カタストロフィの竪琴

濃密な闇が溶ける夜気の中、馬車は曲がりくねった坂道を駆けていた。
古い石畳に車輪をガタガタ軋ませながら人々が眠りについた町を突っ切る。
星のない重たげな空は落ちてきそうなほどの威圧感で、このまま馬車ごと潰されてしまいそうだ。
悲鳴さえ呑み込まれる森閑の大地に蹄の音だけがけたたましく鳴り響く。
これからいくつもの町を横切り、川を渡り、平野を越えねばならない。
旅はまだ始まったばかりなのだ。
不安げに揺らいだランプの明かりが僕とあなたを照らす。
自然と口数が減って馬車内は深海のような息苦しさだ。
僕がよほど思いつめた顔をしていたのだろう。

「大丈夫だ」

向かい合ったあなたが、気遣うように頭を撫でてくれた。
その温かな感触に、急き立てられるような焦りと不安が消えていく。
いつだってあなたは欲しい言葉をくれる。
それにどれだけ救われてきたか、この想いを束にしても伝えきれない。
僕は膝に置いていた手を握りしめると、覚悟を決めたように顔をあげた。

「お伽噺にもならない話ですが、どうぞ訊いてください」

あなただから訊いて欲しい。
これまで起きたこと――そして、その時何を思ったのかを。
どうせこの馬車は明日の朝まで止まらない。
時間ならたっぷりある。
僕は口に出すことで心の整理をしておきたかったんだ。

***

僕の生まれはアルドメリアの隣、周辺では二番目に国土の大きいサイフォーンという国だった。
父さんは侯爵家の嫡男、母さんも古い貴族の生まれで、僕は生まれた時から人より恵まれた生活をしていた。
四兄弟の末っ子。
爵位を継げるのは長男だけということもあり、家柄を意識することなく成長した。
静かな湖畔に建てられた邸宅が僕の家で、アルドメリアへ来るまでの十五年間はずっとそこで生活をしていた。
見渡す限りの草原と小高い丘、その奥に連なる峨峨たる山の稜線、そうした大地に抱かれて伸び伸びと育った。
兄弟にはそれぞれ家庭教師がいたから学校へもいかなかったし、見える範囲すべてがうちの敷地だったからほかの子と遊ぶこともなかったけれど、兄三人は優しくて寂しい思いをしたことはなかった。
僕たちは兄弟であり親友だった。
ヴァイオリンを習い始めたのは三歳のこと。
母さんは子どものころからピアノが得意で、子どもが生まれたら音楽をさせたいと思っていたそうだ。
兄さんたちは途中で辞めてしまったけれど、僕はヴァイオリンに熱中して朝も昼も夜も弾き続けた。
母さんは僕がこんなにのめり込むとは思っていなかったようだ。
昔のオーケストラといえば、王族が宮廷や教会での行事に弾かせたり、貴族が自宅のサロンで背景音楽として弾かせるくらいしか需要がなかった。
当時の音楽はあくまで王侯貴族のものであり、宮廷専属以外の音楽家は食べていくのも困難だった。
現在大衆にも浸透してきたとはいえ、やはり厳しいのに変わりはない。
だから僕が十五の時にアルドメリアの宮廷音楽院に合格した時はたいそう驚かれた。
アルドメリアは近隣諸国の中では発展目覚ましく、音楽を志す者には憧れの国だった。
そこの宮廷専属音楽団といえば世界一の演奏集団と名高く、普段演奏をまともに聴こうとしない貴族すら聞き惚れるという。
庶民に至ってはどんなに望んでも演奏を聴くことは叶わなかった。
また、王族にとって専属楽団は富の象徴であり、威光を示すためのものでもあった。
つまり、彼らはアルドメリアという大国の栄華を背負っていたのだ。
そこへ所属するためには音楽院へ入学するしかなく、その倍率たるや凄まじいと有名であった。
音楽院に入れただけでも奇跡扱いなのである。
だから専属入り出来ずに卒業となっても、音楽院の出であることを売りにすればある程度は食べていけた。
名のある音楽家でもチケットを売るのが大変な時代、アルドメリア音楽院に所属していたという触れ込みだけでチケットが飛ぶように売れたという。
だから世界中の音楽を志す者がこの音楽院に集まるのだ。
――しかし、僕が受験をしたのは宮廷専属になるためではなかった。
僕には、子どものころ自宅に招いたオーケストラに感動して、あんな風に弾いてみたい、同じような感動を与えたいという夢があった。
誰も見向きしない中、僕だけが最前列に陣取り、微動だにせず彼らの演奏を聴いていた。
その時のヴァイオリンの音色はいまだに耳の奥にこびりついている。
無名のヴァイオリニストで、もし今聴いたらさほど感動しないかもしれない。
思い出という甘い幻に、素晴らしかったと記憶が刷り込まれているだけかもしれない。
だけど当時の僕に衝撃を与えたのは事実だ。
それから数ある習い事のひとつと思っていたヴァイオリンに真剣に向き合おうと思った。
この道に進みたいと思った。
(僕のヴァイオリンで誰かの心を動かせたら最高だ)
満天の星空の下、膝下まである柔らかな草に寝そべり、何度も夢に見た。
世界中の劇場で弾くこと、僕の演奏を目的に人々が集まること、そして拍手喝采を受けること。
ただ純粋に。
名誉だ金だにこだわることなく音楽に触れていたい。
そう思ったのは、義務も責任もない裕福な家庭の四男坊に生まれたからだ。
甘い。
僕は何も知らなかった。
とても幸せな人生だった。
たくさんの人に守られて、飢えることも、荒むこともなく生きてきたから、そんな夢物語を描けた。
まるで幻想のような儚く淡い夢だった。

***

その後、僕は父親の反対を押し切って家を飛び出すと、アルドメリア音楽院へ入学した。
父さんは一年の半分を王都で過ごしており、僕がそこまで音楽を極めようとしていたことも知らなかった。
一部の音楽家を除けばまだまだ演奏家の地位は低い。
息子をそこへ落としたくはなかった親の気持ちはよく分かる。
だが、僕は言いだしたら聞かない性格で、兄さんたちの協力のもと、思いきって自宅を出ると躊躇いなく国を出て行った。
巣立ちの時である。
母さんは父さんの意見には従う人だから表立って賛成はしなかったが、代わりに寄宿舎へ手紙を寄越してくれた。
初めて家族と別れてのひとり暮らし、しかも音楽院での集団生活は慣れるまでが大変で、そんな時は母さんの手紙で乗り切った。
(絶対に一流の演奏家になってみせる)
そしていつかサイフォーンの劇場に招かれてヴァイオリニストとして舞台に立つ。
両親にとって誇らしいと思ってもらえるような演奏をする。
それまでは岩にかじりついても頑張ろう。
あの時はがむしゃらに適応しようとしていた。
突然の環境の変化に臆することなく、未知の世界へ飛び込んでいった。
僕は希望に燃えていた。
迫り来る壁はすぐそこまで来ていたというのに、何も気付かなかった。

始めに嫌がらせを受けたのは、入学して二ヶ月が経とうとしていた時だった。
実は、それ以前からも周囲に溶けこめないでいた。
僕が侯爵家の人間だということが原因だった。
入学したてのころは、畏れ多いと遠巻きに見られて、こちらから近付こうとすれば蜘蛛の子のように散っていった。
友達になりたくて必死に声をかけるが、誰もが気まずそうに目を逸らし、恐縮して逃げていった。
すると、それが時と共に変わっていく。
次第に僕がコネを使って音楽院に入学したという噂が流れるようになった。
噂の出所は掴めなかったが、きっと僕の存在が面白くなかったのだろう。
同時に、宮廷専属も金の力で入る気なのだと思われるようになった。
ほぼ勘当同然で飛び出してきた事実を誰も知らないし、言っても信じてもらえない。
仕方がないことだった。
音楽院の先生の中には僕に対する態度が甘い人もいて、誰もが僕の後ろにいる父親に媚びていた。
そうして特別扱いをされるたびに、先輩だけでなく同期も僕を白々しい目で見るようになった。
孤立するのに時間はかからなかった。
そこへ二ヶ月目に起きた嫌がらせだ。
最初は大勢の人がとんでもない事態だと目を見張った。
侯爵家のご子息が嫌がらせにあったなんて外部に漏れたら大変だ。
だが、その嫌がらせを指示している人間がエオゼン様だと分かると状況は一変した。
エオゼン様は宮廷専属を長く勤めていらっしゃる高名なヴァイオリニストだ。
僕はこれまで何度もアルドメリアの行事に参加していたから、エオゼン様のことは知っていたし、もちろん尊敬していた。
最も熾烈な争いを極めるヴァイオリンの、しかもエオゼン様は第一ヴァイオリンでソロパートも弾かれていらしゃる。
いわばオーケストラの顔だった。
その彼がなぜ僕なんかに嫌がらせをするのかと半信半疑だったが、周囲はエオゼン様を恐れて閉口した。
学院長や理事長まで相手にしてくれなかった。
それどころか外へ漏れることを案じた彼らは徹底的に隠蔽し、他言無用だと圧力をかけてきた。

「音楽院に入ったからには、この場所のルールに従ってもらう。たとえ君が名家の子息だとしても変わらない」

次々に仕掛けられるいじめは日を追うごとにエスカレートしていった。
靴や本がなくなるのは日常茶飯事、顔も知らない先輩に呼び出されて、真冬に冷や水をバケツごとぶっかけられたこともある。
誰も助けてくれない。
それどころか近寄ってくれない。
侯爵の息子だからか、エオゼン様の標的にされているからか、もはやその時には判別出来なかったが、避けられているのは周知の事実だった。
僕は何度も泣いた。
朝、寄宿舎を出る時、急に背中が焼けるように痛くなって、トイレで吐いたこともある。
あれが背中ではなく胃の痛みだと知ったのは、同じ症状が一週間出たあとだった。
それでも僕は負けなかった。
母さんや兄さんたちから届く手紙を繰り返し読んで気力を奮い立たせた。
紙に落ちた涙が文字を滲ませ、もはやなんて書いてあるか分からない手紙も大切な宝物として机の引き出しにしまっていた。
(いつかきっとエオゼン様も認めてくれる)
ここではルールに従わなくてはならない。
その言葉は容易く僕を縛った。
集団行動が初めてだった僕は、それが当たり前なんだと思い込んでいた。
だから黙々と練習に集中した。
とにかく認めてもらいたい一心で、授業がない時も自主練室にこもった。
僕は焦っていた。
アルドメリアに来る以前、ただ好きという気持ちだけで弾き続けた時と違い、エオゼン様に認められたいがために練習にのめりこんだ。
指先が血で滲もうと、持ち方が悪くてタコが出来ようとも、取り付かれたように弾き続けた。
そうして知らず知らずに音楽が楽しいものだということを忘れていった。
度重なる嫌がらせに辟易し、心が荒んでいった。
そんな僕に更なる仕打ちが待っていた。

「……っぅ……」

終末を予感させるような凍てつく静けさの中、自主練室の廊下に散らばった残骸を見つけた。
視認しているのに頭がばかになって、しばらくの間そこに佇んでいた。
あとからやってきた実感が、まるで虫のように心を内側から蝕んでいく。
どうにか理性を保った僕は、軋む関節に歯を食いしばって屈むと、その残骸を手に取った。
見覚えのある欠片を震える胸に寄せる。
(どうして、こんな……酷いことが出来るのだろう)
廊下に放置されていたのは、壊された僕のヴァイオリンだった。
絃はズタズタに切られて、胴体は木っ端みじんになっている。
どうしたらこんな壊れかたをするのか不思議に思えるほどめちゃくちゃになっていた。
まさか世界一の音楽院に在籍する者が、これほどまで残忍な行為が出来るとは思っていなかった。
同じ音楽を志す人間が楽器にまで酷いことをするとは思っていなかった。
己の隙の多さにやり場のない怒りが後悔となって押し寄せる。
楽器を壊されたのは僕の責任だった。
欠片を拾う。
指先に伝ったひんやりとした感触に唇を噛み締めた。
どんな小さな欠片もひとつ残らず拾い上げる。
泣きたかったけど、泣いたら世界が終わる気がして泣けなかった。
これは母さんがアルドメリアへ渡る直前に買ってくれたヴァイオリンだった。
彼女は僕が反対を押し切って出て行くことを予期していたのだ。
だから、僕にはまだ持て余すだろう高価なヴァイオリンを贈ってくれた彼女は、

「早くこの楽器を使いこなせるように励みなさい」

凛とした顔で微笑んでくれたのだ。
(ごめん、母さん)
まだ入学して数ヶ月だというのにバラバラにされてしまった。
自責の念が激しく迫り、僕を追いつめる。
なんて無力なのだと腹の底が煮えたった。
(そうだ。練習しなくちゃ。こんなところで終われない、終わるもんか)
僕は急き立てられるような思いで立ち上がると、すぐ行動に移すべく音楽院のヴァイオリンを借りにいった。
傷ついている場合ではなかった。
母さんの恩を感じているからこそ、僕はそこで立ち止まれなかった。
何よりも練習に打ち込んでいないと余計な感情が湧いた。
どうしてこんなことをするのかという憤り。
誰も助けてくれないという孤独感。
自分だけがこのような目に合っているという理不尽さ。
そういうものに捕われてしまったら、もう二度とあの美しいヴァイオリンの音色を出せないと思った。

ヤマトと出会ったのはその翌日だった。
その日も僕は授業が終わると自主練室にいた。
前日、壊れた楽器の代わりに音楽院のヴァイオリンを借りに行った時、理由を聞かれたが楽器が壊されたことは口にしなかった。
先生に言ったところで、

「君に問題があるからそういうことをされるのだろう」

という言葉で一蹴されてしまうからだ。
僕は反論出来なかった。
いや、反論する術を知らなかった。
人の悪意に付け込まれた経験がなかったからだ。
すると、先生は渋々年季の入ったヴァイオリンを貸してくれた。
でもそれで良かった。
楽器がなくては練習出来ない。
今の僕にはヴァイオリンを買うお金もないし、あんな酷い出来事を母さんには言えないし、言いたくない。
だから僕は大人しくそのヴァイオリンを受け取った。
翌日は普段通り練習をしていた。
まだ指使いが怪しい部分があったから、楽譜と睨めっこをしながらその小節を繰り返し弾いていた。
次第に感触を掴むようになると、ようやく先へ進む。
そうしてしばらく演奏に没頭していると、背後で急に拍手が鳴った。
突然のことに驚いて振り返ると、そこには見知らぬ少年がいた。
珍しい服を纏った少年は、絹糸のような黒髪を靡かせて漆黒の瞳を僕へ向けた。

「やぁ。城で世話になっているヤマトだ。ずいぶん良い音色が聞こえてきたから勝手に失礼した」

彼の臆することなく堂々とした出で立ちに、なす術なく立ち尽くす。
あれが最初に交わした言葉だった。
まさかヤマトにあれほど振り回されることになるなど、この時の僕は思いもしなかった。
そもそもヤマトは音楽院でも有名だった。
あの独特の風貌では噂にならないほうがおかしいし、狭い人間関係の中で生活を強いられる生徒たちは何よりゴシップが好きだった。
彼らによると、妃を亡くして傷心中の陛下を東洋の魔術でたぶらかし、宮廷内にて好き勝手振る舞っているという。
聞こえてくるのは悪魔だ淫売だと悪い噂ばかり。
実際のところ、誰も真相は知らなかった。
憶測だけが勝手に広がっていった。
それを突っ込む者がいても、

「火のないところに煙は立たない」

というトンデモ理論で押し切ってしまうから開いた口が塞がらなかった。
それこそまやかし。
人は簡単に嘘を本物にすり替えられる。
嘘なんて言い続ければ次第に真実味を増すし、それが本当だと信じたい人間を引き寄せる。
いつしかその嘘が形だけの事実になる。
虚に満ちた事実となる。
嘘を流した本人と信じたい人間たちによって作り出されるのだ。
僕だって根も葉もない噂ばかりを流されてきた。
嘘ばかりがひとり歩きをするくせに、本人が否定したところで信じてもらえない。
そもそも、彼らにとってそれが嘘だろうが本当だろうがどちらでもいいのだ。
嘲笑うことで見下せれば満足、あわよくば潰れてくれれば万々歳なのである。
だから噂なんて当てにならない。
事実は簡単に湾曲される。
人間は集団を味方につけたい時、罪悪感の欠片もなくそんなことが出来てしまうのだ。
僕はこの数ヶ月でその残忍さを知ってしまった。
なのに信じたくないもうひとりの己が頑なにそれを拒もうとする。
父さんは厳しくも誠実な人だった。
母さんは子どもたちに信頼を教えてくれた。
兄さんたちはいつだって僕を愛してくれた。
一度人の悪意を認めてしまうと、そうやって培ってきた僕の信念が崩れていくような気がした。

次のページ