図書室のジュリエット

「へぇ、弓枝もこの本好きなんだ」

初めに思ったのは、自分の名前を知っていたんだという驚き。
次に思ったのは、自分以外にもあの本が好きなんだという喜び。

それまでクラスメイトなんてどうでも良くて、名前すらろくに覚えていなかったのに急に彼が気になるようになった。
始めから顔は知っていた。
正確にいえば同級生で知らぬ者などいない。
いつも賑やかで、話の中心にいたからだ。

「桃園祐一郎だっけか……」

名簿を辿れば、珍しく華やかな苗字、凛々しい名前に納得する。
人の途絶えた教室で確認するとひとりでに頷いた。
彼との会話はあれ一度だったが、いまだにあの時の声が耳に残っている。
まるで好きな本を読み終えた時のような心地好い余韻だ。
桃園にとっては数いるクラスメイトのひとりに過ぎないし、弓枝にとってもどうでもいい人間のひとりだったはず。
クラスは毎年変わる。
同時にクラスメイトも変わる。
いちいち覚えていたところで意味はない。
いつかの余韻もいずれ消えるし、もう二度と会話することはないだろう。
そう思っていたから、まさか二度目がやってくるとは思わなかった。

***

弓枝は放課後人気のない図書室で勉強するのが日課だった。
独特の本の匂いに囲まれて、黙々とシャーペンを動かす。
始業式を迎えたばかりで、外は灼熱地獄だ。
窓の向こうには熱気で揺らいだ桜の木が見える。
図書室は他の教室より冷房の効きがよく、時折涼しむためにやってくる生徒以外は誰もいない。
進学校なせいか、勉強する生徒はみな塾か近くの図書館を利用していた。
弓枝が好んで図書室で勉強するのは、人がいないからである。

「あ、弓枝じゃん」

その日はなぜか違った。
図書室の扉を開けると見慣れぬ人物が座っていて固まる。
視線の先には本を積んだ桃園が一番後ろに座っていた。
弓枝の存在に顔をあげて気軽に「よっ」と、手を上げる。
咄嗟に何も言えず、黙ったままお辞儀をして離れた場所に腰掛けた。
座ったあとに悪いことをしたと気付いた。
無視はしなくも、無言のまま遠い席を選ぶのは失礼な気がする。
といって、近くに座るのは鬱陶しいし、話すこともなかったから間違えた選択でもない気がする。
弓枝は決して陰気なタイプではない。
しかし自ら進んで人の輪に入るのは避けていた。

「あー、そういえば明日って席替えだねえ」

桃園はそんな弓枝に対して「嫌なやつ」と文句を言うことも、「寂しいじゃん」と近くの席に座りなおすこともなかった。
一番後ろの彼が一番前の弓枝に暢気な声で呟く。

「そうだな」

あまりに自然な態度だったから、弓枝も意識することなくいつの間にか返事をしていた。
変な空気感の中を古い冷房の動作音が遮る。

「俺ってくじ運良いんだよね」
「……良かったな」
「ん、良いでしょ」
「まだ席替えのくじ引いてないから結果は分からないけど」
「あっ、気付いちゃった? うっかりうっかり」
「…………」

生産性のない会話だった。
この暑さのようにダラダラして終わりが見えない。
だが弓枝が汗を拭き終え、問題集を取り出すと会話はなくなった。
桃園は話しかけてこなくなった。
内心勉強しづらいと思っていたから安心した。
これで集中できる。
(人気なはずだよな)
気が利くくせに、鼻につかない。
彼は弓枝が持っていない才能を持っていた。
人に気に入られる才能である。
だが羨ましいとは思わなかったし、むしろ大変だなと他人事に見ていた。
(つーか何してんだろう)
声をかけられるのが嫌で振り返らなかったが、後ろから本を捲る音だけが聞こえてくる。
勉強――ではなさそうだ。
来た時から机に何冊も本を積んでいたから調べ物か。
ただ聞けば済む話なのに、なぜか憚れて無言を突き通した。
しばらくしたあと桃園が図書室を出て行くまで勉強が身に入らなかったくらいだ。
さっさと聞いた方が賢明だったかもしれない。
そうして自己嫌悪に陥っている弓枝など気にも留めず、彼は爽やかな笑顔で立ち去っていった。
ようやく静かないつもの図書室に戻った。
だが安堵するのは早い。

「俺ってくじ運良いんだよね」

翌日の席替えで、まさか弓枝の前に桃園が座ることになるなど、この時の彼は何も知らなかった。

***

席替えから数日後、登校するとクラスの前には数人の見慣れぬ女子生徒がいた。
不審に思いながら近付くと廊下側の窓が開いており、その向こうにいる桃園と会話している。

「先輩、今日は部活でますか?」
「ん、出るよー」

彼の返事に喜んだ女子生徒は朝っぱらからきゃあきゃあうるさい。
昨日も夜遅くまで勉強していたせいか頭に響いた。
うんざりしつつ教室に入ろうとすれば、出ようとしていた桃園とぶつかりそうになる。

「おっと」
「……っ……」

彼は素早い身のこなしで避けると、弓枝の腰を抱き寄せた。
そのせいで引っ張られるがまま胸元に納まり、咄嗟にブレザーを掴む。
キャラクターに裏切らないシトラスの香りが鼻を擽った。
いちいち仕草がサマになっていて、驚きを通り越して呆れさえする。
これなら出会い頭にぶつかった方がましだった。

「おはよ。大丈夫?」
「ああ」

女子生徒の黄色い声が大きくなる。
そのわりに本人はどこ吹く風で飄々としていた。
女でもあるまいし、支える手が優しくて困る。
嫣然と微笑む顔は男に向ける必要がない甘さがあった。

「さんきゅ」

思わぬ近さに大慌てで離れると、自らの席につこうとする。
その現場を見ていた女子生徒やクラスメイトたちの視線が痛かった。
平気な顔をしながら息を詰め、嫌な速さの心臓を抑えようとする。
桃園は朝から心臓に悪いから嫌だ。

「おーす」

無事に席へつくと、桃園の席の前には男が立っていた。
名前が分からず「おはよ」とだけ返事をする。
彼はよく桃園とつるんでいる友人で、女子に呼び出されるまで彼と話していたのだと覚った。
ひょろひょろしていて間抜け面。
一見桃園と話が合うのか疑問だが、休み時間は楽しそうにつるんでいる。
弓枝は後ろの席からよく二人が話すのを訊いていた。

「なーなー」

すると彼は弓枝の席の隣に座った。
挨拶だけで済むと安堵していた矢先の出来事にうろたえる。
鞄からノートを取り出している手が止まった。

「弓枝は演劇って興味ない?」
「は……?」
「今ねー大大大募集中なの。あ、弓枝だったら脚本でもいいなぁ」

困惑している弓枝に気付きもせず、人懐っこい顔でニシシと笑っている。

「去年、書いた作文で賞状もらってたでしょー?あれすごい良かった。ね、どう?」
「なんでそれっ……っていうか、言ってる意味が分からないんだけど」

昨日まで話したことすらなかったクラスメイトに誘われている。
(演劇?脚本?)
弓枝は確かに一年の時国語の授業で書かされた作文で賞状をもらった。
たまたま学年主任に見出されて市の文集に載ったのだが、覚えている人は少ない。
なおかつ読んだかの言いようでは動揺しても無理なかった。

「なんでって?……そりゃあ、もごっ――!」
「はいはい。弓枝困らせんのやめてね」
「もごごごっ、ごごっ」
「桃園」

そこにちょうどよく桃園が戻ってきた。
男の口を塞ぐと目を細める。
廊下を見れば女子はいなくなっていた。

「あ、その人……」

もごもご声にならず苦しそうだ。
その視線に気付くと、変わらぬ笑みを湛えたまま「うっかり」と、手を離す。
咳込む彼を尻目に桃園は自分の席へつくのだった。

「ごほっ、ごほっ……死ぬかと思ったぞ」

男は涙目になって文句を言うが、あっさり流されて口を尖らせる。

「つーか、弓枝は俺の名前知らないのか」
「や、いや……その……」
「桃園の名前は知ってんのに!」
「……っ……」

あてつけのように聞こえて口篭った。
桃園はたまたまで特別な意味なんてないのに後ろめたさに胃が重くなる。

「それは……」

当惑して目を泳がせると逃げるように窓の外を見た。
雲ひとつない夏空で秋とは思えない蒼さをしている。
空気もまだ夏の緑の匂いがして、校庭の梢にとまる蝉が騒ぐように鳴いていた。
朝なのに湿気の多い教室は暑くてぐったりする。
九月に入っても残暑は衰えをしらず、近年は十月半ばまで夏のように暑い。

「はいはい。妬かないの」
「ぷー」
「弓枝。こいつ、冬木。そう呼んでやって」
「呼んで呼んで」
「それから演劇と脚本っていうのは部活の話。俺たち演劇部なんだよね」

桃園は頼んでもいないのに、人の良さそうな顔で説明してくれた。
冬木と弓枝の話を聞いていたらしく、部活の話にまで及ぶ。
その隣で冬木は、こぼれるような親しみを満面に浮かべながら相槌を打っていた。
そろそろチャイムが鳴るというのに自分の席へ戻ろうともしない。
弓枝は気まずくて避けるように視線を外していた。

「まぁ、クラスメイトなんて毎年変わるもんね。覚えとらんよ」

そんな彼に対して桃園はあっけらかんと呟いた。
口調に反して弓枝の机に肘を置き、窺うように見つめる瞳は優しげで、気遣われているのだと分かる。
そのさりげなさが人を引き寄せる一因になっているのだ。
器用に立ち回る彼が羨ましい。
せめてもの礼を伝えようとしたら、ちょうどよくチャイムが鳴った。
担任がタイミング良く入ってきたから、冬木は後ろ髪引かれながら自分の席へ戻る。

「あ……」

弓枝は謝りそびれたと眉を顰めるが、桃園に眉間を小突かれた。

「気にすんなって。俺も去年は弓枝なんて知らなかった。そんなもんでしょ」
「……っ……」
「じゃね」

ひらりと手をあげ、桃園は前を向いてしまった。
弓枝は反射的に言おうとした言葉を呑み込んで、喉の奥に押し込む。
(そんなもんだよな)
〝俺も去年は弓枝なんて知らなかった。〟
思っていたことでも、実際に他人の口から聞くと傷つきそうな言葉である。
だけど桃園が言うと軽くて、本当に「そんなもんだ」と返したくなるから不思議だ。
軽々しいのに嫌味はない。
なぜだろう。
声か、顔か、それとも雰囲気だろうか。
上手く表せずに担任の話も上の空で、ホームルーム中はずっと桃園の背中を見つめていた。

***

放課後、図書室に行くと案の定一番後ろの席に桃園がいた。
彼も弓枝が来ることを分かっていて、ドアの音と共に顔を上げる。
その上品な笑みに顔が引きつりそうになった。

「つーかお前、演劇部なんだろ。なんでこんなとこにいんだよ」

弓枝は前と同じ一番前の席に座る。
奇妙な距離感だが、さほど気まずさを感じないのは二度目だからだろうか。

「俺脚本と演出も任されてんだよね」
「ふーん」

それで図書室に来ているのか。

「でも今朝いた後輩たちには今日行くって言ってただろ」

弓枝は今朝の会話を聞いていた。
ぞろぞろと数人の女子生徒をはべらかして――と、思うのは若干のやっかみが入っているせいなのか。

「てへ。聞こえてた?」
「ああ」

後輩にもモテているんだなとはさすがに言わなかった。
どんな反応を返されても「あっそ」としか言えなかったからだ。
しかし桃園は表情を緩ませると、手を止める。

「気にしてくれたんだ」
「はぁ?」

覗き込むような上目遣いは楽しんでいるようで癇に障った。
(からかってんのかよ)
あからさまに態度が悪くなると、彼はクスクス笑う。

「そうだったらなんだよ。文句あるのか」

売り言葉に買い言葉みたいな返し方をしてしまった。
腕を組み桃園を睨んで言い放つと、彼は意表を突かれたような顔で瞬く。

「んーん。嬉しい」
「意味わかんね」
「やぁ、弓枝に気にされるなんて滅多にないことっしょ。部室行ったら冬木に自慢しよ」
「なんでだよ」

頭が痛い。
確かに人に関心を抱くことは少ない。
しかし同性に気にされたところで嬉しいことなんてひとつもない。

「つーかさ。早く手を動かしたら?」
「おっと、そうだった」

「いっけねー」と砕けたように笑い、書くことを再開させる。
それを見た弓枝も席に座りなおすと前を向いて勉強を始めた。
古いエアコンの動作音と、シャーペンを動かす音しか聞こえない。
閉め切った室内ではグランドにいる野球部の掛け声すら掠れて聞こえた。
図書室には独特の淀んだ本の匂いが染み付いている。
それは慣れ親しんだ匂いで、勉強モードに切り替えるスイッチみたいなものだ。
次々に問題集を解き始めると、集中力が増して後ろの席に桃園が座っていることすら忘れてしまう。
そうしてどれくらい経ったのだろう。
ひと段落ついたところで深く息を吐くと顔をあげた。
――と、目の前のカウンター席からこちらを見る目と合う。

「なっ……」
「お、ようやく気付いた」

いつの間にか後ろにいたはずの桃園が座席の前にあるカウンターに腰掛けていた。
黙々と問題に取り組む弓枝を見ていたのだ。
それに気付くと赤面して固まる。

「な、なんだよ」

ずいぶん不躾な物言いになった。
だけど気恥ずかしさが消えなくて、これが限界だった。

「やー、いつ気がつくかなぁって思っていたもんで。失礼。驚かせるつもりはなかったんだよ」
「心臓に悪いからやめろ」
「へーい」

軽く返事をすると手をあげた。
身を乗り出していたカウンターから立ち上がると、弓枝の机の前に立つ。
見かねた弓枝はシャーペンを置いた。

「遊んでんなら早く部活行けよ」
「遊んでいるつもりじゃないんだけどね」
「は?」
「ちょっと脚本が詰まっちゃったんで気晴らしに声をかけてみました」
「人を気晴らしの道具にすんな」
「仰るとおりで」

ぶっきらぼうな態度にも関わらず、桃園の目は優しいままだった。
(変なやつだ)
なぜ話しかけてくるのか分からないが、彼からしてみれば些細な理由だろう。
いつも誰にでも隔てなく優しい男だから弓枝のような態度にも対応できる。
その器用さが羨ましくも恨めしい。

「どこで詰まってんの? っていうか題材は何?」

桃園相手だと気を張ることすら馬鹿馬鹿しくて、自らも歩み寄ってみることにした。
するとそれを聞いた桃園は目を輝かせて後ろの席からノートや本を持ってくる。
ひとつ間を空けた席に座ったのはなぜか彼らしいと思った。

「ロミオとジュリエットか」

またずいぶん古典的な劇をやるもんだ。
内心そう思いながらノートを捲ると、まだロミオはジュリエットにすら出会っておらず失恋真っ最中だった。

「序盤も序盤じゃねーか」
「うん」
「はぁ……」

先が思いやられる。
頭を抱えながら桃園を見ると、彼も肩をすくめて苦笑いしていた。
どうやら自分でもやばいと思っていたようだ。

「どうすんの? 原作に忠実に書くつもりか」

まだまだ途方もなく長い道のりが待っている。
早く二人を出会わせ、恋に落とさせ、さらに裏切り、決闘に結婚、エンディングとイベントは目白押しなのだ。

「大体無駄な会話が多すぎんだよ。はやくジュリエット出せ。客は飽きるぞ」
「あ、やっぱ。そうだよねぇ」
「なんで他人事なんだよ」

夏の演劇コンクールで卒業した先輩がずっと脚本担当だったらしく、桃園は初めての執筆に全く進んでいなかった。
書き始めたのが八月の中旬というから眩暈がする。

「ロミジュリなんて定番も定番だろ。どっかから脚本拾ってこいよ」
「やー、まさかこんなに行き詰まると思っていなかったもんで。書くのって難しいよね」
「ったく、ちょっと貸せ。こんな律儀に会話せずとも語り部の役を作って最初に説明させればいいんだよ」

弓枝はノートを奪うと、ページを捲り勝手に書き始めた。

「わお、さすが弓枝。まさかロミジュリも知ってるなんてすごい」

隣で驚嘆の声をあげながら嬉しそうに呟いている。
その言い方は流せなくて動きを止めた。
顔をあげると口を尖らせ睨む。

「昔一度読んだだけだ。言っておくけどロミオとジュリエットが好きで読んだんじゃない。とりあえずシェイクスピアに手を出すのは学生の基本だろ」

言い訳がましいことを早口で畳み掛けた。
微妙な年ごろ故に恋愛小説だから読んでいると思われるのが嫌だった。

「さっすが優等生」

桃園は愛嬌の良い微笑を目尻のひだにたたむ。
それに対して馬鹿にされたと眉間に皺を寄せれば、

「違う違う。尊敬しているんだよ。俺も中学ん時読んだけどさ、いざ自分が書くってなった時、うまくいかなかったからさ」
「別にこんなもん……」

弓枝は文章を書くのが苦手じゃなかった。
いや、むしろ得意の部類に入っていた。
だから昨年文集に選ばれた時は嬉しかったし、誇らしかった。
しかし親は文を書いている暇があればひとつでも多く問題を解けと考える人だった。
今まで何度賞状をもらっても、決して喜んではくれなかった。
小学生のころから内緒で書き続けてきた小説が見つかった時はノートごと捨てられてしまった。
それ以来、授業以外で文章は書いてない。
表彰されても親に言うことはなかった。

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