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「…………」
「その時、急に怖くなった。もし塾をサボっていることを家族に知られたら、真面目以外取り柄がないオレは、嫌われちゃうんじゃないかって。でもまたいつもの生活に戻ったら、結局何も変わらないように思えて嫌だった。どっちにしろオレはひとりぼっちだ。……それが辛い……。オレ、これ以上どうすればいいのか……」
「丸尾……」

彼は「もうひとりは嫌だ」と、言ったきり無言になった。
宇佐美のシャツをぎゅっと握り締めて俯く。
孤独に怯える丸尾は、温もりを確かめるように宇佐美に寄り添った。
小さな体がガタガタ震えている。
宇佐美は何も言わず、抱き締めた。
今何を言っても上っ面にしか訊こえなさそうで、どんな言葉をかければいいのか分からない。
いつも正義を振りかざし、へこたれない丸尾の内面にあるのは途方もない弱さだった。
(こんな体でよく頑張ってこれたな)
それが強さの源である見栄のおかげだったのだろうか。
弱さを決して見せないという覚悟にも似た決意だったのかもしれない。
抱き合う二人に、雨は強さを増した。
時折吹く突風が服を濡らす。
夜の帳が落ちて暗くなった視界は時計の針すら見えず、公園を囲むように立てられた街灯の明るさだけが目立った。
闇の中で黒々しい雨粒を映し出す。
そうしてしばらく体を寄せ合っていると、丸尾の異変に気付いた。
いつの間にか彼は力を失い、荒く息をしている。

「丸尾?」

肩を掴んで引き離すと、苦しそうに顔を歪めていた。
吐いた息が白く染まり、風に流れる。

「丸尾――まさか!」
「うぅ……」

ふと彼の額に手を当てれば、異常なほど熱くなっていた。
(そういえば、こいつの体スゲー熱かった)
触れた頬や腕の熱さを感情の問題と認識していた宇佐美は、自分の失態に舌打ちした。
もう少し早く気付いてやれば、こんなことにはならなかったかもしれない。

「風邪引いてるのになんで公園なんか来たんだよ!」
「だって……ちょっと体調悪かったけど、平気かと思って……」
「馬鹿か、お前!」
「う……き、気持ち悪い……」
「くそっ、しょうがねーな」

ぐったりとする丸尾をこのまま雨の中歩かせるわけにはいかない。
宇佐美は背負っていたランドセルを前に担ぎなおし、丸尾の体をおんぶした。
為すがままの彼は耳元で何度も「ごめん」と呟く。

「いいから黙ってろ!すぐ、うちに連れて行ってやるから」

丸尾の体が軽くて良かった。
これぐらいなら宇佐美でも自宅ぐらいは持つだろう。
傘を差して雨の中飛び出すと、早足で帰路に向かった。
丸尾が雨に当たらないように注意し、何度も後ろの様子を伺う。
足元が水たまりでびちょびちょになっても構わなかった。

そうして自宅に着くと、玄関には門限破りを指摘しようと母親が出てきた。
丸尾の様子に驚く彼女に状況を説明して、宇佐美の部屋に寝かせる。
先ほどより熱が上がったのか、丸尾は意識をなくしてウンウン唸っていた。
その間に母親は丸尾の家に電話したが、誰もいないらしく通じない。
仕方がなく会社帰りの父親に電話すると、帰りに駅前の薬局で風邪薬を買ってきてもらうことにした。
電話が終わるとキッチンに立ち、卵粥を作り始める。
宇佐美はずっと丸尾の看病をしていた。

「あ、う……」

すぐ傍に杏子がいて、彼女は丸尾の寝ている布団を放さない。

「こら杏子。この間熱出して大変だったんだから隣の部屋で寝てろ」
「ぁ、ああ」
「ったく」

泣き出して止まないからあやしてやろうとしたら、このザマだ。
お気に入りの玩具を持ってきても彼女は目もくれず丸尾の傍を離れない。

「お前も心配しているのか?」
「うーあぅ」
「言葉分かるか?」
「あ、ああ……ヒヒ」
「だからその笑い方やめろってば」

どこで覚えたのか、愛らしい妹は変な笑い方をする。
赤ん坊といえども布団を持つ力は強く、宇佐美は根負けしてため息を吐いた。

「はぁ……。丸尾、分かってんのか?杏子だってこんなにお前を心配しているんだぞ」

熱に魘されている彼に言葉は届かない。
でも言わずにいられなかった。
そっとベッドの傍に寄り、苦しむ丸尾の髪に触れる。
(だからひとりぼっちなんて言うな、馬鹿やろう)
母親も父親も杏子さえも心配していることを丸尾は知らない。
それが歯痒くてもどかしかった。
ひとり孤独の海に投げ出された丸尾は、どれだけ思われているかも知らず、苦しみに囚われている。
それを黙って見ていることしか出来なくて胸が締め付けられそうだった。
なぜなら一番心配しているのは、誰でもない宇佐美自身だったからだ。

――その後、丸尾の母親と連絡がとれたのは夜の八時を回ってからだった。
丸尾は卵粥を食べて、父親の買ってきた風邪薬を飲むと熱が下がり始めたらしく、今は健やかな寝息を立てて眠っている。
彼の母親はすぐに車で迎えに来てくれた。
相変わらず綺麗で、雰囲気だけでやり手であることが窺える風貌だった。
それでも親であり、子供を心配するのは当然である。
宇佐美の両親から最近の丸尾の様子を訊かされて、真摯な態度で受け止めると何度も頭を下げた。

「あまり怒らないであげて下さいね。きっとお子さんにも色々な事情があってやったことでしょうから」
「ええ」

眠ったままの丸尾を後部座席に乗せて、二人は宇佐美家をあとにした。
宇佐美は雨が降っているにも関わらず傘を差して見送る。
彼女は車の窓を開けてお辞儀をすると、足早に夜の闇へと消えていった。

「楓。そんなところにいるとあなたも風邪引くわよ」
「はーい」

母親に言われて返事をすると、門の中に入ろうとする。
そこで一旦立ち止まると、走り去った車の方角を見た。
誰もいなくなった道の果ては、暗闇に閉ざされている。
何もなかったように降る雨が傘を叩いていた。
見上げれば変わらぬ雨模様に、なぜか胸が痛む。
(これはきっと当分降り止まないに違いない)
夜陰に乗じて降る雨は一層冷たく宇佐美を濡らした。

翌日から一週間、丸尾は学校に来なかった。
とっくに風邪は治っているだろうに、姿を見せないことが宇佐美の心を苛立たせる。
朝早くに来て問題集やドリルを解いている丸尾は、彼より遅くに来たことがなかった。
そのせいか、宇佐美はクラスに入るとすぐに空席を確認しては深いため息を吐く。
本来なら喜ぶべきことだった。
宇佐美の日常は変わらない。
適当に授業を受け、休み時間や放課後は友達と遊び、満足して家に帰る。
両親からは何度も丸尾について訊かれたが、そっぽを向いて「知らない」と、無視をした。
皮肉にもあの日以来雨は降っていない。
週間天気予報も晴れマークが並んでいた。
時折、空いた隣の席を見る。
丸尾がいなくなり、注意をする人間がいなくなると宇佐美は自由になれるはずだった。
実際友人は「楽だなー」と笑っている。
それを横目に見ながら鉛筆を転がした。
(こんなに学校って退屈だったっけか)
なぜか時々丸尾を想う。
今、何をしているのか、何を思っているのか。
またひとりで泣いていないだろうか。
全て丸尾の家族に知られ秘密はなくなり、関係なくなった宇佐美はもう構う必要はない。
不必要なことを考えても虚しいだけで、拾った鉛筆を再び転がすと憂うようにノートに向かった。

――翌日、宇佐美はなぜか丸尾の家に向かっていた。
もう関係ないと割り切ったはずなのになぜか。
きっと今日クラスで「空気の読めない人」の話になったからだ。
その中にはもちろん丸尾の名前が出て、無性に腹立った宇佐美は気付くと友人を怒鳴っていた。
こんなこと初めてである。
周りは当然、自分さえも驚いた。
原因は分かっている。
――丸尾の悪口を言われたからだ。

ピーンポーン

マンションのインターホンを鳴らす。
初めてやってきた丸尾のマンションは厳重に管理されていて、内心ドキドキした。
しばらくすると、気の抜けた声で「はい、どちら様ですか?」と丸尾の声が聞こえる。

「オレだ。開けろ」
「え?」
「宇佐美だよ。早く開けろって」
「えぇぇええええ!?」

すると、宇佐美の訪問に驚いたのか突然激しい物音が聞こえた。
インタホーン越しに酷い音が響いて、耳に手を当てる。

「いいからさっさとしろよ」
「でもっ」
「い・い・か・ら!」
「うぅ……」

強く言われて渋々彼は自動ドアを開けた。
宇佐美は「すぐ行くから玄関で待っていろ」と、だけ言ってエレベーターに駆け込む。
最上階の二十階に着けば、彼は足早に立川の名札を探した。
見つけ出して即座にチャイムを鳴らす。
すると宇佐美の言いつけを守ったのか、すぐにドアが開いた。

「宇佐美……」

信じられないといった顔の丸尾が出迎える。
彼の態度はぎこちなかった。
そんなこと予想の範疇で、宇佐美は強引に中へ入ってしまう。

「ちょっと……っ、宇佐美!」
「お邪魔します。今日かーちゃんは?」
「あっ、えっと……夜遅くなるって」

招かれたわけでもないのに、勝手に靴を脱いで奥へと入った。
廊下の扉を開ければリビングで、さすが地上二十階の壮麗な景色が広がっている。
これ以上高い建物がないせいか、目の前に広がった空は大きくて自由だった。
眼下に見える街は、おもちゃ箱をひっくり返したような乱雑さが賑やかである。
だけど宇佐美には景色なんてどうでもよかった。

「お前、あれから塾には行っているのか?」
「…………うん」

歯切れの悪い言葉が返ってくる。
じれったくて振り返ると、居心地悪そうにモジモジしている丸尾がいた。

「じゃあなんで学校に来ないわけ?」
「それはっ……っぅ……」

目を逸らされた。
それにカチンと来た宇佐美は、彼を睨む。
丸尾はいつもなら言い返す度胸を持っているのに、なぜか反論できなかった。
その態度が余計に溝を生むことを知らない。

「……宇佐美には関係ないだろ……」

駄目押しの一言に宇佐美は呆れた。

「丸尾は突っ込んだこと訊くと、すぐにそう言い返してくるよな」
「え……うっ……」
「ああそう。分かった。オレには関係ないもんな」
「宇佐美っ……」
「もういい。帰る」

宇佐美はうろたえる丸尾の横をさっさと通り過ぎた。
せっかく来た道を戻っていく。
その後ろを慌てて丸尾が追いかけた。
玄関に通じる細い廊下を二人分の足音が響き渡る。
宇佐美は話すことはもうないと言わんばかりに無視をした。
脱ぎ捨てられた靴を履き直そうとする。
――しかし、その手が急に止まった。

「ま、待てよ……!」

背中が重くなる。
宇佐美は振り返ろうとしたが無理だった。
丸尾が彼のランドセルにしがみついていたからだ。

「ごめん。オレが悪かったから……帰らないでよ……」

か細い声が薄暗い廊下に木霊する。
拒絶されることに怯えているのか、ランドセルを掴む手が震えている。
宇佐美はもう振り返ろうとしなかった。
引き止められて安堵している自分がいることを自覚して苦笑する。
むしろ後ろを向いていて良かったかもしれない。
この間抜けな顔を見せずに済んだからだ。

「お前……オレが好きなんだろう?」
「――!」
「間違っていたらあとで訂正して」

ドアを見つめ、後ろにいる丸尾の存在を感じながら呟く。
もう迷いはなかった。

「学校に来ないのはオレにあんな失態を見せて恥ずかしいからなんじゃないか?」
「う……っ」
「お前変なところでプライド高いし、見栄っ張りだもんな。だから友達も出来ないんだよ。仲間に入れてなんて言えないだろ?断られたらショックだもんな。好かれていないことは知っているし溶け込めないことも分かっている。……ならひとりでいる方が楽だよな」
「そ、それはっ……」
「自分をさらけ出す覚悟もなくて、友達なんて出来ないよ。声が掛かるのを待っていたってどうしようもない。敬遠されたって仕方ない。だって誰も丸尾のこと知らないんだから」

それは半分自分に言い聞かせた言葉だった。
さらけ出すのは怖いことだと分かっているのは宇佐美も同じで、二人とも乗り越えなくてはならない壁だった。

「見栄なんか張るな。もっと素直になれ。もっと弱さを見せろ。格好悪くても情けなくても構わないから」
「う、宇佐美」
「いいじゃん。空気なんか読めなくったって。だって空気は吸うもんだろう。それでどうしても困るならオレがいくらでも代わりに読んでやるから……」
「え……?」
「お前は……ただオレの隣で笑っていればいいんだよ」

気付けば丸尾の手がランドセルから離れていた。
振り返ると顔を真っ赤にした彼と目が合う。
今度こそ、欲目だと思いたくなくてじっと見つめた。
視線に負けた丸尾が目を逸らすと困ったように頬を掻く。

「……そ、それって……これからも宇佐美の傍に居ていいってこと?」
「うん」
「ま、まま、まさか……その、宇佐美もオレのことが好き……とか?」
「うん」

素直に頷くと勢い良く丸尾の顔が上がった。

「えっえええぇえぇえぇ!!?」

――かと思えば、ひどく驚いた調子で後ずさりすると、廊下の奥にあるドアまで逃げてしまう。
丸尾にしては機敏な動きだった。
お蔭で止める間もなくて、掴みそこなった右手に苦虫を噛み潰したような顔をする。

「う、うそ!」
「なんでだよ」
「ありえない話だからだよ!」

腰でも抜かしたのか、そのまま座り込んでしまった丸尾は強気に言い返してきた。
(それぐらいの度胸があるなら逃げないで欲しい)
想いを告げて逃げられるなんて、案外傷つくものである。
宇佐美はやれやれとため息を吐くと、丸尾の元へ向かった。
一歩近付くたびに、後ろに下がろうとしているが、ドアを背にしているせいで逃れられない。

「何がありえない話なんだよ」
「だって、オレ……宇佐美に格好悪い姿しか見せてない!」
「お前な、人の話訊いてたのか?」
「き、訊いていたよ。でも、元々宇佐美だってオレのこと嫌いだったのに……そ、そんな……す、好きなんて……」

自分で言って恥ずかしがっているのだから手に負えない。
その間に宇佐美は丸尾の目の前までやってきた。
見下ろせば、丸尾のメガネがずれていることに気付いて、思わず吹き出しそうになる。
分厚いメガネが鼻に掛かって年寄りみたいに見えたからだ。
なにより、気付かない丸尾の必死さがおかしい。

「そんな……つ、都合のいい話が……。まさか夢でもあるまいし」

人差し指を擦り合わせながら、独り言のように呟いている。

「はっ!まさか……本当に夢で――」
「んなわけあるか!馬鹿」

危うく変な結論を出しそうになった彼を窘めるようにデコピンした。
驚いた丸尾が顔を上げると、目が合ってまた逸らされる。
その繰り返しだった。

「う、宇佐美に馬鹿って言われたくない」
「仕方がないだろ。馬鹿なんだから」
「なっ。馬鹿って言う方が馬鹿なんだぞ。つまりお前の方が馬鹿なんだ」
「なんつー理論だよ。子供か……」
「子供だよ」
「うるさい」
「そっちがうるさいんだろ」
「お前なー」

気付けばいつものように言い合いになっていて、脱力する。
ああ言えばこう言う丸尾は人を苛立たせる天才だ。
それに応戦してしまう宇佐美も負けず嫌いなのかもしれない。

「ふんだっ……」

だが、宇佐美は気付いてしまった。
丸尾の手が僅かに震えている。
瞳が潤んで、すぐにでも泣き出してしまいそうなこと。
(天邪鬼なやつめ)
全ては照れ隠しだったと知ってしまえば、腹立つ言動も可愛く思えるから不思議だ。
宇佐美は丸尾に合わせるようしゃがむと窺うように彼を見る。

「オレ、丸尾が好きだよ」
「――――!」

突然の告白に、それまでのペースを崩されて目を見開いた。
固まる丸尾を尻目に、宇佐美は勇気を出して触れようとする。
まずは震えていた手。
拒絶されるかと思ったが、その余裕すらないようで動かなかった。
緊張で汗ばんでいるのはお互い同じで、内心安堵する。
指を絡めるように繋ぐと、丸尾の思考回路は停止寸前で混乱していた。

「嫌……か?」

強張った掌に恐る恐る訊いてみる。
黙り込んでしまった丸尾だが、問われていると気付くと、思いっきり首を振った。

「い、嫌じゃない!」

その言葉に宇佐美はもう少し近付く。
ドアを背に追い詰められた丸尾はどうすること出来なくて困惑していた。

「ちょ……そんなに近付いたら!」
「駄目なのか?」
「だ、だ、駄目じゃない……けどっ」
「けど?」
「ししし、しっ心臓が止まる!!」
「は」
「だから死ぬって言っているんだ!!」

さすがに予想外の返答をされて宇佐美の体は止まった。
それも束の間吹き出してしまう。

「ぷっ、あははははははっ!」

こんな状況で馬鹿笑いをしてしまうとは思わなかった。
それでも今度こそ我慢が出来なくて、腹を抱えて笑う。
普段学校ですら、ここまで派手に笑ってしまうことはなくて、丸尾はポカンと口を開けた。
本人は真面目だったらしく、なぜ笑っているのか理解出来ない。
その様子がなおさらおかしくて、しばらくの間、宇佐美の笑いは止まらなかった。

「ははっ、さすがに丸尾が死んだら嫌だな」

笑いすぎて目尻に涙が滲む。
それを指で拭いながら彼の頭を撫でた。
ようやく落ち着いたところで一歩後ろに下がる。

「じゃあいいよ。離れるから」

お互い未経験であり、慣れていないなら限界はすぐやってくる。
丸尾にはまだ早い段階だと悟り、宇佐美は大人しくもう一歩後ろに下がろうとした。
純粋な彼が愛しかったのだ。
しかし、その刹那、ぐいっと服の端を掴まれる。

「い、嫌だ」
「えっ」

掴んだのはもちろん丸尾で、さすがの宇佐美も戸惑う。

 

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