図書室のロミオとジュリエット

十月。
残暑が抜け、ようやく風の中に涼しさを感じ始めたころ。
朝夕には季節の変わり目だという実感が冷気と共に忍び込むようになっていた。
生徒たちは三ヶ月ぶりの冬服に袖を通し、久しぶりに着たブレザーの硬さを窮屈に思っていた。
弓枝もそのひとりだが、根がきっちりした性格なのか、着崩すこともなく真紅のネクタイを襟元まで締めている。
無事に両親から執筆の許可をもらった彼だが、十月上旬の中間テストに向けて勉強が優先されていた。
約束は点数を落とさないこと。
弓枝は休み時間と放課後は図書室に入り浸り、以前にも増して勉強に集中するようになった。
これまでの遅れを取り戻すには人の倍勉強するしかなかった。

「ちーっす」

放課後の図書室にひと際明るい声が木霊した。
零れるような親しみを満面に浮かべた桃園がやってきたのだ。
手には紙パック飲料を二つ持っている。
彼は時折こうして差し入れを持って現れた。

「また部活を抜け出してきたのか」

ノートから顔をあげた弓枝は、呆れたようにため息を吐いて筆を止める。
書きかけの単語はそこで途切れた。

「んー、いい天気だったから」

ゆるやかに流れる午後のひとときに、桃園の声は耳触り良く響く。
どんな理由だよ――と、弓枝は言い返すが、言葉に棘はなくて、声色は限りなく優しいものだった。
知らず知らず日常化したやり取りは、弓枝に安らぎを与える。
座ったままぐぐっと体を伸ばし、やってきた桃園と暫しの休憩をすることにした。
二人はジュースを飲みながら他愛ない話をする。
まるで空白の過去を埋めるように、好きな本や音楽の話をした。
笑えてしまうほど互いの好みは合わなくて、それぞれ違った世界で生きてきたことを実感する。
だが、居心地は悪くなった。
むしろもっと桃園の好きなものについて知りたくなった。
休憩が終わると桃園は部活へ戻っていく。
じゃあねと、軽やかに手を上げて桃園は図書室から出て行った。
その後ろ姿を見送りながら弓枝は机に肘をつき考える。
桃園とは両思いでセックスをした仲である。
通常二人を恋人と呼ぶ関係になっているはずだ。
しかし桃園は、あれ以来一度も弓枝を抱こうとしなかった。
それどころか肌に触れることさえない。
以前はふとした時に手を握ってきたり、身を寄せてきたりしたのだが、今は一定の距離が保たれている。
恋人らしい会話もなくただの友達のような付き合いですごしていた。
あからさまに避けたり無理している様子もなく、ごくごく普通の付き合いが続いている。
携帯も向こうから連絡が来ることはなかった。
弓枝も一度メールを送っただけで特に話すことはなくそのままにしていた。
帰りだって偶然一緒にならない限りは別々に帰宅をしていた。
(……ま、オレも助かるっちゃ、助かるけど)
両親との話し合いが土曜日で、次に会ったのは二日後の月曜日である。
週末に色々ありすぎてどぎまぎしたが、さすが桃園、まったくそういった素振りなく平然と声をかけてきたから面食らった。
お蔭で今は平常通りに接することが出来るのだが、彼こそ心臓に毛が生えていると言われてもおかしくない。
それほど彼の態度に変わりはなかった。
だから弓枝も心を乱すことなく勉強に集中していられる。
横目で机上の紙パックをチラ見した。
飲み終わって僅かに容器がへこんでいた。
表面に可愛い林檎の絵が描かれている。
あれは、そう――まだ桃園が好きだと気付く前の話だ。
いつの間にか弓枝も混じって三人で昼飯を取るようになっていた。
それぞれ弁当やパンを持っていたので、チャイムが鳴ると飲み物を買いに一階の自動販売機へ行くのが恒例になっていた。
ようやく午前中の授業が終わった開放感から廊下は騒がしく、生徒たちの声がところどころ飛び交っている。
購買部の横にある自動販売機には炭酸・ジュース系の販売機と、お茶やコーヒー系の販売機、そして紙パック専用の販売機が並んでいた。
冬木は炭酸を選び、桃園はお茶を購入する。
弓枝は紙パックの林檎ジュースを選んだ。
柑橘類だと喉がイガイガするし、甘すぎる飲み物も苦手だった。
そんな理由から消去法のように後味が爽やかでちょうど良い甘さの林檎ジュースを買うことが多かった。

「弓枝ってよくそれ飲んでるよね?」

ボタンを押して落ちてきた紙パックを取り出すと、桃園は興味深そうに弓枝を覗き込んできた。

「好きなん?」

そう訊かれるまで、いつも適当に買っていたから気付かなかった。
(好き、なのか)
手に取った紙パックをまじまじと見下ろす。
すると桃園はおかしそうに吹き出し、

「ぷははっ、オーケーオーケー。覚えとく」

弓枝の背中をポンポン叩いて教室へ戻ろうとした。
今改めて思い出してみると、弓枝が飲んでいるところをよく見ていたんだなと思う。
いや、少し違う。
林檎ジュースを飲んでいるところを見ていたのではなく、弓枝自身を見ていたから気付いたことだった。
第一に、ジュースとは別に、コンビニでミネラルウォーターを買っている。
だから林檎ジュースを飲まない日も多々あった。
何となくの気分で、食後に甘い余韻を感じたい時に買っていただけなのだ。
つまり毎日飲んでいたわけでもない物を記憶していたことになる。
それは案外難しいことだ。
(あとから考えてみればオレのことを好きで見ていたからなんだよな)
桃園は言った通りそのことを覚えており、こうして差し入れに持ってきてくれる。
自分も同じものを買って味を共有している。
なんとなくそれにくすぐったさを感じた。

桃園が部活へ戻り、弓枝が勉強を再開させてからしばらく経った。
そろそろ下校時刻になるため、弓枝は広げていた参考書を片付けると帰る用意をする。
遮光カーテンの隙間から零れるように漏れた西日が静謐とした室内を照らす。
揺らいだ鋭い陽光は瞼の裏を白く染めた。
時折、落ち葉を巻き込む風の音が耳を騒がせる程度で、図書室はいつ来ても森閑としている。
つい数日前まで暑さに喘いでいたのに、気付けばすごしやすい季節になっており、図書室の空調は切られていた。
当たり前の動作音がなくなると、こんなにも静かだったのかと耳が沁む。
それは波ひとつ立たない水面を連想させるまどろみだ。
黄昏色に染まった室内は、おぼろげな哀愁を漂わせる。
毎日同じ景色を見ているのに、なぜノスタルジックな思いに駆られるのだろうか。
放課後の図書室には不思議な魔法がかけられているみたいだ。
弓枝は忘れ物がないか最後に確認をすると廊下へ出た。
外を歩く生徒の声がこもったように聞こえる。
すると廊下の先から見慣れた姿が近づいてくるのに気付いた。
冬木だ。
いつもと変わらずふらふらと上半身を揺れさせながら歩いてくる。
向こうも弓枝に気付いたようで、

「おーい!」

と、大きく手を振っている。
弓枝も応えるように手を上げると、彼がやってくるのを待った。
冬木は小走りで駆け寄ってくると、二人揃ったところで階段を下り始める。
窓からは傾いた陽が射しこみ、階段は穏やかな赤さで染まっていた。

「今帰りなのか?」
「ん、へへ」

弓枝が問うと冬木は相好を崩した。
なんだよ? と、続けざまに訊けば彼はこちらを向く。

「今日に限って教室に忘れ物してきたんだ。そしたら弓枝に会えた。ラッキーだ」

なるほど。
部活帰りならば教室へ寄らず、直接下駄箱へ向かうだろう。
図書室と弓枝たちのクラスは三階にあり、視聴覚室は二階、体育館は外廊下に繋がっている。
帰りに鉢合わせることがほとんどなかったのはそういうことだった。

「……何を忘れたんだよ」

弓枝は気恥ずかしさにラッキーだという部分に触れず、そっぽを向く。
すると冬木は威張るように胸を張って、

「もうすぐテストだろ。ノートだよ」

と、答えた。
だが、彼の言葉が予想外で、弓枝は階段途中で立ち止まる。
冬木が勉強なんてすると思っていなかった。
午後の授業は寝ていることも多く、真面目に勉強している姿は見たことがない。
だが考えてみればここは進学校である。
受験時には相応の結果を残し、入学してきたはずなのだ。
冬木だってある程度勉強が出来るのは当然である。

「お前、もしかして見かけによらず頭良かったりする?」

弓枝は神妙な顔つきで冬木を凝視した。
混乱しているせいか失礼にもハッキリ言いすぎである。
しかし冬木は溢れんばかりの無邪気な仕草で、

「うんや、下から数えたほうが早い」

と、言い切った。
(……だよな)
一瞬の期待ののち、がっくりとうなだれる。
見た目そのままの結果なようだ。
しかし冬木ならありえそうだと思ったのも事実だ。
少なくとも彼は馬鹿ではない。
伝えることが苦手なだけで、普通の人に比べれば鋭いし賢いと思う。
心の内側は豊かなのに、残念だが学力はそれに直結しないのだ。

「悪かったな」
「んー、なんで謝んだ?」
「いや……なんか、失礼なこと聞いたみたいで」

弓枝が気まずそうに目を伏せると、冬木は不思議がるように目を瞬かせ、たちまち柔和な表情になる。

「変なの。俺、勉強好きじゃないの自分で分かってるから、成績悪いのも仕方ないし気にしてないぞ」
「まぁ、そうだけど」
「成績良いやつは、弓枝みたいに勉強頑張ってるから頭良いんだ。頑張ってることにはちゃんと結果は出る。だからそれでいいんだ」

冬木はそう言うと鼻歌交じりに階段を下りだした。
気分良さそうに肩を揺らし、リズミカルな調子で一歩ずつ足を踏み出している。
前をいく冬木の後頭部に西日が当たり、普段より髪の毛が赤茶けていた。
階段を下りるたび、跳ねっ毛がぴょんぴょん揺れて楽しそうである。
何がそれでいいのか判然としなかったが、弓枝もあとに続こうとした。
相変わらずの割り切りの良さは冬木らしい考えである。
(じゃあなんでこの学校へ来たんだろう)
その時、ふと疑問が浮かび、口に出そうとした。
――が、その直前、体のバランスが崩れた。

「おわっ……!」

上体が大きく前のめりになる。
考えごとに気を取られたせいで階段を踏み外したようだ。
体が浮遊感で支配される。
咄嗟の判断で踏みとどまろうとした上履きの底は、虚しくも階段の表面を滑った。
膝がカクンと折れる。
手すりを掴みそこねた手が、宙を舞うかのように伸びる。
実際には一秒にも満たない時間が、まるでスローモーションのように長く感じた。
弓枝は後ろから押し出されたようにつんのめって、そのまま顔面から階段を落ちようとしていた。
目に入ってきた地面はまだ遠く、その高さに身が震える。
止まれない。
痛みを覚悟して歯を食いしばる。

「弓枝っ!」

すると静かな階段に冬木の素っ頓狂な声が木霊した。
同時に落ちようとしていた弓枝の体が止まる。
何かに止められる。
代わりに顔面には柔らかな布の感触がした。
いつまで経っても痛みは訪れない。
弓枝は緊張を解くかのように恐る恐る目を開けると、驚いた冬木の顔が眼前にあった。
その近さに瞠目する。
どうやら冬木が弓枝の体を抱きとめてくれたようだ。
あのまま落ちなくて良かったと胸を撫で下ろす。
一時はどうなるかと思った。
だがそれもこの状況に一変する。
冬木の肩口越しにまだ遠い階段下が見えたからだ。
このまま二人連なるように落ちたら洒落にならない。
冬木を巻き添えにこんな高さから落ちるなんてまっぴらごめんだった。
弓枝は慌てて退こうとするが、まだ足腰に力が入らず自力で立てない。
すると、それを分かっているのか、冬木は弓枝の体を支えるように腰を引き寄せた。
その強さに今度は意表を突かれる。
冬木は、細身な見た目に反してガッチリしており、なし崩しに落ちると思っていたのに、押してもビクともしない。
不思議な安定感があった。

「大丈夫か?」

冬木はけろりとしていた。
重さをものともせず、むしろ弓枝が怪我をしていないか心配そうに窺っている。

「あ、ああ。悪い。ちょっと滑ったみたいで」
「疲れてんのか? 俺がひょひょいのひょいと家まで運んでやろうか?」
「いや、平気」

冬木はなぜか陽だまりのような優しい匂いがした。
桃園のシトラスの香りに慣れていたから、なんとなく変な感じがした。
その違いに戸惑ったまま固まっていると、

「冬木ー? まだかー!」

一階から上がってきた桃園がぬっと顔を出した。
何とも嫌なタイミングだった。

「ふゆ――――」

階段で抱き合っている二人に桃園も目を瞠る。
咄嗟の声が途切れた。
当然の反応だ。
例え桃園と弓枝が特別な関係でなくとも、階段で友人同士が抱き合っていたらショックを受けるに決まっている。
束の間、三人のあいだに奇妙な静寂が訪れた。
言い知れぬ緊張感が走り、弓枝は不自然なくらい大慌てに身を引く。
一瞬、呼吸の仕方を忘れてしまったかと思った。

「何やってんの」

一呼吸置いた桃園は、驚きを見逃すように曖昧に笑った。
蚊に刺されたほどにも感じないと言いたげな表情だった。

「あ、その……オレがちょっと階段を踏み外して……」

弓枝はどうにか階段を下りて桃園の傍までいくと言い訳めいたことを言う。
やましいことは何もないのに、なぜかぎこちなくなった。

「あら、あなた大丈夫なの? 勉強しすぎじゃないの?」

彼は口軽な言いぶりで弓枝の体をペタペタ撫でた。
怪我の確認をしているようだ。
嫉妬深い桃園が、冬木を相手に陰りさえ見せないのは逆に怪しくて、つい探るような目で見てしまう。
しかし、彼が易々と本心を晒すわけはない。
弓枝は桃園の頬を引っ張った。

「イタタ、顔はやめてよ。唯一のとりえなんだから」

その端整な顔立ちが愉快そうに歪む。
頬を引っ張っても美しさに変わりはなかった。
蝋のように白く滑らかな肌は柔らかく伸びる。
冬木の手前、問い詰めることも出来なくて、弓枝は渋々手を離した。
ごめん――と、目を伏せ、心地悪そうに鞄の持ち手を変える。
手元を動かしていないと落ち着かなかったからだ。

「んじゃ、帰りますか」

桃園は仕切りなおすように明るい口調で言うと歩き出す。

「おー、三人で帰るぞー!」

冬木はそれに続くと、ささっと階段を下りて桃園に並んだ。
そのまま彼らは取り留めない会話をしながら一階へと下りていく。
二人分の足音が人気のなくなった校舎に反響した。
弓枝は釈然としないままついていくしかなく、重い溜息を放つと自らも倣おうとした。
背後に夕陽を受け、目の前に現れた長細い己の影を踏む。

「………………」

だが、その前に妙な引っかかりを覚えて振り返ると、立ち止まったまま陽の射しこむ階段を見上げた。
踊り場から階段下まで結構な高さだ。
あそこから落ちなくて良かったと今さらホッとする。
(……意外と鍛えているんだな)
知れば知るほど冬木がどんなやつなのか分からなくなった。
抱き留められた感触が生々しく体に残っていて、心に薄波が立つ。
話すたび、冬木のことを知るたびに新たな発見をしたような気になった。
それはまるで、自分だけの宝物を見つけたようなワクワクとした気分だ。
掴みどころのない彼に興味をそそられる。
そんな自分に戸惑った。
すると、窓の外で黄色く色づいた葉が軽やかに舞った。
いつの間にか開花していた金木犀が濃厚な匂いを撒き散らすように揺れている。
風によって吹き上がった落ち葉は、回転しながら空を泳ぐと、風が止むと同時に力を失い、ゆっくり地面へ落ちていく。
その様子を目で追っていた弓枝は、

「――――でさー」

先ほどより小さくなった桃園と冬木の声で我に返った。
とっくに二人の姿は消えていなくなっている。
二階に佇んでいるのは弓枝ひとりだった。
先ほどより低くなった太陽に橙が翳る。
遅れて待たせるのは申し訳ない。
弓枝は振り払うようにかぶりを振ると、追いかけるように下駄箱へと駆けていった。

 

 

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