2

「謝りなさい、藤千代」
「…………」
「貴方は謝るべき事を言ったのです」
「…………」
「だからちゃんと目を見て謝りなさい」

藤千代様は何も言わなかった。
睨みつけるだけで悪いとすら思っていないようだった。
寺子屋の中が静けさで一杯になる。
子供達は黙って様子を窺っていた。
幼くとも場を弁えじっとしている。

「私は何も悪くないんじゃっ」
「藤千代」
「なんで先生はいつも私を怒るんじゃ。いつもそんな顔で私を見るんじゃ!」
「聞きなさい、藤千代」
「知らん。こんな農民に謝る義理などない。頭なんぞ下げるかっ」

彼は喚き散らした。
掴んでいた腕を振り解かれて、私は立ち上がる。
藤千代様は怒りに任せて側の机をひっくり返した。
お蔭で畳みに紙と墨が零れる。

「私を誰だと思っているんじゃっ。本来ならお前らが口を聞ける――」
「なら出て行きなさい」
「!」

パンッ――。
静かな室内に渇いた音が響いた。
私が藤千代様の頬を叩いた音であった。

「…………」

彼は一瞬何が起こったのか分からず、目を見開いて止まる。

「き、きっ貴様あああっ」

ただひとり瞬時に反応したのは、入り口に立っていた徳田さんだけであった。
凄まじい怒鳴り声と共にドタドタ音を立てて部屋に入ってくる。

「二人とも今すぐ出て行きなさい」

私は怒鳴り込まれても躊躇わず藤千代様を見つめた。

「私の生徒には悪い事をしたら謝るように教えています。それが守れないのなら出て行ってください。勉強の邪魔です」
「…………」
「徳田さんも子供の喧嘩に刃物を取り出そうとするのは如何かと存じます。そんなに彼が大切なら、家の柱にでも括り付けていればいいでしょう」
「なっなにをっ」

反論しようとしていた徳田さんの勢いは消えていた。
室内のピリピリした空気に押されて逃げ腰になっている。
だが侍とは怒りには忠実なのか、刀に手を掛けることは忘れなかった。
そこまでくると職業病のようなものである。

「さあ、出て行きなさい」

二人を睨みつけながら促すように引き戸を開けた。
藤千代様は未だに叩かれて放心状態なのか、何とも言えぬ顔で見ている。

「――行きなさい」
「……っぅ……」

目が合っても許す事無く彼を見つめると、少しだけ泣きそうな顔をした。
今まで釣り上がっていた眉毛が悲しそうに垂れ下がり、下顎が僅かに震えている。
そんな顔を見せたのは初めてだった。

「はい……」

彼は素直に頷いた。
覚束無い足取りで部屋から出て行く。
その様子に徳田さんは慌ててあとを追った。
二人が居なくなった部屋は、続く静けさに押しつぶされそうになっている。
見下ろせば先程の騒ぎで散乱した紙が畳みに散らばっていた。
藤千代様がひっくり返したせいで畳が墨で汚れている。

「さあさあ」

私は場の空気を戻そうと手を叩いた。

「じゃあまずは掃除をしましょう。その後に手紙を書きます」

そういうと固まっていた子供達が蜘蛛の子のように散らばる。
皆は部屋の片付けを手伝ってくれた。

「……先生」

――しかしただひとり、一之助だけが申し訳なさそうに見ていた。
彼の側まで行くと屈んで頭を撫でる。

「貴方が悪く思う必要はありません」
「でも」
「それより良く謝れましたね」

一方的に言いがかりを付けられたのは一之助で、本来なら落ち度はない。
それでもちゃんと喧嘩を知り、謝る彼が誇らしかった。
だから子供に学問を教える仕事がやめられないのだと思う。
褒められた一之助はやっと顔を綻ばせ私に笑った。

その日は夕方から小雨が降っていた。
あの後、授業を再開して何事もなかった様に勉強を教えた。
長屋に帰れば翌日の準備をせねばならない。
机に向かって何を教えるか予定を立てていた。
ザザァーザザァーと続く雨は小降りながらも鬱陶しい。
この分だと明日も雨に違いないと憂鬱になっていた。
梅雨になると、纏わりつくような湿気でいっぱいになり、満足に洗濯も出来なくなる。
質素な暮らしだが、元々綺麗好きであり、毎年この季節が好きではなかった。
そんな時にやっかいな問題を抱えてしまったのだからなおさら頭が痛い。

「はぁ」

やはり藤千代様を受け入れなければ良かったと後悔する。
所詮世界が違う。
いうなれば価値観の問題であり、身分の差がある以上どうしようもないのだ。
(私はもしかしたら藤千代様を窮屈な箱の中に押し込めてしまっているのだろうか)
自分の教育理念に疑問を持ったことはなかったが、彼を見ているとよく分からなくなる。
藤千代様が来てから毎日怒っていた。

“「なんで先生はいつも私を怒るんじゃ。いつもそんな顔で私を見るんじゃ!」”

ふと今日言っていた事を思い出す。
そんなの答えは簡単で、藤千代様が毎日問題を起こして怒らせるような事をするから悪いのだ。
結果として怒らざるを得なくなる。
こちらだって好きで怒っているわけではない。
しかし、泣きそうな藤千代様を見て気持ちが揺らいでいた。
悪い事をしたから怒る、では根本的な問題は解決されないのではないだろうか。
もっと深く探って、なぜそんな事をするのか理解しなければ意味がないのではないだろうか、と。
私は二人をどうせあと一ヶ月で立ち去るよそ者として扱っていたのかもしれない。

カサッ――。
ふとそんな風に考え込んでいる時だった。
僅かな物音に気付いて我に返る。

「…………?」

この時間にもなると雨音以外の音は聞こえなくなる。
特に農民が多いこの村では朝が早いため夜は静かだった。
不審に思い、音を立てないように立ち上がると、ゆっくり玄関へ向かう。
静かに引き戸を開けた。

「…あっ……」
「藤…千代…?」

そこには雨に濡れた藤千代様が心細そうに立っていた。
出て行った時のように泣きそうな顔をしている。
まるで捨てられた子犬のようだった。
小雨の割に濡れているところを見ると、ずっと雨に当たっていたのかもしれない。
髪の毛は濡れてピタリと肌に貼り付いていた。

「待ちなさい」

顔を見るなり逃げようとする藤千代様を咄嗟に掴む。
すると強引に振り解き、睨みつけられた。

「せ、先生は私が嫌いなんじゃっ」

握り締めた拳で私の腹を叩く。
だが力は弱く、決して攻撃するための拳には見えなかった。
それどころか指先まで冷たくて、体温が低くなっている事を悟る。

「だから一度も笑ってくれんのじゃっ。他の奴にはいっぱい笑うのに……わ、私にはっ…」

何度も叩く姿はどこから見ても幼い子。
将来民の上に立つ人間には思えぬほど弱々しいものだった。
(ああ、そうか)
私はようやく気付く。
きっと藤千代様は構って欲しかったのだ。
自分にも笑いかけて欲しかったのだ。
でもどうやって興味を引けばいいのか分からない。
城では存分に構われて甘やかされている分、どう示していいのか分からなかったのだ。
(私の注意を引く為に怒らせるようなことをしていたのだろうか)
それに気付くと無性に可愛く思える。
実に不器用で幼稚なやり方だ。

「なんです?もしかして藤千代は泣いているのですか?」
「ち、違う!私は泣いてなんかないっ」

だから少しだけ意地悪してしまった。
今にも泣きそうな藤千代様の頭を撫でる。

「父上が言ってたんじゃ。男はどんな時も決して泣いてはならないと。だから私は泣いておらん」
「そうですか」
「大体私はもう子供じゃないぞ。だからその頭を撫でるのはやめてくれ」
「おっと、失礼致しました」

慌てて手を離すと口を膨らませて恥ずかしそうにしていた。
(まんざらでもないくせに)
内心そんな事を思いながら手招きする。

「さ、それ以上雨に当たっていたら風邪を引きます。どうぞ中に入ってください」

促すと、藤千代様を部屋の中に入れた。
手ぬぐいを渡す。
もう梅雨だが夜の雨は体に障ると思ったのだ。
押入れから火鉢を取り出して当たらせる。

「私の着物なので藤千代には大きいかと思いますが、そのままよりは良いでしょう」
「あ……う……」

藤千代様は大人しく従った。
着物を脱がせると、恥ずかしそうに下を向いて押し黙ってしまう。
着替え終えるまでこちらを見ようとしなかった。
まだ幼い小さな体は、あまり日に当たっていないのか青白い。
泥だらけになって遊び喧嘩する村の子供に比べると、非力そうに見えた。
だが一之助を負かしたぐらい強い。
どこにそんな力があるのか不思議に思うが、事実である。

「…………」

体を拭いてやると、着物を着せた。
下を向いているが耳は真っ赤で、どんな顔をしているのか分かる。
珍しい姿に笑みがこぼれそうになったが、あえて厳しい顔のままであった。

「ではここに座って下さい」

着替えさせると自分の前を差した。
濡れた着物は火鉢の側に掛けておく。

「貴方にはちゃんとお話しなければならない事があります」
「……はい」

また怒られると思っているのか、藤千代様は泣きそうな顔になっていた。
それでも何も言わず正面に座る。

「藤千代はお父さんが好きですか?」
「はい」

彼は緊張した面持ちで見上げた。
組んだ手をモジモジさせながら、落ち着かない様子で目を泳がせている。
外は相変わらずの雨で、時折火鉢の音が響くだけであった。

「ならもし藤千代のお友達がお父さんの悪口を言っていたらどうしますか?」
「なっ――…た、叩き斬るに決まっている!」
「でしょう?自分の大切な人を悪く言われたら腹が立つものです。それがご両親なら尚更」
「……っ!…」

言いたい事に気付いて、悔しそうな顔をした。
それでも堪えて反論せずに耳を貸す。

「私は藤千代のお父さんがどこの大名か知りませんが、とても大きな国の偉い人なのでしょう?」
「そうじゃ」
「でもじゃあ彼だけの力で国を作っていけない事はご存知ですよね」
「な、なんでじゃ!私の父は――」
「そうじゃなくて」

分かりやすいよう言葉を選んでいるつもりだが難しかった。
二人っきりで話すのは初めてである。
そういった戸惑いも含まれているのかもしれない。

「藤千代が召し上がるのは、一之助のお父さんみたいな農家の人が作った野菜です」
「うっ」
「着る着物もどこかの職人が作ったものです」
「そ、それは……」
「言いたいのは、一国を作っているのが貴方の父だけでなく、多くの民でもある事を忘れて欲しくないのです」
「…………」
「民が殿を支えて、殿が民を守る。それこそが理想の国だとは思いませんか?」

藤千代様は途中から口を開かず話を聞いていた。
目を泳がす事無く、真剣に聞いていた。
瞳の強さにまた新しい彼を見つけた気がして嬉しくなる。
(こんな顔も出来るんじゃないか)
いつもの我儘し放題な時と違って、その姿は武士の家系である。
表情を崩す事無く相手の話を聞き入る姿に見直していた。

「だから悪い事をしたら相手がどんな身分であろうと謝るべきだと思います」
「…………」
「私は貴方がそんな大人に――というよりそんな殿になった姿が見たいと思います」
「………っ…」

藤千代様は一瞬瞠目した。
首を傾げると、ずずっと近寄って凄い剣幕で見つめる。

「あ、あの――藤千代?」
「先生は謝る子と謝らない子どっちが好きじゃ」
「え?いや……」
「私はずっと謝る事は相手を付け上がらせ弱みを握らせる事だと言われて来た。謝るのは弱いことじゃと」

藤千代様は結構な迫力で、私の方がタジタジになってしまった。
困ったように「謝る子が好きです」と呟く。
すると彼は腕を組んで眉間に皺を寄せると唸り始めた。

「藤千代?」

うーんうーんと、ひたすら唸っている。
よほど謝るのは悪いと教えられていたのか、中々素直に聞けないようだった。

「わ、私は謝ることが弱いことだと思いません。むしろ強いことかと」
「なんでじゃ?」
「頭を下げるというのは仰るとおり難しい事です。また自分の非を認めるという事には勇気が居ると思います」
「ふむ」
「それも全部ひっくるめて、素直に悪を認めるというのは余程強くなければ出来ない事だと思います」

思うがままに言ってみた。
もちろん彼の言うことにも一理あるし、武家社会とはそういうものなのかもしれない。
だがあくまで持論を貫いた。
それに対してどんな答えを出してくれるのか知りたかったのだ。

「そうか」

藤千代様は小さく頷いた。
私は首を傾げたまま顔を覗き見る。

「分かった。なら私は明日一之助に謝る」
「えっ」
「先生が好いてくれるなら私も腹を括るぞっ!」
「おっとっ――」

いきなり抱きついてきた。

「だから先生も私を好きになれっ」

嬉しそうに笑いしがみついてくる。
咄嗟のことで思わず抱きとめると、細い腰に手を回した。
藤千代様は構わず膝の上に乗っかってくる。
満足そうに頬ずりした。
驚きながら苦笑する。

「私は素直な子が好きです」

背中を優しく叩くと私を見上げた。
一気に顔が赤くなる。

「わ、私は素直じゃ。ふむ、私ほど素直な人間はこの世におらんだろう」
「ええ、そうでしょうね」

頷きながらそっと頬に手を這わした。

「せ、先生っ?」

その仕草に固まったまま動かなくなる。
だが構う事なく肌に触れた。

「じゃあ私も謝らなければなりませんね」
「え……?」
「ここ、痛かったでしょう」
「あっ」
「まだ少し腫れている」
「……え…あっ…ぅ……」

触れた頬は叩いた場所であった。
腫れて痛そうに膨らんでいる。

「せ、先生は謝ってはならん!」
「え?」
「先生が言ったんじゃ!悪い事をしたら謝れと。なら悪い事をしていない先生が謝るのは可笑しな話じゃ」

彼は捲くし立てるように言った。
未だに顔は赤く話し方がぎこちない。
照れているのか目を泳がせていた。
小さな声で「だから謝らんでくれ」と呟く。
そんな愛らしい姿を見せられて、思わず目尻が下がりそうになった。
(ちゃんと人を思いやれる子じゃないか)
我儘で横暴なだけではない。
彼は言う通り素直な人間なのだ。
だから構う事なく好きも嫌いも、良いも悪いも言えてしまうのだ。
よほど恵まれた環境で育ったのだろう。
始めは愛情を知らない子なのだと勘違いしていた。
しかし知れば知るほど愛され甘やかされてきたのが分かる。
それは良い事だと思う。
なにせこんなにも真っ直ぐ育つのだから。

「せっ先生は凄い人じゃ。やっぱり私の目に狂いはないんじゃ」

ずいぶん良く思われているのか、自信たっぷりに言い切った。
思わず笑ってしまう。

「まったく…」

純粋な眼差しにどんな言葉も出なくなった。
抱き寄せてクスクスと笑ってしまう。
すると笑っている事に気付いたのか目を見開いた。

「おおおっ、先生が笑っている」
「そりゃあ私だって人間です。怒りもすれば笑いも――」
「た、た、た、大変じゃーっ!」

藤千代様は遮って大きな声を上げた。

「ちょっ…藤千代。時間を考えなさい!長屋は城と違って隣に――」
「徳田っ徳田っ!徳田はどこじゃ、どこにいる!」

そう言うなりキョロキョロと辺りを見回した。
(そういえば徳田さんがいない)
改めて気付いた事実に自らも見回してしまう。
四六時中藤千代様の側に仕える彼が居ないのもおかしな話だった。
だからといって都合良く現れるわけがない。
(そんな馬鹿な話があるはずない)
――そう思った矢先だった。

次のページ