一月の桜吹雪

最後にさよならをしたあの日、涙が溢れて止まらなかった。

「きっとまた会えるわよ」

隣でそう笑う母親はあくまで他人事である。
あの時の俺にとっては気休めにすらならなかった。
群馬の田舎から東京まで二時間ぐらいだろうか。
大人にとっては些細な距離でもあの時の俺にしてみれば星ほどの遠さに思えた。
車の窓を開けて小さく手を振る少年に振り返し続ける。
寒い冬の日、吐いた息は白く染まった。
必死に手を振り続ける俺は歯が震えるほど泣き続ける。

“「またこの桜の下で会おう」”

小さな指で約束したことを忘れない。
あの街の外れにある高台に根付いた冬桜だけは忘れられなかった。
雪の上にタイヤの跡が刻まれていく。
次第に手を振る少年の姿は豆粒になった。
見上げれば高台の一本桜が満開を迎えている。
それは雪のように白い花びらだった。
凍るような空気の中に溶ける桜の花。
その向こうに広がる空は真っ青だった。
浮かび上がる情景は俺の涙で霞み滲んでいく。

「きっとまた……」

それが遅い初恋だったのだと気付けなかった。
胸が軋むように痛くて引き裂かれそう。
遠くなる街並みを見て頬に一滴の雫が流れ落ちた。
(きっとまた会いに行くから)
何度もそう言い聞かせる。
また遊びたい。
また一緒に話したい。
明日からの俺はもう隣に居られないけど、きっとまた――。

「ばいばい。浩平」

俺は最後に大きく手を振ると隣にいた母親に泣きついた。

――あれから何年経つのだろう。
幼い思い出は追憶の彼方へ消え去ってしまった。
否、自ら記憶のゴミ箱へと捨ててしまった。

「はぁ……」

無人駅に降り立った俺は一枚の手紙を取り出す。
寂れた駅には小さな待合室しかない。
切符は降りる前に電車の中で清算した。
地元のローカル線は都会と違ってボタン手動式にドアが開く。
そうすれば寒い冬の日、誰もいないホームでバカみたいにドアを開けなくて済むのだ。
合理的な仕組みである。

「相変わらず変わってないな」

俺は二十歳を迎えた。
今は東京の大学で建築の勉強をしている。
まだランドセルを背負っていた頃、この田舎から都会へと移り住んだ。
それから一度も足を踏み入れずにいる。
引越しをしたあの日、絶対にすぐ戻ってこようと思った。
自分で稼げるようになったら――いや、お小遣いが貯まったらすぐにでも、と。
だけど結局あれ以来一度もやってこなかった。
というより、来たくなかったからだ。

「はぁ」

二度目のため息を吐くと白い息が広がる。
雪のせいで電車が遅れて到着時間がだいぶ過ぎてしまった。
しかしここでは珍しいことでもない。
駅の時刻表は実に恐ろしいものだった。
平日の昼間や夜間には一時間に一本、酷い時間帯には一時間半に一本の電車しか来ない。
住んでいた時はさほど住みづらさを感じていなかったが、都会暮らしが長くなると信じられなくなる。
一本遅れてもいいやが命取りになるとは恐ろしいものだ。
俺はそのまま小さな旅行鞄を肩にかけて簡素な作りの駅を通り抜ける。
平日の昼間だとはいえ、人気がない。
それどころか商店街はシャッター通りのようになっていた。
駅前に一軒だけあったコンビニが場にそぐわない明るさを放っている。
(こんなに廃れてたっけか)
とはいえ、正月を過ぎたばかりで静かなのは当たり前のことだった。
こういう辺鄙な場所だとまとめ買いが主流である。
この寒空の下、そう歩いている人などいるはずがない。
俺は手紙を鞄の中に仕舞うと歩き出した。
本来なら迎えに来てくれる人が待っている筈だがそれは断った。
だが断って正解である。
これだけ到着が遅れたのだから待たせるのも悪いと思った。
携帯の番号は教えていない。
この手紙の返事も「わかった、行く」としか書いていなかった。

シャッター通りを抜ければ、住宅街だった。
どこまでものどかな街は遠くに連山が見える。
今年も大量の雪が降ったのか、真っ白だった。
吸い込まれそうな白さに目を細め、静かなアーケードを通り過ぎる。
俺はそのまま目的地から背を向けた。
そして隣の道へと進んでいく。
振り返れば雪の道に俺の足跡が残されていた。
懐かしい雪の感触は思ったよりべちゃべちゃしていて気持ち悪い。

そうして向かった先は街外れの高台だった。
長細い道を進むと突然視界は開ける。
その時真っ先に見えるのが一本の冬桜だった。

「はぁ……はぁ……」

記憶だけを頼りに獣道を進む。
周囲の木は枯れ、雪が積もっていた。
この深さなら二、三日前にでも雪が降ったのだろう。
重い荷物を担いで雪道を進むのはきつかった。
長い怠けた大学生活は自身の体力を奪っていく。
それでも絶え絶えに歩き続けた。
すると道の先が急に明るくなる。

「あ――」

突然開けた場所に出た。
真っ白な雪原が続き、その先には一本の大木が聳え立っている。
俺は口の中に渇きを感じながら見上げた。
絶えず溢れる白い吐息が視界を邪魔する。

「…………?」

だがその木の傍に気配を感じた。
霞む目を細め凝視すると、一人の少年が立っている。
あまりよく見えないが、その少年は桜の木を見つめて微笑んでいた。
それは雪に溶けてしまいそうな儚げな笑み。

さわっ――。

冷たい風が頬を撫でた。
それは痛みを思い出させるような風の匂いだった。
高台に吹く風は枝を揺らし、儚い花びらを散らせる。
――まるで雪のようだ。
ひらりと舞う花びらが少年の下に落ちた。
それでもじっと見つめる彼は身動きひとつしない。
茶色いコートを羽織り花を見つめている。

「……っ……」

その姿が、鮮麗に映った。
思わず息を呑んで立ち止まる。
白い世界に僅かな光が入ったみたいだった。
心臓が締め付けられるような戸惑いを覚え動けなくなる。
まるで映画を見ているような光景だった。
眼下に広がる街は雪で埋もれて静かに眠っている。
白い大地には一人の少年が立っているだけだった。
冬の透き通った大気に空が青く染まる。
地上より空が近い。

「え?」

すると少年はこちらを向いた。
俺は思わず目を見開く。
だが少年は笑いかけた。
まるで俺がここに来た意味を知っているかのように微笑む。
桜を見ていた顔は無垢で雪のように白かった。
なのに綻ばせた途端、見る見るうちに血が通っていく。
だが俺は驚いて立ち尽くしてしまった。

「こう……へい……?」

胸の奥に鈍痛が響く。
その笑顔には見覚えがあった。
響く痛みと共に鼓動が早くなり動揺を隠せなくなる。
気付けば荷物を持つ手に力が入っていた。

「桜斗さーん!おーとさーんっ!」

しかし遠くに見える少年は無邪気に俺の名を呼び手を振っていた。
そして手招きしている。
(誰だ、あれ?)
俺は逸る鼓動を抑えながら早足で近付いた。
近付けば近付く程、少年の顔に見覚えを抱く。
(なぜ、自分の名前を知っている。なぜ、ここにいる?)
街外れの高台なんて普段は誰も来なかった。
だから“二人”はそこで遊ぶのが日課になっていた。
今までだってこの場所で誰かと会うことなんてなかった。

「こんにちは、桜斗さん」
「き、きみは……」

目の前まで来ると冷や汗が流れた。
今俺の前で立っている少年の顔を知っている。
それは、どんなに忘れたくても忘れられない顔だった。

「あれ?覚えていません?」
「あ、ああ」
「僕、浩平の弟です。塚田浩平の弟の、塚田春平です」

すると春平と名乗る少年は恥ずかしそうに頬を掻いた。
それを見て、記憶の奥を抉られそうになる。
思わず俺はこめかみを押さえていた。
まるでテープを早戻しするみたいに思い出を手繰り寄せる。
その度に胸が痛んだが知らん振りをした。
今はそんなものに付き合っていられるほど余裕がない。

「しゅ、春平君」
「はいっ、おーとさん」

眉間に皺を寄せながらじっと彼を見つめた。
春平は相変わらずニコニコしている。
なぜそんなに嬉しそうなのか分からない。
人懐っこそうな顔に苛立った。
俺の知っている男はそんなだらしない顔をしない。
相棒の彼はいつだって勇敢で強気だった。
(そう、俺が好きだったのは――)
俺は思わず頭を振った。
余計な思考まで引っ張り込んで失敗したことを悟る。
だからそれ以上思い出すのをやめた。

「……ごめん、覚えていない」

俺は俯きながらそう答えた。
すると春平は慌てて手を振る。

「あ、いえっ…べつに、まだ幼かったですし……」
「…………」
「ぼ、僕は兄ちゃんに引っ付いてばかりだったから、覚えていないのも当然です」

そういって笑う顔はどこか無理をしていた。
泣きそうになりながら、必死に笑っている。

「そ、それより帰りましょ?」
「え?」
「今日はうちに泊まるんですよね。兄ちゃんに聞きましたから」
「あ、そう」

そういって彼は歩き出した。
俺はつられるように隣を歩く。
春平は元気だった。
家に着くまでの間、俺に退屈させないように、話題を振ってくる。
だけど俺は適当に流したまま聞いていた。
客観的に見ていないとまた動揺してしまいそうだったからだ。

「おー、すっかり変わったな」
「お前もな」

春平の家に着くと浩平が出迎えてくれた。
俺の姿を見て大喜びで飛び出してきた。

「あれから九年か」

二十歳になった浩平は大学に進学せず、地元の中小企業に就職していた。
彼は俺より背が高くガッチリした体系をしている。
何やら町工場で働いているらしく、肉体派なのだと自慢げに上腕二頭筋を見せてくれた。
(こうして見るとまったく違うな)
並んだ塚田兄弟はまったく似ていなかった。
体育会系の兄と文化系の弟。
よくある正反対の兄弟である。

「ああ、こいつは昔っから好き嫌いが激しいんだ」
「わっ言わないでよ。兄ちゃん」
「見ろよ、この体。男の癖にもやしっ子なんだ」
「うー」

確かに春平は十四という年の割りに未熟だった。
本人は「平均的だよー」と言ったが浩平と比べると栄養の偏りを感じる。
浩平とは九年ぶりの再会とは思えない程スムーズに会話できた。
ある意味春平に感謝したいと思う。
あの衝撃的な出会いがなければ、もっとぎこちない態度になっていたかもしれない。

「っていうかお前らどこで会ったんだよ」
「あっ」
「春平は午後いちに出かけるって言ってたじゃん」

すると居間へと案内しながら浩平が話しかけてきた。
その横で春平が慌てた素振りで引っ付いてくる。

「あっ、あっ…ちょうど駅前の商店街で……」
「…………」
「ね、おーとさん」

なぜか春平は高台のことを黙っていた。
どうして“彼”が隠すのか不思議だったが、俺も高台に行ったことは知られたくない。

「ね?ね?」

だから窺うようにこちらを見る春平に同調した。
俺は言葉を発せずただ頷く。
すると一切疑わない浩平は「そうか。昔と比べて寂れたせいか驚いただろ」と笑い飛ばした。
彼の家は昔と変わらない。
家具や置物もほとんど変わらないせいか無性に懐かしい気がした。
(もう九年になるのか)
まるで祖母の家に来たような郷愁を覚える。
家の匂いだとか間取りとか覚えているものだ。
九年ぶりだというのに、居心地よく胸の奥に落ち着く。

「それで、どうして俺を呼んだんだ?」

俺は懐かしいコタツに入りながら向かい合った浩平に尋ねた。
隣には春平が座っている。
彼はテーブルの上に置かれたみかんに手を伸ばしていた。
雪で冷え切った体にコタツの暖かさが染みる。

「まーまー。待てや。それは今日の夜に言うから」
「は?」
「お前まだ大学休みなんだろ。五日間ゆっくりしていけや」
「そうだけど……」

浩平とは引っ越してからも電話や手紙のやり取りをしていた。
とはいえ、年を重ねるごとにその間は空き、電話や手紙は少なくなった。
しかもある時を境に俺は手紙を出すのをやめた。
一年に一度年賀状ぐらいである。
浩平も卒業してから忙しいのか、滅多に連絡を寄こさなくなった。
そんな時、手紙がきた。
どうしても伝えたいことがあるから戻ってこないか、と。
他のみんなもお前に会いたがっているから、五日後の成人式まで泊まりに来ないかと誘われた。
(東京にいたって成人式に出なかっただろうし)
生憎、今の俺には都心に親しい友達がいなかった。
それは特別親しい友人を作りたくなかったからだ。
そのせいでこんな暗い性格になったのかもしれない。
本当はこの街にも戻ってきたくなかった。
無論、正直に言えば浩平にも会いたくなかった。
それでもひとつだけ確かめたいことがあった。
だから俺は、寒い冬にこんな田舎へ戻ってきたのだ。

――夜、おじさんとおばさんが帰ってくると盛大に持て成してくれた。
変わらず優しくて、俺の知っている二人だったからホッとした。
五日間もお世話になるのはどうかと思ったが、二人は大喜びで冬休み中ずっと居てくれてもいいと言ってくれた。
変わらぬ態度が嬉しい。
塚田家の人々は皆いい人である。
だから俺は大好きだった。

「でさー」

鍋を囲みながら思い出話に花が咲く。
浩平から同級生達の近況も聞いた。
手紙で書いたことは本当らしく、みんな俺に会いたがっているらしい。
てっきりとっくに忘れ去られた存在だと思っていた。
小学校の途中で転校した俺はみんなと遊んだ時間も短い。
引越し先である都心の学校ですら全員の顔を覚えていなかった。
近所で会ったとしても気付かないだろう。
それなのにこの街のみんなは覚えていてくれるのだから驚いた。

「んだよー。桜斗は女子にモテモテだったじゃん」
「そうだっけ?」
「うーわー。やな感じー」

冷たい視線が突き刺さる。
だけど浩平は楽しそうだった。
二十歳を迎えた俺達はおじさんと一緒にビールを飲んでいる。
それが不思議だった。
その前に会っていた時はジュースだったのに、今はお酒を飲んでいる。
こんな未来を想像していなかった。
(浩平と酒を飲み交わすことになるとはな)
辛口が喉に心地良く響く。
俺は注がれた一杯をぐいっと引っ掛けた。
酒のせいか浩平は陽気になる。
普段から明るくて騒がしいヤツだが、さらに上機嫌だった。
浩平は俺と違い子供の頃から全く変わっていない。
あの時の少年がそのまま大人になったみたいだった。
それが無性に胸を掻き毟りたい衝動に駆られる。

「あーコホン」

すると、急に浩平が咳払いをした。
酔ったせいか顔が赤い。
俺の隣には相変わらず春平がいて、ちびちびオレンジジュースを飲んでいた。
コタツに五人もの人間が座り鍋を囲っているのである。
その湯気はモクモクと天井まで伸びていた。

「じ、実は桜斗に言いたいことがあったんだ」

すると浩平はキリッと表情を引き締めてビールのグラスを置いた。
そして正座に座りなおす。
そのせいで急に背が高くなった。
俺は肉を摘みながら黙って頷く。

「お、お前には、ちゃっ……ちゃんと会って伝えたくて」
「…………」
「わざわざ遠いところまで来てくれてサンキューな」

浩平は緊張しているようだった。
まどろっこしい前説が長くて俺は呆れたように彼を見る。

「……いいから早く言えって」
「おう」

すると少しだけ表情が和らいだ気がした。
それに首を傾げるとじっと見つめてくる。
(な、なんだよ……)
その視線が痛かった。
やましいことは何もないのに、なぜか背中がムズムズする。
俺まで緊張して箸が止まった。
他の三人は浩平が言うまで黙っている。
ちらっと春平を見れば、複雑そうな顔をしていた。
――なおさら意味が分からない。

「お、お、俺っ……来月、結婚するんだ」
「――――え」

すると思わず箸を落としてしまった。
目を見開いた俺は真っ直ぐ浩平を見る。
彼も同じように俺を見つめていた。
その表情は目が据わり真剣である。

「な……えっ……」

だが俺は言葉をまっすぐ受け止められなかった。
唐突に思考を奪われる。
想定外の話だった。
まだ学生の俺には結婚など遠い未来の話である。
しかし考えてみれば浩平は働いているのだ。
しかも高校を卒業してすぐ就職したのである。
今はもうある程度生活も安定しているだろうし余裕だってある。
遊び場が多い都会と違って、ここでは独身でいるメリットなんてなかった。
なら早く身を固めて両親を安心させ、孫の顔を見せたいところである。
(そうだよな。同じ二十歳でも全然違うんだよな)
急に浩平が大人に見えた。
そして学生の自分が子供に見えた。
俺は口篭ったまま上手く反応できずに固まる。
室内は嫌な静寂で波打っていた。
今や、この場にいる全員の視線が俺に向けられている。
痛いほどの視線を突きつけて待っている。

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