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「でも中村がやっているのを見るのは好き」
「あ……っぅ……」
「すごく神聖な気がする」

弓道に関してはいつもベタ褒めだった。
だから中村は矢を抜きに行くのも忘れて立ち尽くしてしまう。
やはり褒められるのは嬉しい。
だけどそれに対してどう反応していいのか分からなかった。
伊瀬ぐらいいつも褒められていたら上手く対処が出来るだろう。
滅多にそんなことを言われないから戸惑うばかりだった。

「あ、ありがとう」

だから彼はいつもぎこちなく笑う。

「お、おう」

すると決まって伊瀬はそっぽを向いてしまうのだ。

「……じゃ、じゃあさ気の済むまでやっていけよ。俺、今日は店番ないし終わるのを待っているからさ」
「で、でも」
「その代わり……」
「え?」
「後ろで見ていてもいいか?あ、絶対に邪魔しないし、煩くしないから!」

伊瀬は後ろを向いたままガシガシと後頭部を掻いていた。
それを見ながら中村も頬を指で掻く。
見られるのは恥ずかしいけどいつものことだった。
伊瀬はよく弓道場に来る。
見ているだけで退屈しないのか不思議だったが、伊瀬はそれで楽しいんだと言って聞かなかった。
それは昔から、それこそ近所の弓道場にもそうして見に来ていた。
いつも賑やかな伊瀬がその時ばかりは借りてきた猫のように静かになる。
だから彼は小さく頷いた。
中村も「伊瀬にならいいかな」と思っていたからだ。
すると伊瀬は小さくガッツポーズをする。
それを見て彼はクスっと笑った。

その日の帰り――、中村は伊瀬の喫茶店に寄って帰ることにした。
頑張ったご褒美にジュースを奢ってくれるらしい。

カランカラン――。

可愛らしいドアを開ければ付けられた鈴が涼しげに鳴った。
伊瀬の店はカウンター五席、テーブルが横に五つ並んでいる。
ところどころに彼の母親の趣味である水彩画が飾られていた。
他には可愛らしい置物やドライフラワーなど。
伊瀬いわく殆ど儲かりもしない自己満足の店らしいが固定客はついていた。
夜こそ暇だが、昼は近所の主婦達でいっぱいである。
彼女達にとってお茶をするならこの店だ。
コーヒーを飲みながら散々ストレス発散とばかりにしゃべりまくる。
中村の母親も仲間のひとりだ。
彼女の仕事はパートで午前中に終わる。
そのため、職場から喫茶店に直行することも多々あった。

「あら、樹(いつき)」
「か、母さん」

すると喫茶店の中には母親がいた。
彼女はひとりカウンターに座りコーヒーを飲んでいる。
どうやらカウンター越しに伊瀬の母親と話していたみたいだ。
他の客はいない。

「ただいまー」
「お帰り。樹君と一緒だったの?」
「ああ」
「ふふ、相変わらずね」

二人もカウンターに座った。
三人仲良く並ぶと中村はメニューを開く。
するとそれを見ていた母親が覗き込んできた。

「そうだ。じゃあ今日はここでご飯食べて行っちゃいましょ」
「え、でも父さんは?」
「お父さんは今日も遅くなるからって。外で食べてくるそうよ」
「ふーん」

それなら……、と中村はページを捲り洋食のメニューを見る。

「じゃあ俺がいつものやつ作ってやるよ」

すると今度は伊瀬がメニューを覗き込んできた。
だから彼はチラッとそちらを見る。

「え、あ、いいよ。だって今日は店番じゃないんだろ」
「いいからいいから。どうせ同じもん注文するところだっただろ?」
「そうだけど……」

中村はいつも同じオーダーだった。
だからメニューを見る意味はない。
ただ気分的に開くのかもしれない。
しかし結局いつもと同じメニューを頼んでしまうのだ。

「じゃ、じゃあオムライス」

この喫茶店に初めて来た時から頼む洋食はオムライス一筋である。
それを見ながら母親は呆れた顔をしていた。
中村は昔から一度好きになるとしつこい位一途だった。
何度も他のを食べてみたら?と勧められたが食べる気がしない。
少し食べてごらんと言われて口を付けるが、やはりオムライスが良かったのだ。

――そんなある日のこと。
いつものようにオムライスを注文したら伊瀬が作ると言い出した。
お客様に出す料理だから――と、伊瀬の両親は反対したが、中村は頷いた。
とりあえず味見をするという名目で出してもらったら、これがまた美味しかった。
それ以来、中村がオムライスを頼むときはいつも伊瀬が作った。
細かいことが苦手で料理だって好きではない。
だがオムライスだけは美味しかった。
いつだったか「もう時効だから」と言って彼の母親が教えてくれたことがある。
中村がいつもオムライスを頼むからと言って、伊瀬が父親に頭を下げて作り方を聞いてきたというのだ。
当時小学生でやんちゃな伊瀬は店番だって滅多にしなかったのに。

「あの子、変に見栄を張る子だから」

伊瀬の指にいくつも巻かれた絆創膏。
聞いた時は少し擦りむいただけと言っていたのに、本当は料理の練習をしていた時の傷だったのだ。
完璧に作れるまで何度も練習したらしい。
それを知っていたから、彼が「作る」と言った時も反対は出来なかったらしい。
謝る彼女に首を振った。
中村にとっては謝ってもらう理由がない。
何より伊瀬の違う一面が見られた気がして嬉しかった。
もしかしたらその頃から徐々に二人の関係が変わっていったのかもしれない。
二人には誰にも言えない秘密があった。

「ごめんねえ、私が食べていこうって言ったばかりに……」
「いいのよ。どうせ家にいたってダラダラしているだけなんだから」

母親同士楽しそうに喋り続けている。
我に返った中村は奥の厨房にいる伊瀬を見た。
彼は明日の仕込みをする父親の隣でチキンライスを作っている。
学ランを脱いでシャツの上から可愛らしいエプロンをしていた。
きっと普段母親が着ているものだろう。
フリフリのレースが似合わなくて隠れてひとり笑った。

それから伊瀬の家族と和気藹々の夕食をとり、食後のりんごジュースを飲んで店をあとにした。

「本当に仲が良いのね」

隣を歩く母親は嬉しそうに笑っている。
彼女は息子の人見知りを心の底から心配していた。
しかも学校に馴染めなくて独りぼっちで遊んでいた中村を知っている。
だからこそ初めて息子の口から出た「伊瀬君」という言葉は衝撃的だった。
初めて彼を家に呼んだときは豪華にも寿司をとったほどだ。
それぐらい彼女は嬉しかったのだろう。
だから母親は伊瀬に感謝しているし信頼していた。

「でもどうするの?」

しかし感謝しているからこその心配は拭えない。

「もし伊瀬君に彼女が出来たら。いつまでもおんぶに抱っこじゃ可哀想でしょう」
「あ……」

相変わらず仲がいいことは素晴らしいと思っている。
だがそのせいで伊瀬に迷惑が掛かることを恐れていた。
いつまでもべったりしていたら気の毒だと考えたのだろう。
それは中村に自立を促しているという意味でもあった。

「ちゃんと自分に出来る事は自分でしないとね」
「分かっているよ」
「あら本当かしら」
「お、オレだって伊瀬がいなくても平気だもん」
「あーあ強がっちゃって」

すると彼女は意地悪そうな顔で笑った。
「できる」という彼の腕に引っ付きあははと笑っている。
中村の母親は実に明るく大らかな女性であった。

「強がってないよ。本当だよっ」

ムキになって口を尖らせる。
それが余計に可笑しかったのだが彼女は何も言わなかった。
まだ子供だし、と楽観視していたことは否めない。
しかし残念なことに彼女の学生時代より今は進んでいた。
お蔭で危惧していた事態は思ったより早く訪れるのである。

数日後、中村が学校に行くとクラスメイトに囲まれた。
何事かと思えば伊瀬の話だった。

「なーなー。伊瀬が斉藤に告白されたって本当か?」
「俺は斉藤と付き合うって聞いたんだけど」
「え……?」

何も知らなかった中村は登校早々、教室の前で立ち尽くした。
鞄を持ったまま廊下から隣のクラスを見つめる。
伊瀬は朝練でまだ教室には来ていない。

「それってどういう――」
「なんだよ。中村も真相は知らないのか」

斉藤という少女は隣のクラス――伊瀬と同じクラスの女子生徒だ。
少し茶髪かかったふわふわの巻き毛が印象的で男子からの支持も高い。

「で、でもオレたちまだ中一で……」
「分かってねーな。年齢なんて関係ないだろ。それにうちのクラスにも付き合っているヤツいるじゃねーか」
「……そ、それは」

押され気味でまごつく。
早くも思春期に突入した同級生達はそういう話題に敏感だった。
お蔭で少しでもそういった雰囲気を漂わせれば噂が立つ。
また情報の伝達が早く一気に学年全体へと広まった。
それが事実なら冷やかされるし、嘘なら笑われる。
疎い中村はいつもその噂をあとで知った。
伊瀬は興味ないのかそういった話を二人ですることはない。

「お前らまた中村を苛めて」
「わっ」

すると不意に後ろから掴まれた。
驚いて振り返れば朝練帰りの伊瀬がいた。
教室前で数人に囲まれていたせいか勘違いをしている。
伊瀬は早とちりな面があった。

「ちげーよ」

すると目の前にいた一人が慌てて首を振った。
それと同時にもう一人が間に入ってくる。

「ちょうど伊瀬の話をしていたんだよ」
「俺の?」
「お前斉藤に告られたって本当か?」

彼は興味津々で伊瀬を見上げた。
だから中村もそれに倣って同じように彼を見上げる。
それだけでなくその場にいた全員が伊瀬を見ていた。
皆、期待しながら彼の返事を待っている。

「んー」

しかし当の本人は暢気なものだった。
大きな部活バックを肩から掛けて後頭部を掻きあげる。
斜め上を見ながら考えるように視線を泳がせていた。
かと思えば、その方向は中村に定まる。

「…………?」

それを彼は不思議そうに傾げた。
一瞬だけ目が合う。
しかしその視線も外されてしまった。

「おう、事実だ」

すると伊瀬は興味なさ気に頷いた。
彼は自ら肯定してしまう。
それと同時に周囲は大騒ぎになった。
平然としているのは伊瀬だけで、それを聞いたクラスメイトは一気に騒がしくなる。
それから学年中に広まるのに時間はかからなかった。
斉藤も同意したのが拍車を掛けたのかもしれない。
おかげで昼前には先生の耳にも入っていた。

「おーいたいた」

昼休み、中村は教室が居心地悪くて屋上でご飯を食べていた。
どこもかしこも伊瀬の噂で持ちきりである。
中には告白を飛び越え二人が付き合っている噂まで立ち始めた。
その度に、一番仲が良い中村へと視線が集中する。
しかし彼は今朝まで全く知らなかった。
今日何度「知らない」と答えただろうか。
何より、真実を知りたいのは中村の方だった。
今までどんな隠し事もないと思っていたのに、肝心なことを知らされていなかった。
それが深く心に突き刺さる。

「教室に行ってもいないからどこに行ったのかと思った」
「伊瀬」

ひとり寂しく屋上の隅でお弁当を食べていた中村に伊瀬が寄って来る。
噂の当人だというのに彼はまったく気にしていなかった。
実に図太い神経の持ち主である。
もし中村ならその噂が消えるまで不登校になっていただろう。
考えただけでゾッとした。

「探しに行ったらみんなに囲まれるしよー。面倒くせえ」

すると伊瀬は何事もなかったように隣に腰を下ろした。
そして父親特製のお弁当を開ける。
さすが喫茶店を開いているだけあって、伊瀬の弁当はいつも美味しそうだった。

「…………」
「中村?」

気ままに喋り続けた伊瀬だがようやく中村の異変に気付く。
いつも静かな彼だが今日は余計に無口だった。

「どうした?」

だいぶ涼しくなった屋上に清涼な風が吹く。
衣替えして間もないせいか、学ランでは未だに暑かった。
屋上から見渡す景色はまだ青い葉が多く擦れあう音が響く。

「……して」
「え?」

中村は箸を置くと困ったように伊瀬を見た。
半分も食べていない弁当の中身は可愛く盛り付けられている。
女子なら嬉しいだろうが彼からしてみれば恥ずかしくて嫌だった。

「め、面倒ならどうして認めたんだよ」
「え?」
「べ、べつに……そうすればここまで騒がしくなったりしなかったのに」

彼は目に見えて不機嫌だった。
というより、伊瀬に八つ当たりをしていた。
これ以上他の人に伊瀬のことを聞かれるのは嫌だったし辛かった。
それを知らないと答えるたびに、自分と伊瀬の関係が浅いものだと突きつけられているような気がしたからだ。
しかし今の中村はそこまで心理を分析することも出来ず、こんな態度をとってしまう。
それが余計に自己嫌悪を募らせた。

「んー、だって本当のことだし」

すると伊瀬も箸を置いた。
そして後ろの金網に背を預ける。
そうして見上げた横顔は憎らしいほど平然としていた。

「な、ならっ――」

それが悔しくて中村は食ってかかる。

「ど、どうして……そのっ」
「ん?」
「お、お……オレには、っ…そのっ……」

本当はこっちの方が本題だった。
どうして自分には言ってくれなかったのか。
女々しくて聞くことを躊躇ったが、どうしても知りたかった。
中村は膝に置いた手を握り締める。
変な汗が出てまともに彼を見られなかったけど、やめようとは思わなかった。

「友達なのにっ……言ってくれなかったんだよ」

それだけを言うのにどれだけの労力を使ったのか。
中村の心臓はバクバクして少しでも刺激を与えれば止まってしまいそうだった。
鼓動の速さに体がついていけず息を乱す。
赤面症なせいか意味なく顔が熱かった。
ひとり勝手に息を荒げているのが恥ずかしい。

「…………」

今度は伊瀬が黙って聞いていた。
友人が必死になって訴えているのをじっと見つめる。
昼休みということもあり、校内にはよく知らない曲が流れていた。
スピーカーの安っぽい響きに曲の良さが半減している。
それは外にいても聞こえた。
むしろ外用の大きなスピーカーの方が大雑把な音になっている。
おかげで歌詞にノイズがかかり、よく聞き取れなかった。

「友達なのに、か」

するとそれを聞きながらぼんやりと伊瀬が口を開く。
まるで独り言のような言い方だった。
驚いた中村は恐る恐る彼を見上げる。
自分が癇に障ることを言ったのかと不安になったからだ。
しかし伊瀬は相変わらず横顔を晒していた。
目を細めて青く広がった空を見つめている。
その様子に怒りは感じなかった。
だけどいつもの伊瀬とは違うことを中村も感じ取っていた。
すると彼は一度目を閉じると頷く。

「そうだよな。俺たち友達だもんな」

そういって笑う顔はいつもより大人びていた。
少しの切なさがじんわり滲んで儚げな印象を残す。
だから中村もそれ以上聞くことは出来なかった。

その後、伊瀬が返事を保留にしていることを知った。
午後の授業中回ってきた手紙にそう書いてあった。

「……っ……」

自分より先に知っている人がいる事実にやり場のない感情が拭えなかった。

 

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