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***

多摩川には涼しげな風が吹いていた。
青さを増した草木が風に揺れて海のように波を描いている。
営業が終わったゴルフ場はネットで囲われていて、ちょうど良い犬の遊び場だった。
ご主人はリードを外すと自由にしてくれる。
持ってきたボールを投げてもらい、一目散に駆け出すと取りに行った。
咥えて持っていけば頭を撫でて褒めてくれる。
(ご主人に褒められるの嬉しい)
僕は次をねだりながら尻尾を振った。
待ての状態で低く構え、手元のボールが投げられるまでじっとしている。
いざ放たれると、宙に舞うボールの曲線を確認しながら飛んでいく先を見据えて駆け出す。
延々と続く遊びには果てがなくて、いつも先にご主人が音をあげた。
持ってきたペットボトルを勢いに任せて喉の奥に押し込む。
僕も暑くてゼイゼイいっていると、水道まで連れて行ってくれた。
蛇口から溢れる水に顔を突っ込み、気の済むまでたらふく飲み続ける。
その後、河川敷の段差になっているところで腰を下ろすと、一人と一匹はぼんやり静かな水面を見つめた。
とうに陽は沈みゆるやかな暗さが空に溶けている。
毛を揺らす風と共に流れる水音が穏やかな時を刻んでいた。
向こう岸ではスポーツに励む数人の学生が楽しそうに騒いでいる。
最近は休日になるとバーベキューの客で溢れて、こんな風にのんびり過ごすことが出来なくなった。
いつかのご主人と矢崎も、よくここで他愛もない話をしながら歩いたものである。
喧嘩は後にも先にもあれ一度だったが、再び二人の間に何があったというのだろうか。
ご主人は知らない。
実は今回も矢崎は一人でやってきた。
それも昨夜。
あまりに沈んだ表情でやってきたので、吠えることも忘れてしまった。
彼は変なことを言う。

「ウエンディは南が好きか」

――って。
バカ言うな。
好きに決まっている。
ご主人はこの世で最も尊く素晴らしい人なのだ。
好き以外にどんな感情があるというのだ。
僕は首を傾げた。
彼に近寄ればぐいっと抱き締められる。
居心地の悪い抱擁だった。
矢崎は止まらぬ成長期のせいで、初対面の時とは見違えるほど大きくなった。
それでもこんなに息苦しい触られ方をしたのは初めてだった。
思わず首を振って逃れようとしたが、抱きついた手は中々放してくれそうになかった。
戸惑う。
気付いてしまった。
矢崎は震えている。

「……もう、こうして会えないかもな」

耳元で小さく呟かれた。
垂れた耳が条件反射でピクンと動くと顔を寄せる。
(どうして?)
矢崎なんかいなくなっても構わないけど、ご主人は困るだろうに。
それがここ数日の異変の原因なのか。
やっぱりお前がご主人に意地悪をしたのか。
僕は悪意を込めて睨みつけた。
だが残念なことに伝わらない。
それどころか苦笑いをされて再び抱き寄せられてしまった。
今度はあまり悪くない抱擁だった。
先ほどより指先が優しく僕の体に触れている。

「好きにならなければ良かった」
(どういうこと?)
「そうすれば南をあんなに困らせることもなかったのに」

矢崎の瞳からふいに涙が零れ落ちた。
間もなくつつーっと頬を落ちる雫が顎を境に垂れる。

「くぅ……ん?」

驚いた、ただただ驚いた。
繊細なご主人の涙は何度も見たことがある。
対して矢崎はいつもあっけらかんとしていた。
河原でご主人が悩みを吐露しても「大丈夫。なんとかなるって」と、笑って済ませる。
そのたびに僕は「お前みたいに神経図太くないんだよ」と、噛み付いてやろうかと思った。
その彼が唇を噛み締めて涙を溢れさせている。
だがすぐに拭うと「かっこわりい」と、苦笑いをした。
自分でも泣いたことが信じられないみたいで、戸惑いと動揺が無理やり強気にさせる。
その姿が哀れで見ていられなかった。
(仕方がない。今日は慰めてあげる)
彼のことはまだ認めていないけど、早く仲直りをさせてご主人の笑顔を取り戻したい。
僕はそっと流れる涙を舐め取った。
頬を寄せて、これ以上泣くなと励ますように擦り合わせる。

「ウエンディ……」

すると少しは伝わったのかもしれない。
矢崎の顔は僅かに明るくなった。

「俺、本当に南のことが好きだったんだ。もちろん軽い気持ちじゃないぞ。意識し始めた時は悩んだし、どう接していいのか戸惑った」
「ワウ……」
「でも変えることは出来なかった。どんどん好きになっていくのを止められなかった。おかしいなんて分かっているよ。南が拒絶するのも当然だ。……でも、あんな顔をさせるつもりじゃなかった」

きっと彼は吐き出す場所を探していたのだろう。
溢れ出した想いに言葉は途切れなかった。
そこには僕の知らないご主人がいた。
矢崎にしか見せない顔だったのだろうか。
犬相手にバカみたいに喋り続けるほど必死だった。
どれだけ大切に想っていたのか、どれだけ大事にしてきたのか。
切々と綴る中には甘酸っぱさと同じくらい苦悩が混じっていた。

「あとはウエンディ任せたぞ。俺の分まであいつを守ってやってくれ」

矢崎はそれだけ言って帰っていった。
月明かりに照らされた顔は諦めの色を濃くしている。
(僕が守る……)
今までならきっと「当たり前だ。バカ野郎!」と罵っていたかもしれない。
だが少しだけ不安が滲んだ。
ご主人と僕は同じように月日を重ねているのに、一緒に大きくはなれないらしい。
気付いたら僕だけ大人になっていた。
彼が成長途中なのを尻目に、子犬時代とは比べ物にならないくらい大きくなっていたのだ。
昔ご主人と一緒に眠れた犬小屋も、一匹でいっぱいいっぱいになっている。
時は残酷だ。
共に過ごしているはずなのに、僅かなズレが生ずる。
その僅かなズレは徐々に大きくなって、いつか取り返しのつかないことになる。
(いつまで僕はご主人を守れるのだろう)
見上げた月は今日も美しいはずなのに、なぜかいつもより霞んでぼやけて見えた。

***

「ウエンディ、ウエンディ!」
「ワ、ワウ……」

名前を呼ばれてようやく我に返った。
振り返れば怪訝そうにご主人が見ている。

「疲れたか?」

問われたので首を振って身を預けた。
すると手のひらで頭から背中まで優しく撫でてくれる。
水面には月が映し出されていた。
昨日と同じ月だ。
ゆらゆら不安定に揺れながら、いつまでも浮かんでいる。
いつの間にか周囲の人はいなくなっていた。
ただ寄せては返す波の音が響き渡っている。
相変わらず吹く風は気持ちよくて、目を細めると急に甘えたくなってご主人にひっついた。
彼は微笑む。

「僕もウエンディみたいに素直になれたらいいのに、いつまで経っても駄目だな」
「クゥ?」
「始まる前から終わることを考えているんだ。こんなの上手くいきっこないってさ。いつもそうだった。家でも学校でも悪いほうに考えて、勝手に身動きがとれなくなるんだ。だから友達が出来なかったのかもしれない。僕なんか好きになってくれる人はいないって思い込んでいたんだ」

ご主人は切なげに瞳を揺らした。
そんなことないって言いたかったのに、伝わらないのがもどかしい。

「頭では分かっているんだ。もっとポジティブに考えなくちゃ、やってみなくちゃ分からないって。それを教えてくれたのは、矢崎だったのに……」

彼はあの喧嘩のあとから矢崎と呼び捨てにするようになった。
僕は初対面から呼び捨てにしているが、意味が少し違う気がした。
もっと愛情が込められているような、親しむように柔らかく呼んでいたのだ。
きっと二人はそのことに気付いていないだろう。
特に矢崎に気付かれなくて良かった。
ただでさえ馴れ馴れしくご主人の名前を呼び捨てにしていたのに、さらに付け上がらせるのは癪に障る。
(ご主人も気付いていないのだろう。どれほど彼に好意を持っているのか)
もし人の言葉を話せるのであれば聞いてみたかった。
矢崎のことが好きかって。
どれくらい好き?
僕がご主人を思うよりずっとずっと好き?って。
でもきっと笑って首を振るだろう。
「分からないよ」と、瞳だけ切なそうに潤ませて濁してしまうんだ。
悲しかった。
僕だけのご主人でいるのは最高の喜びだったのに、そうして自らが扉を閉めてしまう、他人と距離を置いてしまうことが辛かった。
今ならあの一度だけの喧嘩の意味が解る。
悔しいけど矢崎の言っていたことが理解出来る。
ご主人が自分だけの殻に閉じこもってしまうことは、何より避けなければならないことだったのだ。
それではいつまでも独りぼっちである。

「いけない。そろそろ行かなくちゃ松沢さんの店が閉まっちゃう」

するとご主人は慌てて立ち上がった。
それに合わせて僕も歩き出す。
暗くなった多摩川には蝙蝠の姿があった。
仲睦まじそうに二匹連れ立って飛んでいる。
その横を急ぎ足の僕らが通りすぎた。
時計を見ればもう七時を回っている。
だいぶ日が長くなったせいで、時間の感覚が曖昧になっていた。
そのまま店に駆け込むと、閉店の準備中だったらしく、ギリギリで頼まれていた砂糖を買うことが出来た。
僕もお気に入りのクッキーをもらって上機嫌である。

「さ、帰ろうっか」
「ワン」

無事に買えてひと安心したのか、ご主人の顔が綻んでいた。
嬉しくてひと鳴きすると、彼を守るために車道側を歩く。
暗い道でも大丈夫。
どんな怪しい奴が来ても近付けやしない。
さもボディーガードにでもなった気分でご主人を誘導した。

グイ――!

だが突如リードを引っ張られると、いきなり首を絞められて立ち止まる。
「どうしたの?」と、見上げれば、ご主人は道の先を見つめていた。
(何があるんだろう)
意味深な視線を辿るように振り向くと、遠くに矢崎の後ろ姿が見えた。
部活帰りなのかジャージ姿で背中に大きなバックを背負っている。
彼は自宅が多摩川の近くにあるため河原を通って帰っているのだった。

「行こう、ウエンディ」

するとご主人はそのまま別の道に行こうとした。
気まずさに顔を歪めて無理やりリードを引っ張る。
表情を見るに、逃げようとしていることは明らかだった。
そうして己の首を絞めているだろうことは知らない。
辛そうな横顔を晒していることにも気付いていない。
過ちに気付けないのは悲しいことだった。
しかし何が正しいのかなんて犬には分からない。
人間の世界の常識は犬には通じない。
僕にとって正しいことはご主人が心から楽しそうに笑ってくれることで、それ以上にもそれ以下にも求めていることはない。
(……そう。僕はいつまでも君の傍にいられらいんだ)
物事には期限がある。
命も同じだ。
それくらい僕だって把握している。
いつまでもご主人を守ってあげられたら、見守っていられたら素晴らしいことだ。
でも命の長さは生き物によって違う。
共に子供でいる時代は終わった。
僕は早く老いる、そして手の届かないところに逝ってしまう。
(このままじゃ駄目なんだよ)
ご主人だって解っている。
解っているからこそ辛いんだ。
始めから無であれば捉われることはない。
でも何かが生まれてしまったら、気付いてしまったら、なかったことには出来ない。
ここで逃げたとしても、いつまでも引きずることになり、本当の意味で逃れることは出来ないのだ。
(あんな小さな後ろ姿だけで気付いてしまうほど好きなんだろう?)
暗さを増した空に家の明かりが灯る。
ところどころにある街灯は鈍い光を放ち足元を照らした。
豆粒のような姿で矢崎だと見つけるのは難しい。
犬ですら気付かなかったのに。
始めから彼の通学路として意識をしていたのだろうか。
だとしたら、もう、ご主人に問わなくても解る。
彼が好きなんだって。

「ワンッ!ワンワンッワンッ!」
「う、ウエンディ!」

ご主人の不意を衝いて一気に駆け出した。
急に引っ張られるとは思わず、彼はつい反動でリードを放してしまう。
自由になると一目散に矢崎に向かって走った。
犬の鳴き声とご主人の声に彼は振り返る。
――と、自分に向かってくる大きな犬の存在に驚き、立ち止まった。
その間にすぐ傍まで行き、勢い良く飛びつく。

「おわ――っ!」

矢崎は耐え切れず道端に倒れこんだ。
それでも構わずしがみつくと頬をペロペロと舐める。
昨日と違ってしょっぱくなかった。
むしろ汗臭い。

「ははっ、どうしたんだよ!お前」

彼はくすぐったそうに笑った。
その後ろを慌てたご主人がやって来る。

「ウエンディっ、なにして!」

ようやく僕らのもとにやってくると、荒く息を吐いた。
さんざん河原で遊んでヘトヘトだったのだから仕方がない。

「み……み、なみ」
「矢崎……」

僕は二人の微妙な空気に気付くと、大人しく体から退いた。
空気を読むことも主人を思う犬の嗜みである。

「ひ、久しぶりだな」

先に声をかけたのは矢崎だった。
なぜかバツの悪そうな顔をしている。
昨日は女々しく泣いたくせに、散々ご主人が好きだとのたまったのに見る影もなかった。
ご主人もそれを感じ取って益々顔を曇らせる。
こんなに近い距離にいるのに、二人の心はすれ違ったまま離れようとしていた。

「ご、ごめんね。ウエンディ、行くぞ」

彼はリードを持ち直すと強引に引っ張った。
首が絞まって苦しくなる。

「ウエンディ?」

だが断固として動かなかった。
前足に力を入れて踏ん張れば、人間といえども中々動かせそうにない。
犬が本気で走ったら、噛んだら、体当たりをしたら人間は敵わないだろう。
僕のような大型犬ならなおさら。

「ちょっちょっと!ウエンディ!」
「うぅ……っ、うぅっ」
「ウエンディってば!」

嫌がるように首を振る。
ご主人も負けずに引っ張るがテコでも動かなかった。
お互い必死な引っ張り合いが続く。
それを止めたのは矢崎だった。

「……そんなに、俺のこと嫌いか」

一連の様子を見ていた彼が呟く。
その声にご主人はハッとして振り向いた。
同時にリードの力が弱まる。
見上げれば矢崎が笑っていた。
僕でさえ胸が詰まりそうなほど、悲しい笑い方だった。
ならご主人にはもっと響いていたに違いない。

「……っ……」

現に何か言おうとした。
僕には「違う」と言いたかったように思えた。
しかし音にならず消えると、目を逸らし俯いてしまう。
また不安や恐れと戦っているのだろう。
リードを持つ手が震えている。
何かしたいけど何もできない。
僕は無力なんだ。

「そんな顔すんなって。大丈夫。ちゃんと諦められるからさ」
「…………」
「ただ、その前に言ってくれないか?俺のことなんか大嫌いだってさ。顔も見たくないって。そしたらきっぱり整理が出来ると思うんだ」
「……っぅ……」
「もうこれ以上近寄らない。俺、諦め悪いからこれぐらい言わないと引きずりそうなんだ。悪いな、ははっ」

なんでこんな時に笑っていられるのだろう。
それが矢崎の優しさだとしたら、馬鹿だ。
不意に生温い風が吹く。
嫌な風だ。
同時にどこかの家の夕飯の匂いが漂ってくる。
その良い匂いに鼻を鳴らすが動くことはない。
僕には見守る義務があるからだ。
だから姿勢良くおすわりをして待っている。

ちりんちりん――。

風と共に清涼な風鈴の音が聞こえた。
風に乗って軽やかに色紙が揺れ、鈴が鳴っている。
永遠かと思われた時も一瞬で変化するものだ。
ご主人はありったけの勇気を振り絞って顔をあげる。
覚悟を決めて、矢崎と視線を交わした。
もはや己の背中を押すのは己しかいない。
この状況を打破出来るのは自分の力だけである。

「……っ、ぅ……や、や……矢崎……」

声が震えていて痛々しかった。
誰が見ても限界は近い。
いつもならきっと母親か矢崎が止めに入っているだろう。
だが今日は止めなかった。
あるがままを受け入れようと真正面から見据えていた。
その潔さを邪魔してはならないと僕も自粛する。

「や、矢崎……っ、矢崎……」
「うん。……うん」
「や…っざき……」

何度も呼ぶ声に答えは出ていた。
それを聞きながら、走馬灯のように蘇る記憶がある。
初めて会った泣きそうな笑い顔。
初めて矢崎が来た時の戸惑いながら笑う顔。
二人の散歩が当たり前になって、屈託なく笑う顔。
喧嘩して辛そうに笑う顔。
全てがひとつに溶けて鮮やかに映し出されると、まるで昨日のことのようだ。
何年も一緒で、一番近くで見てきた輪郭が重なっていく。

「……っ、き、嫌いじゃないよ」
「み、なみ……」
「きっ、嫌いになんてなるわけないじゃん!だけど怖かったんだ。僕なんかずっと好きでいてもらえる自信ない。矢崎ならきっと……もっと良い子が……」

途中言葉に詰まってしまう。
口に出すことすら恐ろしかったのかもしれない。
矢崎も解っていた。
彼だってずっとご主人と共にいたのだ。
分からないわけない。

「南、好きだよ」
「――!」

そっと震えていた手を握る。
まるで魔法の呪文だ。
僕にも使えたらいいのに、伝えることは出来ない。
矢崎が柔らかく微笑む。
全てを受け入れるように、葛藤や不安、恐れから包み込むように優しい顔をする。
あんな顔をされたら、誰だって我慢が出来ない。

「ぼ……ぼくも……すき……!」

ご主人の気持ちは溢れた。
気持ちを認めることすら困難だったのに、弱い心を奮い立たせて言葉を放った。
どれだけ矢崎が嬉しかったのかは言うまでもない。
何せ、なんでも顔に出る男だ。
間抜けと言ってやろうか、馬鹿な奴と吠えてやろうか。
(いいや、こういう時に犬がするべきことは――……)
気付かれないようにそそくさとご主人の後ろに回ると、そのまま前足を上げて飛びついた。

「うわああああっ」
「み、南!」

いきなりのことにご主人は前のめりに倒れると、矢崎は抱き締めるように支えた。
これ以上ないくらい体が密着したのを確認すると、何事もなかったように傍に座る。

「ごご、ごっ……ごめん」
「うっ、うっ、ううんっ」

重なった体に二人とも真っ赤になった。
そのまま茹でダコにでもなってしまいそうな赤さだ。
だが抱き合ったまま離れようとしない。
至近距離に慣れていないのか、お互い探り探り距離を詰めようとしている。
矢崎の手がご主人の腰を抱き寄せた時には「調子に乗るな!」と、噛み付いてやろうかと思ったけど我慢した。
(まったく、世話のやける)
僕だけが知っている二人の秘密。
どれだけご主人は矢崎を好いているか。
矢崎はどれだけご主人を大切に想っているか。
(……ああ、やっぱり人間の言葉を話せなくて良かった)
黙っていられるほど愚かではないし、易々と教えてしまうのも悔しい。
きっと矢崎は目を輝かせて喜ぶ。
ご主人への気持ちは認めるが、最高の相棒という地位はまだ譲りたくない。

「南。俺も好きだよ。ずっとずっと好きだったよ」
「うん……僕だって本当はずっと――」

(ええい、いつまでやっているんだよ!)
さすがの僕も腹が立ってきた。
二人を結びつけたのは僕なんだ。
少しは褒めてくれたっていいじゃないか。
ついでにおやつのジャーキーをくれたっていいじゃないか!

「ワンッ、ワンワンッ」

僕は二人の間に割って入った。
(ふんだ、引き裂いてやったぞ)
交互にどうだと見上げてやる。
だがご主人は怒るどころか、ずっと見たかった顔で笑っていた。
満たされたような柔和な表情に拗ねていたことも忘れて尻尾を振る。

「ありがとうウエンディ」
「ワンッ」
「大好きだよ」
「ワンワンッ」

頭を撫でる手は今日も温かくて心地好い。
ご主人と矢崎に挟まれて上機嫌で帰路に着く。
見上げれば群青色の空が広がっていて、丸い月と穏やかな光を放つ星が燦々と煌いていた。
僕にはあの星を掴むことは出来ない。
同様にこの秘めた想いを伝えることは出来ない。
それどころか共に歩み続けることさえ敵わないだろう。
(僕は君より先に逝く運命だから)
その代わり出来ることをしていきたいと思う。
ご主人が笑っていられるように、幸せでいられるように。
僕にとっての生きている喜びは、ご主人を愛するためにあるのだから。

END