図書室のロミオ

桃園と仲直りした翌日、気分はすこぶる良くて、いつもより十五分も早く家を出た。
学校に着いた時間も早く、まだ人気の少ない教室に冬木の姿を見つける。
彼は弓枝に気付くと、ぱぁっと顔を晴れやかにして近づいてきた。
席に座る弓枝の前――まだ来ていない桃園の席へ座って振り返る。

「冬木、色々ありがとな」

昨日のことをどう説明していいか迷い、それだけを口にする。
すると彼は表情を和やかにして、それ以上は詮索してこなかった。
(なぜ桃園と冬木がつるんでいたのか分かる気がする)
桃園はあの通り気配りに長けていて、人の嫌がりそうなところまで入ってこようとしない。
神経細く人を気遣い意識しているからだ。
対するに冬木は、最初こそ馴れ馴れしいやつだと思っていたが、付き合ってみると人との距離を見極めて入ってこようとしない。
それは桃園のような意識しての気遣いではなく、むしろ反対で、感覚で生きているからこそ自然と空気を読み、自分の立場を弁えて一歩引いているのだ。
自らのアンテナを張る桃園と感覚で察する冬木は、正反対とはいえ同じ距離感を持っている。
そんな二人といると心地良いのは得心すべきで、弓枝はその何分の一でもいいから返せているのかと不安になった。

「弓枝が元気なら俺も嬉しい」

曇りなく笑う冬木に、弓枝もぎこちなかった視線が定まる。
そうだ。
彼は打算や見返りなく付き合ってくれている。
むしろ不安に思うのは失礼で、でも、弓枝は与えてもらうばかりで何か出来ないかと思案する。
(劇の台本を完成させることが今のオレに出来る精一杯のことだ)
昨日あのあと、桃園に書いた台本を渡した。
まだ完成はしていないが、どうしても一度読んでから劇に使えるか考えて欲しかった。
桃園は手放しで喜び抱きしめてくれたが、所詮素人、至らない点はあるわけで、もしかしたら使い物にならないかもしれない。
だから一晩じっくり読んでもらってこのあとどうするかを相談することになっていた。

「はよー」

その時後ろから訊き慣れた声がした。
振り返りたいのをこらえてじっとしていると、声の主は他の生徒と挨拶を交わしている。

「おはよ」

その声がようやく弓枝に向けられた。
見上げると嵐のあとの空のような朗らかな顔の桃園がいて、

「くっ、また現れたな桃園星人め!」

冬木は奥歯を噛み締めて大げさな構えのポーズをする。

「現れたって、そこは俺の席でしょ」
「あ、そっか」
「それと教室来る途中酒井先生に会ったよ。怒ってたみたいだけど行かなくて平気?」

その言葉に思い当たる節があったのか、冬木は大慌てで「おおうっ!しゅわっち」と、謎の捨て台詞を残して走り去った。
たぶん酒井先生のところへ行ったのだろう。
桃園は腕時計を見て「やっぱりウルトラマンより滞在時間が短いのね」と呆れたように呟いた。
ようやく空いた席にやれやれとため息を落としながら腰をおろし、机に鞄を置く。

「お、おはよ」

弓枝は言いそびれたとばかりに声をかけると、振り返った桃園は嬉しそうにはにかむ。

「酒井先生って?」
「ああ、演劇部の顧問。昨日冬木が屋上にいたでしょ? 休むって伝えそびれていたみたいで」
「それで……でも」

それじゃオレのせいで――。
そう言おうとしたら、先に桃園が口を開いた。

「弓枝のせいじゃないよ。ちゃんと休むって伝えれば怒られなかったんだから冬木のせいでしょ。つーかあれは俺たちが勝手に喧嘩してただけだから、そこまで弓枝が責任を負わなくていいんだよ」
「でも」
「……じゃあ全部俺のせいにしよっか?」

すると桃園はめいっぱいに口角をあげた。
甘ったるいのは顔だけにして欲しいのに、桃園は声も口調も雰囲気さえも甘いから胸焼けを起こしそうだ。
弓枝の机に肘をついた彼は、人懐っこそうに好奇の眼差しで覗き込んだ。
反応を見ている。
賑やかになりつつあった教室の中で、そこだけ世界から取り残されたみたいに音を失った。
心理を見抜いたような狡猾な笑顔は憎らしいのに、整った容姿の美しさに見惚れてしまう。

「俺が全部悪い。実際その通りだしね」
「何が望みなんだよ」

桃園はこういう時、大体面倒なことを考えている。
その予感は的中で、彼の瞳は愉快そうに輝きを増した。

「叱って欲しいな」
「はぁ?」
「なんか弓枝に怒られたい気分なんだよね。じっと俺を見てだめでしょって言って欲しい」
「なんだそれ」
「いいじゃない。それでこの件はおしまい。……ね?」

上手く丸め込まれているような気がした。
桃園は待ち焦がれるように早く早くと急かしてくる。
何がなんだか分からないまま座り直すと、改めるようにコホンと咳をして背筋を正した。

「だ、だめだろ」

ねだられて叱るなんて初めてで威厳の欠片もない。
むしろ恥じらいが勝って、弓枝が罰を受けているような気分だ。
それでも負けまいと桃園を睨む。
すると突如桃園は机に突っ伏した。

「あー」

深く息を吐く。

「なんだよ。やれって言ったのお前だろ」

(羞恥プレイか!)
見下ろした金髪に恥じらいを隠すよう口を尖らせると、顔が熱くて呼吸が浅くなる。
外の暑さに負けないくらい火照って急に襟元が苦しくなった。

「ごめん。でも、なんか……うん」
「言いたいことがあるならハッキリ言え」

じゃなきゃ気まずくてこっちが先に参ってしまいそうだ。
突っ伏したままの桃園が横を向いて髪が流れる。
現れた耳は可哀想なくらい赤くなっていた。
(耳でこれだけ赤いなら、顔は……?)
桃園の状態に気付くと弓枝の勢いも失せてしまう。
それでも己を奮い立たせた。
でなければ二人して恥ずかしい雰囲気に呑まれてしまいそうだった。
頑なに憤然とした態度は変えない。
すると桃園は、

「……ごめん。なんか凄いキた」
「は?」
「想像以上に破壊力あって……どうしよう、俺」
「何がどうしようだよ。こっちは恥ずかしいの我慢してやったのに、失礼なやつだな」

彼の素直な反応に、弓枝はギクシャクしながら照れを紛らわすように膨れる。

「だってめっちゃ可愛いから直視出来なくなっちゃった。ただでさえ弓枝に見られると心臓やばいのに」
「ならお前見るのやめようか?」
「それはだめっ! 絶対にだめ!」

すると桃園はガバッと起き上がって焦ったように渋い顔をする。

「弓枝は俺だけを見ていればいいんだよ!」
「我侭なやつだな」
「我侭で結構。そうだよ。実は俺、性格悪いから」
「自分で言うなっての。つーかお前の本性女子が知ったらガッカリするぞ」

意外と子どもっぽい桃園に呆れ顔で言うと、彼は開き直った態度で意地の悪い笑みを浮かべた。

「いいの? 弓枝以外にもそういうとこ見せて」
「あぁ?」
「弓枝だけが特別じゃなくなっちゃうけど」
「……っ……」

皮肉を含んだ嘲笑を口許に掠めて目を鋭くさせる。
(ホント、キャラが変わりすぎだぞ)
昨日までと別人のような顔を見せる。
優しいだけの桃園から、あえて棘を見せて弓枝の戸惑いを楽しんでいるような素振りだ。
不敵な面持ちが妙に色っぽくて無意識に目で追いたくなる。
だけどそんな挑発に乗りたくなくてプイっと横を向いた。

「勝手にすれば」

心底可愛くない返事である。
弓枝の言葉を最後に桃園が黙ってしまった。
軽く流してくれると思っていたのに、反応が返ってこないと心配になる。
相変わらず賑やかな教室でここだけ静かだった。
せっかく仲直りしたのに嫌な間が続き、耐えられなくなる。
怒らせたと不安になり横目でチラ見すると、桃園は必死に笑うのを堪えていた。

「桃園っ、お前……!」

謀ったな――と、悔しさを滲ませるが、彼は全ての表情筋が緩みきってだらしない顔をしている。
誰がこんな男をイケメンと呼ぶのかせせら笑いたくなるくらいだ。
いっそのこと桃園に好意を寄せている女子に今の彼を見せてやりたい。
百年の恋も一瞬で冷めるはずだ。

「あーっと、たんまたんま! 怒らないでよ」
「なら怒らせるようなことすんな」

ひとりで慌てふためいて馬鹿みたいだ。
それを見られていたとなれば居心地悪いに決まっている。
弓枝は膨れっ面で桃園を睨んだ。
二度と策略にはまるもんかと言いたげな目つきだった。

「安心してよ。あなた以外にはこんなことしないから」
「安心できない」
「それでも安心してってば。だって俺にとって弓枝は特別なんだからさ」
「……っ……」

桃園は幸せをかき集めたみたいに嬉しそうな表情をしていた。
頬を僅かに染めて、照れを隠すように髪の毛を弄る。
些細な仕草のひとつひとつにも愛情が詰まっていて、弓枝も文句は言えずに口を噤んだ。
再び訪れた静寂なのに、今度は嫌な感じがなくて、ただただ照れくさい。
桃園とだと言い合いすら恥ずかしい行為だ。
軽い口喧嘩も初々しい恋人みたいなじゃれあいに思えて怒れなくなる。
(なんだよ。この空気)
声を出すのも憚るほど意識して、お見合いみたいに向き合ったまま口を閉ざした。
妙な沈黙が二人の間に訪れて、互いに会話の継穂を探す。

「あのさ」

先に声をかけてくれたのはやっぱり桃園で、

「昨日台本読んだよ」
「あ……」

途端に弓枝の心臓が強張る。

「すごい良かった。台詞のところどころに弓枝らしさが散らばっていてドキドキした」
「……っぅ……」

いまだに顔が赤い桃園は決して嘘を言っているわけではない。
(この顔で乙女思考はやっかいだ)
ドキドキした――なんていう言葉が似合う男子高校生なんて世界中探しても桃園くらいだ。
そんなことを言われたらこっちがドキドキしてしまう。

「べ、別に……ほとんど既存の脚本を引っ張ってきただけだし」

弓枝は視線を泳がせ、目を合わせられないまま口を曲げて呟いた。
さっきから素直になれず、可愛げないことしか言えない。
そんな自分に言ったあとから嫌悪するのだった。

「じゃあここもそう?」
「えっ」

すると桃園は鞄から台本を取り出して二人の間に置くとページを開いた。
机の上にあった弓枝の手をそっと握り、自分へ寄せて、

「そんなこと言わないでジュリエット。あなたの言葉は俺を魅了してやまないのですから」

芝居がかった台詞を恥ずかしげもなく言うと手の甲へ口付けた。
人の大勢いる教室で――だ。
弓枝はあまりの衝撃に口をパクパクさせながら固まると、

「誰がジュリエットだ。そんな台詞どこにもないだろうが」
「てへ。バレてた」
「真面目に訊いてたのに」
「ごめんって。あ、でも本当によく出来てると思うよ。原作のロミジュリそのままだと時間の都合上厳しいけど、これは上手く纏められているし」
「そ、そうか。時間訊いてなかったから、大体四十分くらいで収まるように書いていたんだ。じゃあそれで大丈夫そうか?」
「もっちろん」

桃園はまた弓枝の手に唇を落とした。
いい加減離せって言うのに離す気配はなくて、柔らかな唇の感触にどぎまぎする。
昨日までのぎこちなさはない。
それどころか桃園との間にあった壁が僅かに崩れたような気がした。
持て余すくらい格好良い男は意外なほど無邪気で、

「お前、本当に乙女思考なんだな」

恥じらいを堪えて繁々見つめると、桃園のほうが先に参って瞳を潤ませる。
大胆なくせに変なところで照れ屋だから難しい男だ。

「だから好きな人にだけだって」

ぶっきら棒な口調に思わぬ反撃を食らって弓枝は赤面する。
(好きな人って……オレのことだよな)
昨日も遠まわしに匂わすようなことを言われた。
あの時はうやむやなまま抱き合っていると、いつの間にか下校時刻を過ぎてしまい、先生が鍵を閉めに来たから逃げるように学校から出た。
日が暮れ、ゆるりとした闇が訪れて二人は一緒に下校した。
桃園は送るといって訊かず、女でもあるまいし家まで送ってもらった。
その道中はお互いに無言だったが気まずさはなくて、すぐ隣に立っている桃園を何度も盗み見た。
桃園はそのたびにニコッと微笑んで繋いだ手を強める。
人気のない住宅街とはいえ、男同士で手を繋いでいたら不審な目で見られる。
なのに彼はあっけらかんと「これだけ暗ければ分からないっしょ」と、流した。
気遣いの出来る男が周りを鑑みずに意思表示をしたみたいで拒絶出来なかった。
家に着いて桃園と別れ、部屋のドアを開けた瞬間、ようやく弓枝にも実感が訪れた。
無事に桃園と話せたこと、仲直りしたこと、そして掌を見下ろし、本当は自分も手を繋いでいたかったと気付いた。
(はぁ。乙女思考なのはオレも同じだ)
馬鹿に出来ない。
とはいえ、口に出す出さないで結果は異なる。
しばらくしてチャイムが鳴ると、冬木が戻ってきたと同時に担任がやってきた。
桃園は後ろ髪引かれるようにゆっくり手を離す。
誰にも聞こえないよう声に出さず「残念」と動く唇に、弓枝の心臓が跳ね上がった。
言葉にならない声が残響する。
――そう。
桃園はいつだって心臓に悪い男なのだ。

***

その後、いつの間にか冬木と桃園は元の関係に戻っていた。
彼らの間で話し合うような様子はなく、自然といつもの二人に戻っていた。
周囲の人々は何がなんだか分からないまま納得するしかなく、弓枝は再び担任に問われたが「さぁ?」としか返事できなかった。
以前同じような喧嘩をしたというが、こんな感じだったのかもしれない。
そんな二人の間に弓枝も溶けこんで、休み時間や昼食時は三人でいるのが当たり前になった。
益々他の生徒は首を傾げた。
弓枝の書いた台本は演劇部で採用となり、文化祭での劇に使用することとなった。
誰よりも喜んだのは冬木で、
「あいらぶゆー!」
と、弓枝に飛びつこうとしたところを桃園に阻止されて、悔しそうに地団太を踏んでいた。
まだ台本は完成していなかったが、ようやく演劇部は文化祭へ向けて劇の練習が出来るわけで、たくさんの人から感謝された。
戸惑う。
誰かからの礼を期待していたわけではない。
自己満足で書いていたに過ぎなかったからだ。
喜びを露にする部員に反して弓枝は困惑するとどもり、喉が引きつって声が出なくなる。
そんな彼に代わって桃園がフォローしたのは言うまでもない話だ。
そのスマートな立ち回りは見習いたい。
桃園と冬木はメインの役なせいかいっそう部活に励んだ。
放課後になると二人揃って教室を出て行く。
元々部活に勤しむようなタイプに見えなかったが、今の二人はとても楽しそうで残された弓枝は温かく送り出した。
なんだかんだ言って桃園と冬木は仲が良いのだ。
弓枝の生活は変わらず、授業が終わると図書室へ行く。
台本は大詰めで、ジュリエットはロレンス神父からもらった仮死状態になる劇薬を飲んだところだった。
桃園がいない図書室は妙に静かで、どこかで騒ぐ生徒の声が異様に気になる。
カウンター前の席で台本の続きを書きながら何度も振り返ったのは誰にも言えない秘密だった。
ほんの数週間前まで当たり前の光景だったのに、そわそわ落ち着かなくて席を立つ。
勉強だってしなくちゃいけないのに、心を乱されてやけにざわついた。
息をするのも邪魔に思えるほど静かな室内は、苦しくて呼吸が不規則になる。
弓枝は気分転換に本棚へ向かうとシェイクスピアの詩集を探した。
ずらりと並んだ本棚の奥は蛍光灯の電気も遮られて薄暗い。
上段にはほこりの被った分厚い本が揃えられていて、狭い棚の間では威圧的だ。
ここだとエアコンの風も入らず蒸し暑い。
ようやくお目当ての詩集を見つけると、手に取ろうと背伸びをした。
一番上の段にあって爪先立ちにならないと取れない。
踏み台はあるが面倒で、よほど重い辞書でもない限り使わなかった。

「う……く……」

みっちり隙間なく本が並んでいるせいか、人差し指と中指を器用に使って取り出そうとしても上手くいかない。
普段爪先立ちなんてしないせいか脹脛がぷるぷると震えた。
こんな無理をしなくても家に帰れば同じ詩集があるというのに、取れないと思うと益々欲しくなる。
今読みたかった。
さっさと踏み台を取りに行ったほうが早いことも承知だ。
全く届かないならすぐ踏み台を持ってくるだろうが、届きそうで届かないというのがもどかしい。
だからわけもなく無茶をしようとするのだ。
そうして格闘している弓枝の背中に軽い声が投げかけられる。

「なーにやってんの」
「うわっ……!」

不意打ちのように声をかけてきた桃園は、微笑ましそうに背後から見守っていたようだ。
どれくらい様子を窺っていたのだろう。
彼は後ろから易々とシェイクスピアの詩集を掴み棚から引き抜いた。
弓枝とは肩の高さからして違う。
面食らった弓枝は慌てて振り返ると本棚を背にした。

「取りたいなら言ってよ。水くさいなぁ。いつでも取ってあげるのに」
「何で本が届かない程度でお前を呼ばなくちゃいけないんだよ」

それなら踏み台を持ってくるわ――と、そっぽを向いたのは、余裕で手が届いた桃園への妬ましさと一生懸命背伸びしていた自分を見られていた決まりの悪さからだった。
思わぬ場面を見られて不機嫌そうに頬を膨らませる。
せっかく代わりに取ってくれたのに感謝のひとつも言えなかった。
ここで笑って「ありがとう」と言えたらどんなに愛嬌あるか。
想像してから気持ち悪い姿に首を振った。

 

次のページ