幼恋

それは淡い記憶の箱。
伊瀬は昔から正義感があってお山の大将だった。

「こらーっ、お前らまた中村を苛めて――っ」

相手が悪いと思えば、例え自分より体が大きくても立ち向かった。
彼は決して負けなかった。

「うわっ……伊瀬が来たぞ」
「行こうぜっ!」

だから同級生には好かれていたし、年上からも一目置かれていた。
毎日どこかしらに傷を作りながら、率先して遊ぶ。
伊瀬はいつも先頭きってみんなを引っ張った。
強きを挫き、弱きを守る。
それを地でいく強さを持った子供だった。

「おいっ大丈夫か?」

それは大きくなってからも変わらなかった。
彼は真っ直ぐ育ち、今も同じ強さを持っている。
当然伊瀬の周りには人が集まり、みんな彼を慕った。

「うん……いつもごめん」

それに比べて中村は弱く暗かった。
人見知りも相まっていつも下を向いている。
体も小さく見るからにもやしっ子だった。

「いいんだよ、気にすんなって。それよりまた何かされたら今度は俺に言えよ」
「うん」

二人の始まりも同じだった。
中村は小学生の時に、父親の仕事の都合でこの町にやってきた。
昔は今より内気で人見知りも激しかった。
そんな彼が新たな地で溶け込めるわけもなく、いつも一人ぼっちで過ごしていた。
子供は純粋なる残酷さでそれを囃したて、からかった。
その後つま弾きにされて、さらに孤独になっていく。
結局彼は母親にしか心を開けず寂しい毎日を過ごしていた。
そんな時に出会ったのが人気者の伊瀬である。

「ありがとう」

あの時も今と同じように数人に絡まれ、からかわれていた。
そこをたまたま通りかかった伊瀬は敏感に悪いことだと察知して間に入ってきた。
中村はすぐに伊瀬だと気付いた。
(クラスの人気者がなぜこんなところに……)
自分には一生縁のない人物が目の前に立っている。
しかもまさか自分を庇ってくれるとは思わなかった。
まさにその時の伊瀬はスーパーマンだったのだ。

「お、おう。じゃあ帰ろうぜ」
「うん」

そこから仲良くなるとは思わなかった。
何より驚いたのは周囲の人間である。
まるっきり正反対の二人がいつの間にか仲良く遊んでいるのだ。
不思議に思ったに違いない。
何せ一番不思議に思っているのは中村自身だったからだ。
彼は相変わらずからかわれやすく苛められている。

「伊瀬は相変わらずいいタイミングで助けに入るね」
「そうか?っていうかあいつらも飽きねえな。まったく」

二人はもう中学生になっていた。
まだ新しい制服を着ながら少し遠い道のりを通っている。

「中村も一発ガツンと言っていいと思うぞ」

すると伊瀬は手に拳を作り口を尖らせた。
黒の学ランは彼が着るとより一層凛々しく見える。
かたや中村は丈が余っていつまでも新入生くさかった。

「いい加減中学に入ったんだから、あいつらも卑怯なマネはやめろってのに」
「あはは」
「あはは、じゃねーよ。ちゃんと分かっているのか」

伊瀬は不機嫌そうに中村を見る。
だが当の中村は苦笑しかしなかった。

「うん、でもオレにも原因あるだろうし」

いつまで経っても内気なところは直らない。
人見知りだって一生懸命克服しようと頑張ったが難しかった。
今だってこうして話せるのは伊瀬ぐらいである。
いい加減、この性格には嫌気が差した。
自分でもそうなのだから相手だって同じように感じても無理はない。
だからどこかで仕方がないと諦めていた。
別に深刻な苛めに発展しているわけではない。
ただあいつらの機嫌が悪い時に言いがかりをつけられるぐらいなのだ。
口答えせずに下を向いていればすぐ終わる。

「違うっ。そんなわけないだろーが」

すると益々伊瀬は不機嫌になった。
驚いて見上げればつり上がった眉毛で睨む伊瀬がいる。
彼は学校の荷物の他にサッカーボールを持っていた。
伊瀬はサッカー部に所属している。
見るからにバリバリ体育会系の伊瀬だがサッカーは増して得意だった。
地域のサッカーチームにも属している。
一方の中村は弓道部に入っていた。
珍しくも子供の頃から弓道を習っていたからだ。
とはいえ、中学の部活に弓道があるのは珍しい。
当然部員は少なく、中村を合わせると三人しかいなかった。
その二人も三年生な為、今年彼らが引退すれば部員はひとりになる。

「……中村はそのままでいいんだよ」
「え?」
「と、とにかく勝手にいちゃもんつけてくるあいつらが悪いの!お前は気にするなっ」

すると伊瀬はぷりぷり怒ったまま前を歩いていってしまった。
だから中村は慌てて追いつこうと早足になる。
そろそろ夕暮れ時で空には一片の雲が浮かんでいた。
遠くの空からオレンジ色に移ろい群青色に染まる。
帰り道の河原には丁度いい時間帯なのか走っている人がいた。

――翌日の昼休み。
中村は図書委員の当番で図書室にいた。
校舎の一番端にある図書室は広く大きい。
部室の傍にあった為、昼休みは静かだった。
その上は化学実験室である。

「ちょっと中村君っ」

前にあるカウンターの中で座っていた中村はその声に反応した。
振り返れば本を抱えた佐藤が困った顔をしている。
彼女は中村と同じ図書委員だった。

「ねぇ、いい加減言ってもらえない?」
「え」
「ほらあそこ。また伊瀬君が寝ている」

佐藤はそう言って指を差す。

「しかも一番前なんて他の生徒の邪魔じゃない!」

見れば二十ほど並んだ長机の窓際一番前に伊瀬がいた。
ただし彼は本を読むわけでも、ましてや勉強するわけもなく、うずくまり眠っている。
今の時間窓際には光が射し心地良い温かさでいっぱいだった。
午後の一番眠い時間帯である。

「いつもいつも……」

そう。
彼はいつも同じ場所で眠っている。
ご飯を食べ終えると図書室にやってきては気持ち良さそうに眠っていたのだ。

「原因は中村君でしょっ」
「え、そんな……」
「だって中村君が当番の日しか来ないじゃない」
「それは」
「大体甘やかせ過ぎだよ。だからあのバカ調子に乗っているの!」
「…………」
「中村君が当番の日なら何も言われないって知っているんだから」

佐藤はカウンターにどしんと本を置いた。
毎度のことに口を尖らせぷりぷりしている。
それを黙って聞いていた。
隣のクラスの伊瀬はどこで聞いたのか中村の当番の日にしかやってこない。
だが彼を注意できなかった。
それは言えない、という意味ではない。
中村は伊瀬の内情をよく知っていたからだ。
彼の自宅は喫茶店で両親が経営している。
とはいえこじんまりとした店で地元の人しかこないような穴場であった。
伊瀬は小さな頃から両親を手伝い、自分も店に出ていた。
もちろん中村は常連で夜に家族で外食するといえばそこの喫茶店である。
中学に入ってからの伊瀬は忙しそうだった。
彼は学級委員をしながら部活も精力的に活動し、店の手伝いもしている。
また伊瀬は頭が良かった。
というのは陰で必死に努力しているからである。
元々頭がいいというわけでもなく彼は努力によって今の地位に上り詰めた。
その苦労を一切見せないから、周囲にはただ頭が良くて運動が出来る人に思われているのかもしれない。
実際、それが人気の理由だ。
いかにも努力しています頑張っていますなんて顔をしていたら、構えてしまう。
彼はラフで自然体だからオールマイティでも嫌味なくみんなに好かれるのだ。

「あ、でも昼休みって眠くならない?」

中村はオドオドしながらそう言った。
何の言い訳にもならない理由に言ってから愕然とする。
上手くフォローすることも出来ずに縮こまった。

「そ、それに図書室で寝ちゃダメなんてどこにも書いてないし……」
「それ図書委員が言う台詞?」
「あ、でもっ…その、ね?」

言えば言うほど墓穴を掘る気がして窺うように佐藤を見る。
すると彼女は呆れた顔で中村を見ていた。

「おーっ、さっすが中村!」
「わっ…」

その時、後ろからぐいっと引っ張られた。
驚いて振り返れば元凶である伊瀬が中村の肩を抱いている。
いつの間に起きていたのか会話を聞かれたと思えば無性に恥ずかしくなった。
不自然な取り繕いしか出来なかったからだ。

「静まり返った室内、腹が膨れた満足感、それにこの天気の心地良さがあれば寝ないわけがないっ!」
「偉そうに言うことじゃないでしょ。第一に教室で寝なさいよ」
「分かってないなー。あんな煩いところじゃ俺の睡眠は満たされんのだよ、なぁワトソン君」

するとそう言って中村の肩を引き寄せた。
(わ、ワトソン君?)
突然振られた彼は上手いアドリブを思いつくわけもなくただ慌てる。
伊瀬はそれを面白そうに見ていた。

「ちょっと困っているじゃない」
「あー可愛い可愛い。どっかの融通利かないお姉さんに比べると天使のようだ」
「て、天使って……」

中村の顔が恥ずかしさに染まる。
からかわれていると分かっていて、真に受けてしまった。
それが余計に恥ずかしい。

「ああもう分かったわよ。分かりました」

すると佐藤は付き合っていられないとばかりに手払いした。
図書委員らしい眼鏡を直すと中村の隣に座る。

「勝手に寝るなり何なりすれば?ただしうるさくしたら速攻で追い出すからね」
「おおおっ。さすが佐藤。頭がいい人は違うね」
「私より成績良いあんたに言われたくないんだけど」
「いやいやいや。美人な佐藤さんには敵わないっすよ」
「なに?今更おだてたって無駄よ」
「あれ、知らない?佐藤って男子の間じゃ人気なんだよ。まるで野に咲く一輪の花のようだってね」
「なっ……」

さすがの佐藤も照れを隠さずに居られなかった。
顔を真っ赤にすると毒気を抜かれたみたいに伊瀬を見る。

「ちょ、調子いいんだから」

そしてクスリと笑った。
佐藤は伊瀬が大げさに言っているのを知っている。
彼はこうして冗談を交えながら人の心を掴むのが上手かった。

「佐藤愛してるー」
「はいはい私もよー」

受け流す佐藤にもう棘はなかった。
中村はそれを感心しながら隣で見守る。

「じゃあ佐藤の為にも一生懸命寝なくちゃね」
「そう。じゃあそれは明日にして下さいませんこと?あと五分で予鈴が鳴るから」
「えっ……」

すると佐藤は得意げに時計を見せた。
いつの間にかもう昼休みは終わりそうである。

「あ、あああーっ。やられたー!」

他の生徒はみんな戻り支度ををしていた。
残りの時間に気付いた伊瀬はガックリ肩を落とすとカウンターに手をつく。

「ばーか。ばーか!」

すると佐藤はおかしそうに笑った。
項垂れる伊瀬に哀れみの目を向ける。
しかし言葉は優しく悪意がないことは分かっていた。
伊瀬はいつもそう。
人を引っ張っていくこともあれば、自ら弄られ役に徹する。
そうして和やかな雰囲気にするのが得意だった。
自分には到底出来ない役回りである。
結局中村は何もすることなく図書室を出る佐藤と別れた。
昼休み中にやる仕事のひとつであるチェックシートを担当の先生に渡す為だ。

「待てよー中村」

すると後ろから伊瀬が追いついてきた。

「勝手に先行くなってば」
「え?あ、でも伊瀬、次の時間移動教室だろ。早く戻らないと」
「いいの」

隣に並ぶと彼は歩き出す。
何がいいのか分からなかったが止める理由もなくそのままにした。
あと少しでチャイムが鳴るせいか校舎は騒がしい。

「あの……さっきの話だけどさ」
「え?」
「疲れているんだろ?だったら図書室よりもっとゆっくり出来るところがあるんじゃない。ほら屋上とか」
「さすが中村。俺のこと分かっているな」
「茶化すなよ。どうせ伊瀬のことだから遅くまで勉強していたんだろ。店だってあったし」

ちょうど昨日彼の店でご飯を食べたばかりだった。
伊瀬は余計な金が掛かるからといって塾には通っていない。
だから毎日遅くまで勉強しているのだ。
客がいない時は店でも勉強している。

「あ、でも別に、そのっ……」

だが自分が余計なお節介を焼いている事に気付いて慌てた。
伊瀬は我が道を突き進む男であって、こういう助言こそ必要ない人である。
要らぬことを言ってしまって目を泳がせると伊瀬はポンポンと頭を撫でた。

「さんきゅ」

するとそう言って先に行ってしまう。
こっちを見ずに軽く手を振るとそこで別れた。
そのまま階段を上がっていった伊瀬を見送る。
僅かに耳が赤かったが、それは光のせいだったのか――それとも。
気付かない中村は撫でられた頭が恥ずかしくてくしゃくしゃと掻いた。

キーンコーンカーンコーン。

するとチャイムが鳴る。
だから彼は駆け足で職員室へと急いだ。

翌日は一週間に一度の部活が休みの日だった。
HRを終えて慌ただしい教室を抜けると弓道場に向かう。
体育倉庫の奥には道場があった。
柔道と剣道はここで活動している。
そのさらに奥が弓道場だった。
学校全体から見るに一番端でひっそりした場所にある。
最初は場所が分からなくて迷ったほどだ。

中村は弓道衣に着替えると弓道場に入った。
奥まったところにあるせいか物音ひとつしない。
今日は部活動が休みのため先輩はいなかった。
しかし中村は度々ここを訪れていた。
弓道に集中している時は自分を忘れられる。
この場所は中村にとって精神統一に相応しい場所だった。

「ふぅ……」

射位から的がある安土まで28メートル。
足の指先から頭の先までピンと糸が張ったような空気が漂った。
彼は目を瞑ると一呼吸して足踏みする。
それと同時に弓の下端を左膝頭に置き弓を正面に捉えた。
そのまま矢を番えて弓構えの動作を行う。
自分の倍はあろう弓を正面に構えると物見した。
ギリギリと弓を張り弓掛け越しに矢の感触を掴む。
矢は右頬に軽く添えられた。
ぐっと息を殺した中村は無心に的を狙う。

シュッ――。

放たれた矢は瞬く間に飛んでいった。
しなる弦が僅かに振動する。
その矢は藁で出来た的の中心を捉えた。
突き刺さった一本の矢を見ながら一呼吸してゆっくり目蓋を閉じる。
この一連の動きが好きだった。
一足開きから残心までの間に人が集中するべき全てのものが揃っている。
それは揺れやすい中村の精神を安定させるのに最適だった。

パチパチパチ。

すると後ろから小さな拍手が聞こえてきた。
驚いた中村は弓を持ったまま慌てて振り返る。
するとそこには伊瀬の姿があった。

「い、伊瀬……どうしてここに?」
「いや~お前のクラスに行ったら荷物置いたままどこかに行ったっていうからさ」
「あ……」
「もしかしたらここかなと思って」

彼はカバンを背負いながらニコッと笑う。
だから中村は下を向いた。

「相変わらずスゲーな」

伊瀬は靴下のまま上がりこんできた。
木の床が僅かに軋む。
そして的の方を見た。
その表情は眩しそうに目を細めている。

「やっぱり綺麗だと思った」
「何が?」
「うーん、なんつーか動作っていうか姿勢っていうか。とにかく弓を構えている時の中村ってカッコイイんだよな」
「え……」

彼はそう言いながら弓を構える仕草をした。
だけど顔はおどけたように笑っている。

「俺はこういう雰囲気苦手で結局やらなかったんだけどね」
「…………」
「昔っから静かなのってどうにも落ち着かないんだよなー」

中村は一連の動作を見られていたことを知って照れていた。
モジモジしてそこから動けない。

なぜこんなにも内気な中村が弓道を続けられたのか。
それは伊瀬が関係していた。
元々は母親が弱い彼の精神を鍛えるために提案したものである。
集団行動が苦手な彼は個人競技である弓道なら――と、どうにか頷いた。
というより、目の前で柔道の乱取りを見せられて「これと弓道どっちがいい?」と聞かれればそう答えざるを得ないのである。
そうして始まった弓道だが熱心に通っていたわけではない。
むしろ嫌々行っていたに等しかった。
ただ道具一切を買われた手前、すぐに投げ出せるはずがない。
そうして続けたある日、友達になった伊瀬が見てみたいと言った。
だから見学として彼を道場に連れて行くことにした。
その時彼が放った言葉が――。

「すげーすげーっ中村マジでカッコイイ!」

初めて弓道を生で見たからだろう。
伊瀬は大興奮して中村を褒め称えた。
(あ、あの伊瀬君に褒められた……)
当時の中村にとってそれは雷が直撃したような衝撃だった。
あまりに驚いて目を回したほどだ。
それぐらい中村にとって伊瀬は遠い存在だった。
その人から手放しで喜ばれたのだから少年の心は躍ったに違いない。
無論、ただ単純に嬉しかったのだ。
生まれて初めて誰かに認められたからである。
現金なことにそれから中村は熱心に弓道の稽古を行うようになった。
そして部活も真っ先に弓道部に決めた。
彼に迷いはなかった。
たとえ地味で空気のような部活でも構わなかったのだ。

 

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