5

「中村君チャイムが鳴っても戻ってこなかったから……」

それがどういう意味なのかすぐにわかった。
責任感の強い彼女のことだろう。
チャイムが鳴って先生が来ても戻ってこない中村を心配して探しにきたのだ。
(そこで彼女は――)
今度は血の気が引いた。
あれほど熱かった体が手足の先から冷たくなっていく。
それは同時に夢の終わりを示していた。
中村は言葉に詰まったまま立ち尽くす。
突きつけられた現実の重さに眩暈がした。

翌日、中村は熱を出して学校を休んだ。
昔から学校で嫌なことがあるとすぐ熱を出す癖があった。
とはいえ、伊瀬と仲良くなってからはほとんどなかった。
午前中の仕事を終えた母親が部屋で寝ている中村を見て呆れたようにため息を吐く。

「祐也君と何かあったでしょ」

彼女は中村の様子がおかしいことに気付いていた。
あれだけ大好きだった伊瀬の店に行かないと言ってきかなかったのだ。
そこに原因があるのは明らかである。

「伊瀬さんが心配していたわよ。全然顔を見せてくれないって」

それはそうだ。
伊瀬とこうなった以上、どんな顔で彼の店に行くのか。
そこまで面の皮は厚くないし、肝の据わった男でもない。

「さっさと仲直りしちゃいなさいよ」

彼女は苦笑しながら体温計を手渡す。
中村は大人しくそれを腋に挟んだ。
周りは他人事のように仲直りしろと言うがそれほど簡単な問題ではない。
なによりこの状況を打破したいのは中村だった。
だからむくれたまま布団を被る。

「まったくもう。素直が一番よ。変なところで我が強いんだから。祐也君に嫌われちゃうわよ」

彼女はワザと耳元で呟いた。
だが洒落にならない中村は泣きそうな顔で母親を睨む。
(そんなの自分が一番知っているよ)
その反抗的な目に彼女は再度ため息を吐いた。
どうやら思っていたより深刻らしい。
しかしこれ以上口を挟むことはしたくなかった。
何せ息子はもう中学生である。
なにより反抗期なのか親の意見を素直に聞いてくれなかった。

「あ、そうだ」

そういう時には頼むべき相手がいる。

「さっき弓道場の先生から連絡があったわよ。道場に来るようにって」
「でもオレ今日は風邪引いているもん」
「夜になれば下がるでしょう。暖かくして気分転換にでもいってらっしゃい」

そういうと中村は膨れた口をへの字に曲げた。
「親の言う台詞かよ」と呟くが彼女は聞こえない振りをする。
すると丁度良く体温計の電子音が響いた。
母親は中村より先に抜き取るとニンマリ笑う。
それを見せられて中村は渋々頷いた。
体温計の画面には36.8度と表示されていた。

その日の夜、中村は通いなれた近所の弓道場に顔を出していた。
習っている子供達はとっくに帰ったのか誰もいない。
静まり返る道場は拙い明かりが灯されていた。
荘厳な雰囲気に肌が痛くなる。
その母屋には先生が暮らしていた。

「失礼します」

先生は弓道衣を着て射位に立っていた。
真冬の場内は寒く、裸足が一層寒々しく見える。
見ているだけで手足が冷たくなってブルリと震えた。

「おお来たか」

中村の存在に気付くと先生は顔を緩ませた。
だから手招きされるがまま中に入る。
木の床は僅かに軋んだ。
靴下の上からでもひんやりした床の感触が伝わる。

「どうして呼び出されたかわかっているだろう」
「はい」

先生の顔は皺だらけでありながら、どこか威厳に満ちていた。
中村は無意識に背筋を正すと小さく頷く。
初めて先生に会った時は怖くて震え上がったほどだ。
それほど厳かな雰囲気を漂わせている。

「山岸先生が来てな。お前をたいそう心配していたぞ」
「すみません」

山岸先生は弓道部の顧問である。
中村の通っていた弓道教室は地区でも有名な道場だった。
師範は市の弓道協会の副会長を務める教士六段の持ち主である。
また中学の弓道部に入るのは大抵この弓道教室に通っていた子供達であるから、先生同士の交流も深かった。
なら中村の不調が伝えられていてもおかしくない。

「今年も断ろうと思っています」

この地域では昔から年に一度弓道まつりが行われていた。
県の内外から人がやってくるほど賑やかなお祭である。
城の傍にある大きな公園では奉納としての大会が行われていた。
同時に体験教室を実施し、少しでも多くの人に弓道をPRし普及する目的を兼ねている。
中村はここ数年、祭りでの奉射に出ないかと誘われていた。
しかし人前に立つこと自体苦手な彼が、祭りで矢を射られるわけがない。
だから毎年先生からの誘いを断っていた。

「いや、少し違うんだ」
「え?」

すると中村は首を傾げた。
てっきり自分が呼ばれた理由はそれだと思っていたからだ。

「奉射の誘いではなく、奉射の決定を伝えようと思ってな」
「え…っ、ちょっ……」
「つまりこれは決定事項だ」

それはあまりに非情な宣告だった。

「仕方がないだろう。今年は市内の学校からそれぞれ参加者を募ることになった。お前の学校の部員は三名だが、その内の二人は三年生でとっくに引退している」
「そんなっ」
「昔は盛んだったのに今じゃこのザマだ。この教室の子供達もずいぶん減っている」
「…………」
「中村しか居ないのだ」

そう言われたら拒否することは出来なかった。
何が悲しくて祭りの見世物になるのだろう。
中村は初めて弓道を続けてきたことに後悔した。
ただでさえ、学校では問題山積なのにこれ以上悩みの種を増やしたくない。
しかし先生にそう言われて首を振るほど強気に出られるわけでもなかった。

「やりたくない――と、いった顔だな」
「そ、それは……」

彼は中村の性格をよく知っている。
だから表情が曇ったことにもいち早く気がついた。
しかし咎めることもなく弓を持ったまま安土を見つめる。
さすが先生だけあって立っているだけで様になった。
いつ見ても先生は背筋良く凛々しく見える。
驕りではない自信で満ちていた。

「面倒を避けていても良い人生は送れんぞ」

目を細めた先生は中村の方に振り返る。
寒い道場に白い息が零れた。

「で、でもオレは先生みたいに強くなれませんから」

羨みと嫉妬が入り混じってつい皮肉を口走る。
それが最大の反撃だった。
気弱な中村にとっては精一杯の嫌味である。
しかし先生は何も言わなかった。
その代わり持っていた弓を構える。
ただ美しい動作だった。
構えてから射るまで、流れるようなしなやかさが目を引く。
無論、的の中央に矢が刺さった。

「弱くて結構」

張った弦が震える。
的を見て深く息を吐いた先生は一言そう呟いた。

「強さを求めるなら始めから矢には頼らんだろう」
「……っ……」

皮肉を皮肉で返されて反論できない。
苦笑した先生は弓を下ろした。
そして中村の方へと近付く。
静かな道場には軋むような足音が響いた。

「――さっきのは建前だ」
「え?」
「本当は部員が一人だからではない。私はお前に出て欲しかった。でなければ毎年誘ったりしないだろう」

目の前まで来た先生は中村の頭を優しく撫でた。
指先が氷のように冷たい。
それはそうだ。
道場には暖房器具などない。
いつも冬は寒さとの戦いだった。

「私はお前の弓道が好きだよ。いつ見ても気持ちがいい。フォームや動作がずば抜けて綺麗だと思っていた」
「え?」

先生の言葉に中村は目を見開いた。
厳しい彼は滅多に褒めない。
習っていた時に褒められたのは数回あるかどうかだった。
(きれい……?)
自覚はない。
だが唐突にフラッシュバックした。
矢を射る姿を見ていた伊瀬が言ってくれた言葉。
彼はいつも中村を褒めていた。
綺麗だとか格好良いとか、恥ずかしくなるほどの言葉で賞賛してくれた。
(だからオレは自信が持てた)
引っ込み思案で弱虫でも射位に立てば勇気が出る。
真っ直ぐ前だけを見て気持ちを落ち着かせることが出来る。
他人にとっては些細なきっかけかと思うかもしれない。
しかし中村にとって伊瀬の言葉は何より大きな支えとなった。
だから弓道だけは真剣に取り組むことが出来たのだ。

「せ……先生」

中村はコートの端を握り締めた。
眉間に皺を寄せながら歯を食いしばる。

「オレなんかに、出来ますか?」

すると先生は少しだけ頬を緩ませた。

「やろうと思った人間に不可能はないさ」

***

――そうして大会の当日を迎えた。
あれから伊瀬や佐藤とは話していない。
幸いなことにクラスで中村達の噂が広まることはなかった。
つまり、佐藤はあの時のことを誰にも言わず秘密にしている。
中村は弓道衣に着替えると控え室で震えていた。
緊張で一週間前から食欲が失せ、昨日はほとんど眠れていない。
先生の言葉だけを頼りにどうにか乗り切ってきたが限界が近かった。
(ほ、本当に出来るのかな)
外は賑やかである。
早春だというのに、祭りでごった返していた。
生憎の晴天とでもいうべきか。
多くの屋台が出て、活気に満ちている。
それが余計に中村のプレッシャーになっていた。
この日の為に建てられたセットからは多くの人が見物できるようになっている。
客寄せパンダの気分だが、座っているだけで絵になるパンダと違い中村には仕事が残っている。
奉射という名目の弓道大会は個人戦と団体戦に分かれていた。
中村が出場するのは個人の部である。
射距離は28メートル、的の直径は36センチ。
的中制で射手は一回につき、4射(四つ矢)する。
そのうち2中(2回的に中る)出来れば決勝に進めるというものだった。
なんとか予選を突破して決勝に進めた中村だが、相変わらず調子は悪い。
何より一度人前に出たのが不味かった。
本来ならそこで慣れるはずだったが、余計に人の視線を感じて怖くなった。
つまりまた同じ場所に立たなければならない苦痛を知ってしまったのだ。

「はぁ……」

膝を抱えてため息を吐く。
先程から悪いビジョンしか浮かばない。
母親は今日のことを知って家族で見に来ていた。
伊瀬には何も言っていない。
本当は言おうか迷った。
だが伊瀬に見られていると思うと余計に緊張する。
ここでしくじるわけにはいかなかった。
なぜなら、この大会で度胸を見せ、伊瀬に想いを伝えようと決めていたからである。
そうして自信をつけたかった。
少しでも伊瀬に近付きたかった。
大人になりたかった。
しかし万が一失敗したら告白なんて出来ない。
だからあえて伊瀬に伝えず出場を決めた。
(でも、やっぱり心細い)
裸足の冷たさに指が強張っている。
こういう時、一番に応援してくれるのは伊瀬だった。
その彼がいないのだから心細いに決まっている。

「そろそろです」

その時、控え室のドアが開いた。
スタッフの声と共に他の参加者が立ち上がる。
だから中村も慌てて立ち上がった。

中村は五人組の三番目だった。
決勝では四つ矢が2セット(8射)になる。
予選の倍弓を射るプレッシャーに体が硬くなっていた。
場内に礼をして入ると客席が目に入る。
予選よりずっと人が多かった。
他のスポーツと違い観客は騒がしくない。
だがこれだけの人に囲まれながらも辺りを包み込む静けさが気持ち悪かった。
視線が突き刺さる気がして息を呑む。
中村は耐えられず下を向くと持っていた矢を握った。
周りの選手はとっくに意識を集中させ落ち着いている。
中村だけが浅い呼吸を繰り返し胸を震わせていた。
(帰りたい)
いまさらそんなことを言っても止められないというのに沸き起こる孤独。
そろって本座で跪座し礼をしたというのに中村は集中力に欠けていた。
一番手が一手(甲矢、乙矢一本ずつ)を持ち射位に進むと足踏みする。
一番目の的を「大前」と呼び、二番目を「二的」中村の三番目を「三的」そして四番、五番をそれぞれ「落前」と「落」と呼んだ。
(落ち着け落ち着け)
心で何度も言い聞かせる。
だが意識は散漫でどうしても震えが止まらなかった。
的さえ見ていればいいのに周りが気になって仕方がない。
弓道は孤独な競技だ。
いざ、射位に立てば味方はいない。
誰も助けてくれない。
相手とぶつかり合うこともなければ触れることもない。
最初から最後まで独りぼっちで戦わなければならないのだ。
そこにはもう己との戦いしかない。
先生は強さを求めるなら矢を頼らないと言ったが嘘だ。
弓を射るのにも力がいる。
初心者なら二、三回で腕の力が持たなくなる筈だ。
肉体的にも、そして精神的にも大きな器が必要になる。

――すると、大前と二的が終わった。
次は自分の番である。
中村は左右の両拳を上にあげると引き分けた。
腰を中心に呼吸を合わせて胸の中筋から左右に開く。
そうして弓を引いた。
どんなに動揺していても射法は忘れない。
――否、忘れていない筈だった。
射法八節からなる弓道の動作は足踏みから始まり、胴造り、弓構え、打起し、引分け、会、離れ、残心で終わる。
中村は引分けまでこなしたが、「会」からが勝負だった。
よく的を見て精神を集中させる。
精神力と引きつける根性が試されるのだ。
大きな弓を構え、体と弓矢が縦・横に伸び合う。
観客としては一番の見せ場だろう。

「はぁ……はぁ……」

だが中村の視界は霞んで的がよく見えなかった。
しかも自分の乱れた呼吸が気になって集中できない。
そのせいでいつ射ればいいのか分からなくなっていた。

「……っ……」

咄嗟に矢を離す。
中村の放った矢は的を目掛けて飛んでいった。
その先をじっと見つめる。
観客の視線は一点に集まった。
それと同時に残念そうな声があがる。
彼の矢は的から少し離れたところに刺さっていた。
素人なら惜しいと思うかもしれない。

ゴクリ――。

だが中村はそれ以上の異変に気付いていた。
それは矢を射るタイミングである。
今の矢は完全に早気だった。
早気とは「会」が十分に成し得ないまま矢を射ることである。
恐ろしいのは一度その“癖”がつくと直すのが困難なことだ。
緊張感に負け、的中の誘惑に勝てず矢を離してしまう。
無論、他にもさまざまな理由があるが中村は完全に上記の通りだった。
集中力の無さ、中てたいという欲、孤独、恐れ――多くの負の感情を背負った中村はそれに勝てなかった。
本来なら気力の充実と共に、冷静になって的を狙わなければならない。
しかし早気になると字の通り、気ばかり逸りどこで射っていいのかわからなくなるのだ。
結果タイミングに頼るほかなくなり的中率を格段に下げてしまう。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

まるで底なし沼に足を突っ込んだみたいだった。
あれから何度も射ったのに全く中らない。
(自分はどうやって的を狙っていたんだ)
なぜこれまで的中していたのか自分でもわからなくなっていた。
今までの経験を思い出そうとしても焦りばかりが募って上手くいかない。
練習の時でさえ、ここまで酷いことはなかった。
調子が悪くて早気気味だと注意されることはあっても、すぐに持ち直すことは出来た。
(どうして中らないんだ)
他の四人は続々と的中している。
自分よりひとつ前の二的の選手なんて皆中(全て的中)だった。
それが余計に中村のプレッシャーを煽る。
的中する度に起こる拍手が中村の心を追い詰めていった。
自分が射る度に残念そうな声があがる。
それがどれだけ心苦しいことなのだろう。
中村はこの場から今すぐ逃げ出したかった。
これ以上哀れな道化でいたくなかった。
完全に我を失った彼は集中することさえ忘れてひたすら焦りと戦っていた。

それは最後の一射も変わらなかった。
目を真っ赤にしながら泣くまいと堪えて射位に立つ。
結局二的は皆中のまま終わった。
自分はどうせ最下位である。
だがそれでも開き直ることが出来ずに、一度だけでいいから中てなくちゃという思いに駆られていた。
それこそがドツボに嵌っているとも知らず力んだ体で弓を構える。
頭がグルグルした。
たくさんのことを考えすぎてパンクした頭はオーバーヒートしたまま思考を奪う。
(なんでこんなことしなくちゃいけないんだ。どうしてオレは弓道なんかやっているんだ)
たったひとりの味方である自分さえ信じられなかった。
並んだ的は自分のところだけ一本も刺さっていない。
弓掛けの下の指が震えている。
息苦しい。
次の動作に進むだけで精一杯だ。
詰まった胸元に唾さえ飲み込めず吐き気がせり上がってくる。
心臓は軋み激しく呼応する。
何年も弓道を続けていたのに、何もかも忘れてしまった。
だからといって肉体の感覚を信じきれず迷いだけが頭をチラつく。
いっそ委ねてしまえばいいのに中途半端な欲だけが体を支配した。
(中てなくちゃ。絶対にこれだけは中てなくちゃ……)
じゃないと伊瀬に会えない。
自信がない。
勇気がない。
資格がない。
中村は対等でありたかった。
胸を張って伊瀬と並んでいられる自分になりたかった。
(……だって、伊瀬はオレを置いてどんどん先に行っちゃうから)

 

次のページ