4

「だからもう友達ではいられない」

彼は結局それだけを言って道場を去った。
その間、中村は何も言うことが出来なかった。
戸惑い、動揺、困惑。
まさに伊瀬の告白にはそんなものが渦巻いていた。
(友達でいられない)
それは初めて伊瀬が拒絶した瞬間だった。
どんな時も一番傍で守ってくれた彼が去ってしまう時――。
何も知らなかった中村はただ伊瀬の言葉を反芻することしか出来なかった。
浅い呼吸が木霊する。
何が何だか分からず頭がクラクラする。
それが動揺による眩暈だと気付かない中村はその場にしゃがみこんでしまった。
最後に残った肩の感触が尾を引いている。
痛いぐらい掴まれて皺くちゃになっていた。
震えていた手に追い詰められた瞳。
いつもの明るさがない伊瀬はどこか怖かった。
(好きになるのは気持ち悪いこと?)
伊瀬は悲しげな瞳を晒してそう言った。
だけど中村はそれがどうしても理解出来なかった。
好きだと言われたら嬉しくて幸せな気持ちになる。
それが大切な伊瀬ならなおのことだ。
(斉藤が伊瀬を好きなように、伊瀬がオレのことを好き)
いつから……?
――なんて、きっと聞けない。
それは伊瀬を傷つける言葉だと思うから。

その後、季節は少しだけ流れた。
あれからしばらくして伊瀬が斉藤の告白を断ったことをクラスメイトに聞いた。
伊瀬は自分で言った通りあれ以来中村の元へやってこなくなった。
そうなった時、ようやく中村は気がついた。
今まで一緒にいた時間は全て伊瀬が繋いでいてくれたことに。

「今日も伊瀬君来ないのね」

彼が図書室にやってきたのは少しでも中村と一緒に居たかったからだ。
それだけじゃない。
道場に見に来たのも、一緒に帰ったのも。
そして必死になってオムライスを作ってくれたのも。
すべてが純粋なる伊瀬の恋心から来ているものだった。
日常の中に少しずつ刻まれていた伊瀬の想い。
何も知らない中村はそれを当たり前の日常だと捉えていた。
(オレは何も知ろうとしないで甘えていたんだ)
伊瀬のいない昼休みは退屈である。
こんなに長いとは思わなかった。
彼と過ごす昼休みはすぐチャイムが鳴ってしまうのに。
そういう時、中村はもどかしい気持ちで伊瀬とさよならをした。
クラスが分かれた寂しさが痛切に過ぎる。
無論、男同士でそんな女々しいことを言わないから黙っていたけど、いつもそう思っていた。

「ケンカでもしたの?」

隣に座っていた佐藤は窺うように中村を見る。
あれだけ毎回やってきた伊瀬が来ない。
その異変に気付いていたのだ。

「だって今日も来ないじゃない。当番の日はいつも来ていたのに」
「そ、それは」

中村はすぐ顔に出た。
あからさまに何かあったことを伝えてしまう。
だけど佐藤はそれ自体にはさほど興味がなかった。
だから理由は聞かず前に向きなおす。

「なら早く仲直りすれば」
「え、いや……」
「中村君さっきから何回時計を見ていると思う?伊瀬君がいないと退屈なんでしょ」

彼女の言葉に中村の顔は赤くなった。
無意識に時計を見ていたせいか、いきなり核心を突かれて動揺する。
それ自体が思う壺だが今の中村には余裕がなかった。

「で、で、でもオレなんか」

眉間に皺を寄せると膝の上に置いた手を握り締める。
チラッと彼を見れば泣きそうになっていた。
佐藤は内心慌てた様子で辺りを見回す。
だが図書室内はほとんど人がおらず平和そのものだった。

「ま、別に仲直りしようとしまいとどうでもいいんだけど」
「…………」
「伊瀬君うるさかったし」
「…………」
「ただそうやってウジウジしているのを見ているとイライラするのよね」

佐藤は躊躇いなく言い切った。
だが言い終わったあとに言い過ぎてしまったと気付く。
彼女は馴れ合いが苦手だった。
お蔭でキツイ性格だと言われるようになってしまったが、どうすることも出来なかった。

「……ごめん」

すると中村は小さな声で謝った。
謝ってほしくなかった彼女は眉間に皺を追加しながら言葉を呑み込む。
いまさらどんなフォローをしていいのか分からなかった。
こういう時は反論されたほうが楽である。
素直に謝られると余計に言い過ぎたことへ自己嫌悪が募った。

「だ、だからさっさと仲直りすればいいじゃん」
「…………」
「相手の気持ちなんて関係ないでしょ。中村君がどう思っているかじゃないの?」
「それはっ」
「一緒にいたいならそう言えばいいでしょ。このままでいいなら辛気臭い顔しないでよ。こっちが迷惑だわ」

結局また同じことを繰り返してしまった。
佐藤は鼻息荒く捲くし立てると立ち上がる。
そのまま中村を見ずに去っていった。
すると丁度良くチャイムが鳴る。

キーンコーンカーンコーン

中村は最後まで反論できなかった。
座ったまま生徒達が慌てて出て行くのを見送る。
(オレは――)
無性に胸の奥が疼いた。
人の途絶えた室内に静寂が戻る。
午後の暖かな日差しが窓から降り注いでいた。
傍にあるイチョウの木から風に吹かれて葉が落ちる。
(オレだって――)
中村は握り続けていた手のひらを返した。
食い込んだ爪の跡が痛々しい。
だけど痛みなんて感じなかった。
体が痺れて強張っている。
(オレだって伊瀬が好きだ)
離れてみてようやく気付いた想い。
だが問題は、もう元の二人には戻れないことだった。
友達の延長線上に恋愛があれば楽なのに、それほど単純ではない。
未だに伊瀬の言う“気持ち悪い”の意味が分からなかった。
伊瀬が自分を特別に好きだと言ってくれたら嬉しい。
(これって両想いってヤツだよな)
中村だって一応恋愛の基本知識ぐらいならある。
伊瀬は自分を好きで、自分もまた伊瀬が好きであることがどういう意味を示すのか分かっているつもりだった。
だが二人の感情には僅かなズレがあった。
その溝が伊瀬と中村の距離を隔てている。
だから伊瀬に声を掛けられなかった。
自分の気持ちを打ち明けられなかった。
(もう少し早く気付いていればこんなことにはならなかったのに)
近付きすぎて見えないものがある。
皮肉にもそれが一番大切なものであった。
神様は意地悪である。

「……中村?」

すると不意に名前を呼ばれた。
驚いて顔を上げると目の前に伊瀬がいる。
それだけでなく廊下から賑やかな声が聞こえてきた。

「何して」
「あ」
「俺のクラス今から図書室使うんだけど」

彼は困った顔で笑っていた。
中村はようやく午後の授業が始まったことに気付く。
あからさまに気まずい空気が流れて二人は萎縮してしまった。
久しぶりに話したのに今までと違う。
何かが変わってしまった。
その何かが解らないぶん気持ち悪い。
だがその現実に胸が痛くなった。
おかげで黙り込んだまま伊瀬を見つめる。
(もっとちゃんと話したいのに)
言葉が出ない。
居心地悪そうに笑う伊瀬はいつもと違った。
それが不安を煽る。
伊瀬からしてみれば中村がいたのは予想外だったのだろう。
彼の複雑な気持ちは良く分かる。
だが当事者の二人には見えていなかった。
見えない壁に阻まれてその距離を知る。
結果互いにギクシャクした態度しか取れなかった。
(伊瀬が別人に見えて怖い)
蝕んでいく怯えに上手く対処することが出来ない。
震える指先を隠して立ち上がった。

「い……い…っ…ぅ」
「中村?」
「……伊瀬っ……」

(泣いちゃだめだ。絶対泣くな)
だが、彼は諦めなかった。
今しかチャンスはないと思った。
こんな風に話すのはどれぐらいぶりなのか。
焦る気持ちに言葉が付いていかず泣きそうになる。
それを伊瀬は黙って見ていた。
いつもの彼ならそういう時、優しく微笑んでくれるのに今は違う。
(怖い)
室内を包むピリピリとした雰囲気に怖気付いて逃げたくなった。
詰まった胸元が苦しくて嗚咽が漏れそうになる。
それでもどうにか踏み止まった。

「伊瀬……あ、あのね――っ」

だが外の世界は中村を待ってはくれなかった。
ようやく声が出たと思ったのに、他の同級生が入ってくる。
それは無常な終わりを示していた。
無神経な同級生たちの賑やかさが癇に障る。

「あれ、中村?まだ残っていたのか」

すると生徒の数人が中村を見て首を傾げた。
その視線に気付いた彼はこれ以上ないくらい顔を赤く染めると下を向く。
弱い中村がこの状況に耐えられるわけがなかった。
だから彼は持ってきた筆記用具を引っ手繰るように掴んで立ち去ろうとする。

「ちょっ――待てよっ」

するとそれを呼び止める声が響いた。
だが中村は逃げることでいっぱいになり気付かない。
続々と隣のクラスの生徒が入ってくる中で逆行するように廊下へと飛び出た。
それを追いかけてくる手は中村の腕を掴む。
華奢な手は強く掴めば折れてしまいそうだった。

「や……っ」

驚いた中村は目を見開く。
するとそこには伊瀬がいた。
彼が自分の腕を掴んでいる。
まさか追いかけてくるとは思わなかった。

「ちょっと来い」
「え…あっ、伊瀬……っ」

そのまま彼はクラスメイトの視線なんて気にも留めず中村を引っ張っていく。
おかげで中村は為すがままついていくしかなかった。
掴まれた手が熱い。
同じくらい顔が熱くて息苦しかった。
伊瀬は適当な空き教室に中村を引っ張り込む。
その強引な仕草にどうすることも出来ず従った。
乱暴にドアを閉じられる。
それと同時に腕を引っ張られて視界が反転した。

「い……っ、んぅ…!」

中村の声は伊瀬を呼ぶ前に消えた。
それは唇を奪われた証だった。
目まぐるしく変わる視界に目を見開き動揺を露にする。
しかし両腕を掴まれたまま身動きがとれなかった。
重なった唇はキスと呼べるほど綺麗なものではない。
無我夢中で押し付けられたソレは不器用で荒々しいものだった。

「…ふぁ…っん、んっ……」

しかし戸惑っている場合ではない。
伊瀬は強引に中村の口をこじ開けると舌を滑り込ませる。
その衝撃に体は強張った。
(なにして――!)
口の中に伊瀬のヌルリとした舌が進入してくる。
しかも舐め回すように蹂躙されて声も出なかった。
咥内がヌルヌルした刺激でいっぱいになる。
こんな感覚は初めてだった。
擦れあった粘膜がいやらしく絡みつき執拗に愛撫する。
初めての刺激に逃れようとするが伊瀬の舌は許さなかった。
交じり合った唾液を飲み干し、頭が朦朧とする。
決して上手いキスとはいえない。
むしろ二人とも初めてだったのだから探り探りだったのだろう。
それが余計に貪欲で獣じみていた。

「ん、ふぁ…んぅ、ちゅ…っい…せっ……」

空き教室の隅で荒い口付けを交わす。
中村のくぐもった声は室内に響いた。
掃除用具入れを背に絡み合う。
相変わらず中村の頭の中は真っ白だった。
ただ与えられるがままに唾液を飲み彼を受け入れる。
想像していたキスはもっと優しく穏やかなものだと思っていた。
噛み付くような激しい唇が彼の思考を奪う。
合間に漏れる吐息だけが無性に色っぽくて背筋がゾクゾクした。
押し付けられた体に掴まれた腕。
乱暴に思えるほど強い力に抵抗できない。
(こんなの初めてだ)
伊瀬が中村に触れる時、いつも優しかった。
一緒に歩く時も歩幅を気にしてゆっくり歩いてくれた。
それが当たり前だと思っていたから、こんな力を残していることを知らなかった。
(痛くしないように、傷つかないように気を遣っていた?)

「んんぅ、い……せっ……」

それを解放させれば、これほど違うものなのだ。
まるで野獣のように襲い掛かる伊瀬は別人のようで怖い。
だけど胸が震えてざわめいていた。
伊瀬の唇が角度を変えて深く重なっていく時、性的な悦びを感じて鼓動が高鳴る。
擦り合わさる快感に体の力が抜けた。
いつの間にか抵抗していない自分に気付く。
その時には手遅れで中村の腰が抜けていた。
立っていられず用具入れを背にズルズルと座り込む。

「中村っ…中村……っ」
「ん、んっふ…っふぁ…伊瀬…ぇっ…んぅ、ちゅ…っ」

だけど伊瀬はそれすら逃がさなかった。
地べたに座り込んだ中村を追いかけるように座る。
決して唇を離そうとはしなかった。
甘ったるい声が響く。
僅かな隙間から囁いた声は聞いたことのないほど艶っぽかった。
だから中村の鼓動は速くなる。
執拗なキスは決して中村を許してくれなかった。
今度は座り込んだまま口付ける。
壁と用具入れに阻まれてどうすることも出来なかった。
閉じ込められたまま伊瀬のキスに酔う。
漏れる吐息がどんどん甘くなった。
伊瀬は腕を離すと中村の腰を抱き寄せる。
その仕草が妙に大人びていて下半身が震えた。
(やっぱり別人みたいだ)
くちゅくちゅといやらしい水音が響いて羞恥心が募る。
そのくせ窓の外は体育をやっているのか騒がしい男の声が響いていた。
その対比が無性に胸をくすぐって変な気持ちにさせる。
まして授業をサボってこんな行為に耽っていることが背徳的に感じた。
真面目な中村は一度もサボったことはない。

「伊瀬っ…んぅ、んんっ…はぁっ」
「ん…っはぁ、中村っ……」

少しだけ離すと囁き合ってまた口付ける。
お互い熱っぽい眼差しで見つめると蕩けるようなキスをした。
ぷるんとした唇を甘噛みした伊瀬は愛しむような仕草でそっと頬を包み込む。
大きな手のひらは十分に余った。
もみあげをくしゅくしゅと撫でて目を細める。
壁に押し付けるような強引さがあるくせに仕草だけは優しかった。
中村の瞳は潤んで伊瀬を煽る。
擦り合わせた鼻に吐息がかかった。
荒々しさが卑猥に聞こえて体が熱くなる。
それに我慢できるはずもなく伊瀬は再び唇を重ねた。
教室の隅っこで誰にも内緒のキスをする。
まるで夢のようだった。
だけど舌を絡み合わせる生々しさが中村に現実を教える。
行き場の無い手が伊瀬のシャツを掴んでいた。
どうにか縋るようにしがみ付く。
その弱々しさが余計に伊瀬の心を揺さぶった。
だから飽きもせず何度も唇を重ねる。
そうしてどれほどの時間キスをしていたのか。
あまりに繋がっていたせいか、唇が触れているのかいないのかすら曖昧な意識になっていた。
始めの頃に比べると伊瀬の口付けは優しいものになっている。
いつからか中村はそれに居心地の良さすら感じるようになっていた。

「ぷは…っはぁ、はぁ……」

するとようやく伊瀬は唇を離した。
涎の糸が二人を繋ぐ。
それを見た中村は恥ずかしさのあまり固まった。
だが乱れる呼吸だけは隠せない。
あまりに激しいキスをしたせいか意識が朦朧としていた。
涙目のまま窺うように伊瀬を見上げる。

「だからそういう顔すんな」
「え?」

すると伊瀬も顔を赤くしていた。
強引に後頭部をかきあげると、そっと優しい口付けをする。

「んっ」

それは触れるだけの甘いキスだった。
唇に僅かな余韻を残して離してしまう。
蕩けるような感触に切なさが込み上げた。
だが伊瀬は中村の頭を撫でると立ち上がってしまう。

「次そんな顔をされたらきっと我慢が出来ない」
「伊瀬」
「だからもうそんな風に俺を見ないでくれ」
「あっ……」

すると伊瀬は顔を赤くしたまま教室を飛び出していった。
言葉の意味に気付いて中村は何も言えない。
座り込んだままどうすることも出来なかった。
嵐のように現れて嵐のように去る。
まさにそんな男だった。
奪われた中村はいつまでもその余韻から冷めず茫然とするしかない。
(キス、しちゃった)
いまさら指で唇をなぞってみる。
すると恥ずかしくて死にたくなった。
伊瀬の強い力とか、貪欲な口付けとか、色っぽい掠れた声とか。
真剣な眼差しを思い出すとそれだけで体が熱くてどうにかなってしまいそうだった。
砕かれた腰は力が入らず立ち上がることすら出来ない。
(あんな伊瀬、知らない)
いつものお調子者な彼しか知らない中村にとっては衝撃的だった。
それは意図的に隠されていた事実。
伊瀬だってずっと我慢してきたのだ。
それを悟られまいと必死になって取り繕っていたのだ。
大切だからこそ、傍にいたい。
その為にはいつもの友達であり続ける必要があった。
(あれも伊瀬なんだ)
別人のように怖かったけど、それは違う。
中村はようやく自分が勝手に伊瀬像を作り出していたことに気付いた。
そして本当の伊瀬を見つけた気がした。
伊瀬と秘密を作った甘い思い出が蘇る。
あの時だって秘密が嬉しかったんじゃない。
秘密を共有することで本当の伊瀬に触れられた気がして嬉しかったのだ。
(だけど早とちりなのは相変わらずだ)
数人に囲まれているだけで苛められていると勘違いする伊瀬が脳裏に過ぎる。
大人になるというのは難しいものだ。
同じように成長できたら楽なのに実際はそう上手くいかない。
伊瀬をひとりで大人にさせてしまったが故に彼を傷つける結果になった。
それが歯痒くてもどかしかった。
(あんな顔させたくないのに)
伊瀬はまだ気付いていない。
中村だって男なのだ。
本気で嫌だったら、どうにかして抵抗する力ぐらい残っている。
それでも為すがままだったのは、そこに拒絶の意志がなかったからだ。
掴まれた腕は未だにジンジンしている。
中村はその手を壁に付け立ち上がろうとした。

ガタ――ッ

だがそれと同時にある物音に気付いてしまう。

「え?」

思わず目を見開いた。
すると伊瀬が出て行ったドアからひとりの少女が顔を出す。
静まり返る室内に伸びた影が入ってくる。

「ごめん」

それは紛れもなく佐藤だった。

 

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