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「オヤジとお袋が家で待っているだろ」
「電話するもん。まだ今の時間ならご飯だって作ってないよ」
「だーかーら、そういう問題じゃなくてだな。お前は部外者だろうがって言ってんの!」

浩平はガミガミ怒っていた。
確かに自分の身内が同じ飲み会に参加するのは気まずい。
開けっぴろげな会話も出来なくなるだろう。
しかもせっかく久しぶりに同級生が集まるのだから浩平が嫌がるのも無理はなかった。
だがそうしたやり取りを見ながら俺は黙り込んでしまう。
それは時折脳内に走るデジャビュのせいだった。
昔どこかで同じような会話を聞いたことがある。
しかし所々ノイズがかかって思い出せずにいた。
(本当に俺は春平を覚えていないんだな)
きっとこの感覚は浩平と春平のものである。
憶測として考えられることはたくさんあった。
もしかしたら当時の浩平も思春期特有の嫌悪感から弟を遠ざけていたのかもしれない。
兄たちと遊びたい弟と、そんな弟を鬱陶しく思う兄ならよくある構図である。

「あ、あのさ……」

気が付いたら俺は自分から声を掛けていた。
自らの声に自分でも驚く。
それと同時に喧嘩していた二人もこちらを向いた。

「春平君も少し場の空気を味わえば満足するだろうし、俺の隣で大人しくジュース飲んでいられるよね?」

結局、その言葉でこの場は纏まった。
最後まで浩平はブーブー言っていたが埒が明かない。
一方の春平は大喜びで俺から離れなかった。
まるで尻尾を振った子犬である。
そうして三人は居酒屋へ向かった。

そこは都心によくあるチェーン店ではなかった。
個人経営の居酒屋である。
入り口には懐かしの赤提灯がぶら下がっていた。
浩平は予約をしていたらしく、入ると席が準備されていた。
ざっと十二人ほど集まる予定である。
新しく春平が加わったので合計十三人か。
入って間もなく浩平は一人追加の話をしにいった。
その間、俺は古びた店内を見渡す。
三十席はないだろう店内は掘りごたつになっていた。
テーブル席のように縦に四つ並んでいる。
反対側にも四つ同じように並んでいた。
正面にカウンターがあり、その奥がキッチンである。
内装はごくごく質素で、変わった置物が飾られていた。
あとで聞いた話によればオーナーが旅行好きで、行った先々で土産を買ってくるらしい。
道理で統一性のないものばかり置いてあるのだと思った。

それからしばらくして続々と懐かしのクラスメイトがやってきた。
中には昼間会ったばかりのヤツもいる。
みんな俺を見ると「久しぶり」と喜んでくれた。
そして必ず次に来る言葉が「今なにしているの?」である。
だから俺はその度に「東京の大学に通っているんだ」と答えた。
中には恋人を連れて来たヤツもいるし、俺の知らない中学の同級生を連れてきたヤツもいる。
その為、最初の予約人数を大幅に超えたが、店員は臨機応変に対応してくれた。

「お前、食ってばっかだな」

俺は真ん中のテーブルに座っていた。
無論、隣には春平がいる。
本当は端でひっそり飲んでいたかったが、みんなが真ん中へと促した。
そこで断れるほど空気の読めない人間ではない。

「だって滅多に外食しないですから」
「こら。口に入れたまま喋るな」
「だ、だって話しかけてきたのはおーとさんなのに」

彼は理不尽そうに口を膨らませて、またテーブルにある唐揚げに手を伸ばした。
オレンジジュースをしっかり片手で持つと、モゴモゴ頬を膨らませながら食べている。
まるでリスのようだった。
俺はそんな春平を見ながらビールを煽る。
周囲は盛り上がっていたが、あまり輪には入れなかった。
コミュニケーション不足で生きてきた人間には仕方がない。
数人なら話せるものの、これだけ大勢が集まると萎縮してしまうのだった。
(情けない)
俺の方がコイツを必要としている気がする。
現にこの場に春平がいなければ居心地悪くて肩身の狭い思いをしていただろう。
今はその存在に救われていた。

「美味いか?」
「はいっ。美味しいです」

春平を見ていると、どこか癒される。
一緒にいると安堵している自分がいた。
春平の前では自分を作らずにいられる。
これ以上隠すものなんてないからだろうか。
それともコイツの雰囲気が俺の張っていた気を緩めてくれるのか。
(きっと両方だろうな)
俺はテーブルに肘をつきながら美味しそうに頬張る春平を見続けた。

「こんばんは」

――その時だった。
暖簾をくぐって一人の女性が店内に入ってくる。
俺は入り口に背を向けていた為、反応に遅れた。
辺りは女性の姿を見るなり騒がしくなる。
俺は人の間からその女性を見た。

「浩平っ、行ってやれよっ」

周りが騒ぎ立てる。
冷やかすような指笛が店内に響き渡った。
一気に騒がしくなる中、照れくさそうに浩平が立ち上がる。
そして彼女の方へと走っていた。

「あ――……」

それを見て、胸がドクンと音を立てる。
俺はすぐに気付いた。
それが浩平の婚約者であることを。
そしてもうひとつ大きな事実が隠されていた。

「あれって」
「ん、ああ?香澄ちゃんのこと?」

俺は隣にいたクラスメイトに声をかける。
酒で酔っていたのか、もう顔が赤くなっていた。

「桜斗知らなかったん?あいつの婚約者」
「いや、それは知っているよ。ただあの子……」

それは言葉にならない衝撃を受けた日のことだ。
古傷を抉る手紙の届いた日だから忘れるはずがない。
それまでは楽しみにしていた手紙がただの紙切れに変わった日。
手紙には一枚のプリクラが貼られていた。
満面の笑みを浮かべる浩平。
そしてその隣にいた可愛らしい女性――……。

「おう、凄いよなー。浩平のやつ。結局最初の彼女と結婚するんだから」
「…………」
「俺当時あいつの相談に乗っていたんだけど、どうやら初恋の人らしいぜ」
「……っ……」

俺は思わず言葉を失った。
忘れるはずもないプリクラに映った笑顔。

「中学の先輩でな。浩平の方から猛烈にアタックしたんだから幸せもんだよなあ」

クラスメイトの無神経な「あっはっはっ」という笑い声が響く。
だけど俺は笑うことも出来ずその女性を見つめていた。
ふんわりとしたボブカットが笑うたびに揺れている。
どこか品の良さそうなお嬢様みたいだった。
(そっか。浩平はああいう大人しい子がタイプなんだ)
女性特有の柔らかさが気に障る。
途端に全ての音が遠くに聞こえた。
結婚することは分かっていたし、少しは頭の整理が出来たつもりだった。
だけど心構えもせず相手に会うのは酷なことだった。
しかも聞きたくなかった経緯を教えられて何の言葉も出てこない。
そのくせやけに冷静な自分が怖かった。
浅い呼吸を繰り返し、ちゃんと分かっているんだと言い聞かせる。
どのことを“ちゃんと”と言っているのか知らないくせに騙すことだけは得意だった。
そうして自らを欺き続けたのだから無理もない。

「桜斗ー!」

すると浩平が嬉しそうな顔で手招きした。
その声に我に返ると二人を見る。
筋肉が引き攣って自分がどんな顔をしているのか分からなかった。
(いやだ。いきたくない)
幼い自分が駄々を捏ねる。
俺はどんな顔で二人を祝福するのだろう。
そしてどんな言葉を掛けるのだろう。
心にも思っていないことを言わねばならない苦痛。
それを考えただけで吐き気がした。

ぎゅっ――。

――するとその時だった。
膝に置いていた手に温もりが走る。
驚いて振り返った。
そこには泣きそうな春平がじっと俺を見ている。
だがその顔は一瞬にして消えた。

「ねーーむーーいーーっ!!」

彼は途端に大声で喚き始めた。
俺の背中にずしっと乗っかり口を膨らませる。

「おーとさん眠いっ!ねーむーいーっ、ねーむーいーよおおお!」

そのまま引っ付いて離れない。
驚いた俺は口を開けたまま動けなかった。
背中の重みだけが実感を伴う。

「僕もう帰るううううっ」

その姿は酔っ払いのようだった。
首に巻きついて駄々っ子のように騒ぐ。
それを見ていた浩平は近付いてきた。
彼は呆れたような怒ったような顔をしている。

「桜斗。そいつのことは放っておけ」
「やーーだああ。離れないもんっ」
「こらっ、春平!」
「うるさいっ、兄ちゃんのばかっ!」
「春平。いい加減に――!」

そういうなり体を引き離そうとした。
それでもぎゅっとしがみ付く彼は離れようとしない。
だから俺は浩平の手を掴んだ。

「…………俺も、帰るよ」

そうして春平をおんぶすると立ち上がる。
背中の彼はもう寝息を立てていた。

「ちょっ、ちょっと…今日の主役はお前で」
「ごめん。でも今日歩き回って疲れた。病み上がりだったし」
「あっ」
「どうせ成人式の日にまた集まるんだろう。だったら今日はこれで勘弁して」
「あ……そ、そうか」

よほど顔に疲れが出ていたのだろう。
浩平は引き止めるのを躊躇していた。
だからその間に、靴を履いて用意を済ませる。

「みんなもごめん。じゃあまた」

俺は振り返って未だ飲んでいるクラスメイトに手を振った。
何も知らない彼らは陽気に酒を飲み手を振り返してくれる。
それにニコッと笑い、彼女の前を通り過ぎた。
そっと一礼して店を出て行く。
暖簾をくぐれば外の銀世界へと帰って来た。
身を切るような寒さに目を細める。
時計を見ればもう七時半を過ぎていた。
どっぷり日が暮れ真っ暗である。
元々静かな街のせいか店はなく街灯の明かりしかなかった。
点々と続くその間をおんぶしながら歩き続ける。

「――もう、狸寝入りはいいんでない?」

店からだいぶ離れたところで声を掛けた。
それに対しておんぶされていた彼がピクリと反応する。

「違うもん。本当に眠かったんだもん。嘘じゃないもん」
「もんもんうるせーな。お前は幼稚園児か」
「うー」

春平が口を尖らせているのは見なくても分かった。
回した手がぎゅっと俺に抱きつく。

「…ごめんなさい」

彼は小さな声で呟いた。
首筋に吐息がかかる。
泣きそうな声だった。
きっと先程のように泣きそうな顔をさせてしまっている。
(関係ないのに)
どうして俺より辛そうな顔をするのか。
俺はおかしくて苦笑していた。
何もかも見抜かれて気を遣われている。

「ちょっと寄り道に付き合ってくれるか」

俺はおんぶしなおすと歩き始めた。
そうして辿り着いたのは小さな駐車場。
九年前は空き地だったはずだ。
俺はそこで立ち止まると中に入る。
車は一台も止まっていなかった。
国道から外れているせいか車の通りもない。

「ここは……?」
「見て」

俺は春平を下ろした。
そして見上げると一直線に指を差す。
その先には白く浮かび上がった冬桜の姿があった。

「あ――」

春平はそれに気付いて声を上げる。

「昔、よくここで浩平と遊んだんだ」
「…………」
「いつもここから桜を見ていた」
「……っぅ……」

積もった雪の重みに枝が垂れ下がっている。
その姿が物悲しげに映った。
街を見渡すように植えられた桜が風に揺れる。

「……ごめん」

どうしても我慢が出来なかった。

「昨日だけじゃ泣き足りなかったみたいだ」

顔を背けて唇を噛む。
そうしないと胸が潰されそうだった。
(叶わない恋だと分かっていたのに)
目を閉じれば仲睦まじい二人の姿が思い浮かぶ。
その度に消し去ろうと涙が溢れた。
機械のように不要であれば削除したい。
合理的でありたいのに、心は頑なにそれを拒絶した。

「大切だったんだ」
「…………」
「俺はずっと浩平が好きだった。ここにいた時から、東京へ引っ越した後も。浩平さえいれば何もいらないと思っていたんだ。……っぅ、ただ一番傍に居られたら…どんなにっ、幸せだったか……」

話しながら嗚咽が混じった。
ずっと心の底に閉じ込めていた想い。
大切にしていた気持ちが悲鳴をあげていた。
剥き出しの感情が傷口のように開く。
誰にも触らせたことのない、純情。

「でもっ、いつかきっと……っふ、そういう日が来るって分かっていたんだ。あの手紙を読んだときから……ずっと――」

知りたくなかった事実。
逃れられない現実。
そういうものが一気に襲い掛かってきて対処できなかった。
俺はただもがくだけで精一杯で、それで……。

「こんなに引きずり続けて気持ち悪いよな、俺。自分で分かっているんだ。どうしようもないことなんだって」

誰も悪くないんだ。
浩平には知られたくない。
こんな汚い感情知らなくていい。

「……だけどっ……やっぱり、俺がっ……浩平の初めてになりたかった……」

俺はその場に泣き崩れてしまった。
雪の上に涙が零れる。
ただ、婚約者が羨ましかった。
初めて浩平に想われて。
初めて浩平とキスをして。
初めて、浩平に愛された。
そうして彼女はこれからも一番近くで彼の初めてを共有するのだろう。
なんて幸せなポジションにいるのだと歯痒くなった。
俺はその前からずっと浩平の傍にいたのに。

「あー……くそ、かっこわりい……」

拳を握り締めた。
女々しい姿にこれ以上何も言えない。

「…………」

すると今まで黙って聞いていた春平がしゃがんだ。
そっと俺の頭を撫でる。

「しゅん…ぺい君……」

顔を上げると逆光で霞む春平がいた。
彼は切なそうに顔を歪ませ黙って俺の頭を撫でている。
その小さな手が暖かくて心地良かった。
こんな風に誰かに撫でられたのはいつぶりだろう。
あやすように、慰めるように、春平の手が俺に触れる。
だから俺は我慢が出来なかった。
その手を掴むと彼の体を引き寄せる。
そして肩口に顔を埋めるように抱き締めた。

「……ごめん。このままでいさせて」

すると春平も俺の背中に手を回してきた。
温かな体が愛おしくて助けを求めるようにしがみ付く。
そうすると体の中が綺麗になっていくような気がした。
今まで自分の中で蠢いていた濁りが流されていく。
そのぶんだけ心が軽くなった。
体が楽になった。
まるで糸のように解れていく救い。
(やっぱりお前、すごいよ)
それからも延々俺は泣き続けた。
冬桜が高台の上から見守る傍で感情を解放する。
相変わらず春平は黙ったままだった。
ただ彼は俺の胸元に抱かれ、背中を撫でている。
頼りなさ気な手だったが何より安心できた。
そうして俺は泣いて泣いて、枯れるまで泣いて――最後には笑うことができた。

――翌日、未だこちらの寒さに慣れず、体の震えで目が覚めた。
眠気まなこのままエアコンのスイッチを探す。

「いっ……」

すると手のひらに何か当たった。
変な声がしてガバッと起き上がる。

「しゅ、春平君」
「いっ……痛いですよ~、おーとさんっ」

するとベッドに肘をついたまま突っ伏していた春平と目が合った。
彼は涙目になりながら頭の天辺を押さえている。

「お前また俺の部屋に忍び込んで」
「だ、だ、だって……」

春平は口篭らせるとそのまま上目遣いで俺を見た。
きっと心配で一晩中俺に付き添っていたのだろう。
昨日は落ち着いたあと、二人で帰って来た。
どうしても人肌を感じていたくて春平と手を繋いで歩いた。
彼はその道中もずっと俺の話を聞いてくれた。
浩平との出会いから、楽しかったこと、嬉しかったこと、引越しのことも。
無論、引っ越したあとのことも話した。
彼に聞かせるというより、ひとつひとつ大切に閉じ込めていた思い出を蘇らせたかった。
そうして自分の口から紡ぐことによって昇華出来そうな気がしたからだ。

「ありがとう。でも、もう本当に平気だ」

お蔭で今朝はすっきりした気分で目が覚めた。
まるで憑き物が落ちたみたいに心身ともに楽になっていた。

「春平君のおかげだよ。お前が居なかったら俺はずっと引き摺りっぱなしだったかもしれない」
「そ、そんなことっ」
「とにかく!この話はもうお終い。せっかく来ているんだし、少しは楽しまないとな」

明日はもう成人式だ。
その翌日には家に帰る。
遥々こんなところにまで来たのだから、いつまでも落ち込んでいられなかった。

「だから今日は一日春平君に付き合うことにする」
「え、ええええっ!」
「お前には借りがたくさんあるんだ。さすがにこのまま帰れねえよ」
「そんなっ…ぼ、僕はそんなつもりじゃっ」
「分かっているって。ただそれじゃ俺が嫌なんだ。だから何でも言って?家の手伝いでもいいし」

すると突然のことに春平はあたふたしていた。
予想外のことを言われたのだろう。
オーバーヒートしそうなほど唸り、そわそわ落ち着かない素振りで考えている。

「ど、どど、どうしようっ」

いつまで経っても決められないらしく、先に朝食を頂くことにした。
おじさんとおばさんはとっくに仕事へ行っている。
浩平はまだ眠っているだろう。
キッチンには三人前の朝食が用意されていた。
だから俺と春平は先に二人で食べることにする。
その間も春平は考え続けているようだった。

「あ、あのっ」

食後、片付けをしていたところでようやく春平が声をかけてきた。
隣で皿を拭きながら俺を見る。

「き、決まりました」

窺うように見つめ、チラチラと目を泳がせていた。
俺はハテナマークを浮かべて首を傾げる。

「言ってみろよ。何でも付き合うぞ」
「はっ、はい」

すると彼の顔が一気に明るくなった。
分かりやすい子である。

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