村のくまさん

どこまでも続くあぜ道。
背を高くした稲穂。
上空を飛ぶ鳶の鳴き声。
広がったのどかな風景は僕にとっては見慣れた景色だった。
町内会のほとんどが何代も前からの知り合いである。
近所の内輪話も全て筒抜けで、誰が都会に行くだとか、誰が誰と結婚するだとか三日以内には広まってしまう。
それが当たり前の世界だった。

だから彼がこの村に帰ってきた時もその話はすぐに広まった。
名前は熊本鉄朗。
村の外れにある熊本造花店の一人息子である。
彼は大学進学と同時にこの村を去った。
過疎化が進む村では大体の若者が東京の大学に行く。
そしてそのまま東京で就職をしてこの村に戻ってくる事は少なかった。
しかし彼は帰ってきた。
なぜなら彼の父親が急な病で倒れ店を継がなければならなかったからだ。

村の人達は都会の人というだけで苦手意識を持つ人も少なくなかった。
出戻りとはいえ、もう十年以上村に帰ってきていない人間だ。
苦手というよりは戸惑いと恐れといった方が誤解はないかもしれない。
山と田畑に囲まれた村はその性質上どうしても閉鎖的な空間であった。
だからか、新しく入ってくるものに対して良くも悪くも過剰なほどに反応を示してしまうのだ。
彼が帰ってきた時も、おばさん達がこぞって噂話をしていた。
それこそ僕ら子供達にすら知られてしまうほど噂の伝達は早かった。
だからこそ村を出て行った人や新しく都会からやってくる人達には住みにくいのかもしれない。
そしてそれが村の過疎化を早めているのだ。

***

「三太(さんた)。お前何匹捕れた?」

大きな虫かごを持った秀樹はそう言って僕を見下ろしてきた。
だから僕は自分の虫かごをチラッと見る。

「…二匹」
「ぷはっ。お前相変わらずセミ捕るの下手くそだな」

そういって彼は汗を拭いながらゲラゲラと笑った。
秀樹の虫かごは何匹ものセミが鳴いては暴れて凄い事になっている。

「じゃあ今日もオレの勝ちだな!」

そう言って二人同時に虫かごの戸を開けた。
するとその途端、ジジジジっと鳴きながら沢山のセミが大空に舞い上がった。
そしてセミたちはどこか遠くへと飛び去ってしまう。

僕と秀樹は夏の定番であるセミ捕りの勝負をしていたのだ。
勝てば翌日の給食の中から好きなものを貰える。
明日は丁度冷凍みかんの日だった。

「よっしゃー。これで明日のみかんはオレの物だ!」

秀樹は静かになった虫かごを肩に掛けなおすと嬉しそうに笑った。
僕は隣でやれやれと苦笑する。
今のところ十戦一勝の九敗。
僕はセミを捕るのが上手くなかった。
背中を掴んだ時にビクビクと震えるセミの動きにどうしても怯えてしまう。
その瞬間に逃げられてしまうのだ。

「秀樹~!三太~!」

すると田んぼのあぜ道の向こうから同級生の三人が手を振りながら僕らを呼んでいた。
手にボールを持っている事から近くの神社辺りでサッカーをやっていたに違いない。
少し日の落ちた帰り道。
帰路に着くときには大体他の友人に会う。
皆も帰る時間は一緒なのだ。

「毎日毎日あちーな」
「ほんと」

合流した僕達は他愛の無い話をしながら歩いていた。
日が落ちてきたとはいえ、暑さは変わらず額から汗が滲み出る。
夏だから仕方が無いとはいえ、こう毎日毎日暑いと大変だった。
家には扇風機しか無いし、学校のクーラーも効きが悪い。
だからといってこの暑さに慣れるわけも無く休みの日は皆で近くの川に行くのが主流だった。
子供とはいえそういう所はちゃんと考えているのである。

すると暫くして道の向こうから小さな軽トラックがやってきた。
それに誰が乗っているのかはすぐに分かった。
なぜなら車体に大きく「熊本造花店」と書いてあるからだ。

「あ、熊さん!」

すると軽トラックが通り過ぎる間際に秀樹が声を掛けた。
僕達は熊本さんを熊さんと呼んでいる。
背が高くガッチリとした体に厳つい顔の彼は熊そっくりなのだ。

「おう。どうした」

すると熊さんが道端に車を止めた。
そして少し開いていた窓を更に開けてくれる。

「なー、今度の野球の練習日には来てくれる?」
「練習日って今週の土曜日だろ?」
「そうそう」

するとそれを聞いた熊さんはニコッと笑って指を丸めるとオッケーと言った。
その答えに皆は嬉しそうに騒ぎ出す。

「皆を集めて試合やろうぜ」
「やった!絶対だぞ」
「おう」

彼は人懐っこい笑顔で僕らに笑いかけてくれた。
ニッと笑った口元からは白い歯が輝いて見える。
秀樹を始めとした村の子供達は熊さんが大好きだった。
熊さんが来た当初はみんな警戒をしていたのだが、この通り実際に話してみると気さくで良い人なのである。
そんな彼がひょんな事から子供達と野球やサッカーの相手をしてくれる事になった。
元々、僕らは熊さんのような人と接する機会がほとんど無い。
この村じゃ子供の相手をしてくれる人なんて滅多に居なかったのだ。
だからか、一番に懐いたのは子供達だった。
今じゃ毎週の様に学校の校庭で野球の練習に付き合ってくれる。

「じゃあな。早く帰れよー」
「ばいばーい」

一通り話をした秀樹達は手を振って熊さんに別れを告げた。
みんな早速、今度の土曜日の話をしている。
僕はその輪の中で僅かな居心地の悪さを感じながら相槌を打つ事しか出来なかった。

土曜日。
僕は校庭の朝礼台の上に座って秀樹達を見ていた。
彼らから何度か野球に誘われた事があったが、スポーツが苦手な僕はどうしても無理だと断ったのだ。
だからいつも見るだけに留めている。

今日は試合をするということで秀樹達はやる気満々だった。
と言ってもメンバーの年齢層は様々。
元々この村にある学校に通っている生徒は小中合わせて五十人に満たない。
高校は近くに無くて、となりの市まで行かなければならないのだ。
集まったメンバーは小学一年生から中学三年生まで計二十人。
ギリギリ試合が出来る人数だった。

「おはよう」

すると不意に声を掛けられた。
その言葉に我に返った僕は振り返る。
すると熊さんが僕に笑いかけていた。

「晴れて良かったね」
「…………」
「君も一緒にやるんだよね?」
「……っ…」

バットとグローブを持った熊さんはスウェット姿で見るからに強そうだった。
僕は何も答えることが出来ずに縮こまる。

「そういえば君の名前知らないんだけど?」
「………」
「?」

ちゃんと言葉にしなきゃいけないのにその一歩が掴めなかった。
僕は困った顔をしながら熊さんをじっと見つめる。

「熊さーん!」

すると遠くから秀樹の声が聞こえてきた。
彼はこちらに駆け寄って来る。

「やあ秀樹君、おはよ」
「はぁはぁっ…そいつ」
「え?」
「三太はしゃべるのが苦手で…」
「あ……」

きっと声を掛けられている僕に見かねて秀樹がやってきたのだ。
目の前でぜいぜい息を乱す彼は苦笑しながら僕の話をする。

「あとコイツは応援専門だから」
「あ、そうなんだ」

すると熊さんがチラッとこちらを見た。
だから僕は肯定する様に深く頷く。
それを見て秀樹はやれやれとため息をついた。
すると今度は皆が集まっているところからお声が掛かる。

「あ、熊さん。そろそろ始めよう」

それに気付いた秀樹はこちらに手を振りながらみんなの方へと行ってしまった。
つられて歩き出す熊さんは再度こちらに振り返る。

「じゃあまたね。話しかけて悪かった」
「…っ……」

そう言って彼はこの場を離れた。

「はぁ…」

だから僕は誰にも気付かれないようにため息を吐く。
足をブラブラさせながら集まっている方を見ていた。

こんな僕でも人と接する事が嫌いなわけじゃない。
むしろ熊さんがやってきた時も秀樹同様、興味津々だった。
秀樹はあの通りサバサバしているし、人懐っこい。
見る見るうちに熊さんと仲良くなった。
一方の僕と言えば、名前すら名乗っていない。
昔から話すのが苦手だった。
人見知りも相まって慣れていない人の前だと無口になる。
秀樹とは物心つく前から一緒だったという事もあり、こんな僕に対しても寛容だった。
だからこうしてフォローをしてくれる事が多々ある。
そんな彼にでも上手く話せないのだから熊さんと言葉を交わせるわけが無かった。

その日の午後。
僕は一人川まで来ていた。
あの後の野球は大盛り上がりで終わった。
熊さんはやっぱり子供達に人気だったし秀樹達も楽しそうだった。
それを少し離れたところで見る疎外感。
というより楽しそうにしている彼らが羨ましかった。
あと少し僕に運動神経があって、あと少し、人に慣れていればあの輪の中に居られたのに。
ほんの僅かな自己嫌悪を募らせる。
そんな時は川辺で過ごすのが一番好きだ。
水の流れる音はどこか心地良く耳に響いて癒してくれる。
夏の暑さも相まって川の水に足を浸けると気持ちよかった。
大きな岩の上に座って一日中ボーっとしているのである。
いつもなら誰かしら居るのだが今日に限っては誰も居なかった。
それに対して安堵と共に感じる寂しさが胸を貫いた。

「――ありゃ、先客?」
「え?」

すると見上げた先には赤い橋があった。
そこからこちらを見下ろす姿が逆光となって見えた。
お蔭で誰かわからない。

「よっ」
「!!」

するとそこから現れたのは熊さんだった。
彼は軽く手を振ると器用に手足を使って岩伝いに川岸へ降りて来る。
そしてガハハと笑った。

「こんだけ暑けりゃ水辺に居たくなるよなー」
「…………」
「俺も子供の頃は毎日水遊びに来てたっけ」
「………」
「いや~この村は昔も今も変わんないんだな~」

傍に来た熊さんはペラペラと話し続ける。
僕が何も言わないから大きな独り言みたいに聞こえた。
それが居た堪れなくて居心地が悪くなる。

「…って、悪い。また邪魔したか」

だからと言って彼の存在が嫌なんじゃない。
何度も言うように僕だって熊さんとお話がしたいし、仲良くなりたい。
それでもどうしていいか分からないから苦しくなるのだ。

「あはは。悪かったな」

すると熊さんは眉毛を下げて後頭部を掻いた。
そして詫びるように一礼してこの場を去ろうとする。

「あっ―……」

だから思わず彼のスウェットを掴もうとした。
それが自分に出来るせめてもの意思表示だと思ったのだ。

「――っぅ!?」
「あっおい!!」

すると運動神経と共に反射神経の鈍い僕は生地を掴み損なってしまった。
だから状態を崩したまま川の中に落ちてしまう。
それに気付いた熊さんは振り返って目を見開いた。

「ぷっ」

すると熊さんは僕の状態を見て吹き出した。
浅瀬に落ちた僕は下半身が水に浸かりびちょびちょに濡れていた。
その光景が間抜けだと知って一気に羞恥心が蘇る。

「あ…ぅ……」

まだ名乗ってすらいない人に笑われている。
それが恥ずかしくて死にたくなった。
だが一方の熊さんは楽しそうに笑いながら僕に手を差し伸べようとしている。

「三太君、だよな?」
「!」
「ほら、手に掴まれよ」

咄嗟に名前を呼ばれて身構えてしまった。
だが笑顔の熊さんは風貌に似合わず優しい印象を受ける。
だから素直に彼の手に掴まった。
そのままぐいっと手を引かれて川から上がる。

「大丈夫か?」

すると熊さんは伺うように僕の顔を覗き見た。
だから僕はオーバーなくらい激しく頷く。

「良かった」

ホッとしたのか彼は胸を撫で下ろすように一息ついた。
そして繋いでいた手を離す。

「…さっき、秀樹君にそう呼ばれていたからさ」
「あ……」
「初めまして、三太君」

それは朗らかな雰囲気そのままの笑顔だった。
これじゃ子供達が懐くのも無理はない。
僕は言いたい事だらけの言葉達を伝えられずに歯痒さでいっぱいになった。
何とか口を開こうとしても声は出ない。

「ああ、無理しなくていいよ」

すると熊さんはそういって僕の頭を撫でた。
そして傍にあった岩に腰掛ける。
彼は促すように指で隣を示した。
だから僕は遠慮がちに隣に座る。

「んー、きもちいー」

すると熊さんはググッと手を伸ばした。
首を傾げてその様を見ていると、彼は穏やかな顔で笑う。
少しの間、そこに静寂が生まれた。
無理をしなくていいと言った彼は僕に何も聞こうとはせず黙って川の流れを見ている。
僕は濡れて温くなったズボンを持て余しながらチラチラと彼を伺った。

「…………」

退屈じゃないかな?
そんな不安が胸を掠める。
今日見た野球の様子だと騒ぐのが好きな人に見えた。
実際にゲラゲラと笑っている熊さんの方が馴染み深かった。
(秀樹ならこんな時にでも色々と話が弾むんだろうな)
なんて考えて落ち込む。
話題はおろか受け答えすら出来ない自分と居て何が楽しいのか理解できなかった。
そのくせ心の底では僕も、もっと熊さんを知りたいと思っている。
ちぐはぐな感情の波は自分でも理解不能で持て余していた。

「あ、俺ホントに邪魔じゃない?」

暫く経って熊さんはもう一度僕に問いかけてきた。
僕は何度も頷く。
必死に見えたのか彼はくしゃっと顔を綻ばせた。

「……っぅ」

それを見て胸の奥の何かが自身を奮い立たせようとする。
僕は喉元で詰まった言葉を整理するように深く息を吸い込んだ。
気付かない熊さんは未だニコニコしながら川を見ている。

「――あ、そういえば俺の名前」
「……知…ってる…」
「え?」

なんとか僅かばかりの声が出た。
それに対して熊さんは目を見開く。
彼は驚きに満ちた顔で僕を見ていた。

「…あ…りがと…熊さん…」
「えっ?」
「…さ…っき」

さっき川で手を差し伸べてくれたこと。
それから名前を覚えていてくれたこと。
さすがにそこまでハッキリ言えなくて、そのまま押し黙ってしまった。
だが熊さんはいち早く僕の心情を理解してくれたのか何度も頷いて頭を撫でてくれる。

「そーかそーか」

彼は一段と嬉しそうに微笑みかけた。
僕が熊さんの名前を知っていた事に喜んでいるのか。
お礼を言われた事に喜んでいるのか分からない。
だがその顔を見ているだけでちょっとでも会話が出来てよかったと思う自分が居た。
勇気を出して良かった。
頑張って良かった。
顔に出ていたのか熊さんは未だに僕の方を見て頷いてくれる。
それを最後に会話は途絶えたが二人とも満足だった。

その日の夕方、家に帰れば母さんが庭で洗濯物を取り込んでいた。
玄関から真っ直ぐに伸びた廊下を辿れば居間にぶつかる。
居間は暑さをしのぐ為に窓は簾になっていた。
縁側は全て解放されていて庭が見渡せるようになっている。
だからすぐに庭で洗濯物を取り込んでいる母親を発見したのだ。
彼女は傍に大きな籠を置くと次から次へと物干し竿に干していた洗濯物を入れていく。
傍にある大きな柿の木からはアブラゼミがとまっているのか煩かった。
おかげで彼女は僕が帰ってきたことにも気付かないで作業に追われている。

「ただいま」
「あら帰っていたの?」

振り返った母さんは籠いっぱいの洗濯物を抱えながらニコッと笑った。
そしてパタパタとこちらにやってくる。
だから僕はそれに合わせて縁側へと近づいた。

「ありがとう」
「ん」

母さんから受け取った籠は思ったより軽かった。
めいっぱいに太陽の光を浴びたそれは洗剤の匂いだけじゃなく暖かなお日様の匂いがした。
ふわふわなタオルやシャツに顔を綻ばせると籠ごと畳の上に置く。
自分も縁側に置いたつっかけを履くと庭に出た。

「ふふ、どうしたの?進んでお手伝いしてくれるなんて」

母さんは次にシーツを取り込んでいた。
その横に立った僕は彼女を手伝おうとする。
それを見て母さんはクスリと笑った。

「何?お小遣いでも欲しいの?」

いち早く息子の異変に気付いた彼女は一緒にシーツを取り込みながら伺う様に覗き込む。
だから僕は恥ずかしそうに首を横に振った。

「違うの?」
「ん、お小遣いじゃなくて……」

意外だったのか母さんは驚いた顔をしていた。
風に吹かれて前髪が靡く彼女と目が合う。
先程より僅かに落ちた日が黄色く染まりかけていた。
「あのね…」

遠慮がちに話し始める。

「…あのね、僕…お花が欲しい」
「え?どうしたの急に。誰かにあげるの?」
「違う」
「じゃあどうして?」

今までそんな事を一度も口に出した事のない息子を不思議そうに見つめる。
彼女は奉仕の一環で学校に生け花をしていた。
母さんは元々この村の出身ではない。
東京の大学で父さんと出会い、恋に落ちた。
しかし父さんはこの村の役場に就職したのだ。
数年は遠距離恋愛だった二人だがその後結婚する事になる。
かくして母さんはこの村にやってきた。
当時は馴染めなくて色々苦労したと言っていたが、そんな母さんの心を慰めたのも花たちなのかもしれない。
庭には沢山の花が植えられていた。
またそれがきっかけで学校へ生け花の奉仕をすることになる。
そしてそれがこの村に馴染む大きなきっかけとなったのだ。
未だにそれを続けている母さんの花は職員室の前に飾られている。

「今まで花に興味なんてなかったのに」

身近にあった筈の花に対して無関心だった僕を不思議そうに見つめる彼女は変な顔をしていた。
僕としては花というより熊さんに会うきっかけが欲しかっただけなのだがさすがにそこまで恥ずかしくて言えない。
ただ秀樹達のように僕も熊さんと仲良くなりたかったのだ。

「ふぅ、分かったわ」

すると無言の訴えが届いたのか母さんはため息を吐いて頷いた。
だから僕の顔はパァッと明るくなる。

「その代わり荷物持ちのお手伝いもしてね」
「はいっ」

元気いっぱいに返事をすると彼女は苦笑した。
だけど僕にはそんな事関係なくて急ぐように洗濯物を取り込んでいく。
早く行かなくちゃ店が閉まってしまうかもしれない。
そのあからさまな態度に母さんはもう一度ため息を吐いた。
そして同じように急いで洗濯物を取り込んでくれた。

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