空に放つ声の行方

時折、何が正しいのか分からなくなることがある。
もちろん誰かを傷つけるのは悪いことで、社会には守らなくてはならないルールがある。
細かく言えば大人の世界には常識や暗黙の了解なるものが存在し、それを理解しない人間を「空気が読めない」と嘲笑ったりするという。
それはオレたちの世界にまで広がって、間の悪いクラスメイトを「空気読めないヤツ」と陰口を叩いた。
でも時々。
本当に時々、ふと思うんだ。
どうやってオレたちは空気を読んでいるんだろうって。

***

宇佐美は今日も掃除から逃れて遊んでいた。
女子たちに文句を言われるのも知らん顔で教室を出て行く。
授業中の居眠りやお喋りはもちろん、忘れ物も多く誰から見ても問題児だった。
それでも彼はクラスで浮くどころか、友人も多く行事では決まって中心人物だった。

「おい宇佐美!ちゃんと掃除しろよ」
「あぁ?」

友人と廊下を走っていたら、先回りしたのか学級委員の丸尾が通せん坊をしていた。
まだ小学生だというのに瓶底メガネに切り揃えられた髪の毛は、いかにも真面目を絵に描いたようで、その風貌からとある漫画のキャラクターを連想して“丸尾”とあだ名をつけられている。
丸尾が本当の苗字ではないことを先に書いておこう。

「げっ丸尾」

宇佐美は露骨に嫌な顔をした。
彼の前で止まると口許をヒクつかせる。
正反対の二人はぶつかることも多く、担任の頭を悩ませる原因のひとつだった。

「宇佐美はどうしてそう、ルールを破ることが出来るんだ?みんなに迷惑を掛けていることが分からないのか?」
「べ、別にいいじゃねーか」
「何がいいんだ。学校は集団行動を学ぶ場でもあるんだぞ。お前がそうやってはみ出すとこっちまで迷惑なんだ」
「なんだと」

いつものように対峙した二人は睨み合って引かない。
だからといって丸尾が正論であることは分かっていたし、口が立つ彼には敵わない。
それが余計に宇佐美を苛立たせる結果になっていたが、互いに気が強いので一歩も引かないのである。

「そのわりにクラスで浮いてるのはお前の方だろ。何でもかんでもうるせーんだよ。オレに指図するな」
「はぁ?事実じゃないか」
「お前が友達いないのも事実だろ!集団行動を学ぶなんて言っておきながら説得力ねーんだよ」

宇佐美の言葉に押し黙った。
それもまた事実だからである。
丸尾は真面目だが、それが行き過ぎて堅物のイメージが強い。
それゆえいまひとつクラスで打ち解けずにいた。

「そ、それは……」

勢いをなくした丸尾は口を閉ざしてしまう。
その間に宇佐美は「ばーか」と捨て台詞を吐いて行ってしまった。
これもまたいつもの光景である。
それでも丸尾は注意することをやめなかった。
どんなに宇佐美と喧嘩しても怯まなかった。
真面目というより頑固である。
結局今日も宇佐美に軍配が上がると、残された丸尾はひとり寂しく教室へ帰っていった。

放課後、宇佐美は数人の友達と校庭でサッカーをし、門限の時間になるとみんなバラけて帰路についた。
途中まで一緒の友人と二人で夕暮れの通学路を辿る。
校庭や近くの公園で野球やサッカーをするのが日課だった。
よほど雨でも降らない限り、彼らは遊ぶことをやめない。

「おい宇佐美、見てみろよ」

すると隣を歩く友人に声を掛けられた。
ふと見れば小さな公園で、そこには丸尾がいる。

「アイツいつも塾だ塾だって言っているのに」

夕暮れの公園は静まり返り、丸尾が座っているブランコだけがひとり寂しく揺れていた。
空を見上げる彼は、メガネが光に反射してよく分からない表情をしている。
声を掛けにくいことは確かだった。

「な、からかってやる?昼休みの仕返しにさ」

友人は悪戯っ子の笑みを浮かべて持っていたサッカーボールを叩いた。
だが宇佐美はじっと見つめたあと、小さくため息を吐くと視線を逸らす。

「……面倒くさいからパス」
「えー、つまんねぇ」
「いいから行くぞ」

そのまま彼は何事もなかったように公園をあとにした。
そろそろ五時の鐘が鳴る頃である。
家は門限が厳しくて一分でも遅れれば、夕食のおかずを減らされてしまう。
年頃の少年には何より大きな打撃だった。

夜、家族四人で夕食を囲んだ。
父親は平凡なサラリーマンで、母親も平凡な主婦である。
宇佐美の隣にはまだ離乳食の妹が専用のイスに座って、母親から食べさせられていた。
テレビを見ながら変わらぬ食卓を囲む。

「そういえば今日帰りに立川さんに会ったぞ」

急に思い出したのか、父親がビールを飲みながら宇佐美に笑いかけた。
一瞬立川って誰だろうと考えるが、すぐにそれが丸尾の本当の苗字であることに気付く。

「いや~ロンドンの帰りだってよ。早く帰られるのが珍しいらしくて嬉しそうだったな」
「いいわね。立川さんの旦那さんって国際線のパイロットでしょ?素敵だわ~」
「奥さんだってお花の先生じゃなかったっけか。あそこは夫婦揃って凄いよなぁ」

両親の会話には参加せず、好物のから揚げを黙々と食べる。
(ふーん。アイツんちって凄いんだ)
どちらも平凡のうちとは段違いである。
そういえば丸尾の家はこの付近じゃ一番高いマンションの最上階に住んでいた。
無論、遊びに行ったことがないから、どういった部屋なのかは知らない。
だが自分の家より豪華であることは簡単に想像ついた。

「息子さんも秀才だってんで、さぞご両親も鼻が高いだろうな」
「旦那さんも奥さんも綺麗な人だしクラスではモテているんじゃない?」

急に話を振られた。
大口を開けてご飯を頬張っていたところで手が止まる。
(秀才?モテている?馬鹿馬鹿しい)
確かに真面目だが、小学生といえば頭の良さより運動神経が良いとか面白いという方が重宝されるものである。
丸尾が相手にされるわけがなかった。
(第一に瓶底メガネだし)
それでも宇佐美は否定しなかった。
彼は面白くもないテレビを見ながら、無心にご飯を食べ続ける。
その脳裏には夕方見た独りぼっちの丸尾が映っていた。

翌日、その翌日も同じだった。
遊び疲れて帰る途中、公園でひとり佇む丸尾を見かけた。
昼間の彼に変わりはなく、いつものように宇佐美と対立することがしばしばあったのだが、そんな素振りは見せない。
丸尾は地元で有名な進学塾に通っており、中学受験する気満々だった。
彼としてもこのまま宇佐美のような煩い連中と市立中学に進学したくないだろう。
毎日のようにあると聞いていたのに、三日も続けて公園にいるのは変だ。
直感でそう感じた宇佐美はその翌日、友達と別れたところで引き返すと丸尾のいる公園までやってきた。

「おい。何やっているんだよ」

今日もひとりブランコに乗る彼に遠慮なく声をかける。
すると丸尾は驚いたように仰け反った。
気まずそうに目を逸らしモジモジしている。

「う、宇佐美には関係ないだろ」

持っていたバックは進学塾のもので、すぐに彼が塾を無断で休んでいるのだと気付いた。

「ははーん。お前塾サボっているんだろ。暇つぶしに公園にいるんだろ」
「な、ななっ……何を勝手なことを!」
「昨日も一昨日もその前もここにいるのを見てたんだ。言い逃れは出来ないぞ」
「!!」

宇佐美は勝ち誇った顔で仁王立ちした。
反論の余地がないことは明白で、だからこそどんな文句を言ってくるのか楽しみにしていた。
いつもの仕返しである。

「お前、あれだけオレにルールを守れだなんだと言っているくせに、自分は塾をサボってもいいんだな」
「…………」
「真面目だけがとりえの丸尾が聞いて呆れるぜ。みんなに言ったらなんて言うかな」
「…………」
「なぁ、おい。何か言えよ。オレばっか喋って馬鹿みてぇじゃねーか」

丸尾の肩をぐいっと掴んだ。
すると宇佐美は思わず口を噤んでしまう。
あの丸尾が泣くまいと肩を震わせていたからだ。

「な、なんだよ……」

いつものように言い返してくるかと思っていた宇佐美は動揺する。
喧嘩の多い二人だが、泣かせるようなことはなかった。
強情な丸尾が泣くはずがないと思っていた矢先に不意打ちを喰らって戸惑う。

「……言えばいいだろ」
「は?」
「全部バラしてみんなで笑えばいいだろ」

押し殺した声は小さくてどもっている。
その横顔は弱々しくて、嫌な気持ちになった。
(これじゃまるで弱い者いじめみたいじゃん)
調子が狂う。
ただ丸尾の困った反応が見たかっただけなのに、胸糞が悪くなった。
だからといって、今更取り繕うような器用さは持ち合わせていなくて、どうしたらいいのか分からなくなる。

「…………」

静かな公園に春寒の風が吹きつけた。
ブランコと滑り台しかない小さな公園は、普段から遊ぶ人も少なく、近くの団地に住んでいる幼児たちの遊び場だった。
宇佐美くらいの年齢になれば、物足りなくなって別の大きな公園で遊ぶようになる。
丸尾は分かっていて、ここにいたのだ。
この場所なら通りかからない限り、同級生に会わなくて済む。
彼の気持ちを理解していた宇佐美は、中央の時計台を見上げた。
あと数分で門限の五時を迎える。
辺りは真っ赤に染まり、西の空へと陽が沈もうとしている。
丸尾はずっと下を向いていた。
翳った顔は陰影を強く残し闇に溶ける。
まだ肌寒い時期の風は妙に冷たくて、左胸が痛くなった。

「ん」

気付けば丸尾の手を掴み引っ張っている自分がいる。
そのまま強引に立ち上がらせると戸惑う丸尾と目が合った。

「お前のせいで門限の五時に間に合わない。だからオレんちに来い」
「は?何言って……」
「いいから黙ってついて来ればいいんだよ。ほら、行くぞ」
「あっ……ちょっと引っ張るなって」

宇佐美は手を握ると有無を言わさず公園から連れ出した。
丸尾の手は氷みたいに冷たくて、どれくらいの時間あそこに居たのだろうと考えてしまう。
喧嘩以外に話すことなんて皆無だった二人は無言で歩いた。
とうに五時を過ぎた帰り道は誰もおらず、足音が異様に響く。
丸尾は黙ってついてきた。
戸惑いはあるが、嫌がることはなくて宇佐美の為すがまま手を繋いでいる。
途中で気付いた宇佐美は慌てて離すと早足になった。
(なんでオレが丸尾なんかと手を繋がなくちゃならないんだよ)
気まずくて振り返ることが出来ないまま、家が近付いてくる。
ふと自分の手を握れば、冷たい丸尾の手の感触が未だに残っていた。
それが居心地悪くて聞こえないよう小さく舌打ちをする。

「ただいま」

家のドアを開ければ母親が腕を組んで待っていた。

「おかえり。何か言い訳は?」

手には大きな目覚まし時計を持っていて、見せ付けるように指を差す。
とっくに門限の五時を過ぎていた。
眉を引くつかせる彼女は静かなる怒りで宇佐美を待ち構えている。

「ちょ、ちょっと待て。今日はコイツを連れて来たせいで門限に遅れたんだ」

ドアを大きく開けると後ろにいる丸尾を引っ張り込む。
そうして自分の隣に寄せた。

「あ、あの……こんばんは」
「……あら、立川君?」

すると母親は珍しい人物の登場に怒りを忘れた。
丸尾を家に連れてきたのは初めてである。
その反応にしめた宇佐美は畳み掛けるように言った。

「ちなみにコイツ、今日塾サボってんだ。ひとり寂しく公園に居たから連れて来たんだよ。偉くね?」
「おっおい宇佐美」
「本当のことだろ。だから今日の門限は仕方ないんだ。丸尾の顔に免じて許してよ」

威張る口ぶりに母親はため息を吐いた。
一方の丸尾はいきなり暴露されて顔色を青くし、早くも逃げ腰になっている。

「……はぁ。何が仕方がないのか分からないけど、しょうがないわね」
「やったー」

結局宇佐美の思惑通りに事が運んだ。
息子の悪知恵っぷりに呆れかえりキッチンへ戻ろうとする。

「ご飯まだ出来ないから、うがいと手洗いしてお風呂も先入っちゃいなさい」
「はーい。……あ、あとで丸尾んちに電話しといて」
「はいはい」
「丸尾のかーちゃんにはバラすなよ!」
「分かっているわよ」

そう言ってキッチンへと消えた。
宇佐美と丸尾はその間に洗面所でうがいと手洗いを済ませ部屋に荷物を置く。

「おい、宇佐美何考えてるんだよ」

それまで大人しくしていた丸尾が、部屋で二人きりになると突っかかってきた。
明らかに怒った表情で宇佐美を睨む。
しかし彼は屁でもない顔でやり過ごした。

「何考えてって別に」
「なんでこんなことになるんだよ」
「なにが?」
「だからっ」

丸尾は頭を抱えるとそのまま宇佐美のベッドにダイブする。
スプリングが軋んで彼の体が沈んだ。

「ああーーもうっ!!」
「っていうかさ、いきなりオレのベッドに飛び掛らないでくれるか」
「そういう問題じゃないんだよ!」

ガバっと起き上がると、ずれたメガネを直しながら訴えかける。
そのうち混乱が露になっていったのか、髪の毛を掻き毟って振り乱した。

「オレはお前と違って真面目で通ってるんだ!もしこれが両親に知られたら何て思うか!分かるか!?塾をサボった上、クラスメイトんちに上がりこんで夕食を頂こうとしているなんて。しかも相手はお前だ。真面目の真の字もないお前なんかに!ああああ、どうしよう……オレはなんてことしたんだああぁぁ!」
「いや、だからお袋にはバレないように嘘吐いてもらえば……」
「だからそういう問題じゃないんだよ!嘘を吐くなんて……しかも宇佐美のお母さんに嘘を吐かせるなんて考えられない!ありえない!信じられない!もうオレは終わりだ。こんなに悪行を重ねて生きていけない。生きてちゃいけないんだ!……くそっ、こんなことなら宇佐美なんかに着いていかなきゃ良かった」
「はぁ?」

勝手に人生が終わったと絶望する丸尾に宇佐美は苛立った。
(着いてこなきゃ良かったってなんだよそれ!)
確かに門限のダシに使ったのは悪いと思っている。
でもそれ以上に独りぼっちの丸尾が居た堪れなくて連れてきたんだ。
あんな暗くて寂しいところにひとりで残しておけないって思ったから無理やりにでも引っ張ってきたのだ。
(丸尾なんかに思うこと自体変なのは分かってる)
どうでもいいクラスメイトなのは間違いない。
むしろ嫌いな部類に入るはずの男に情けをかけたあげく、否定されては腹が立っても仕方がなかった。

「……じゃあ出てけば」
「は」
「別に、どうしてもってワケじゃねーから。今からでも公園に戻れば?」
「……っ……」

その言葉に黙り込む。
一瞬、丸尾の瞳が不安定に揺れた気がした。
見れば枕を掴んでいる手が震えていて、辛そうに顔を歪ませている。
(真面目・頑固・強情っていいとこないな)
宇佐美の部屋に訪れた沈黙は重苦しいのに、彼は吹き出しそうになっていた。
丸尾の反応が素直で面白かったのである。
誰も暗くて寒い公園にひとりで戻りたいやつなんていない。

「嘘」
「え?」
「嘘に決まってるだろ」

宇佐美がそう言って笑うと丸尾は驚いて顔をあげた。
心細そうな表情がなおさら可笑しい。

「いいじゃん。別に真面目じゃなくても」
「…………」
「第一に、数回塾をサボった位で不真面目になるんだったら、オレはとっくに超超超不良ってことになるぞ」
「宇佐美……」
「そんな不安そうな顔すんなって。だいじょーぶ!お袋はああ見えても話の解る女なんだ。安心しろよ」

しょぼくれている彼の背中を励ますつもりで強く叩く。
それ以外に励まし方を知らなかったからかもしれない。
こんな風に話すこと自体初めてで、宇佐美自身上手く言葉に出来なかった。
元々真面目な話は苦手である。

「ま、とりあえず男ってのは裸の付き合いから始めねーとな」
「えっ」
「ほら。飯が出来るまでに風呂に入らなくちゃ駄目だから行くぞ」
「うっ宇佐美……ま、待って」

宇佐美は着替えを持って部屋を出ると、後ろから慌てて丸尾がついてきた。

夜、丸尾も一緒にテーブルを囲んでご飯を食べることになった。
畳の上で正座しての食事は外食以外ないらしく戸惑っている。

「慣れてないなら無理するなよ。あとで足が痺れて立てなくなるぞ」

ぎこちなく正座した彼を心配すると頑なに「大丈夫」と言って訊かない。
両親の手前、礼儀正しいところを見せたいのだろう。
人見知りが激しいのか口数が少なくなった丸尾は、見るからに緊張していて面白い。
なぜか妹の杏子(あんず)は丸尾を気に入って服の袖を掴んで離さなかった。

「杏子。それじゃお兄ちゃんがご飯食べられないでしょ」
「あ、いえ。オレは別に」
「あーぅ……いひひ」
「うは、イヒヒって怪しい笑い方すんなよ」
「楓(かえで)そんなこと言ってないで杏子の意識を逸らしてちょうだい」
「へーへー」

宇佐美は立ち上がると隣の部屋から玩具のマラカスを持ってきた。
それを杏子の前で振れば、丸尾を掴んでいた手を離す。
マラカスの音に夢中になった彼女は「きゃっきゃ」と楽しそうに笑った。
その間に丸尾を自分の隣に座らせる。

「さぁ、杏子ちゃん大人しくご飯食べましょうね」

母親はここぞとばかりに離乳食をスプーンですくって彼女の前に差し出した。
すると丸尾のことなどすっかり忘れて無邪気に口を開ける。
一部始終を見ていた父親が「単純なのは誰の血だ」と豪快に笑った。
宇佐美は聞こえないように「あんたの血だよ」と呟く。

 

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