クリスマスの演奏会

彼がこの国へ、僕たちの楽団へやってきたのは、爽やかな晴れた日でした。
まるで、そう――恵みをもたらす春風のように僕たちの前に現れたのでした。

「これから君たちのオーケストラで指揮者となるエオゼン先生だ。彼の教えをよく聞くように」

北西の外れにある小国は、かじり付くように大国の傍でひっそりと存在していました。
僕の所属する子ども音楽団は、管弦合わせて三十人ほどの楽団です。
三年前、国からの援助を受けて設立されたのですが、子どもたちは全員楽器に触れたことがなく、教えてくれる先生も数が足りなくて、音楽団なんて名前だけのようなものでした。
ようやくオーケストラとして人前で演奏できるようになったのは昨年のクリスマスで、しかし大人たちの期待は見事に砕け、演奏の酷さに王様は頭を抱えました。
責任者の貴族と指導監督の音楽家は、泣く泣く僻地へ飛ばされてしまいました。
以後、誰も僕らの指導を買って出てくれる人はいませんでした。
貧乏くじを引くことは明白だったからです。
それどころか楽団を解散する話が出ましたが、王様はたいそう西の国のオーケストラに憧れを抱き、自国でも音楽の文化を根付かせようとしました。
頑として首を振らず、指導者探しを命じたのです。
王としてのプライドがこのままでは引き下がれなかったのかもしれません。
そうして長かった冬の終わりにやってきたのがエオゼン先生でした。
白髪混じりの髪に無精ひげを生やし、目は窪んで、年齢より老いて見えました。
緑色の瞳は虚空を映し、現実感のない――まるで、俯瞰して世界を見ているような印象でした。
正直、苦手だなと心苦しく思ったのをよく覚えています。

「よろしく」

エオゼン先生は投げやりに挨拶を済ませると、集まっていた僕らを見回し、見下すように鼻で笑うと、一瞥してホールを出て行きました。
それを責任者の貴族が慌てて追いかけ、二人は足音を響かせながら去っていきました。

「あいつ酒臭かったぞ。大丈夫か」

隣にいたオリバーは眉間に皺を寄せると、嫌そうに鼻をつまみ手で仰いでいます。
他の子どもたちも悪い印象だったらしく、しきりに文句を言っていました。
中には何日でここを去るのか賭けをしている子もいました。
誰もエオゼン先生に期待をしていませんでした。

***

僕たちの嫌な予感は的中しました。
エオゼン先生は、いつも酔っ払って指導にあたりました。
片手に酒瓶を持ってホールに現れたこともあります。
指揮台に立った彼は僕らに罵声を浴びせました。

「チューニングひとつ出来ないのか、クソが!」

僕らの名前を覚える気はなく、アホ、バカ、ヘタクソ、音楽なんかやめちまえ――なんていうのは、まだいいほうでした。

「お前がいると耳が腐るから、とっとと出てけ!」

そう言ってフルートの少女を怒鳴りつけました。
彼女は涙を堪えられず、肩を震わせてホールを出て行きました。
誰もがエオゼン先生のやり方に、言葉に、憤りを覚えて不満を募らせました。
当の本人は酒に酔い、真面目に指導する気もなく、ただ僕らに当り散らして憂さ晴らしをしているようでした。
(なんて理不尽な……)
今日も人格を否定するようなことを言われて誰かが泣きます。
中には、もう音楽団にいたくないと練習へやってこない子もいました。
しかし王様の命令には逆らえず、僕らは今年のクリスマスに再び劇場で演奏しなければなりません。
とある子は、両親に引っ張り出されて泣きじゃくりながら演奏しようとしますが、それでもエオゼン先生は手を緩めず、酷い言葉で罵りました。
ただでさえ士気が落ちていたのに、これでは練習する気も失せます。
だってそうでしょう?
厳しい先生なら、その熱意に応えようと練習に励みますが、ただ八つ当たりをされているだけなのに大人しく従えるわけありません。
子ども楽団は、十歳から十五歳までの男女で構成されています。
まだ幼い子どもには酷な話です。
いたぶられて、苛められて、練習頑張れなんて誰も言えません。
しかも僕らは平民であり、自宅へ帰れば仕事の手伝いが待っています。
今までだって練習時間は碌に取れず、個人でそんな状態なら合奏なんて出来ないに決まっています。
そういう意味ではエオゼン先生の「音楽なんかやめちまえ」というのは正論な気がしました。
だって誰ひとり真剣に音楽と向き合っている人なんていなかったのですから。

とにかく、エオゼン先生がやってきてから一ヶ月経ちますが、子ども音楽団の現状は悪化するばかりでした。
どんなに指導者を替えてくれと嘆願しても聞き入れられません。
ようやく来たのが彼であり、またいちから探すとなると骨が折れるからです。
責任者を始めとした大人たち全員は、子ども音楽団の未来を諦めていました。
どうせこの一年で楽団は終わる。
今年のクリスマスの演奏会で昨年と同じことを繰り返せば、意地になっていた王様だって諦めるに決まっている。
すぐに解散となり、あとには何も残らない。
だからどんなにエオゼン先生が横暴な態度をとってもクビにはならなかったのかもしれません。
僕らは所詮素人の集まりなんです。
音楽の教育だって受けたことがない、寄せ集めのガラクタなんです。
子どもたちは何も言わずともそれを理解し、大人と同じようにどこか諦めていました。
王様のおままごとに付き合ってやってると思っていました。
だからいつまで経っても上達しないのでしょうか。
僕はみんなとは少し違いました。
誰にも言わなかったけれど、ヴァイオリンの虜となっていたのです。
故に数少ない空き時間を見つけては練習をしていました。
楽団のためじゃなくて、あくまで趣味として楽器を弾いていました。
自分だけやる気になったって孤独になるだけです。
だから友達の前では同じようにさほど興味もなく、やらされているんだという風に接していました。
その影では一生懸命練習をしていたのです。
始めは覚束なかった指使いも、二年経ってだいぶ慣れましたし、楽譜の見方も覚えました。
耳元で響く音色は味わったことのないような高揚感を誘い、僕を慰めてくれました。

「ハイネス! 配達行ってくれないかー!」

その時、下からお母さんの声が聞こえました。
僕の家は酒屋をやっていて、よく酒場や食堂、娼館へ配達に行きます。
僕は「今行く」と大きく返事をしてからヴァイオリンをしまうと、マフラーを巻いて下りていきました。

「また練習かい? よくやるね」
「別に音楽団のためじゃないよ。課題曲には手をつけてないもん」
「それは威張ることなのかい」

呆れた顔の母親は、口許に笑いを掠めていました。
店前には配達用の荷車が用意されて、何本かの酒瓶が乗せられています。

「くれぐれも割らないようにね」
「はい」

僕は見送る両親に手を振ると、荷車を引き始めました。
四月といえども夜は冬に戻ったように寒いです。
元々北西の国で、一年を通して気温は低いのです。
風が吹き付けるたびに悴んだ手を擦り、石畳の町を歩きました。
ずいぶん鮮やかな藍色の空に、白い吐息が雲のように広がりました。
町酒場は隣の通りの奥にあります。
すぐ近所ということもあり、毎日決まって同じ時間に僕が配達をしていました。
店主からもらうチップは僕の貴重な小遣いで、嬉しい仕事でした。

「こんばんは、酒屋です」

酒場の裏口から顔を出すと、途端に賑やかな声が耳に入りました。
各々のテーブルで飲んで騒ぐ男たちが陽気に歌っていたのです。
寒い夜は酒をぐいっと煽るのが最高なんだ――とは、父親の口癖です。
そうすると体がポカポカして元気になるんだそうです。
その割に夏の暑い夜だって飲んでいるのですが、それはまた別の話だと言いました。
大人の考えていることはよく分かりません。
僕は騒がしさに呆れながら、楽しそうに飲んでいる彼らを尻目に酒の補充を始めました。
空いた酒瓶は持って帰るため荷車に積みます。
すると、バーカウンターのところに座っているひとりの男性に気付きました。
大賑わいの酒場の中で、そこだけポツンと影が差したように男性が机に顔を伏せて眠っています。
まるで楽しんでいる男たちから遠ざかるように物寂しげな背中をしていました。

「お疲れ。ほら、今日のチップ」
「ありがとうございます」

いかにも人の良さそうな顔の店主は、僕の手にコインを二枚握らせました。
普段なら「まいど」と、笑みを作って帰るのですが、今日は帰る素振りもなく視線をカウンターへ移します。

「ああ、エオゼンさん? ハイネスは音楽団で彼から指導を受けているんだっけ」
「そうですけど……あの、あれは」

健やかな寝息を立てている男性こそ、あのエオゼン先生でした。
呼吸のたび、丸まった背中が上下しています。
店主は困ったように眉を下げ、

「いつもああして潰れちゃうんだよ。店を閉める時に起こすんだが、何かと大変でね」

酒場は酔っ払いの相手も多く、喧嘩や乱闘騒ぎだって珍しくない場所です。
それを相手している店主がそういうのだから、よほどエオゼン先生は面倒な客なのだと思いました。

「一流のヴァイオリニストがこのざまとはねぇ……」

店主は己の腕を枕に寝入るエオゼン先生を深く憐憫の眼差しで見つめました。
僕もそれに倣おうとしましたが、聞き捨てならない言葉に目を剥くと、

「一流のヴァイオリニスト?」

鸚鵡返ししていました。

「ん、ああ。私も音楽は無知でね。よく知らないんだが、初めて店に来た時、酔っ払ったエオゼンさんが言っていたんだよ。宮廷ヴァイオリニストも楽器を取り上げられればただの男だってね」
「………………」
「宮廷オーケストラといえば超一流の音楽集団だろう。酔っ払いの小言なんざ話半分に聞いているが、なんとなく気になってね」

目じりに柔和な皺を刻んだ店主は、やれやれと首を振りました。
僕はそっと後ろから近づくと、眠っているエオゼン先生を眺めます。
寝ているというのに眉間の皺は深く、普段通り不機嫌で嫌味な顔をしていました。
乱れた髪はイライラして掻き毟ったのでしょうか。
ウイスキーが僅かに入ったグラスに店内の明かりが反射します。
僕が知っているエオゼン先生は高圧的な態度のせいか大きく見えましたが、今、こうしてカウンターの隅で背中を丸め、眠りにつく彼は小さくて弱々しいです。
癒しがたい寂しさが僕の心を占めました。
漂う哀愁にどこか切ない気分にさせられたのは、酒場の独特な雰囲気のせいでしょうか。
そっと肩に触れようとした矢先、不意にエオゼン先生は目を開けました。
ぼんやりと焦点の合わない瞳で虚ろに見上げると、僕を見て顔を強張らせます。

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