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「じゃあ俺たちも食べるとしよう」

ようやく落ち着いた家族はテーブルを囲んで手を合わせた。
「いただきます」と、声を合わせれば、途端に賑やかになる。
今日はカレーだった。
宇佐美と丸尾の皿には温泉卵が二個乗っている。
お腹が減っていた二人は見る見るうちに平らげた。

「おかわり」

毎日三杯のおかわりは当たり前である。
丸尾の脇腹を突っつくと、彼も遠慮がちに「おかわり」と言った。
そうして和やかな夕食は進んでいく。
全員が食後のリンゴを食べている時、丸尾は意を決したように話を切り出した。

「あ、あの……」

後ろに下がった彼がいきなり頭を下げるから宇佐美はぎょっとした。
それは両親も同じで三人が顔を見合わせる。

「今日はありがとうございました。それからおばさん、嘘吐かせてすみませんでした」

よほど拘っていたのか、丸尾は必死の形相で謝った。
誰も謝罪なんて求めてなかったせいか、首を傾げる。

「なにが?」

宇佐美が真っ先に声をあげた。
暢気な声に丸尾は恐る恐る顔を上げて見るが、みんな不思議そうな顔をしている。

「いや、だから……その」

あれだけ賑やかだった食卓が静まり返った。
杏子は満腹になったのか今じゃ母親の腕の中で眠っている。
健やかな寝息だけが響いた。
時折テレビから流れてくる観客の笑い声が滑稽に聞こえる。

「まぁいいんじゃないかしら」
「え?」

すると母親は杏子のお守りをしながら笑いかけた。

「深刻な悩みなら親御さんとご相談した方がいいと思うけど、少し塾を休むぐらいなら気晴らしのひとつにでも思えば、それでいいんじゃないかしら。ねぇ?」

父親に意見を求めると、頷き丸尾を見る。

「そうだな。うちは全然構わないから、また何かあったらいつでもおいで」
「は、はい」

慌てて返事をする彼を、宇佐美は真意を図るように窺った。
その横顔はどこか釈然としておらず、寂しげに見える。
(あの時と同じ顔だ)
公園で見たあの横顔は、宇佐美の心に言い知れぬ不安を寄せてしまう。
放っておけなくて、手を差し伸べてやりたくなる顔である。

帰り、母親から言われて丸尾を家まで送ることになった。

「ご、ごめん。別に平気だったんだけど」
「なんで謝るんだよ。お前拒否してたじゃん。それを押し切ったお袋が悪いんだ」

住宅街の閑静な通りを二人揃って歩く。
日中はさほど寒くないが、夜はコートが手放せないほど冷える。
ぐるぐるに巻いたマフラーに顔を埋めてポケットに手を突っ込んだ。
宇佐美の自宅から丸尾の家まで片道十分程度である。
所々にある街灯が足元を照らすだけで、店ひとつない道は思ったより暗かった。

「な、お前サボった日はこんな時間まで公園にいるのか?」
「まさか。塾は四時から七時までだから今日ほどは遅くならないよ」
「七時って一時間しか変わんないじゃん……その時間だってもう暗いだろ」

三時間もこの寒空の中にいなければならないのは結構苦痛である。
なにより危なくはないのか。
宇佐美ならまだしもヒョロヒョロの丸尾がこんな暗い中ひとりで公園にいたら危険に思う。

「わ……っ」

その時、急に丸尾がよろけた。
隣にいた宇佐美は咄嗟にポケットから手を取り出すと庇うように体を支える。

「ご、ごめん」
「おう」

その軽さに驚くと、慌てて手を引っ込めた。
同い年なのに男とは思えないほど華奢でうろたえる。
それを知られたくなくて顔を背けるが、丸尾は服を掴んだまま止まっていた。
どうやら足の痺れが戻らないらしい。
両親の前では普通を装っていたくせに、二人っきりになった途端「足が痛い」と、言い出した。

「痛みはあまりなくなったんだけど、まだ違和感がある気がする。変な感じ」
「だから足を崩せばって言ったのに。見栄なんて張るなよ」
「見栄じゃない。別にオレは……っ」
「ま、いいけど」

宇佐美の服を掴んだままゆっくりと歩き始める。
仕方がなくその歩幅に併せた。
足元を気にした丸尾は下を向いて一生懸命に歩を進めている。
痺れて思うように足が上がらないらしい。

「……でも、宇佐美は凄いな。あれだけずっと正座していたのに全然痺れてないじゃないか」
「それって凄いことか?うちはずっとあのちゃぶ台でご飯食べてるし、正座が当たり前だから慣れているだけだと思うぞ」

むしろ友達の家にあるダイニングテーブルが羨ましかった。
畳みにテーブルなんて地味でダサいだけである。
何度も買ってとおねだりしたが、置けるスペースがないためあっさり却下となった。

「いや凄いよ。宇佐美が正座出来るなんて思わなかったし、オレのことを助けてくれると思わなかった」
「あ、あれはっ……その……」
「それに妹のあやし方だってちゃんと知っている。普段から面倒みてないと出来ないことだよね」
「なっ……っ……」
「オレさ……今までずっと宇佐美を誤解してた。……ごめん」

ポツリと謝る姿は普段の強気っぷりからは想像できなくて狼狽する。
どう反応していいのか分からなくて声にならなかった。
忙しなく空中を彷徨う視線は思い迷い、いつもの物言いさえ忘れて押し黙る。
その様子に気付いた丸尾はひっそりと頬を緩ませた。

「じゃあまた明日」
「お、おう!」

結局そこでお開きになった。
丸尾は手を振り颯爽とマンションの中に消えていく。
ひとり残された宇佐美はぎこちなく見送った。
そこに身を切るような風が過ぎて、再びマフラーに顔を埋めると家に帰る。
自宅に戻れば両親が心配そうに玄関へ駆けつけた。

「立川君本当に大丈夫なの?」
「大丈夫って?」
「なんだか思いつめているように見えたし、すごく真面目だから考えすぎて自分を追い詰めないかと思って……」

彼の態度に不安を覚えた母親がそう切り出してきた。
靴を脱いだ宇佐美はただ頷くだけである。

「もしあれだったら、私の方からお母さんに話そうか?」
「いや、大丈夫だよ」

彼女の気遣いを断るとそのまま自室に直行した。
きっぱりとした言いように両親はそれ以上何も言えず、息子を見送ると目配せをする。
諦めて首を振ると、それぞれ別れた。

翌日の丸尾はいつも通りだった。
むしろ宇佐美の方が大人しくて周囲に気味悪がられたほどだ。
彼の席は一番後ろの窓際で、対して丸尾は一番前の真ん中である。
今まで意識したことがなかったせいか、そこに座っていたことすら忘れていた。
昨日の寒さを引き摺った天気は悪く、厚い雲に覆われている。
午前中なのに嫌な暗さだった。
生憎遅刻寸前だったため、天気予報は見忘れたが、今日一日晴天が拝めないであろうことはなんとなく分かる。
新学期特有の賑やかさがひと段落した校舎は落ち着きを取り戻していた。
しいていえば新入生が騒がしいくらいで年長ともなれば何も変わらない日々である。
クラス変えは持ち上がりのせいでなかったし、春休みも日数が少ないため、特別新鮮な気持ちになることはなかった。
校庭の桜はほとんど散り、枝から葉が出始めている。
机に肘をついて、ぼんやり考えごとをしながら窓の外を眺めていると、突然肩を叩かれた。
振り返れば教科書を持った担任が険しい表情で見下ろしている。

「うーさーみー」

気付けば教室中の視線が自分に集まっていて、言い逃れの出来ない状況だった。
一番後ろの窓際といえばサボるのにうってつけの席で、新学期すぐの席替えでこの席に当たった時はガッツポーズしたものである。
以来、宇佐美は大いに席の利点を活用し、そのせいで担任に怒られることが多々あった。
いつものことでみんな面白そうに笑いながら事の成り行きを見ている。
その中でふと丸尾と目があった。

「……っ……」

なぜか目を泳がせてしまい、余計にバツが悪くなる。
面食らった宇佐美は適当な言い訳も思いつかず笑って流すしかなかった。
しかしそれで許されるはずがないことは明白で、さっさと謝って後ろに立ってようかと思案する。
宇佐美が問題児でも嫌われないのは、その素直さが憎めないせいだ。
世渡り上手、要領が良いのだろう。

「先生」

そこに誰かの声が響いた。
丸尾だ。
彼はピンと手を伸ばすようにあげて発言の機会を待っている。
担任を含めた周囲はまた二人の言い合いが始まると思った。
だからといって手をあげた生徒を無碍には出来ず、嫌々丸尾を指す。
すると彼は立ち上がった。

「その席で授業を聞いていないのなら宇佐美をオレの隣にすればいいと思います」
「はぁあああああ?」

真っ先に反応したのは宇佐美本人である。
何が悲しくて一番前の席で授業を受けなければならないというのか。
せっかくの強運でクラス中が羨む席を手に入れたというのに。

「おお、そうか。その手があったか」
「ちょっ……先生!オレ嫌です。第一に平塚だってその席がいいかもしれないのに」

平塚とは丸尾の隣に座っている生徒である。
しかし彼は快く宇佐美と席を交換することを享受した。
当たり前である。
宇佐美の意見は訊いてもらえなかった。
仏の顔も三度ならぬ、四度も五度も越えていれば尤もな話である。
仕方なく席を交換し丸尾の隣になった。
厚かましい彼は細かいことでも注意して苛立たせる。
(せっかく昨日助けてやったのに)
いちいち言われるのが面倒くさくなって、宇佐美は真面目に授業を訊くことにした。
まるで姑のように見逃さない丸尾なら、大人しくしている方が賢明である。
担任はその様子に肩を撫で下ろし、授業に集中することが出来た。

昼休み宇佐美は丸尾を呼び出した。
明らかに文句言う気満々である。
本来なら嫌がるだろうが、丸尾は喜んでついてきた。

「どういうつもりだよ」

廊下の隅で問い詰める。
それでも彼はあっけらかんとしていた。

「どういうつもりもないけど」
「なんだと!お前、昨日助けてやったのに恩を仇で返すのか」
「なにが?」
「席だよ!せっかく後ろの席でのんびりやっていたのになんで一番前で授業を受けなければならないんだ」

昨日の一件で親しみを感じた部分はあったし心配もした。
少しは打ち解けたのかもしれないと思っていた矢先にこの仕打ちである。
怒るのは無理もなかった。

「……ご、ごめん」

丸尾は良かれと思って提案したらしく、文句を言われるとは思っていなかったようだ。
本気で怒っている宇佐美に慌てて頭を下げる。
言い合いにならなかったのは、自分のしたことが拙かったと気付いたからだ。

「謝るなら嫌がらせみたいな真似するな!マジで腹立つ」
「い、嫌がらせじゃない。……ただ、宇佐美がいつもつまらなそうに外見ていたから」
「授業なんて楽しいわけないだろ!」
「だからオレの隣にくれば楽しくなるかもしれないと思ったんだ」
「意味わかんねっ」

余計にストレスが溜まっている。
うんざりしたようにため息を吐くと、窓にもたれかかった。

「……丸尾だってオレの隣にいたら苛々するだろ」

自分がこれだけ腹立っているのなら、相手だって同等の感情を抱くものである。
元々二人は水と油のような関係だった。
同じ人間といえども理解出来ない思考の持ち主はいるもので、相容れぬ相手は必ず存在する。
それは特別なことではなく、根本にある知識や経験、環境の差を含めればいて当然だ。

「うん。苛々する。オレは宇佐美の考えていることが理解出来ない」

丸尾は素直に肯定した。
なおさら宇佐美の眉間に皺が寄る。

「なら――」
「でも、昨日の宇佐美を見てもっと知りたいと思った」
「は?」
「今まで上っ面だけ見て苦手に思っていたけど、反省したんだ。だから仲良くなりたいと思っているし、観察したいと思ってる」
「はぁああ?」

開いた口が塞がらなかった。
どうしたらそういった思考回路に繋がるのか理解出来ない。
――そうだ。
宇佐美も丸尾のことが理解出来なかった。
(観察ってなんだ?さっぱりわかんね)
これはどういった展開だというのか。
理解出来ないのなら当たり障りなく過ごしたいと思うのが常で、わざわざ未開の地に行く冒険者にはなりたくない。
自ら進んで不愉快な思いをするのが賢明だと思えなかった。

「お前……本当に真面目なんだな……」
「ん、よくわからないけど」
「皮肉だよ。馬鹿」

それこそ真面目に取られても困る。
正直手に負えなかった。
これ以上、この話題を続けていたら余計に疲れることを悟った宇佐美はぐったりしながら向き合う。

「とりあえず分かった」
「え?納得したってことか?」
「うーん。納得してない」
「なにが?どこが?教えてよ」
「それが疲れる」
「え?よくわからないんだけど」
「……もういい」

まともに相手にしているだけで頭を掻き毟りたくなる。
宇佐美は冷静さを取り戻そうと、深く息をした。
ゆっくり吐き出して落ち着いたところでもう一度向き合う。
丸尾が「大丈夫か?」と訊いて来たので無視をした。
話題を変えるのが優先である。

「それよりお前、今日も塾サボるのか」

その問いに彼は一瞬たじろいだ。
痛いところを突かれたのだろう。
しばらくして「今日は行く」と呟いた。

「今日行かないと、たぶん家に電話が入ると思うから」
「そっか」

言い方から乗り気ではないのだろう。
なぜ塾に行きたがらないのか分からなかった。
行きたくない理由でもあるのだろうか。
気になったがこれ以上変なことに巻き込まれるのは嫌だったので、訊こうとはしなかった。
「あっそ」とだけ言って、その場を去る。
丸尾は本を持っているところから、図書室かどこかに行くのだろう。
友達がいないのだから仕方がない。
一方宇佐美は待っている友達がいる。
二人はそこで背を向けるとお互い別の方向へと歩き出した。

その後、一週間は天気が思わしくなかった。
まだ梅雨は先なのに、週間天気予報は傘マークがちらほら登場し始めている。
大体は夜から朝まで雨が降り、登校前の子供たちを陰鬱な気持ちにさせた。
酷い時は一日中雨な日もある。
校庭が渇く前に雨が降れば、外での授業がなくなり鬱憤は溜まる一方だった。
ただでさえ湿気くさい校舎内は嫌でも憂鬱な気分にさせる。
いや、湿気のせいだけではなかった。

「おはよう宇佐美」
「はよ」

登校すると隣の席の丸尾が声をかけてくる。
宇佐美はランドセルから荷物を取り出して、すぐに後方の席にいる友人のもとへ向かった。
チャイムがなるまで適当なイスに座って喋り続ける。
その間も丸尾は黙々と問題集を解いていた。
何気なく後姿が目に入って、思わず逸らす。
先生がくれば慌てて自分の席に戻った。
一週間、丸尾の隣で過ごしてみるとやはり居心地悪い。
教壇の前にいれば、自然と授業を受けなければいけない気になるから不思議なものだ。
――と、いっても丸尾のように真面目になったわけではない。
充分に眠り、教科書に落書きをしたりとやりたい放題は変わらない。
回数が減ったに過ぎないだけである。
しかし担任としては、驚きであり喜びでありひどく丸尾に感謝していた。
……尤も、彼との関わりはそれだけに留まらない。

「な、宇佐美」

昼休み、雨のせいで校庭が使えず、隣の体育館周辺で警泥をしていた時のことである。
一緒に遊んでいた友人がニヤニヤしながら宇佐美の肩を叩いた。

「また見ているぞ」
「え?」

振り返れば教室の窓から丸尾がこちらを見ている。
(また観察中か……)
席が隣なら給食や移動教室でも一緒のグループになる。
そういう時、ふと丸尾を見ると目があった。
宇佐美を見ていたのである。

「さすがに鬱陶しいだろ。文句言ってやろうぜ」

友人たちは面白がって言い寄ってきた。
確かに纏わりつく視線は疎ましくて息苦しい。
でもそれ以上に可笑しな気持ちにさせた。

「……いい。関わり合いたくないから」
「えー。そういうもんかー?」

宇佐美は胸元を掴み、周りに悟られないように唇を噛み締める。

「放っておけよ」
「あっ宇佐美」

未だその話題で持ちきりなのが嫌で、体育館の奥へと逃げた。
(……なんだよ、これ)
丸尾はまっすぐ宇佐美を見る。
その視線に囚われてしまいそうで、じっとしていられなくなる。
本当なら気味悪いで終わりそうなのに、その時の宇佐美には違った感情を抱かせた。
無意識に視線の意味に気付いていたのかもしれない。
それ以来、彼は帰り道を変えることにした。
雨で外が使えず、友人宅で遊ぶ時も丸尾と会った公園の前を通らないようにした。
何だかんだ理由をつけて遠回りして帰る。
お蔭でその後、丸尾が塾を無断で休んでいるのか知らない。
席が隣でも滅多に雑談することはなかった。
話しかけられても適当に流し、自分から会話を振ることはなかった。
(もうこれ以上関わり合いたくない)
それは紛れもなく本心だった。
なのに、宇佐美は気付くと丸尾のことを考えている。
本心とは別の心が彼を心配している。
不思議だった。
頭の中がごちゃごちゃになる。
気にしたくなくて自ら遠ざかったのに、以前より気になって仕方がない。
丸尾の分厚いメガネの奥にある瞳に見つめられると、そういった不可解な感情が見透かされてしまいそうだった。
自身すら認識していない感情を暴かれるのは怖い。
だから向き合うことも出来ず、気にしない振りを続けている。

 

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