3

次に目が覚めた時、二日酔いは気にならなくなっていた。
と、いうより熱を出した俺はそれどころではなかった。
全身ずぶ濡れで違うパジャマを着せられている。
あとで聞いた話によると、気を失った俺を必死に春平が担いで家まで帰って来たらしい。
まさに火事場の馬鹿力だ。
だが相当ヘロヘロだったらしく彼の体力は玄関先で限界を迎える。
結局兄に泣きついて、この件はどうにか幕を閉じた。

「悪い。酔って潰れたばかりか勝手に家を飛び出した上、熱まで出して……」

俺は何しに来たのか。
決定的に失恋しに来たのか。
初恋相手の弟に告白されに来たのか。
それともただ単に塚田家に迷惑を掛けに来たのか。
俺が思うに三番目が有力だと思っている。

「いやいや面白かったからオッケーオッケー」

だが浩平はまったく嫌な顔をしなかった。
人んちに来て看病してもらっている自分が情けない。

「それよりあんな状態で春平の相手をしてくれてありがとうな」
「え?」
「アイツが言ってたよ。お前が雪合戦に付き合ってくれたって」
「あ……」
「だからって明け方にやらなくてもいいのに。あのバカ昔っから我儘っちゅーか、甘えっこだからしょうがねえ」

呆れたように笑う浩平は器用に包丁を使って林檎を剥いてくれた。
それをベッドサイドの皿に乗せていく。

「しゅ、春平君は?」

俺は思わず聞き返していた。

「んあ、アイツならどうせ今頃オヤジにこっぴどく叱られているよ。ま、気にすんな」
「でもっ」
「それより桜斗は休んでろって。五日間ベッドで過ごすなんて洒落になんねーだろうが」
「……っ」

起き上がろうとしたら止められた。
力の入らない体はそれに抵抗できず、大人しくベッドの中に潜りこむ。
体は熱いのに寒くてたまらなかった。
(またアイツ、そんな嘘を……)
俺を庇って嘘をついた。
本当は俺が勝手に八つ当たりをして飛び出したのに。
介抱されるどころか庇ってもらっているなんて情けなかった。
相手が子供だからなおさら恥ずかしい。
(最悪だ)
彼にどれだけの醜態を晒したのか。
思い出すだけで死にたくなった。
昔から誰かに弱みを見せたことなんてない。
しかも一番知られたくなかった事実をばらしてしまった。
次にどんな顔で会っていいのか分からない。
(出来るなら今すぐ消えたい。いや、帰りたい)
そうすれば二度と会わなくて済む。
幸いなのは接点がないことだ。
もし彼らの近所に自宅があったら地獄だろう。
俺はきっと後悔し続ける。
それほどの秘密だった。

「これじゃあ今日はどこも出かけられないな」
「悪い」
「いや、しょうがないよ。俺もちょうど買い物頼まれたから行ってくる」

すると浩平は腕時計を見るなり部屋から立ち去る。

「ちゃんと大人しくしてろよ」
「わかっているって」

そんな捨て台詞を残していくと、途端に室内は静寂を取り戻した。
見慣れない天井を見ながら俺は布団を被る。
昨日の刺すような寒さはどこにもなかった。
暖房の効いた室内は心地良くまどろむ。
窓の外は曇り、昼間だというのに暗かった。
夜、あれだけ風が強かったのだ。
きっとあの風が厚い雲を連れて来たに違いない。

コンコン

すると部屋をノックする音が聞こえた。
だから俺は一言「どうぞ」と話しかける。

「あ、あの……」

開けたドアの先から顔を出したのは春平だった。
浩平の言うとおり、かなり父親に怒られたのかいつもより小さく縮まってみえる。
彼の手にはまだ剥いていないりんごと皿が用意されていた。

「熱といえばりんごかなと思って……」

そうして俺の傍まで寄ってくる。
だが途中でベッドサイドに置かれたりんごに気付いた。
だから慌てて自分の持っていたりんごを隠そうとする。

「…………」

俺はそれを見て呆れた。
いまさら隠したところでどうしようもない。
何せ自分の口でりんごを持ってきたことを言ってしまっているのだ。
しかし彼の気持ちを無碍にすることも出来ず、横を向いたまま声を掛ける。

「……ちょうど良かった。腹が減っていたんだ」
「え?」
「一個じゃ足りないと思っていたんだよ。まだあるなら剥いてくれ」
「あ……」

別に気を遣っているわけじゃないんだ。
(ただコイツには借りがあるから……)
内心そんな風に言い訳めいたことを呟きながら座るように促す。

「は、はいっ」

すると春平は嬉しそうに笑った。
そして得意げにりんごを取り出すとベッドサイドのイスに腰掛ける。

「…………おい」

――しかし出来上がったカットリンゴは酷い有様だった。
皮むきが苦手なのかずいぶん厚く剥いてくれたものだ。
そのせいでかなり小さなリンゴが出来上がる。
種の部分を切り取れば一口で食べられてしまう大きさだ。
しかも余程苦心したのか表面がでこぼこに削り取られている。
浩平の剥いた皮は一、二回途切れたぐらいで薄いシートのように出来ていたのに対し、春平のは殆ど続かず、厚く実が付いたままだった。
むしろ皮として剥いた量の方が多い。

「ごご、ごめんなさいっ」

散々たる結果に開いた口が塞がらなかった。
何でも器用に出来る兄と、何でも不器用な弟。
(きっとりんごを剥いたのは初めてだったんだろうな)

「ぷっ」

俺はあまりに正反対な兄弟に吹きだしてしまった。
申し訳なさのあまり小さく萎んだ春平は顔を真っ赤にしたままこちらを見ない。
(もしかしたら料理自体初めてだったんじゃないのか)
きっと彼だってもう少し上手に出来ると思っていただろう。
りんごの皮むきなんて見ている方は簡単に思えてしまうのだ。
だが手つきが慣れていなければ、目の前のリンゴのようになってしまうのかもしれない。
むしろ怪我をしなかっただけ幸いだった。

「お前っ……ほんと、変なヤツ」
「おっ、おーとさんっ」

俺は少しだけ起き上がると彼の剥いたリンゴに手を伸ばした。
そして口の中に放り込む。

「大丈夫だよ。口に入れたらどれも同じりんごだ」
「あっ」
「美味しいよ。ありがとう」
「あっ、う……」

するとお礼を言われたのが嬉しいのか、彼は照れ臭そうに頭を掻いた。
素直でよろしい。

「それより悪かったな」
「えっ?」
「昨日のこと。散々八つ当たりをして迷惑掛けたのに、お前全部自分のせいにして怒られたんだろう?」

彼を覚えていないと言った俺に対して、こんなにも尽してくれるとは思わなかった。
きっと春平自身が優しいからだろう。
その優しさに甘えている自分が恥ずかしかった。
(そういえば塚田家の人間はみんな優しいんだよな)
だから俺は入り浸っていたんだ。
浩平も昔から優しいやつだった。
それは俺だけでなく、みんなにも優しいやつだった……。

「ち、違いますよ。発端は僕の方ですから。そ、それに全然怒られてないですっ」
「嘘付け。おじさんの怒鳴り声がここまで聞こえたぞ」
「え、えええっ。う、うそっ――!」
「うん。嘘」
「なっ……!」

すると彼は顔を真っ赤にしたままお盆で叩いてきた。
どうやら本当だったらしい。

「おいおい。病人に暴力はやめてくれ」
「わっ、ごめんなさいっ」

だが俺の状態に気付くとそれは止んだ。
今度は頭をペコペコ下げる。
実に忙しいやつだ。

「じゃあ俺はもう少し寝るから」
「あ、はい」

俺はそういうともう一個春平の切ったリンゴを口に入れた。
そして布団の中にうずくまる。
それでも春平は出て行く気配を見せなかった。

「なに?」

だから俺は顔だけ振り返る。

「あ、あのっ……もう少し傍にいてもいいでしょうか」

すると春平は遠慮がちにそう言ってきた。
だから俺はまた彼に背を向け布団を被る。

「……勝手にしろ」

それだけ言って目を閉じた。
それに対して彼は小声で「ありがとうございます」と呟く。
だが聞こえない振りをした。
体の熱さにりんごの冷たさと甘さが身に染みる。
いつもより高い体温は夢見心地ですぐに眠りへと誘ってくれた。
帰って来た懐かしい地で終える二日目は布団の中である。
それが可笑しかったが、気分が良かった。
未だ整理がつかない頭の中を熱が遮断し、思考を止めてくれる。
何より昨日泣き喚いたのが良かったのかもしれない。
あんな風に誰かの前で感情を露にしたのは引越しの日以来だった。
しかも醜態を晒しっ放しである。
(なんで春平の前でばっか)
もしかしたら彼の風貌が自分の知っている浩平の姿に似ているからだろうか。
だとしたら俺は酷い男である。
しかしそれ以上考えられず、俺は本格的に夢の淵へと落ちた。

夜には薬も効いたらしく熱は下がっていた。
あのあと何度か目が覚めたが、その度に春平が傍にいた。
どうやらずっと俺の傍に付き添い看病してくれていたのだろう。
何も知らない浩平は「アイツの責任なんだから甘えておけ」なんて言っていたが本当は違うのだ。
春平は何の義理もない。
夜は昨日のようにみんなで団欒も出来ず、俺は部屋でおばさんが作ってくれた特製卵粥を食べた。
本当は今日も盛り上がるつもりだったらしい。
どこまでも明るく元気な一家だ。
浩平は俺が熱でダウンしたことから予定を全部繰り上げてくれた。
本来なら今日行くはずだった場所に明日連れて行ってくれるらしい。
行く場所はなんとなく想像できた。
きっと彼は俺達の母校に連れて行くに違いない。
あまり乗り気はしなかった。
昔の俺と今の俺は違う。
その姿を見られたくなかったのかもしれない。

ガラガラ――。

俺はコートを羽織るとベランダに出ようとした。
夕飯を終え、もうみんな眠っているのか静まり返っている。
さすがの春平もいなくなっていた。
電気の消された部屋は薄暗い。
だが昨日の夜と同じく雪のおかげで暗いとは思わなかった。

「はぁ…っ…」

吐いた息は白く染まる。
今日は月が見えなかった。
その代わり、ぼたん雪が降り続いている。
おかげで街はまた白一色に塗り替えられていた。
音もなく降る雪は幻想的に映る。
不思議と見ているだけで心が落ち着いた。
こんなにたくさんの雪なんて都会では久しく見ていない。

「あっ、だめですよ」

すると後ろから声を掛けられた。
いつの間にかパジャマに着替えた春平が部屋に入ってくる。

「風邪をぶり返したらどうするんですっ」

今度はポットとマグカップを持っていた。
それをベッドサイドに置くと傍に来る。

「だからコートを着ているだろうが」
「それでもだめです」
「ケチ」
「ケチでも何でもいいんです。ダメなものはダメなんですっ!」

するとそういって窓を掴んだ。
そのまま閉めようとする。
だから俺は彼の腕を掴んだ。

「ごめん。でもあともう少し見ていたいんだ」
「なっ……っぅ……」
「あと少しだけだから」

俺がそう言うと春平は渋々手を離した。
その代わりポットに温かいお茶を入れるとそれを俺に渡す。

「もう、おーとさんは自己管理が適当すぎです。東京に比べてこっちは寒いんですから」
「分かっているって」
「分かってないですよっ。無茶しすぎですっ」

彼はまるで母親のように小言を呟いた。
だけど正論だったから大人しく聞き続ける。
普段は大人しいのに、こういう時の迫力は浩平以上だった。
いや、それだけではない。
この部屋で枕を投げつけられ、尻餅をついた時の春平は意志の強そうな目で俺を見た。
無論、桜の木の下で儚げに笑う彼も知っている。
かと思えば無邪気に笑い、表情の違いを教えてくれた。
どれが本物かと問えば、どれも本物である。
だけど彼はひとつとして同じ表情を持っていなかった。
(本当に忙しいやつ)
受ける印象はどんどん変わっていく。
それがおかしくて、新鮮だった。
こんな人間見たことがない。

「お前、凄いよな」
「え?」

すると突然突拍子もないことを言ったのか春平は首を傾げた。
それに苦笑すると「なんでもない」と首を振る。
二人は湯気の出るマグカップを持ちながらベランダで雪を見ていた。
外の寒さは異常で体の芯から冷えてしまう。
だけどお茶が温かいから気持ち良かった。
何より半日ぶりに外に出たのが気分転換になった。
こんな美しい雪景色を見ていられるのだから幸せだと思う。
人間とは単純なものだ。

「…………なぁ」
「はい?」

俺は黙って隣に立つ春平に声を掛けた。
寒いと文句も言わず、俺の傍に居続ける。

「俺は本当に春平君を覚えていないんだ」
「あっ」
「ごめん」
「い、いえっ…そんな仕方がないですよ。おーとさんは謝る必要なんてないです」

そう言って笑う顔は無理をしていた。
どうやらこの子は自分の気持ちを隠すのが下手なようである。
その顔を見て少しだけ胸が疼いた。
昨日は感じなかった異変だ。
もしかしたら罪悪感を抱いていたのかもしれない。
俺は浩平と遊ぶのに夢中で、それ以外のものに価値を見出していなかったから。

「でも不思議だな」

違った見方をすると惜しいと感じている自分もいた。
記憶を搾り出そうとしても何も出てこない。
それが歯痒くて切なかった。

「今は残念に思っているんだ」
「な、何がですか?」
「だから、覚えていないこと。こんな面白いヤツだったなんて知らなかったから、覚えてないなんて勿体無いなって」
「あっ――」

すると春平の顔が赤く染まって下を向いてしまう。
俺も言ったあとに自分がとてつもなく恥ずかしいことを言ったことに気付いた。

「いや、だから……その」

調子が狂う。
浩平に惚れていたことを知っているからこそ気まずかった。
(別に浩平とコイツを重ねているわけじゃないんだ)
顔は似ていても印象は全然違う。
だけどそれを上手く言葉に出来なかった。
誤解されたくないのに。

「しゅ、春平君っ?」

するとチラッと見た時の彼は下を向いたまま泣いていた。
顎が僅かに震えている。
まさかこんなに簡単に泣き出すとは思わず狼狽した。

「ご、ごめん。何か気に障って――」
「嬉しいです」

すると彼はそれだけ言って身を預けてきた。
寄り添うように胸元に頬を寄せてコートの端を掴む。

「僕、桜斗さんが好きです」
「それはっ……昨日、聞いた」
「でも言いたくなったから言わせてください」
「っていうか、お前っ……ちょっ――」
「……ずっと好きでいて良かった」

慌てふためく俺に彼の言葉は届かなかった。
小さく呟いた淡い恋心に気付かずうろたえる。
だってこんなにも他人と触れ合ったことなんてない。
(ま、まずいだろ)
仮にも幼馴染の弟だ。
第一にまだ幼い少年を自分と同じ道に引っ張り込むなんて出来ない。
塚田家のことを考えたら余計にそんなことをしたくなかった。
優しい子だからこそ、同じ傷を与えたくない。
彼には真っ当な道を進んで欲しい。

「ばかっ…抱きつくなっ!」

だけど今の俺はそこまで気が回らず文句を言うことしか出来なかった。
それでもしがみ付いて離れない春平は暢気にヘラヘラ笑っている。
その間に降り積もった雪は街から人々の足跡を消した。
どこまでも続く道は白く塗りつぶされている。
それを自分に重ねながら、傷の痛みが少しだけ和らいだことを知った。

翌日は俺の予想通り母校へと足を運んだ。
浩平に連れられて懐かしい小学校へと向かう。
なぜか春平まで引っ付いてきた。

「なんでお前も来るわけ?」
「だ、だっておーとさんは目を離すとすぐ無茶をする人だから」
「しねーってば」

学校は未だ始業式を迎えておらず、一日中俺の傍を離れない。
それを浩平は呆れた顔で見ていた。
小学校には俺の知っている先生も残っていた。
懐かしの母校は案外覚えているものである。
また浩平の計らいで当時仲が良かったクラスメイトたちにも会えた。
それぞれ就職なり進学なりしている。
近くに大学がない為、結構遠くまで通学しているヤツもいた。
それぞれ昔の面影を探しながら、懐かしい思い出に浸る。
こうしてみると故郷はいいものだった。
それはきっと受け入れてくれる人がいるからそう思うのだろう。
ここには変わらない空気が根付いている。
自分にも居場所が残されていたことを知って嬉しかった。

その後は浩平の働いている町工場や春平の通っている学校に案内された。
クラスメイトとは一旦お別れである。
夜にまた、居酒屋で合流して飲みに行く予定だった。
県外の大学に行っているヤツも成人式の為に戻ってきているらしく、同窓会気分である。
幹事はもちろん浩平だった。

「春平は帰れよ」
「やだ。僕も兄ちゃんたちと飲みに行くっ」

一通り街を案内されて夕方に差し掛かった頃だ。
俺と浩平はそのまま約束の居酒屋へ一足先に行こうとしていた。
しかし春平も行くと聞かず、目の前で兄弟喧嘩が始まる。

「飲みに行くって、お前まだ未成年だろうが」
「お酒は飲まないからっ、ジュースで我慢するから!」
「当たり前だ。アホっ」

ゴンと春平の頭にげんこつが入った。
痛みに頭を押さえる彼はそれでも納得しない。
今度は俺が二人を見ている番だった。
口出しをせず延々と聞き続ける。

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