エデンの東

エデンの園を追放されたアダムとエバに二人の息子が生まれた。
やがて兄のカインは土地を耕す者となり、弟アベルは羊を飼う者となった。
ある日、二人は神ヤハウェに収穫物を捧げた。
神はアベルの丸々と太った羊には興味を示したが、カインの供え物には目もくれなかった。
激しく嫉妬したカインは憎悪に狂い、ある日、とうとう弟のアベルを殺してしまった。
二人は血を分け合った最初の兄弟であったのに。
(旧約聖書創世記第四章)

 

 

――その横顔は酷く沈み、絶望を漂わせている。
手にしていたのは、高そうなヴァイオリン。
二月の森閑とした廊下に佇んで、壊された楽器を拾い大事そうに胸へ寄せる。
まるで赤子を抱くように、そっと――優しく。
瞳に溢れた涙をこらえた唇は微かに震えていた。
彼は確か名家の四男だったか。
人は人を羨み妬み嫉み牙を剥く。
出る釘は打たれてしまう。
気付かない哀れな子羊は底のない沼に沈む。
光の射さない沼は冷たく、人の心を凍らせる。
故に時として恐ろしいことが出来てしまう。
先に蹴落とした方が勝ちだ。
裏切りは歴史に埋もれる。
悲しみも憎しみも誰に知られることなく消える。
そうしてこの世は停滞することなく動いている。
影でどれほどの人が泣き、喚き、命の灯を消していったのか、知る由はない。
いつだって世界はお伽噺より残酷なのだ。
だから誰も知らない。
一流と謳われた宮廷ヴァイオリニストが、多くの後輩を因業なやり方で消していったのか。
他の国から尊敬され、多くの貴族を従えた王が裏切りによって邪魔な弟を消したのか。
消えれば分からない。
沼の底に沈めば分からない。
引きずり込んでしまえば、あとかたもなく消せるのだ。

 

***

 

遠く、東のかの国より流れ着いた吟遊詩人のヤマトは巷で有名になっていた。
男にしては長い黒髪と同じ色の瞳は、この世の者と思えぬほど妖しく惹きつける魅力があった。
様々な人種で溢れた国だが、黒を持つ者は珍しい。
艶然とした立ち振る舞いを見せるのに、不釣合いのように顔は幼く体も小さかった。
故に目立ち噂は瞬時に広まった。
しかし心から楽しそうに笑った彼の顔を誰も見たことがない。
嫣然と微笑んだその肚はいつだって冷えている。
歌声は綺麗なのに、陰惨な人間の業や終末を予言させることしか歌わない。
忌み嫌われそうだが、そのギャップの虜になった多くの人が畏れ崇めて彼を見つめた。
もはや神々しいとは彼のための言葉のように思えた。
その話はいち早く王宮にも伝わり、国王陛下は興味を抱くと城に囲った。
彼はヤマトを気に入ったのだ。
ヤマトが城を自由に行き来できるようになるまで、時間はさほどかからなかった。
吟遊詩人らしく自由人で、城内を彷徨うように歩き、城の隣にある王立音楽院にも好んで出かけるようになった。
側近や兵士、貴族たちの忌々しい視線などどこ吹く風で、いつも飄々としていた。

「そこにいたのか、ヤマト」
「陛下」

それはヤマトが西の外れのバルコニーに佇んでいた時のことだ。
陛下が顔を出した。
その瞳は好奇心に満ちている。
しかしヤマトは気にも留めず、一瞥しただけですぐ顔を背けた。
ここからはちょうど音楽院の廊下が見下ろせる。
琵琶を手にした彼は歌いながらその方をじっと見つめていた。

「あれは誰だい?」
「さぁ。とある貴族の息子と訊いたような」
「そなたの知り合いか」
「さぁ」

興味が失せたように視線を流すとバルコニーから離れる。
いつだってヤマトは言葉を濁した。
明確な意思などないと主張するように曖昧に笑ってみせるが目は笑わない。
口先だけの言葉で煙に巻こうとする。

「それより陛下、おひとりで動かれては殺されても文句が言えませんでしょう」
「そなたが余(よ)を殺すということか」
「さぁ」
「否定はしないのだな」
「人間はいつ牙を剥くか分かりませぬ。分からぬことに否定も肯定も出来ませんでしょう」

翻った着物の裾と長い髪が風に揺れた。
東洋の衣服は珍しく、市場では売っていない。
世界中のものが集まるアルドメリアの市場といえども、ヤマトの着ているものは置いてなくて、いつもボロボロの着物を身に纏っていた。
城の主であるユニウス陛下はヤマトを気に入って手放さなかった。
それどころか貴族や臣下すら好き勝手に出歩けない城内を自由に動き回らせている。
許可を出しているのはユニウス本人だ。
その本心は誰にも分からない。
ヤマトはただでさえ怪しい風態の男だ。
身分の保証も、どこの国の出身なのかも分からない。
彼は決して己のことを口にしなかった。
誰も知らない。
知っている者はこの国にはいない。
明らかに不審者である。
異質な身なりだけでなく、その性格からも危険人物とされた。
腹の底で何を考えているか分からない。
ユニウスに情を売って金が欲しいのか、権力を手に入れたいのか。
側近たちは行動原理も不明な男をどう扱っていいのか決めかねていた。
明確な意思があればまだ手のうちようがある。
金が欲しければ適当に渡して城から追い出せば良いし、権力が欲しいならば反逆罪としてさっさと始末すれば良い。
無害であることが最も悩ましく、目の上のたんこぶだった。
ユニウスに進言するも聞き入れる様子はなく、こちらが粘った分だけ心証を害して終わってしまう。
そんな少年を城に入れただけでなく、行動すら制限できないから困ったものだ。
臣下たちはヤマトを疎ましく思い頭を痛める。
どうやって追い出そうか夜な夜な話し合うが、狡猾なユニウスに知られたら自分たちの首がどうなるか分からない。
家臣はみんな彼を恐れていた。
城で働く兵士も待女も小姓も側室も子供たちでさえもユニウスを恐れていた。
彼は恥すべき凄惨な過去を持っていたからだ。

「ふぅ……」

広々とした廊下を歩きながら、ヤマトは時折擦れ違う貴族たちの声を訊いていた。
ひそひそと自分を見つめ陰口を叩いている。
特殊な立場ゆえに直接言ってくることはない。
腫れ物に触るような態度で人々は避け、忌々しい視線を浴びせた。
もう慣れっこだったヤマトはさほど気にせず自室へ戻った。
部屋はひとりの子供が寛ぐには広すぎで寂しいくらいだ。
ピカピカに磨かれた鏡、レースたっぷりのカーテン、ディテールに至るまで精巧に作られたタンスや机。
ソファに至っては座るのも躊躇うほどよく出来ており、余計に窮屈に感じた。
花のように鮮やかな色彩が部屋中に散りばめられていて、気が落ち着かず、彼はいつも窓際に簡素なイスを持ってきて座っている。
隣は寝室で、天蓋のベッドはどこの姫君扱いだと吹きだした。
当初小間使いをつけると進められたが、頑なに拒否したため、自室には滅多に人をいれない。
これ以上誰かに構われるのは嫌だった。
朝起きてから眠るまで、一日中人の視線の中にいる王族や上流貴族にはほとほと尊敬する。
ヤマトも元は人々の視線の中で生きていたが、一度ひとりの自由を味わうと二度と同じ目にあいたくないと思うようになった。
大きな窓に映る姿はまるで檻に入れられた囚人のよう。
アルドメリア王国の歴史は古く、領土争いが盛んだったころは、次々に兵士を送り込んで領地を広げていた。
そうして諸外国を呑み込み、現在のような大国にまで成長したのである。
故に栄華を極めた証である城は、莫大な金を使って建てられ、維持されている。
一般人ならば見回して恍惚とため息を吐くだろう。
華やかな宮廷はいつだって憧れの的なのだ。
豪華絢爛、身近な日用品まで贅の限りを尽くしている。
まるで常世の春だ。
いうなれば――そう。
永久に枯れることのない泉。
永遠に閉じることのない花びら。
決して錆びつくことのない金、銀。
連想させるものは全て豊かで、消えることのない幸福だ。
富に地位、名誉や権力も手に入れて、もはや神と同等なのだろう。
アルドメリアの王はこの世の全てを手に入れていると言っても過言ではなかった。
だが春はまやかしの季節。
永遠に浸かっていると、次第に惑わされていつか大切なものを見失う。
春とは一時的だから恩恵に感謝する。
もしこれが延々続くならば、いつしか人は甘い囁きしか聞こえなくなる。
永遠などあるわけがない。
どれほど多くの権力者が時を止めたいと願ったことだか。
老いる己に恐れ、屈強な若者に倒されることを恐れ、いつかは死を賜る。
歴史はいつだってその繰り返しなのだ。
国とて同じこと。
危うい事態に気付けぬまま冬を迎えた時、一気に朽ち果ててしまう。
だから春は嫌いだ。
緑豊かな大地に潜む穴に気付けなくなる。
ならば始めから春など訪れなければ良いのに。
そうすれば油断などしなくなくなる。
(本当にそれだけ……?)
ふいに自問する声が聞こえた。
窓には己の姿が見える。
鋭い眼光でヤマトは自分を見ている。
それに答えることなくかぶりを振ると、琵琶を机に置き、窓を開けて城下を眺めた。
早春の冷たい風が頬を撫でる。
賑やかな街は活気だっていて平和そのものだ。
まさかあの中に破滅の足音が聞こえている者などいやしないだろう。
(哀れなことだ)
ヤマトは幼くして頭の切れる子供だった。
昔、国にいた時は一度に数人の言葉を聞き分けられるほど耳がよく、頭の回転が速かった。
幼少期から神童と呼ばれ、知識は海のように深く、空のように無限だった。
彼は一度聞いたこと、見たことは決して忘れず、いつも人より一手、二手と先回りして考えていた。
それはこの国に来てからも変わらなかった。
西の大国であるアルドメリアは、貿易が盛んで街には人が溢れ、豊かで優れた国として有名だった。
国王陛下であるユニウスは賢く高潔な人物と評判である。
周辺諸国で数十年間続いた魔女狩りを終わらせたのも彼で、その功績たるや建国以来最も知的な王として名高かった。
博学に麗しい顔立ち、すらりとした手足は国中の娘たちの憧れで、誰もがその姿にうっとり瞳を潤ませる。
しかしそれは表向きの話だ。
ユニウスが弟シリウスを出し抜き寝込みを襲ったのは有名な話で、彼には長らく弟殺しの呼び名があった。
前国王が崩御すると、彼は王位を継承して后を迎えた。
伝統ある王族の娘で、大人しく品があり、似合いの夫婦だと国中が二人の結婚を祝福した。
しかし夫婦生活の中で正室との子は出来ず、その間に側室たちとの子が四人も出来た。
程なくして后が亡くなった。
病死といわれているが定かではない。
若くしてユニウスは独り身となった。
彼は後妻をとらなかった。
人々は、よほど后を深く想い、ひとりの女性への愛を貫いたのだと噂した。
喪に服した陛下に、益々国民や后の親族たちは好感を抱いたが、これも全てユニウスの策略だった。
表面だけ悲しみに暮れる国王陛下を演じると、彼は夜な夜な貴族たちと放蕩の限りを尽くした。
一日中仕事をせず、酒を飲み女とまぐわいギャンブルに耽ると、鹿狩りへ出かけて放埓な生活を続けていたのである。
それまで彼は酒を飲まず、色事には無縁で、賭け事をせず、規則正しい生活を送っていたから、周囲の人間は仰天した。
まるで人が変わったように金を使い酒色に耽っていたのだ。
最初は愛する妻を失い、自暴自棄になられたと哀れんでいたが、どうも様子が違う。
見かねた側近や賢臣は何度か進言したが、話は聞き入れられず、それどころか遠ざけられ、酷い者は死を賜ると陛下の前から姿を消した。
あとに残ったのは頭の足りぬ臣下と遊蕩な貴族だけである。
以後彼の身辺で止める者はいなかった。
何代にも渡って積み上げていた財を湯水のように使い、今や財政は逼迫しているという。
城の北にある後宮には千、二千ともいわれる側室が国や周辺諸国から集められ、生涯一度あるかないかの陛下との夜を待っている。
与えられたのはベッドと机しか置けぬ狭苦しい部屋で、多くの女が気を狂わせ首を攣った。
一度の逢瀬で子が出来ぬば死ぬまで窮屈な生活を強いられ、自由に部屋を出ることも許されず、別れた家族に文を出すことも叶わず、悲嘆に暮れて縊死してしまう。
それが側室の現状で、街の娘たちが憧れる城暮らしなど夢のまた夢だった。
世継ぎが出来れば天国、出来ぬば地獄なのである。
正室でさえ、子が出来なくば后として認められず、散々責められて辛い日々を送るという。
亡くなるまでの数年間、どれほど苦しく猜疑心に苛まれる生活だったか聞くに余る。
女たちはそういった役目を強いられていたのだ。
もはやユニウスにとって地位や権力は興味なく、このままいけば近い将来国が破綻することは目に見えている。
第一にまともな国王ならば身元不明な吟遊詩人を城には入れないだろう。
まだ表に出ていない今だからこそ、街は活気づいていかにも栄えた城下に見えた。
だが内心人々が何を思っているのか分からない。
貴族と一部の商人を除いて、税は高く厳しい取立てを行っている。
特に農民からの徴税はいっそう厳しく不満を買っていた。
どうにか生き延びた弟シリウスはひっそりと慎ましやかな生活をしているし、三男のクラウスは積極的に平民たちの訴えを聞き入れ、何度もユニウスに要望を出しているが、彼は王位継承権を放棄して城内では実質無力だった。
それでも民のため必死に働いているクラウスに、今や一部では彼が国王になることを望む集団まで生まれている。
財政事情から国民に摂取するほかなく、裏では商人の賄賂や貴族の口利きが横行している。
税の有無を決める議会には聖職者や貴族、上流市民が参加しており、彼らは課税されていなかった。
大航海時代を迎え、貿易は盛んになり市場も広がったが、状況が悪化すればどうなるか分からない。
最悪革命でも起きたら、王族は全てを失ってしまう。
十年後、二十年後を見た時、決して楽観視出来ない現状に、賢い者は誰もが頭を痛めていた。
だが周囲を取り巻く貴族や官職は、この状況に危機感を抱くどころか、金を使うことを由としている。
贅沢のしすぎで頭がいかれたのだと囁かれる者も少なくなかった。
人間とは易きに流れるもの。
それがいずれ己に降りかかってくるとも知らず、愚かなものだ。

翌日、ヤマトは王立音楽院へと足を運んだ。
選び抜かれた才能ある若者がここで学び一流のオーケストラになる。
宮廷オーケストラになるのが最大の名誉だった。
陛下は毎回の食事時にも音楽を流し、お茶会にも音楽、晩餐会にも音楽――と、一日中至る時にも楽団の音色を必要としたからだ。
ここの卒業生というだけで重宝され、例え王宮で勤められなくても、他の国に行けばいくらでもオーケストラに入れる。
そのため競争率も激しく、宮廷専属オーケストラになるのはごく一部の限られた人間だけだった。
長く続く廊下にヤマトの足音が木霊する。
各部屋は自習室になっており、授業が終わったあとの生徒は大抵ここで練習に励んでいた。
その中で心地良いヴァイオリンの音色が聞こえてくると、彼は唇を歪ませ、ドアノブに手をかける。
音を立てないようゆっくり開けると、軽快な音がより鮮明に聞こえてきた。
弾いていたのはひとりの青年。
いかにも育ちの良さそうな顔は、まだあどけなく幼さを滲ませる。
練習に集中しているのか、真剣な眼差しで楽譜に見入ったまま演奏は止まらなかった。
勝手に入ってきたヤマトのことなど気付きもせず、熱心に弦を弾いている。
ようやく一曲終わった時、ヤマトの拍手で気がついた。
驚いた顔で振り返り、恥ずかしそうに俯く。

「やぁ。城で世話になっているヤマトだ。ずいぶん良い音色が聞こえてきたから勝手に失礼した」

ヤマトはいかにも人の良さそうな顔を作ると握手を求めた。
照れていた青年はその言葉を素直に信じ、求められるがまま応じる。

「わ、私はミシェルと申します。あなたのことは存じております。東方よりやってきた吟遊詩人だと」
「聞いたのはそれだけかい?」
「あ、い、いえ……その……」
「気味悪い様相に縁起の悪い歌ばかり唄う変わり者だとか、陛下を魔術で操っている悪魔だとか、床上手な情夫だとか?」
「ま、まさかっ……そんなっ」

見透かすような瞳にうろたえ、ミシェルは再び俯いてしまった。
その反応の良さにヤマトはくっくと喉を鳴らし、

「普段通りの言葉遣いで良いよ。僕も君には敬語を使わないし、使う気もない」
「は、はぁ……」
「仲良くしたいんだ。僕は音色の美しい君が好きだ」

ヴァイオリンを持ったままのミシェルを連れ出すと城へと迎えた。
本来ならば一般人が自由に行き来することは出来ない。
一定以上の貴族が許されているだけで、城の警備は厳重とされているのだ。
故にミシェルは「まずいよ」と見えてきた城壁に逃げようとする。
しかしヤマトはその腕を掴んで離さなかった。
ミシェルは貴族の息子といえどもここでは一学生でしかなく、無断で城に入ったことが知られたら、音楽院では大問題になる。
だが門番にヤマトが自分の客だと伝えると、難なく門は開かれた。
兵士の視線は訝しげだったが、何か言ってくることはなかった。
ミシェルを連れてきたのは城の中庭だった。
管理された庭は正統なイングリッシュガーデンで、四季折々庭師たちが草花を入れ替えている。
ちょうど春に咲くチューリップやパンジーが植えられていたが、まだ花は咲いていなかった。
断続的に噴き出す噴水に、著名な彫刻家作のオブジェが並んだ庭は、いつ来ても居心地良くヤマトの心を和ませてくれる。

「そのヴァイオリンはずいぶん傷だらけだけどミシェルの?」

二人は噴水の端に座り、空を仰ぎ見た。

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