蝉時雨

「――拝啓 藤千代様

梅雨の候、ますますご壮健の趣大慶に存じます。
雨後の新緑がひときわ濃くなりました。
あれからもう三年の月日が経ちましたね。
藤千代様の暮らしぶりは私の耳にまで入ってきております。
幼かった藤千代様も元服を迎えられ一国の大名になるべく武芸に励んでおられることと存じます。
この手紙が貴方に届くか分かりませんが筆を取る決心を致しました。
畏れ多くもお祝いの言葉を述べさせて下さい。
そして懐かしい思い出話を聞いて下さい」

(――あれからもう三年も経ってしまったのか)
私は筆を滑らせながらふと思う。
楽しかった日、満ち足りた日々ほど早く過ぎゆくものである。
狭い長屋の隅で行灯に火を灯し、こうして手紙を書くと、あの日々も夢だったのではないかと思ってしまう。
ここは天下の江戸から北東にある小さな農村だった。
そこで寺子屋の先生として昼は子供達に、夕方は村民に学問を教えている。
そんな生活をもう十年近く続けていた。
ふと筆を置き机に肘を付くと顎を乗せる。
(あの日もこんな風に雨が降っていた)
外は結構な雨が降っていた。
桜の季節を過ぎ、梅雨入りしていたのかここ数日お天道様を拝めていない。
しとしと降り続く雨はうるさく初夏の暑さを予感させた。
雨上がりの泥道で、草鞋を滑らせた子供が、水たまりに浸かったまま困ったように笑う。
毎年同じような景色を眺めてきたる夏を待ったものだ。

コン、ココン、コンコンコン。

――それは三年前の出来事である。
大雨の降り続く夜だった。
珍しく長屋の戸が叩かれた。
乱暴に何度も叩く様子に、不審と苛立ちを募らせて重い腰を上げる。

「どちらさまで」

深いため息を吐きながら引き戸を開けた。
滴る雨の中に傘を差した二人組が立っている。
一人は大柄な男で刀を差していた。
結い上げられた髷に鋭い眉毛。
キリッと睨みつける姿は何を言わずとも侍である事を示している。
もう一人は小さな子供であった。
だが負けず劣らず表情は厳しくこちらを睨んでいる。
柄は地味であったが、いかにも高そうな着物を着ているところを見るに、農村の子ではないだろうと思った。

「あの、どちらさまで?」

雨の降る夜に突然の訪問者。
しかも身に覚えがなく睨まれている。
何かしたかと思ったが見当もつかず、首を傾げるだけであった。

「お前に惚れた。私の家老になれ」

私を睨み続ける子供が、頬を膨らませながらそう言った。

「は?」

(突然なにを?)
表情と言葉が噛み合っていない。
一瞬何を言われたのか分からず、口を開けたまま静止してしまった。
(何かの嫌がらせか)
名乗るどころかいきなりお前呼ばわりをされていい気はしない。
本来の立場から言えば頭を下げて平伏すところだが、私はその場に立ち尽くした。
見るからに男は侍であり、高い身分を持っていようが関係ない。
普段は子供に礼儀や挨拶を教えているのだ。
その意地に苛立ちが拍車されていたのかもしれない。

「おのれ無礼者めが藤千代様の前で何たる態度」

後ろに控えていた男が、脇差しに手を掛けた。
凄い形相で睨みつけられるが私も睨みつける。
多くの馬鹿侍を見てきたがこの男も例外ないと思ったのだ。

「で、どちらさまで?」

引き戸に手を掛け、もう一度問う。
後ろの侍を無視して子供を見つめた。
ただでさえ鬱陶しい雨が続き気分が悪い。

「な、なんじゃお前は。徳田、こやつは嬉がらんのか」

子供は睨むと同時に驚いて一歩下がった。
後ろの侍に問いかける。

「藤千代様。この様な汚い長屋住まいな輩は無礼なのです。やはりお止めに――」
「嫌じゃ。私は意地でもこやつを連れて行く」
「しかし殿がなんと言うか……」
「お前は私に楯突くというのか」
「い、いえ……決してそういうわけでは。しかしあのような無作法な輩など…」

困惑する私を置いて、決定事項のような話し合いが行われていた。
侍こそ失礼な事ばかり口にするというのに、うつけ者を見るような嫌悪の眼差しである。
だが子供は口をへの字に曲げて嫌だと首を振った。
そのやり取りを延々と繰り返す。
目の前で見せられて私の怒りは徐々に増した。
何の嫌がらせか知らないが非常に気分を害する。

「いい加減にして下さい」

引き戸を思いっきり叩いた。
その音に言い合っていた二人はピタリと止まる。
同時に振り向いた。

「どこのお侍さんか存じ上げませんが名乗らない方が無礼ではないのでしょうか」
「なにをっ」
「大体こんな夜遅くに訪ねてくる事自体非常識でしょう。用がないのならお引取りを。用があるのならまずは名乗って下さい」

間髪居れずに言い放つと、子供は瞬きするだけで言い返してこなかった。
後ろで侍は怒りに顔を赤くする。

「な、な、なんという無礼な――」

今度こそ刀に手をかけた男は、躊躇い無く鞘から抜いた。
暗い闇の中に研がれた刃が姿を現す。
それは雨に濡れて僅かな光を放った。
昔から切り捨て御免という言葉があるように、侍は好き勝手に人を斬っていい権利を持っている。
怒りに震えた侍は雨の中を鬼のような形相で刀を取った。
斬られると思ったがこちらも後に引けない。
睨みつけたまま対峙する。

「嫌じゃ嫌じゃっ!お前が欲しい、持って帰るんじゃっ」

すると緊迫感を余所に挟まれた子供は喚いた。
まるで道端で拾った犬みたいに言う。

「私は藤千代じゃ。後ろの男は徳田。これで良いのじゃろ?」
「なっ藤千代様っ」
「これでお前は私の物じゃ」

子供は私の着物を掴んで引っ張った。
先程までの顔を一変させて、満面の笑みを浮かべる。
後ろでは刀を持ったまま仕舞うにしまえず、徳田と名乗る男が困ったように見ていた。
あまりに情けない顔に呆れてため息を吐く。

「勝手に何を……」
「ふむ。お前が名乗れと申したのだ。約束じゃ。これでお前は私の――」
「だから話がっ」

(あ、頭が痛い)
会話が成立しない中で続けるのは苦痛だ。
しかも子供は悪気無く私を見つめている。
着物を掴む手は強くて、中々離そうとしなかった。
何から言っていいか分からず困り果てる。
チラッと見れば侍が背を向けて、いそいそと刀をしまっていた。
その姿が余計に情けなくてもう一度ため息を吐く。

「と、徳田さん」

子供に何を言っても無駄だと思い、刀をしまい途中の男に声を掛けた。
すると体を震わせて振り返る。
引き攣った笑い顔と目が合った。
情けない格好の時に話しかけられたくなかったのだろう。
行き場を無くした苛立ちや、辱められた怒りも含まれているのかもしれない。
実に形容しがたい表情で私を見ていた。
(侍って大変なんだな)
あまりの哀れっぷりに睨みあいを忘れて同情してしまう。

「いったいこれはどういうことでしょうか?」

“これ”とはもちろん藤千代と名乗る子供のことである。
気付けばぎゅっと抱きついて「私の物じゃ~」と暢気に笑っている。

「あ、ああ藤千代様。そんなものに触ったらせっかくの着物が汚れますゆえっ」

しかし侍は私を無視すると、急いで近寄って来た。
慌てて子供を引き離そうとするが、引っ付いて離れない。
(やはり同情するのが間違いだった)
失言に内心同情したことを後悔する。
確かに綺麗な着物とは言えないが、本人を前にして言うのはあまりに無礼だった。

「ならお前の着物をよこせ。そうすれば汚れないじゃろ」
「そ、そんな……」

だがやはり哀れである。
肩を落とす男は最初に見た時より小さく見えた。
恰幅の良い侍が肩を窄めてしょんぼりしている。
どこまでも無垢な子供の発言には、同情を隠せなかった。

「はぁ……狭いですけど、よければどうぞ」

私は二人を招き入れてしまった。
どしゃ降りの中話すのも疲れる。
訳ありなのだろうという事は言わなくても分かったが、無視も出来なかった。

「私は与一と申します。さあ、どうぞ」

人が良いというより苦労性なのは昔からのことだ。
小さな農村で早々騒ぎが起こるはずがない。
そんな無責任な確信を抱いていた。

――しかし今思うと出会いというのは不思議なものです。
あの時何かひとつでも偶然が重なっていなければ、今の私達は存在していなかったでしょう。
うんざりしながら藤千代様を見ていた日が昨日のように思えます。
貴方様は今、どんな風にあの時のことを思い出しているのでしょうか。
なんて、くだらない問いかけの前に筆を進めたいと思います。

私は徳田さんから藤千代様の事を聞きました。
彼はとある大名の跡継ぎだと言っていました。
そして外遊見物の為にこの村にやってきたのだと。
所謂可愛い子には旅をさせましょうというやつで、城から旅に出されたというのだ。
このまま陸奥まで旅する予定が偶然寺子屋にいる私を気に入って足止めしたという。
「何が気に入ったのでしょうか?」と、問うたが藤千代様は教えてくれなかった。
徳田さん曰く、父や兄のように気に入ったに過ぎないという事だった。
(甘えたいのだろう。もしくは両親の愛に飢えているのか)
最初の印象はそんなものだった。
しかし私はここで学問を教える仕事がある。
藤千代様と一緒に行くわけにはいかなかった。
また幼くて知らないだろうが、家老は代々世襲制で、例え藤千代様が命令したところで通用するものでもない。
だからどちらにしろ望みは叶わなかった。

「嫌じゃ嫌じゃあ」

普段から甘やかされて許されてきたせいか、彼は我儘で辛抱を知らない子供であった。
思い通りにならないとだだを捏ねて徳田さんを困らせる。
どうしても無理だと気付くと、今度は村に留まると言い出した。
私が頷くまで寺子屋で一緒に学ぶと言って聞かなくなった。
これには徳田さんも泣く泣く頷かざるを得なかった。
さすれば城に帰って父上に直談判すると言うのだ。
もし途中で帰る事になれば責任は全て徳田さんにいくだろう。
そうなれば厳しいお咎めが待っている。
だから藤千代様と約束して一ヶ月の間だけこの村に留まる事になった。
哀れな侍である。

「それなら約束して下さい」
「なんじゃ?」
「寺子屋で学ぶというのなら例え藤千代様が偉い御方でも贔屓はしません。他の子と同じように接します。それでもよろしいでしょうか?」

わざと厳しい注文をした。
村が騒ぎにならないように身分を隠すこと。
寺子屋近くの古屋で寝泊りすること。
他にも刀の話や着物の話をした。
夜が更け、藤千代様を布団で寝かせると、徳田さんと今後について話をした。
最終的に二人は江戸からやってきた呉服屋の息子という話で纏まった。
まったく、前途多難である。
不安は大きかったがどうせあと一ヶ月もすれば、村を出て行く。
むしろ学問を教える身として、藤千代様の横暴な態度をどうにかさせたかった。
彼は父の跡を継ぎ、多くの民を守る立場になる。
このまま大きくなってはあまりに不憫だ。
それは彼自身も彼に仕える全ての者達も同じ事である。
(やれやれ、これから大変そうだ)
そんな事を思いながらふと外の方を見ると、いつの間にか雨は上がり白み始めていた。

その後は結構うまくいった。
二人は無事に呉服屋の息子として村に入り、古屋で生活する事になった。
元々空き家という事で汚かったせいか嫌がったが「それならこの村から立ち去りなさい」というと大人しく掃除をして住み始めた。
藤千代様はもちろん徳田さんも代々武士の家系で良い所に住んでいるのだろう。
彼らは自宅の便所より酷いと文句ばかりもらしていた。
また着物は私や村の人達に借りる事でどうにかなった。
さすがに高価な着物ばかりを着ていたら怪しまれる。
村人には私の知り合いだと話していたことも相まって馴染むのは早かった。
だが藤千代様はどうも上手くいっていなかった。

「さぁ、今日は手紙を書く練習をしましょう」

畳み十畳ほどの小さな部屋で子供達に学問を教えている。
一口に学問と言うが、読み書きそろばんに時間の数え方や手紙の書き方など教えることは多岐にわたる。
それに寺子屋に篭るだけでなく、外に出て植物や生物の観察もする。
――そう、ちょうど藤千代様が見たのも、子供達を連れて村のあじさいを描く授業をしていた時のことであった。

「ちゃんと時候のご挨拶を忘れずに。今は水無月だから……」

子供達は机に噛り付いて一生懸命筆を滑らせている。
私は見て回りながら質問に答えていた。

「先生、候を使わなくていい?」
「どれ見せてごらんなさい」
「はい」

生徒の一人である一之助は素直に紙を渡してきた。
長屋側にある萱葺き屋根の家に住む子供である。
ちょうど年齢は藤千代様と同い年であった。
一之助から紙を受け取り読み進める。

「ふむ。一之助は雨を使いたいのですね」
「はい。父ちゃんが雨好きだから。でも候とか堅苦しいのは嫌だなって」
「なるほど。では紫陽花を使って見てはいかがでしょうか。雨に滴る美しい紫陽花の咲く季節になりました、とか」
「ああ、そっか」

一之助はなるほどと手を叩いた。
私は笑いかけると紙を返そうとする。

「どれどれっ貸せ!」

すると横から藤千代様が紙を引っ手繰った。
そのせいで紙は端が千切れてしまう。
しかし藤千代様はそんな事お構いなく、一之助の書いた紙を見た。

「何々、温い雨の降る季節になりました、だと?なんじゃこれは」
「なっ返せよ」
「温い雨とは聞いて呆れる。お前の雨は温いんか」

そういうと鼻で笑った。
一之助は我慢できなかったのか立ち上がると掴みかかる。

「大体この汚い字はなんじゃ。犬にでも手紙を出すつもりか」
「藤千代っなんだよお前。後からやってきたくせに」
「学問に後も先もない。だからお前の家族は駄目農民なんじゃ」
「なんだとっ」

一之助が掴みかかるが、藤千代様はあっさり交わすと彼を投げ飛ばした。
小さな頃から武芸に励んでいたせいか、喧嘩も強いらしい。
彼は余裕綽々の顔で手招きすると、馬鹿にするように笑った。
お蔭でただでさえ狭い寺子屋が騒がしくなる。
側に居た子供達は皆逃げるように私の後ろにやってくる。
入り口で様子を見ていた徳田さんは、脇差しに手を掛けた。
(刀を抜く気か?まったく――)
着物にしがみ付く小さな子供を優しく撫でると深くため息を吐く。
藤千代様はいつもこうして横柄な態度を取っていた。
お蔭で皆と仲良くなれず、ひとり孤立している。
普段なら喧嘩両成敗の名の下に怒ってお終いだったが、我慢の限界だった。
彼は幼い頃からみっちり教育を受けて、寺子屋の勉強など馬鹿馬鹿しいと思う。
だが根本的な部分で教育が行き届いていないのか、謝る事を知らなかった。
「謝りなさい」と怒るが決して頭を下げない。
また私がそういって怒ると徳田さんは首を振った。
「武士たるもの、気安く頭を下げる事はあってはならない。ましてや一国の主になろう者なら尚更」
それだけは頑なに言って聞かなかった。
幸か不幸かそういった身分の常識を知らず何も言えない。
だからある程度我慢してきたが、さすがに何日も続くと限界を迎えるものである。

「やめなさい。一之助、藤千代」

掴み合っている二人に割って入った。
彼を呼び捨てにするのは、寺子屋に入った時に決めた約束事のひとつである。

「二人とも謝りなさい」

私は両者の手を無理やり引き離すと屈んで視線を合わせた。
お互い納得がいかないのか、睨み合ったまま話には耳を貸さない。

「一之助」
「だって!」
「一之助」
「……っぅ……」

それでも見つめると一之助は泣きそうな顔で私を見た。
掴んでいた手をぐっと握る。

「……ごめん、なさい」

すると彼は消えそうな声で呟いた。
悔しさと泣きたい気持ちを堪える。
それでも素直な一之助は、反論せず謝って頭を下げた。

「藤千代」
「うっ」

今度は藤千代様に向き直す。
だが今日も謝らない気満々で、口を尖らせたまま横を向いていた。

「藤千代、ちゃんとこちらを見なさい」
「…………」
「藤千代」
「む」

こちらもぐっと手を握れば渋々私の方を向く。
その顔は不満たっぷりで、堅い口は一切開く気配がしなかった。
どうせこの後徳田さんが割って入ってくるだろう。
そしてまたもや謝る機会を逃す事になる。
だがどうしても納得できなかった。

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