甘き執事と密な契約

赤坂のホテルから世田谷の自宅へ向かう途中、窓から見える繁華街の明かりを眺めながら、凛太郎は不機嫌そうに腕を組んでいた。
普段から険しい顔の多い彼だが、今日は増して酷く、眉間には深い皺が刻まれている。
休日の夜ということで、街は午後九時を過ぎているのに昼間のような賑わいがあった。
友人同士や恋人たちが晴れやかな顔で大騒ぎをし、光の街を闊歩している。
道路には色とりどりのタクシーで溢れ、景気良さ気な中年男性たちを乗せている。
その中に混じったキャバクラの広告車は、派手な電飾で一際目立っていた。

「さすがに今の時間は混んでいますね」

運転席の男が凛太郎に声をかけるが、耳に入らないのか返事はない。
車内は妙な気まずさが支配していて、唾を飲む音も聞こえそうで躊躇った。
大きな交差点を右折して繁華街を抜けると、徐々に喧騒から遠ざかって静かな街並みへ移る。
詰まっていた道路も止まることがほとんどなくなり、スムーズに車を走らせることが出来た。

「……コホン。汐塚さんの評価は上々でございます。ご心配なさらなくても……」
「だまれ」

初老の男性相手に、まだ子どもの凛太郎が一蹴する。
男は悪気ないつもりだったのに、さらに凛太郎の機嫌を悪くしてしまったようだ。
いかにも生意気そうな少年は、一丁前にも足を組みかえ、高級車の後部座席で踏ん反り返っている。
再び車内には嫌な沈黙が流れた。
触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに男は口を慎み運転に集中する。
もう窓の外は高級住宅街に入っていた。
あと少しこの空気に耐えれば今日の仕事は終わる。
そしたら帰路の途中にある飲み屋で一杯引っかけて帰るつもりだ。
生意気な子どもの相手は面倒で、溜まったストレスは酒で解消するに限る。
冷房が効いているはずなのに次々に汗が流れた。
そのたびに胸ポケットに入れていたハンカチで拭う。
そもそも凛太郎の相手は自分じゃなかったはずだ。
彼には専属の使用人がいて、運転もその男の仕事だった。
なのに、その男は今日のパーティーで凛太郎の父親である社長の補佐をしているらしく、自分が代わりに運転手を任されてしまった。
お蔭でこうして不機嫌な息子の相手に甘んじている。
凛太郎は生意気で有名だった。
いつもツンとして可愛げなく我侭ばかり言っている。
御曹司ということで仕方がなく言うことを訊いているが、内心うんざりしていた。
凛太郎専属の使用人も、まだ屋敷で勤めだして二年も経っていないというのに、仕事を評価されて社長から可愛がられている。
いや、社長どころか他の使用人や役員、他の経営者やお得意先の社長にも好かれていた。
どこへ行っても引っ張りだこ。
十数年働いている自分がその尻拭いをこうしてしている。
それも面白くない要因だった。

「そろそろご自宅に到着します」

男は淡々とした口調で声をかける。
案の定凛太郎の返事はない。
見えてきた大きな屋敷に、男はハンドルをきりながらようやく安堵の息を漏らした。
もはや彼の頭には今日飲むビールのことしかなかった。

***

広い邸宅は都会の一等地にあるとは思えないほど豪華な造りをしていた。
運転手の男と別れた凛太郎は、静かな回廊を進むと階段を上がり、二階にある自分の部屋へと向かう。
両親はまだ赤坂にいて、この広々とした屋敷には数人の使用人しかいない。
自室は十五畳のフローリングで、白い壁には母親の趣味である油絵が飾ってあった。
家具は学習机と本棚、ベッド、ソファのシンプルな物で、同世代の子どもたちより大人びた部屋である。
高い天井には青白い照明が煌々とつけられて目に痛かった。
ふてくされたまま子ども用のタキシードを脱ぎ、パジャマ片手に風呂へ行く。
無駄に金をかけた浴室でゆっくり湯船に浸かると、ようやく毒気が抜けてきた。
それでも彼の口はへの字に曲がり、眉間の皺はなくならない。
風呂から上がり自室へ戻ってきても、屋敷内は人気がなくて閑散としていた。
両親たちはまだ帰ってきてないようだ。
凛太郎はふかふかなソファの上に腰を下ろすと膝を抱える。
(何やってんだ。あの馬鹿は)
あの馬鹿とは専属の使用人である汐塚のことだ。
時計を見ればもう十一時近い。
あと一時間で今日は終わってしまうのだ。
凛太郎はぼんやりとした頭で斜め前にある机を見つめる。
机の引き出しにしまわれた小箱が外へ出てきたそうに疼いているようだ。
同調するように凛太郎もウズウズと行き場のない焦燥感を抱えてじっとしていられない。
頭の中では苛立ちが消えなくて、心中穏やかじゃなかった。
どんなに振り払おうとしても、煮立った鍋のようにむしゃくしゃと胸の中が沸きだってくる。
普段から気に入らないことだらけな彼だが、最近はさらに酷く見境なしに腹が立っているようだ。
それもこれも原因は全て汐塚で、脳裏に浮かんだ彼の姿に怒鳴っては不満を撒き散らせている。
だがそれも限界だった。
今日、凛太郎は両親と共にホテルでの祝賀パーティーに参加していた。
何の祝賀か分からないが、父親はとても上機嫌で、汐塚を引っ張りまわしていた。
そのせいで凛太郎は腑抜けた顔の使用人といるしかなく、楽しくもない会場の隅で大人しくジュースを飲んでいたのである。
人の多いところはただでさえ疲れるのに、ニコニコしていないと怒られるから面倒だ。
そのせいかもう眠気が頭に回り、目が重い。
上瞼には重石が乗せてあるようだ。
凛太郎は疲れてウトウトしながらも、膝を抱えたまま寝ようとしない。
目はほとんど開いておらず、重い頭が不安定そうに前後へ揺れている。
ほんの少しの力を加えればそのままソファへ倒れこみそうだ。
半分夢の中へ入ってしまった彼は、開けた窓からそよぐ風を感じ、気持ち良さそうに口許を緩める。
涼やかな風はレースのカーテンを揺らし、凛太郎の柔肌を掠めた。
意識が薄れる。
(――――待ってたのに)
ぼやくような口調で呟くが声にはならなかった。
凛太郎の体がソファへ沈む。
張っていた力が抜ける。
彼は最後に小さな口で大きなあくびをした。
頭の痺れが酷くなる。
結局まどろむような眠気には勝てず、夢の世界へと引っ張られていくのだった。

***

次に気付いた時、まるでゆりかごに乗せられているような心地良い揺れが体に伝った。
夢うつつのまま目を開けると、霞んだ視界の先に男がいる。
覗き込むようにこちらを見下ろし、柔らかな眼差しで目を細めている。

「起こしてしまいましたか?」

耳に触り良い声が聞こえる。
低く落ち着いた声は、濁りなく通るくせに人の感情を和らげるに適した音をしていた。
肚の奥にまで落ちてくると優しく響く。

「んぅ……」

目が覚めた凛太郎は、確認するように辺りを見回した。
先ほどより高い位置に視線がある。
顔をあげるとそこには汐塚がいて、自分が抱っこされている状況に眠気が覚めてしまった。
どうやら汐塚はソファで眠ってしまった凛太郎をベッドへ運ぼうとしていたみたいだ。
時計を見ればとっくに零時を過ぎている。
汐塚からは煙草や香水の不快な匂いがした。

「お、ろせっ……!」
「暴れたら危ないですよ」
「うるさい!」

汐塚は怒られても平然とした顔で凛太郎を運んだ。
そうしてベッドの上へ優しく下ろすと、頭を撫でて布団をかけようとする。
凛太郎はそれを手で振り払った。
子ども扱いが我慢ならなかったのだ。
彼は起き上がると、目覚めの悪さも相まって目尻を険しく吊り上げる。
明らかにムッとした顔で汐塚を睨むと、

「遅い!」

今にも噛み付かんばかりの声を張り上げた。
それでも汐塚の表情は変わらず、にこやかな笑みで頭を下げる。
まるでいつも通りの不機嫌には謝っておけばいいという仕草だった。
だけど今日は普段より怒りが激しい。
胸にくすぶる激情を汐塚は理解していないようだ。
それどころか全く気にした素振りはない。
(いっつも僕ばっかり)
必死になるのは凛太郎で、汐塚は眉ひとつ動かさずに平静を装っている。
どんなに文句を言おうが、怒鳴ろうが、喚こうが、彼が腹を立てたり落ち込んだりしているところを見たことがなかった。
全くダメージを受けていないというのは、適当に流しているようで面白くない。
自分自身を軽く扱われているようで気分が悪かった。
凛太郎は昔から自分中心でいないと気がすまない性格をしている。
それは出生が関係していた。
彼の両親は不妊に悩まされ、結婚後八年近く経って凛太郎が授かった。
待望の子ども――しかも嫡男となれば溺愛されることは必至で、常に自分中心で物事が進んできた。
故にそうじゃない場合、気に入らなくてすぐ不機嫌になる。
他の使用人に煙たがられるのも無理なかった。
誰だって彼のような面倒な人間は嫌いだ。

「……お前なんか、いらない」

凛太郎はそれまでの怒りを抑えると俯き、掛け布団を掴んだ手を震わせて、吐き捨てるように言った。
窓辺のカーテンは風が治まって膨らみが萎む。

「もう自由にしなよ。父さんのところへ行くなり、他の主人のもとへ行くなりすれば?お前を雇ってくれる人はたくさんいるだろう」

汐塚は物腰柔らかで清潔感があり、気遣いに長けているためどこへ行っても人気者だった。
仕事もすぐに覚えたし、柔軟な思考、臨機応変に動く様子から両親もお気に入りだ。
自分が捨てても拾い先はいくらでもある。
それが余計に面白くなかった。
(汐塚は僕が見つけてきたのに)
彼から顔を背けたまま膝を抱える。

「早く出てけ」

ダメ押しのように呟くと、汐塚は何も言わず頭を下げて出て行った。
ご丁寧にも室内の電気を消してドアを閉める。
凛太郎はうずくまったまま黙ってその音を聞いていた。
汐塚はあくまで冷静で、縋って懇願することも、許しを請うこともせず、あっさりとした別れだった。
心のどこかで引き止められることを望んでいたのに、当てが外れて肩を落とす。
唯一思い通りにならないのが汐塚だから苛々した。
最も掌握したい人間が、手のひらをするりと抜けていく。
もっと構って欲しいのに、上手くかわされて願いは切って棄てられる。
しかし凛太郎の性格からして、素直に構ってと言えないから、空回りばかりしていた。
これでは呆れられて捨てられるのも当然だ。
深々と更けた夜の住宅街は、人の声どころか物音さえしない。
丘の上に建てられた邸宅は坂の途中にあり、ベランダからは都会の夜景が見渡せた。
連なるビル群は今なお華やかな明かりが支配していて、人々の生活する様子が垣間見れる。
今もあそこには大勢の人がいるというのも不思議な感じがした。
凛太郎はまだ子どもで、通常ならばこの時間はとっくに眠っている。
高層ビルの先端付近には赤く点滅する航空障害灯が点いており、遠くのベランダからでは幻想的な光景に映った。
カーテンの隙間から見えた派手な電装をぼんやりと眺め、膝を抱えていた手に力を込める。
汐塚が去っていったドアの方へ振り返り、いくら待っても戻ってこない事実に落胆する。
どうやら本気でそっぽ向かれたようだ。

「むかつく……むかつく!」

口を尖らせて文句を言う。
その言葉も虚しく消え去り、すぐに無音の室内へ戻った。
自分が追いかける側の弱い立場であることを認めたくない。
培われてきたプライドが許さないのだ。
しかし今ここで手を離したら、一生汐塚は戻ってこないだろう。
こんな高慢ちきな子どもの相手から解放されて清々しているかもしれない。
汐塚の心情が簡単に想像できて気持ちは暗然とした。

合わせて凛太郎の眉間の皺はなくなり、代わりに泣きそうな顔で煩悶とする。
それはごくごく普通の、他の子どもと大差ない寂しいと塞ぎこむ顔だ。
素直でありのままの表情が薄暗い部屋の鏡に映りこむ。
――が、彼の強さは切り替えの速さだ。
すぐに寂しさから立ち直ると鼻息荒くベッドを抜け、スリッパを履いてドアへと向かう。
(絶対に手放してやるもんか)
凛太郎は気に入るものが少ない分、一度気に入ったらテコでも離さない子どもだ。
自分でクビを宣言しておきながら、取り返しに行こうと部屋を出る。

ガタ――ッ。

だが扉を開けようとしたら、何かに当たったのか、途中で止まってしまった。
不審に思って隙間から覗き込むと、ドアの前に汐塚が座っている。
勢い良く開けたドアが背中に当たったのか、痛そうに腰を押さえながら彼は凛太郎を見上げた。

「お前、ここで何して?」

汐塚は場所を退くと立ち上がって後頭部を掻く。
恥ずかしい場面を見られて照れくさいのか苦笑いを浮かべていた。

「何って、坊ちゃんが自由にしろと仰ったのでその通りに」
「ばっ――あれはそんな意味じゃ……!」
「静かに。ご両親が起きてしまいますよ」

汐塚は凛太郎の口を覆うと、左右を見回して凛太郎の部屋へと入ってきた。

「坊ちゃんこそこんな夜更けにどこへ行こうとしていたのです?」
「そ、それはっ」
「もしかして私の部屋へ行くつもりだったのですか?」
「ち、ち、違う! あっ、べ……別にトイレに行こうと……」

こんな時でも素直になれない己が恨めしい。
つい先ほどまで連れ戻しに行こうといきり立っていたくせに、いざ問われると意地っ張りな性格が顔を出した。
明らかな嘘を吐き捨てる。
視線は思い迷ったまま汐塚を見られず、モジモジとパジャマの裾をいじりながら呟く声には威厳の欠片もなかった。

「ああ、ならどうぞ。漏らしたら大変です。早く行って来てください」
「うるさいだまれ」

汐塚は天然なのか計算なのか時々凛太郎を翻弄させる。
誰が訊いたってトイレなんて嘘なのに真に受けて「どうぞ」と促すから癇に障るのだ。
憤激を招くとも知らず本人は飄々としている。
どこまでいってもペースを掴めないから厄介だ。

「お、お前こそ僕の部屋の前で何やってたんだ」
「だから自由に」
「そうじゃない!」

訊きたいのはそうじゃない。
つまりそれは別の言葉を期待しているということだ。
僅かな希望が余計にじれったく思わせてそわそわする。
なら自ら歩み寄ればいいのに、どうしても汐塚から求められることを望んでいた。
当然、そんな浅はかな考えなど筒抜けで、汐塚は知的な皮肉を含む抑制された笑みを見せる。
言うより先に己のネクタイを緩めると、ワイシャツのボタンに手をかけた。
きっちりと喉元で締まっていたボタンを外すと、被虐の快感に浸っているような甘ったるい顔で、

「私の主人はあなたでしょう?」

と、囁く。
凛太郎は戸惑いながら息を呑んだ。
ワイシャツの下から見えたのは不自然な赤。
彼の首に赤いものが巻きついている。
薄闇の中で目を凝らすと、それが見覚えある首輪であることに気付き、目を瞠った。
ネクタイを締め、ジャケットを羽織れば中に首輪を付けていたことすら分からないほど自然で、今までずっとその格好でいたのかと絶句する。
それはだいぶ前に凛太郎が汐塚へ贈ったプレゼントだったからだ。
凛太郎は冗談半分だった。
ちょうどそのころ父親が頻繁に汐塚を仕事で使い始めて、二人っきりの時間がなくなってしまった。
腹を立てた凛太郎が、

「お前が僕のものだと忘れないように」

と、犬の首輪を汐塚へ贈ったのである。
それ以来こうして夜に二人っきりで会う機会がなかったから、まさか本当に身に付けていたとは思わなかった。
誰が清潔感溢れる制服の下にこんな非常識な物を付けていると想像できるか。
変わらぬ立ち振る舞いに、凛太郎は自分が首輪を贈っていたことすら忘れていた。

「あなたが私を拾った。でなければきっといまだにひもじい思いをしながら街を徘徊していたでしょう」
「……恩を着せた覚えはないぞ」
「恩?とんでもない。そんな生易しい感情で動いているわけではありませんよ」

汐塚は凛太郎を見透かすような鋭い瞳で見つめると口角を上げる。
月光に照らされた彼の表情は妖しく、どこか人を惹きつける魅力があった。
それを見上げながら、凛太郎はふと初めて会った日のことを思い出す。

――あれはちょうど二年前。
そのころの凛太郎は今よりも尖がっていて、手の付けられない子どもだった。
学校へ通うようになると、周囲はみんな似たようなボンボンで、一緒にいても全く楽しくない。
ボケた顔の同級生を見下して、凛太郎は隠しもせず彼らを小ばかにしていた。
そんな態度でいれば友達も出来ないわけで、彼は教室で孤立していた。
腹の中に溜まった鬱憤を持て余し、毎日周りの人々に当り散らしている。
思い通りにいかないと喚くくせに、思い通りになってもつまらないと文句を言う厄介な性格をしていた。
そんな時、家に帰るのを躊躇い河原で暇つぶしをしていたところで出会ったのが汐塚だった。
彼は現在のようにきっちりとムースで固められたオールバックや、つるりとした顎ではなく、いつ洗ったのかも分からないもじゃもじゃ頭に伸び放題のひげ面をしていた。
つまり河原で寝泊りしている浮浪者だったのである。
着ている服もボロボロ、一般人でも近寄りたいと思わないだろう風態に、興味を抱いて近づいた。

「金をやったら僕を抱けるか?」

そう言って目の前で一万円をチラつかせた。
当時の汐塚からすれば大金だ。
すぐに飛びついてくるかと思ったのに、彼は首を振った。

「お前みたいなガキを抱くくらいなら死んだ方がマシだ」

全く感情のない声だった。
予想外の反応は凛太郎を喜ばせた。
翌日は二万円、その翌日は三万円と金額を増やして汐塚に会いに行った。
それでも彼は首を縦には振らなかった。
そして一ヶ月経った。
金額は三十万円にまで膨れ上がり、凛太郎は彼の思惑に気付き始めていた。
百万くらいを望んでいるのか。
それとももっとか。
痺れをきらした彼は、ある日分厚い札束を用意して、汐塚へ投げつけた。

「これでどう?」

軽く見積もっても三百万はある。
この金額ならば受け取らないはずがない。
一度ガキと寝れば浮浪者から再び人生をやり直すに十分足りる金が手に入る。
誰だって喉から手が出るほど欲しがる金だ。
しかし汐塚は、冷ややかな意地の悪い微笑を口許に浮かべると、

「もう二度と顔を見せるな」

と、立ち上がりその場から去っていった。
以後、毎日河原へ行ったが彼の姿はなく、どこを探しても会えなくなってしまった。
そうなった時、凛太郎は深い後悔に襲われて、金で釣ろうとしていたことを悔やんだ。
ただ構って欲しかっただけだったのだと気付いた。
つまらない日々の中で唯一楽しいと思える時間だったというのに。
それは彼にとって貴重なひと時だった。
汐塚がいなくなった河原は出会う前に戻っただけなのに、それ以上の寂しさが身を貫いた。
彼は高そうな制服が汚れるのも構わずあらゆる場所を探し、暗くなるまで河原を彷徨った。
近くの公園や商店街も見て回り、不審な男がいなかったかと訊き回ることもした。
ただ会いたい一心で探した。
決して諦めず、粘り強く二ヶ月もそんな生活を続けたのである。
その想いが天に届いたのか、翌日、なんと同じ場所に汐塚が戻ってきていた。
凛太郎は彼の姿を発見すると一目散に駆け寄って涙を溜めて謝罪をした。
それどころか「何でもするからいなくならないで」と、必死な思いで引き止めようとした。
あの強固な自尊心を持つ凛太郎が、なりふり構わず望みを口にしたのである。
あんな必死だったのは後にも先にも一度きりだ。
すると汐塚は、ようやく柔らかい表情を見せ、

「始めっから素直にそう言えばいいんだよ」

と、凛太郎を抱いた。
もちろん金は一銭も受け取らなかった。
その後も何度かセックスをしたが、一度も金をせびったりしなかった。
だから凛太郎の方から願った。
自分のものになって欲しいと懇願した。
始めは渋っていた彼だが、しつこく説得されてようやく了承したのである。
そうして汐塚は凛太郎の専属執事となり、屋敷で働き始めたのである。
風呂へ入れ、髪を切ってひげを剃った時、凛太郎はぶったまげた。
髪やひげでほとんど顔が見えなかったせいか、結構年がいっていると思ったが、予想外にまだ三十代だったのである。
それどころかひっそりと色香を含んだ風情で、鼻筋の通った美青年だった。
手を出した事業がヤクザの縄張りだったらしく、軌道に乗るかどうかの時に人間関係のトラブルに発展、命からがら夜逃げしたらしい。

 

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