罪咎のサンクチュアリ

「はぁっはぁっ――……」

人は悪い事をすると地獄に落ちるという。
死後の事だからもちろん知る人はいないし、地獄があると断言することは出来ない。
悪意への抑止力か、子供への躾から話が作られたとも考えられるだろう。
それでも遥か昔から言い伝えられているところを見るに、あながち嘘とも思えなかった。

「はぁっ、けほっ」

雪深い森の中を全力で駆け抜ける。
足の先はとうに感覚が無くなり、痛みも冷たさも感じなかった。
猛烈に喉が渇いて肺が苦しそうに蠢いている。
どこまでも続く森は、奥へ進むごとに薄暗さが増していた。
どれ位走り続けていたのか判らない。
ただ今いる場所が迷いの森である事は確かであった。
否、正確には魔の森と呼ばれている恐ろしいところである。
覆い茂った深い森は簡単に人を惑わせた。
昔から行方不明になる人が絶えなかったらしい。
特に隣国に接しているせいか、戦争があった頃は森に近付く事さえ禁止されていた。
なぜそんなところに僕が居るのか。

「はぁ、はぁっ……えっ?」

しばらく走っていると、薄暗い空の向こうに、突然塔のようなものが見えてきた。
驚いて思わず足が止まる。

「なんだ、これ……」

徐々に塔の全貌が明らかになっていった。
暗い森の奥に鎮座するように建てられたのは黒い城。
外装は黒一色に統一されていて、実際より大きく見える。
外壁の内側より突き出た二本の塔は、槍のように鋭く尖っていて、天高く聳え立っていた。
形としては美しいのに、どこか不気味で目を逸らしたくなる。
黒い城が存在するとは思わなかった。
栄華を極めた神々しい造りであるはずの城が忌々しく映ってゾッとする。
まるで魔王の巣窟であるかのようだ。
嫌な空気が纏わり付くように風が吹いている。
城に近付けば近付くほど背筋が寒くなった。
大きな黒門が聳え立ち、うっすら見える庭には悪魔らしいグロテスクな像が沢山並んでいる。
わざわざ人が忌み嫌うように建てられた城が、異様に威圧感を放っていた。
曇った空の彼方からは嘲笑うようなカラスの鳴き声が響き渡る。
寒々しい門の下で僕は立ち止まって考え込んだ。
(はて、どうするべきか)
もしこの城が美しければ喜んで門を叩いたであろう。
だが今は気が進まなかった。
脳裏に行方不明になった人々の噂が蘇って粟立つ。
これだけ毒々しい城ならばその主も恐ろしい存在なのかもしれない。
(だけど……)
振り返って深い森を見回した。
一直線に自分の足跡が続いた先には、濃い霧を纏った森がざわめいている。
またそこへ戻る勇気がなかった。
寒さや渇き、飢えがそれを助長させているのかもしれない。
もうすぐこの辺りにも闇が訪れる。
森で過ごす一夜ほど危険なものはなかった。
獣達の息遣いに怯えて寒さに凍える。
まさに地獄であろう事が体験しなくてもわかっていた。
だから僕は恐る恐る黒門に手を掛ける。
門はギギギ――…と鈍い音をさせながら開いた。
錆びて開かない可能性も考えたが、思ったより容易く動いた事に驚く。
――つまり、結構な頻度でこの門が使用されている。
ならば下界との交流も頻繁に行われているということだ。
(もしかしたら物好きな貴族が建てただけなのかもしれない)
そう考えると心持ちが軽くなった。
人間とは現金で不安材料が無くなると途端に気が大きくなる。
僕は泊めてもらおうと敷地内に足を踏み入れた。

「…………」

だがここで後悔の念に駆られてしまう。
後ろでバタンと閉まる門の音が妙に大きく響いて肝が縮む。
それは地獄の門が閉じたような絶望感であった。
何せ目の前に広がったのはまさしく地獄絵図だったからだ。

「なっ、なん……」

門の外からは少ししか見えなかった庭の様子が一望出来た。
僕の立っているところから、一直線に黒い煉瓦が敷き詰められて、道が出来ている。
その奥には静寂を纏った城が、こちらを睨みつけるように建てられていた。
そこへ行くまでの馬車道には、左右に悪魔の像が列を成して置かれている。
まるで道を進む罪人に襲い掛かろうと、待ちわびているようだった。
醜悪に満ちた表情の彼らは今にも石を突き破って動き出しそうである。
鋭い爪や蝙蝠のような翼を持ち躍動感に満ちているせいか妙に生々しい。
これを作らせた人間の神経を疑う。
それほど悪意の塊に見えたのだ。
僕は恐れを為して一歩後ろに下がる。
しかし背中に冷たい門の感触が伝って、声にならない悲鳴を上げてしまった。

「ひっ……」

それが起爆剤になったのか、居ても経ってもいられなくなった。
結果として馬車道を全力で駆け抜けることになる。
とうに体力は尽き歩く気力さえ無くなりかけていたのに不思議なものだ。
こういう時に人の底力を思い知らされるのである。

「はぁ、はぁっ、はぁっ」

僕は余計なものを見ないように、悪魔達の間を懸命に走りきった。
一歩前に進むたびに内臓が軋んで身が捩れそうになる。
だが恐怖の前では体の苦しみなど皆無に等しかった。
そうして僕は長く続いた黒い道の果てに、城の入り口へ辿り着いたのである。

「かはっ、はぁ……っく、はぁはぁ」

城の扉は門と同様に黒く大きなものであった。
重厚な雰囲気をそのままに、ディテールに至るまで精巧な造りになっている。
だがそれも美しいといえる代物ではなかった。
蛇やムカデのレリーフだったのだ。
思わず扉に付いた手を離すほどリアルに創られていて背筋が凍る。

ギィー――。

するとその扉が内から開いた。
僕は煉瓦の上に倒れこみながら、うっすらその先を見つめる。
どんな化け物が出てくるのかと肝を冷やしたが、体は限界に近く抵抗する気力も無いため、焼くなり煮るなり勝手にしろと投げやりな気持ちになっていた。

「――ようこそ、ダークキャッスルへ」
「はぁ、はぁ……え?」

すると出てきたのは年老いた男性だった。
身なりから察するところ執事か何かだろう。
ロマンスグレーの髪はきっちりオールバックに整えられていて清潔感を漂わせている。
黒いジャケットにエンジのタイがいかにも上品で好感を持てた。
てっきりおぞましい化け物でも出てくると思っていた僕は拍子抜けして疲れがどっと出る。

「おや?どうしました?」
「あ……はは……」

ぐったりと眠るような体勢でへたり込むと、起き上がる力すら残っていなかった。

「いかがなさいましたか?大丈夫ですか?」

男性の問いかけを僅かな意識で聞き取るも口は動かない。
体は冷え切り指一本動かなかった。
(ああ、助かった)
それは渇いた体に染み込んでいくような救い。
僕は途方もないほどの安堵感に、あっさりと意識を手放してしまった。

ぎゅるるるるる
「ん――……」

次に目が覚めたのは自身の腹の音であった。
どうやら寝ていても腹は空くらしく悲鳴を上げている。

「ふぁ……」

起き上がればそこは静かな客室であった。
周囲を見回してみるとどこもおかしなところはない。
城の外装は真っ黒だったのに対し、室内は白一色で清らしい印象を受けた。
広々とした部屋の中にはアンティーク家具が並んでおり寛げる空間になっていた。
天蓋付きのふかふかなベッドを降りれば、落ち着いた深緑の絨毯が敷き詰められている。
右手側には大きな睡蓮の絵画が飾られていた。
静寂を保った室内にはカラクリ時計の繊細な音が響き渡っている。
チラッと見ればもう夜中の十一時を過ぎていた。
お腹も空くはずである。
何せ僕は何日も満足に食べていないのだ。
更には雪の森を皮のブーツで駆け抜けたのだから疲労感は半端無いであろう。

「あ、そういえば……」

僕が寝ている間に着替えさせられたのだろう。
気付けば絹のような触り心地の良い服を着ていた。
ブーツはベッドの下に置かれている。
だが素足で湿ったブーツを履く気にはならず、そのまま絨毯の上に立った。
(誰かいるかな)
もう夜中であるが腹の音は抑えられない。
僕は先ほどの執事らしき人に会おうと恐る恐る部屋を出た。

「わ……すごい」

どこまでも長い廊下が顔を出す。
僕が寝ていたような客室が、無数にあった。
(どれほどの金持ちがこんな城を建てたのだろう)
長い廊下を当ても無く彷徨うように歩き続ける。
あの恐ろしい外装からは想像出来ない程美しく清麗であった。
高い天井に煌くランプやシャンデリア。
窓辺には教会ですら見たことがないような、透明なガラスがはめ込まれている。
自分の住んでいる地域にはここまで透明で精巧な窓ガラスは無く、雨風や冬の寒さを防ぐには窓の板戸を閉ざすしかなかった。
それが部屋や廊下の合間にいくつも取り付けられている。
こんな豪華な城は見たことがないため息を呑んで周囲を見回した。

だが人気が一切無かった。
こんなにも壮麗な城ならばもっと多くの使用人や警備の兵で賑わっているのではないだろうか。
無用心すぎるほど静かな城は薄気味悪かった。
素足のせいか僕の足音は闇に消え何も残らない。
無音が渦を巻くように辺りを支配している。
(まさか僕は魔物に惑わされたのだろうか)
こうなると美しいものほど気持ち悪く見えてくる。
例えば廊下の所々に飾られた天使の絵も花瓶に生けられた花も恐怖の対象にしかならなかった。
隙が無いほど完璧な城だからこそ、そこに人の気配を感じられないと怖くなる。
臆病者と自身を罵りたくなるがまだ子供だ。
こんなにも広い城内にひとりポツンと残された身の内は情状酌量の余地があるであろう。

すると暫く歩いたところで妙な寒さに襲われた。
ふと前方を凝らして見ればカーテンが揺れている。
それを見て窓かベランダに通じる扉があるのだと思った。
何せ外は昨日までの雪で銀世界となっている。
さすがにこの格好じゃ寒すぎるだろう。
だから僕はその扉を閉めようと揺れるカーテンの方へと近付いた。

「……?」

するとやはりカーテンの先にはベランダへ続く扉が開けられていた。
結構な高さのせいか強い風が城内に吹き付けられている。
だが僕が驚いたのはそんな事ではなかった。
チラッとベランダを覗き込めばこちらに背を向けて座っている人が居たのだ。
大きな体格を見るに男性なのだろう。
この城に来てからやっと会えた二人目の人間である。
僕はホッとして彼に声を掛けようとするが、何やら様子がおかしかった。
(――え?)
だがこちらの疑問以前に突然視界が反転する。

ドサッ――。

まるで物を投げ捨てるかのように服を掴まれるといつの間にか投げ飛ばされていた。
腹が減って力も出ないせいか抵抗も出来ずに目を回す。
しかし相手はそれに留まる事もせず、僕の胸ぐらを掴むと持っていた剣を取り出した。

「な、なっ……なっっ――!!」
「…………」

月光に霞んだ顔は暗くて見えない。
ただ僕に向けた剣は妖しく光輝いていた。

「ぼ、僕はっ、何もっ」

咄嗟に命の危機を感じて身振り手振りで無害である事を伝える。
しかし目の前の男性からは殺気が消えることはなかった。
掴まれた胸ぐらは首の辺りを圧迫してしゃべる事さえままならなくなってしまう。
(本気で殺される)
男は人間に見えなかった。
姿形をいっているのではない。
その雰囲気、その気配。
何もかもが人間外にあるように感じられた。
確かに僕は突然現れた不審者であり、それに対して警戒心を剥き出しにするのは分かる。
だが見れば判る通りただの子供だ。
武器も何も持たず無防備な少年に明らかな殺意を向けるのは賢明ではない。
そんなに危機感を持っているのならば、それこそ警備の兵ぐらいつけるべきである。

「……っ……」

僕は彼が話の判る人間ではない事を悟ると死を覚悟した。
ここにやってきたのは全て自分の責任である。
怖くてガクガクと震えたがこればかりは仕方がなかった。
吹き付ける風に手足は縮み上がり硬直する。

ぎゅるるるるる……。

すると緊迫した状況にひとつの音が聞こえた。
それは大きな廊下ゆえに無様にも響き渡る。
僕は恥ずかしくて咄嗟に腹を抱えた。
腹の音を響かせながら死ぬなんて何て情けない最期なのだろう。
だがそれは身体機能上仕方がないことだった。
腹だって鳴りたくて鳴っているわけではない。

「…………」
「え……?」

すると途端に胸ぐらを掴んでいた手が緩んだ。
驚いて男を見上げるが様子に変わりは無い。
だが視界の端っこで剣を鞘に収める仕草をしている事に気付いた。
つまり、僕は腹の音に命を救われた事になる。
……それはそれで情けない話だ。

「……来い」
「え……?」

僕が呆然としながら男を見つめていると彼は立ち上がって歩き出した。
少し離れたところで振り返り僕を見つめる。
今までずっと無言であったせいか、その小さな声にキョトンとした。
だが男は一言呟くとまた歩き出してしまう。
僕は状況を理解できないまま置いてきぼりにならないように駆け寄った。

「近寄るな」
「わっ……!」

するとある程度近付いたところで釘を刺すように睨まれる。
だからその顔に驚くと同時に不思議に思った。
先ほどといいこちらに背を向けていても相手の気配を感じ取れる。
一定の距離を保たなければ持っている剣で斬りつけられる。
それは明らかに正常な人間の精神状態じゃない。
なぜそこまで過敏な反応を示すのか。
妙にこの男が気になった。
彼は化け物ではなく人間である。
だがここまで人間離れした男の本性が知りたくなった。

――翌日。
不思議で奇怪な一夜を過ごした僕は小鳥の鳴き声に目を覚ました。
昨日はあのあと食堂に連れて行ってもらいここに来て最初に会った執事の男性から暖かな食事を頂いた。
彼の名前はセルジオールという。
この城に仕える身としては可笑しなほど優しく品がある男であった。
丁寧で穏やかでユーモアがある。
だがこの城やあの男の話は頑なに口を閉ざしていた。
お蔭で新たな情報は何もない。
男は執事に事情を話すとさっさと食堂から出て行った。
それっきり会ってはいない。
僕は自分の服に着替え終えるとまだ湿ったブーツを履いた。
朝のキンとした寒さに背筋を伸ばしながら部屋を出る。
すると廊下の向こうからセルジオールの姿が見えた。

「おはようございます」
「おはようございます。寝心地はいかがでしたか?」
「はい、とっても気持ちよく眠れました」

軽く一言二言会話をする。

「お食事の準備が出来ましたのでお知らせに参りました」
「はい、ありがとうございます」

そうして二人は歩き出した。
静かな城内はまた違った一面を見せてくれる。
昨日の夜は不気味に思えた廊下もこうして日の光を浴びながら歩けば気持ちの良いものだった。
隣を歩くセルジオールは朝から身なりが整えられており隙が無い。
僕のせいで寝不足なはずなのにそういった仕草は一切無かった。
そんな彼に尊敬の念を抱きながら僕は話を切り出してみる。

「あの……」
「はい。いかがなさいましたか?」
「いえ、この城はこんなに広いのに使用人の姿が見当たらないじゃないですか」
「え、ええ」

チラチラと彼の顔色を窺いながら話を進めてみる。

「だから宜しければ僕に働かせてもらえないかなぁと」
「え?」
「あっ、あのお金とか要らないんで……そのっ」
「…………」
「……すみません、変な事を言って」

困らせるつもりはなかったし、迷惑を掛けるつもりもなかった。
ただ僕にはここに留まざるを得ない“理由”があった。
男の素性うんぬんではなく僕自身に原因はある。
それを言えずに縮こまるがどうしたって図々しく聞こえたもんだ。
僕は小さく頭を下げると彼に詫びる。

「…………」

するとセルジオールは黙り込んだまま何かを考えていた。
その顔は雰囲気に似合わず真剣そのもので動揺を隠せなくなる。

「あ、あ、あの……僕……」
「――分かりました」
「え?」

すると僕の言葉を遮るように彼は頷いた。
チラッと見上げればセルジオールはいつもの穏やかな笑みを浮かべている。

「では朝食の後にでも旦那様に聞いておきましょう」
「えっあ……」
「詳しい話はその時ということで」
「あ、はっはい。ありがとうございますっ」

まさかこんなにあっさりと話が通るとは思わなかった。
僕は拍子抜けしながら変わらず他愛もない会話を繰り返す。
そうして食堂までの道のりを歩いた。

朝食は豆のスープにフレンチトースト、新鮮なフルーツや野菜と豪華だった。
僕は元々農家の子である。
朝からテーブルいっぱいに食事を出されて感嘆の声を上げた。
突然やってきて一晩泊めてくれて更にこんな美味しい朝食にまでありつけるなんて幸運に思う。
体に染み渡るようにスープを飲めば側に居たセルジオールは苦笑しながら紅茶を注いでくれた。

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