張った。

「う、ウエン……?」
「うぅっう」

首を振る。
違うんだよね、本当は違うんだよね。
ご主人は喧嘩してこんな顔をしたのではない。
仲直りの仕方が分からなくて辛そうにしていたのだ。
喧嘩するほど仲の良い人がいなかったのだからしょうがない。
(今が素直になる時なんだよ?)
僕は決して裾から口を放さなかった。
こんなこと初めてで戸惑うように見下ろしている。
矢崎は僕の意図を汲むかのように再び頭をさげた。

「もう二度と南に無理はさせない。本当にごめん」
「矢崎君……」

その態度にようやく背けていた顔をあげた。
一度間を置いたあと僕の方を見て口許を緩ませる。

「僕の方こそごめん」
「南」
「本当はどのタイミングで謝ればいいのか分からなかった。そしたら余計に拗れた」
「そんなっ……俺が……っ」
「ううん。矢崎君が僕を思ってしようとしてくれたことは分かってる」

引き攣っていた眉が緩やかな曲線に戻った。
照れくさそうに笑う姿には、もう先ほどまでの気まずさは残っていない。
矢崎は嬉しそうだった。
さっきまで僕の背中にもたれてへこたれていたとは思えないほど満面の笑みを浮かべている。
いつもそうだ。
感情がすぐ表に出る。
それをご主人も分かっているから嬉しそうだった。
見つめ合った二人は完全に自分たちの世界に浸っていて、僕を忘れている。

「ワ、ワンッ……ワンワン」

(ちょっと!僕だって仲直りの手助けをしたんだぞ)
主張するように吠えると、こちらを向いた。
我に返ったみたいに恥ずかしそうな顔をするから余計に腹立つ。

「よし、じゃあウエンディ。散歩に行こうか」
「お、俺も行く!」

ご主人はリードを持ってくると付けてくれた。
何事もなかったみたいに二人と一匹は散歩に出かける。
のちに二人がそれまで以上に仲良くなったのは言うまでもない話。

そうして時が過ぎた。
僕の体はどんどん大きくなったし、ご主人もランドセルをしまい、制服を着て登校するようになった。
矢崎とご主人はいつも一緒だった。
もはや一番の友達は彼になったのだった。

 

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