5

「あの、勉強を教えてもらってもいいですか?」
「なんだ。そんなこと――」
「で、昼からはスケートに行って、あと一緒に雪だるまを作りたいですっ!」

彼は目を輝かせて言い寄ってきた。
まさかそこまでスケジュールを決めてくるとは思わず項垂れる。

「……お前な……」

さすがに何でも付き合うと言ったが、そんなにやりたいことがあるとは思わなかった。
(コイツに遠慮の文字はないんだろうな)
それは始めから覚悟していた。
だから文句を言おうとしたのをやめる。
何より俺からの提案なのであとには引けない。

「だ、だめですかっ?」

すると春平が眉を下げて悲しそうな顔で覗き込んできた。
だから俺は首を振る。

「よーし。なら早く片付けを終わらせるぞ。今日はとことんお前に付き合ってやる」
「はは、はっはい!」

すると彼は満面の笑みで俺を見上げた。

その後は、まず春平の勉強を見てやった。
それから冬休みの宿題も手伝った。
彼はこうみえて頭がいいらしく物分りが良い。
思わず「意外だな」と呟いたら、ぶーぶー文句を言われた。
どうやら失礼だったらしい。
昼ご飯を作ってやると、後から起きてきた浩平と共に三人でご飯を食べた。
そして二人は近くのスケート場に行き、のんびりと午後からの時間を過ごした。

「どこで雪だるま作るんだ?」
「僕っ、行きたいところがあるんです」

なんとなく彼の言う場所が分かった。
辿り着いたのは高台にある冬桜の下。
少し早めにスケート場を出てきたせいか、ちょうど夕方に差し掛かっていた。
長い竹林を越えたところに、突然視界が開けた場所がある。
ついこの間降った雪により一面真っ白だった。
まだ誰の足跡もついていない雪原が広がっている。

「きれいだ」

俺はその場に立ち尽くし空を見上げた。
赤い夕陽が今、連山の向こうへと沈もうとしている。
真っ白な雪は赤く染まりどこまでも続いていた。
射した日の光が滲むように雪へと映っている。
その逆光で霞んだ冬桜も花びらが薄紅に色付いていた。

「そうですね」

隣に佇む春平もその光景をじっと見つめている。
無用な言葉はいらなかった。
埋め尽くされていく赤の世界に浸っていたい。
その最後の一瞬まで、見つめていたかった。
だけど俺たちにそこまでの時間は残されていなかった。
これから雪だるまを作るという使命がある。
日が暮れていくのを見ていたら帰る時間が遅くなるのだ。

「よし、やるか」
「はいっ」

俺は腕をまくると春平に笑いかける。
すると彼は深く頷いて同じように笑った。

――その日の夜は静かだった。
翌日に成人式を控え、早々に部屋へと戻る。
だいぶ馴染んできたせいか、家族のように食事をとった。
いつの間にか五人の食卓が当たり前になっていたのである。
(それも、もうすぐ終わる)
来るまでは憂鬱だったのに、今ではどこか寂しさを感じていた。
また都会へと戻ることに躊躇っている。
おじさんもおばさんもいい人だ。
俺を家族のように扱ってくれて、温かく迎えてくれた。
こうしてようやく見慣れた天井を見上げじっと考え込む。
外は嘘みたいに静かだった。
人の気配はなく、車の音も聞こえない。
耳が痛くなるほどの静寂に吸い込まれそうになる。

「はぁ……」

俺と春平はあのあと二人で大きな雪だるまを作った。
夕陽が射し込む高台で黙々と丸い塊を転がす。
そうして出来上がった二つの球を重ねると雪だるまが出来た。
春平は落ちていた枝や葉で目と鼻と口を作る。
キリリとした眉に「男前だな」と言うと彼は楽しそうに笑った。

「あ、でもこれじゃ寒そうですね」

春平は枝を刺して手に見立てた部分を指摘した。
元々雪なんだから寒いもクソもない。
だがそう言う前に彼は自分の手袋を脱いだ。
そして雪だるまの両手へとはめる。

「それじゃお前が寒いだろ」

雪だるまは見事に五本の指を手に入れた。
その代わり春平の冷たい手が外気に晒されている。
雪を弄っていたせいか、赤くなっていた。
彼は手のひらに息をかけながら笑いかける。

「じゃ、じゃあ……手を繋いでもいいですか?」

そういって恥ずかしそうに手を出した。
だから俺は呆れたようにため息を吐くとその手を握る。
雪のように冷たく小さな手だった。
すると彼は照れくさそうにニヤけて出来上がった雪だるまを見る。
冬桜の下に置かれた雪だるまに満足げだった。

「……これでもう、寂しくないですよね」

そう言って微笑む顔はどこか切なげで複雑そうな顔をしている。
だから俺は何も言えなかった。
黙って桜と雪だるまを見る。
(確かにもう独りぼっちじゃないよな)
雪だるまは桜を守っているように見えた。
その横で揺れる木はざわざわと音を立て喜んでいるように思える。
だとしたら、この無意味な遊びにも価値があった。
(もしかしたら春平は始めからそのつもりだったのだろうか)
雪だるまなんて自宅の庭先でも作れる。
それでもここに来たのは何か意味があったのではないだろうか。
俺はチラッと彼の顔を盗み見る。
だけど春平の表情は変わらなかった。
物言いたげに見つめ、微笑んでいる。
(どうして?)
無性にその顔が印象に残った。
彼と初めて会った場所もこの冬桜である。
だけど結局最後まで話を切り出せなかった。
誰にでも語りたくない過去はあるだろうし、わざわざ聞き出すほど無神経にはなりたくない。
(なにせ俺はあと少しで立ち去る人間なんだ)
俺はきっと二度とここへはやってこないと思う。
浩平とは相変わらずの距離で話すことになるだろう。
友達関係に戻るにはもう少し時間が必要だった。
とはいえ、本当の友達に戻るのはいつになることやら。
彼の顔を見る度、罪悪感がのしかかったからだ。
男女の恋愛ならいざ知らず、男として男を好いてしまった罪悪感は消えてなくならない。
どうしようもないのだと吐き捨てることも出来ず、気まずかった。
全てなかったことに出来たらどれほど楽なのだろうか。
(なのになんで帰りたくないんだろう)
自分の中で矛盾が発生していた。
ねじれた感情の隙間がどうにも話をややこしくする。
(もしかしたら俺は恐れているのかもしれない)
無論、春平のことだ。
同じ過ちを犯そうとしている心に不安が過ぎる。

コンコン――。

するとその時、部屋をノックする音が聞こえた。
俺は我に返ると「どうぞ」と声を掛ける。

ガチャ。

開いたドアの先には春平がいた。
パジャマ姿の彼が黙り込んだまま部屋に入ってくる。

「どうした?」

何か様子がおかしい。
俺は首を傾げて声を掛けた。
すると春平は俺の顔を見て口篭る。

「春平君?」

春平は俺の傍まで来ると隣に座った。
ベッドが一度ギシッと軋む。
俺は不思議そうに彼を見下ろした。
何か思いつめた表情の彼は膝の上に拳を置いて握り締めている。

「………ぼく」

ようやく彼が言葉を発した。
実に弱々しく小さな声だった。
風呂上りなのか触れた体が温かい。

「……僕っ、……ぼくっ……」

彼は何度も言おうとしていた。
その度に声を詰まらせて止めてしまう。
時計はもう零時を過ぎていた。

「……ぼっ僕を、抱いて下さいっ――!」

するとその時だった。
彼は俺の方に振り返ると勢い良く飛び込んできた。
その反動で俺はベッドに押し倒される。
ただ驚くしかなかった。
頭が真っ白になって春平を見つめる。
彼は俺の胸元にうずくまり震えていた。

「兄ちゃんの代わりでいいですからっ、兄ちゃんだと思ってくれて……構わないですからっ……」

やけに悲痛な声が響く。
(な、なに言って……)
思いつめたように眉間の皺が刻まれていた。

「一度でいいんですっ……思い出が欲しいんですっ、そうしたら僕っ……忘れますからっ……」

俺の寝巻きを掴む手が小刻みに震えている。
どれほどの勇気を振り絞って彼はそう言い出したのか。
俺はじっと動かず言葉を聞いていた。
溢れる気持ちが伝わってくる。
彼の一生懸命な想いが体に響くようだった。
それを切り捨てなくてはならない苦痛。

「……だめ、だよ」

俺は彼の肩を掴んだ。
そして引き離そうとする。

「それじゃ春平君も俺と同じ部類の人間になってしまう。今なら戻れるかもしれないのに、引きずり込むわけにはいかないだろう?」

彼をゲイだと認めさせたくない。
今なら一時の過ちで戻れるかもしれないのだ。
それを自らの手で引っ張り込みたくない。
優しい子だと分かっているからこそ、余計な苦労はかけたくなかった。
大人になれば同性を愛するという厳しさに直面する。

「きっと春平君は一時的に俺をそう見ているだけだよ。憧れと恋愛がごっちゃになっているんだ」

第一に、俺は彼を覚えていない。
それほどの接触だったに過ぎない。
それをなんの確証を持って“恋”だと呼ぶのか。
線引きは曖昧でよく分からない。

「同じ部類で何が悪いんですかっ!」

すると珍しく春平の荒げた声が聞こえた。
思わず我に返ると彼を見る。
春平は唇を震わせ涙を堪えていた。
必死に泣くまいと気張っているのが分かる。

「男を好きになるのはそんなに悪いことですか。そんなに汚いことですか!」
「お前はまだ社会を知らないから――」
「そんな社会なら……いらないっ!」

すると春平は自らパジャマを脱いだ。
破るように前を開けたせいでボタンが飛び散る。
だがそんなこと構っていなかった。
転がったボタンは絨毯の上に音もなく落ちる。

「それならっ、嫌いって言われた方が良かった。気持ち悪いって言われた方がずっと……」

幼い体が目の前に晒される。
それは雪のように白く透き通った肌だった。
まだ未熟な体はどこも柔らかく清らかな印象を受ける。

「ひっぅ…ふ…っ……くっ……」

あれだけ必死に涙を堪えていたのに耐えられなかった。
純粋な涙が頬を流れ落ちる。
春平の顔は傷ついて歪んでいた。
次々に溢れる涙は止まらず俺の体に落ちる。
(わかっていたはずなのに……)
中学二年生。
俺が失恋と同時に初恋を知った年だ。
その時の失望と絶望。
それは俺自身が一番よく知っている感情だ。
ただ彼と俺が違うのは、そのあとである。
俺はあからさまに避けて逃げた。
しかし春平はそれでも自らの気持ちをぶつけて正面から向き合った。
想いに幼いかどうかなんて関係ない。
そんなもので重さと軽さを分けられる筈なんてない。
(痛いほどよく知っていたのに)

「それでも俺は嫌だよ」
「…ふっ、ぅ…ひっぅ、ひっく…うっ…うぅ…」
「浩平の代わりなんて」

そっと春平の頭を撫でた。
細く柔らかい毛は色素が薄く茶色がかっている。
真っ黒で剛毛な浩平とは正反対だ。
(そう。浩平と春平は違う)
初めて見た時、浩平かと思った。
だけど一緒に過ごすうち、全然違うことを知った。
今はもう被りもしない。

「ひっぅ、おーとさん……」

涙で濡れた目尻を優しく拭う。
すると春平は驚いたように俺を見た。
そしてその手を取ると握り締める。

「泣くなバカ。やりづらいだろうが」
「ふぅっ、ごめ……なさっ……」
「お前はいつでも暢気に笑っていればいいんだよ」

その顔に救われていた。
ひとり降り立った懐かしの地で、俺を支えてくれたのはこの顔だった。
だから悲痛に歪む顔なんてみたくない。

「もう少し待てよ」

俺は彼の体を抱き寄せた。
そうしてベッドの中で背中を叩く。
あやすように、宥めるように。

「あとひとつ、俺にはやらなくちゃならないことがあるから」
「お、桜斗さん」
「そしたら何かが変わると思うんだ」

春平は小さく頷いた。
そして俺の背中に手を回すと胸元に頬ずりする。

「好きです、おーとさん」
「うん――ありがとう」

今はそういうしかなかった。
彼の柔らかな体を抱き締め目を瞑る。
狭いベッドの中でも心地良かった。
移り変わりつつある気持ちの揺れを実感する。
なにより、こんなに触れ合うことが気持ちいいとは思わなかった。

翌日早朝、ベッドでは未だに春平が眠っていた。
僅かに目元が赤いのは昨日の夜、あれだけ大泣きしたからか。

「…………」

そっと触れてみたかったけど起こしたくなかったので我慢した。
俺は成人式用のスーツを着ると部屋を出る。
そして今度は浩平の部屋に入った。
彼もまだ眠っている。
それはそうだ。
まだ起きる時間には早い。
俺は寝相の悪い彼に苦笑しながら机の上に一枚の紙を置いた。
ひとこと――。
「成人式のあと、約束の場所で待っている」と、書いてある。
その後、家を出た。
そうして約束の高台へと向かう。
成人式へは出ようと思わなかった。
せっかく浩平が他県の俺も、と掛け合ってくれたらしいが出る気にならなかった。
それを心の中で詫びながら冬桜の下に向かう。

「こうしてのんびり考えてみるのもどれぐらいぶりだろう」

俺は木の下まで来ると雪を払い、出っ張った根に腰を下ろした。
相変わらずの寒さに白い息が零れる。
だが今日は快晴で気持ちのよい天気だった。
木にもたれながら空を見上げる。
枝から伸びる花は八重だった。
この冬桜は十月桜といい、秋から冬に掛けて花を開く。
その後、もう一度春に花を咲かせる二度咲き桜だった。
ひらり、ひらり、花びらが舞い落ちる。
俺は散った花を手のひらで掬い取った。

「あれからもう九年も経ったのか」

時の流れは誰にも止められない。
だが、新しい道へ進む為に区切ることは出来る。
(今がその時なのだと思う)
きっと今というチャンスを逃せば、俺は永遠に吹っ切ることが出来ないと思った。
だから彼が来るまでの間、めいっぱい思い出そうと思う。
ひとつも零すことなく、たくさん、たくさん――。
そしてどれほど“好きだった”のか記憶に残しておきたいと思ったんだ。
(……ああ、コイツが一緒で良かった)
そこには昨日作られたばかりの雪だるまが立っている。
凛々しく手を伸ばした姿は頼もしく見えた。

――それからどれほど時間が過ぎただろうか。
俺はうつらうつらしながら幹にもたれ掛っていた。
コートを着ていたとはいえ寒さで手足の感覚がなくなっている。

カサッ――。

その時、雪の踏み締める音が聞こえた。
同時に曖昧だった意識が覚醒する。

「こ、浩平っ!」

俺は思わず立ち上がっていた。
勢い余ってふらつく。
それを木を支えにどうにか踏み止まった。

「あ――……」

だが、そこにいたのは浩平ではなかった。
弟の春平が立っている。

「どうし「ごめんなさいっ!」

すると俺が声を掛ける前に彼が頭を下げてきた。
だから思わず目を見開く。
(な、なんだ)
事態がいまいち呑み込めず狼狽する。

「ごめんなさい。桜斗さん」
「なに言って」
「ごめんなさいっ」

必死に春平は謝り続けた。
俺は理解できず、掛ける言葉すら見つからない。
なぜ謝っているのか。
なにより、なぜ彼がここにいるのか。
(浩平は?)
もうそろそろ成人式が終わってもいい頃だろう。
なぜ浩平より先に春平が来たのか分からなかった。

「……兄ちゃんはここには来ません」
「え?」
「だって――兄ちゃんは約束の場所を知らないから」
「!!」

突然頭が真っ白になった。
いきなり何を言い出すのか。
彼は何を言っているのか。
驚きすぎて言葉を失った。
冷たい風だけが現実を与えている。

「だ……だって、お前は……約束を知って……」

思わず声が震えていた。
俺の反応に春平も唇を噛み締める。

「……覚えて、いませんか?」
「……え……」
「僕を覚えていませんか?」

彼は泣いていた。
桜の花が舞い散る中で一滴の涙が零れ落ちる。
昨日の夜あれだけ泣いたのに彼の涙は枯れていなかった。
溢れ出る涙が無言の訴えになる。
そうして俺に小指を差し出してきた。

「桜斗さんが引越しをする前日、僕はここに来ました」
「…………」
「その日の朝、兄ちゃんは風邪を引いて外に出られなかったから、代わりにお前が行けって……」
「…………」

俺は引っ越す前日に浩平とここで会う約束をしていた。
突然決まった引越しで、バタバタ慌ただしくて――。

「僕はここで桜斗さんと指きりをしました」

“小さな指”でした約束だった。

「兄ちゃんに“また桜の木の下で会おう”と伝える約束に」
「――!!」

俺は思わず自分の小指を見つめていた。
そして同じように小指を立てた彼を見つめる。
その手は小さかった。
それは当たり前の話だ。
何せ、俺と春平は六歳も年が離れている。
無論、自分よりずっと小さいに決まっていた。

「そんな……じゃあ、あの時……」
「桜斗さんは覚えていなかったけど、あの時ここにいたのは僕です」
「…………」
「――そして、僕はその約束を破ってしまったんです」
「え?」

嗚咽交じりに自嘲気味に笑う。
その顔が痛々しく映った。
さざらう音だけが俺達の間を通り抜けていく。
雪が太陽に反射して眩しい。

「ひっぅ……僕っ、羨ましくて…兄ちゃんがずっと、ずっと…っ…」
「春平君」
「ずっと桜斗さんが好きだったんですっ。いつも兄ちゃんは僕を仲間に入れてくれなくて、でもっ……桜斗さんは、そんな僕をいつも庇ってくれた。一緒に遊ぼうって言ってくれた」
「…………」
「だから桜斗さんと一緒にいる時が一番楽しくて嬉しかったんです。すぐに桜斗さんの兄ちゃんへの気持ちには気付いてしまったけど、どうしても止められなかった」

悲痛な眼差しに胸の奥が響く。
俺は黙って聞いていた。
春平が隠していた心の傷を見つめる。
俺が目を背けちゃいけないと思ったからだ。

「だからっ……僕は、桜斗さんとの約束を破りました。兄ちゃんに約束の場所なんて知って欲しくなかったから…ひっぅ、約束の場所なんて出来て欲しくなかったから、僕は嫉妬に駆られて、最も卑怯で酷いことをしてしまったんです」
「…………」
「僕は最低ですっ……ずっと大切な二人を裏切りながら、何食わぬ顔で生きてきたのですから……」

あとはもう続かなかった。
彼は延々泣き続けた。
その姿は幼い子供のようだった。
小さく縮こまった体は弱々しく震えている。
(それが春平君の傷)
だけど俺は憎しみを感じなかった。
むしろ何もかも都合よく覚えていた自分に腹が立った。
どうして忘れてしまったのか。
なぜ気付けなかったのか。
そうすれば春平をここまで追い詰めずに済んだのに。
蘇るのはこの街に来て最初に会った春平の姿。
この場所で桜を見上げる春平は儚げだった。
意味深な笑みが脳裏に蘇って切なさが込み上げてくる。
(きっとコイツは俺が引っ越したあともこの場所で桜を見上げ続けたんだ)
忘れ去られているとも知らず、黙って――静かに。

「…ひっく…ごめんなさいっ……」

花びらが春平の頭に落ちた。
白く雪のような花だ。
もう散り始めた桜は次に咲く準備を始めている。
他の桜と共に咲く為、蕾を太らせようとしている。
俺は歩き出した。
そして春平の傍へ寄る。
気付いた彼はビクリと震えた。
きっと怒鳴られることを覚悟したのだろう。
その姿になおさら胸がざわめく。
(――――違うのに)

「春平君」
「……っ……」
「俺は過去より現実を選んだんだよ」

そっと彼の頭に触れた。
花びらを掴み引き寄せる。
春平はその様子に顔を上げた。

「教えてくれたのは春平君だ」
「桜斗さ……っ」
「引き摺りっぱなしの過去を断ち切ってくれたのも、ずっと隠してきた痛みを許してくれたのもお前だ」

どうしようもないことだった。
それは俺も春平も浩平も、全ての人に当てはまる言葉だ。
模索しながら生きるには過ちが必要で、人はその中から現実を選んでいく。
誰が春平を裁けるのだろうか。
一番約束を大切にしていた彼をどうやって責め立てるのだろうか。
(必要なのは、過去じゃない)
だから俺は今日ここに来たのだ。
過去に縋る為じゃない。
決別する為にここを選んだのだ。

「おめでとうって言おうと思ったんだ」
「え……?」
「ここに浩平を呼び出して、結婚おめでとうって」

今なら心から祝福できると思った。
五日前なら死んでも成し遂げられなかったであろうことを簡単に出来る自分がいた。

「で、でもっ」
「勘違いするなよ。俺は無理をしていない」
「…っ……」
「今は心からそう思えるんだ。自分でも不思議な感じがする。まさかこんな風に思える日が来るなんて思わなかった」

心が軽くなっていた。
喉の奥に引っ掛かっていたものが抜けて楽になる。
同時にそれはゆとりをもたらしてくれた。
狭まっていた視野が広がる時、大きな世界に気付くことが出来る。

「ぷっ」

俺は思わず吹き出していた。
それを彼は不思議そうに見上げる。

「ごめん。でも、うん……なんか、もういいやって思った」
「え……?」
「実は少し緊張していたんだ。浩平が来たらまずなんて言おうって」
「あっ」
「だから良かった。春平君が来てくれて」

俺は彼の頭を撫でた。
一昨日の夜は逆だったのに、今日は俺が彼を見下ろしている。

「これで良かったんだ」

手のひらの感触が気持ちよかった。
黙って撫でられている春平の涙は止まらない。
それを必死に拭っていた。
(どこまで優しいんだか)
その優しさが俺を救ってくれた。
だから俺はそのまま背中を抱き寄せるとあやす様に撫でる。
小さな体に背負ってきた重みを分けて欲しかった。
そうすれば彼の傷も共有できる。

「……お、桜斗さんは相変わらず優しすぎですっ」
「そうか?でも俺、未だにお前のこと思い出せないんだよね」
「うー」

意地の悪そうな笑みを浮かべると春平は頬を膨らませた。
だけど体を離そうともせず俺のコートを握っている。

「か、過去よりっ……現実、ですっ」
「それさっき俺が言った台詞じゃねーか。勝手に取るなよ」
「むう」

その意地らしさがおかしかった。
俺だってそう言いながら彼の体を離そうとしない。
今度は春平の口がへの字に曲がる。
だから少しだけ強く抱き締めた。
いきなりの抱擁に戸惑いながら彼も身を委ねる。

「だから、これからの春平君を知りたいと思う」
「!!」

すると春平の体が反応した。
驚いたらしく強張ったように固まる。
俺は一度強く抱き締めると肩を掴んだままゆっくり引き離した。
春平は信じられないと言った顔で俺を見つめている。
あれだけ泣いたせいか目元が赤く腫れていた。
それを指で優しく拭う。

「意味わかる?」
「あ…っ…うっ、ぅ……」
「特別に俺の携帯教えてやるよ。浩平すら知らないスペシャルな番号だ」

そう言って鞄から携帯を取り出そうとした時だ。
春平は構わず俺にぎゅっと抱きついてくる。
思わず一歩後ろに下がりながら、どうにかそれを受け止めた。

「お前なー」
「うぅっ…だって、ぼくっ……」
「泣くなって。いい加減困るだろうが」
「ひっぅ、桜斗さんだって、いっぱい泣いたんですから…っ、おあいこですっ」
「口だけは達者なんだから」

俺は呆れてため息を吐いた。
反論できないのだから仕方がない。
コイツには敵わないのだ。
なにせたくさんの弱みを見せてしまっている。

「俺はお前の笑った顔が好きなんだけどな」
「――!」

窺うように覗き込めば春平の顔は赤くなった。
息を呑んだように目を見開くと涙が止まる。
単純というか分かりやすい。

「おー、止まった」
「だ、だだ、だってっ」

抗議するように睨むが効果はなかった。
俺は「偉い偉い」と頭を撫でる。
子供扱いされたことを悔しそうにしていたが笑って流した。
そうして俺は彼の小指を絡ませると見せ付ける。

「じゃあ今度こそ春平君と約束しようか」
「あ」
「またこの桜の下で会おう?」
「!」

一瞬春平は言葉を失った。
だけど指を握ってやれば見る見るうちに顔が綻んでいく。

「はいっ!」

見上げれば心地良さそうに吹かれる冬桜がざわめいていた。
白い花を散らせながら揺れている。
それは季節外れの桜吹雪だった。
まるで雪のような花びらが舞い上がる。
その向こうに連なる山々はどこまでも続いていた。
青い空によく映える。
二人で交わす二度目の約束はきっと近い将来果たされるに違いない。
明日の今頃はもうこの場所に居ないけど、満足だった。
きっと浩平にも笑って言える。
「結婚式には呼んでくれよな」って。
それだけで俺は幸せだった。
今度は暖かな春に来よう。
そうすればきっと、冬桜は仲間と共に桜の花を咲かせている。
満開の桜の木の下で。

END