3

――それから何日か過ぎた。
季節は夏本番を迎え学校も長期休みへ突入した。
毎日のように秀樹達と遊び、また熊さんと話す機会も多かった。

「そ…れでね、秀樹が……」
「うん」
「あのね…」
「うん」

決まって熊さんと話すのは川辺だった。
といっても彼だってお店があるから毎日現れるわけではない。
秀樹や他の子と居るときはほとんど話さなかったが、たまに二人っきりになると彼は黙って僕の話を聞いてくれた。
それはきっと熊さん的な配慮なのだと思う。
秀樹達が居ると騒がしいし、グダグダとしか話せない僕に気を使ってくれているのだ。

「蝉を八匹も捕まえたんだよ。あんな短時間で」
「うん」
「僕は…二匹しか捕まえられなかったけど…」
「そっか」

話すに値しないほどのくだらない日常の出来事をただ耳を傾けて頷いてくれる。
それは不思議な気分だった。
ずっと聞き手側だったせいか自分から話を進めるというのは新鮮な気分である。
また熊さんは話しやすいように気を遣ってくれている。
そんな些細な部分が嬉しかったから僕も話そうという気になっているのだ。

「でも三太君も凄いじゃないか。蝉を二匹も捕まえられるなんて」
「そ、そうかな」
「うんうん。凄いって。俺なんか今じゃきっと一匹も捕まえられないだろうなぁ」

彼は岩に座り川に足を浸けていた。
気持ち良さそうにバシャバシャと掻き揚げて僕に笑いかける。
水の雫が太陽の光に反射して虹色に見えた。
僕は隣で同じように川に足を浸けながら目に見える涼しさを堪能する。

「東京には蝉いる?」
「んー、いるぞ?だけどここよりは少ないかな」
「へぇ…」
「うちの周りにはビルしかなかったからな。夜中とか時折網戸に蝉がぶつかって目が覚めたり、家の前の蛍光灯に何度もぶつかっているのを見た事もあるな」
「え…それで死んじゃうの?」
「さぁて、どうだろうな。ただこの周辺のセミ達よりは住みにくいと思うよ」

時々熊さんに聞く東京での暮らしぶりはこの村と違って新鮮だった。
この村には夜間の街灯しかないのに対し、東京は沢山の店が開いていて明るいというのだ。
たくさんの人波とか複雑な電車の乗換えとか。
まるでどこか違う国のような話がポンポン出てくるから聞いていて面白い。
秀樹や村の子供達も興味津々で熊さんに色んな話を聞かせてもらっていた。
便利で何でもある東京は夢の国のようである。

「…でも、じゃあ熊さんは…どうしてここに戻ってきたの?」
「え?」

すると何の構えもなしにポロッと出た言葉に熊さんは変な顔をした。
困ったような苦虫を噛み潰したような顔をした彼に僕は慌てて首を振る。

「あっ…ご、ごめんなさ…あのっ、ぼく…その…ごめんなさい!」

聞いてはいけない事だったのかも知れない。
瞬時に自らの失言を理解して慌てて謝る。
初めて見る彼の悩ましげな表情に胸がチクリと痛んだ。
何度も書く様だが熊さんは風貌に似合わず優しい。
僕らと遊んでくれる時はいつもニコニコしているかゲラゲラと馬鹿笑いをしている。
そういった表の顔しか見ていなかったから尚更その顔とのギャップに動揺したのだ。

「あのね…あのっ…」

この状況をどうしていいのか分からず声だけは必死だった。

「…っ……!!」

すると慌てる僕の頬にそっと彼は手を差し伸べた。
恐る恐る見上げるが熊さんは苦笑している。

「……ごめん」

彼は一言そう呟いた。
一瞬何に対して謝っているのか分からなくて瞬きをしてしまう。
熊さんの手は僕の頬を簡単に包み込めてしまうほど大きい。

「怖がらせて、ごめん」
「あ……」

だが彼の言葉にはそれ以上の意味が含まれているような気がした。
それがどういう意味なのか分からないくせにそう感じる。
自虐めいた熊さんの表情がそれを予感させるのだ。

「っ」

僕はそれに対してどう返事をしていいのか分からず、首を振り続ける。
そっと触れた彼の腕は汗のせいかしっとりとしていて逞しかった。

「――あ、そうだ」
「え?」

すると突然熊さんの表情が一変した。
それについていけず戸惑ったまま彼を見上げる。
熊さんの顔はいつもと変わらない穏やかなものになっていた。
僕の頬からそっと手を引く。

「明日学校の校庭でいつもの様に野球の試合をやるんだよ」
「えっと…それ、秀樹から聞いてる」
「あ、そうだよな」

それもそうだと納得したように手を叩いて苦笑する。

「じゃあもちろん見に来るよな?」
「え、あ…うん」
「うっし」

熊さんは僕の返事にガッツポーズをした。
その後「なんで?」と何度も聞き返すが彼は最後まで教えてくれなかった。
どうやら来てのお楽しみらしい。
明日何があるのかと考えてみるが思い当たる節はない。
どうせいつもの様に楽しんでいる秀樹達を見ながら一人朝礼台の上に腰掛けて応援するだけなのだ。
夏は暑いから麦藁帽子を被り、冬はマフラーと手袋を着用する。

「なに?」
「ひみつ」
「む」
「そんな顔してもダーメ」
「むー」

教えてくれない熊さんは心なしか楽しそうだった。
それは僕の反応を見て面白がっているのか、明日の何かを思って笑っているのか。
今の僕にはどちらの様にも思えてこそばゆかった。

――翌日。
今日も快晴で空には大きな入道雲が浮かんでいた。
まさにうってつけの試合日和。
僕は母さんから渡された麦藁帽子を被り、肩から冷たい麦茶の入った水筒を掛ける。
校庭に着けば先に来ていた秀樹が僕を見つけて走ってきた。
彼は今日も試合が出来る事が嬉しいのかテンションが高い。

「おっ、来た来た!」
「おはよ」
「準備万端だな」
「ん、暑いからね」

そうして二人はくだらない事を話しながら定位置の朝礼台の元へと向かう。
他の子たちは集まって準備体操をしていた。
何度か試合をしていると噂は村中に広まった。
元々娯楽の少ない村である。
休みの昼間という事もあって近所の人達が暇つぶしに見に来ている。

僕は辺りを見回した。
だが探す間もなく大きな体を見つける。
熊さんは今日も子供達に囲まれて楽しそうに騒いでいた。
昨日の様子など微塵にも感じさせない態度でみんなに接している。
それを見ると僅かな不安がじんわりと胸元に広がった。
といっても半分はその状況に対しての羨ましさも詰まっているのかもしれない。
不安+羨ましさ。
それは疎外感と嫉妬の影を忍ばせる。
いつもはそこまで強く思わないであろう気持ちに胸がぎゅっと苦しくなってシャツを握り締めてしまう。

「……三太?」

あと少しの勇気と運動神経が欲しい。
幼さゆえの小さな願いだが今の僕には何より切実な願いだった。
そうすればあの輪の中で僕も同じように笑っていられたのに。
だが顔には出したくなかった。
秀樹はきっと何の躊躇いもなく「ヘタでもいいじゃん。一緒にやろうぜ」と言って笑ってくれるからだ。
きっと運動神経が良い人には僕の気持ちなど理解できないと思う。
その一歩を踏み出す勇気がどれほど必要なのかを。

「おーーい」

すると遠くの方で一際大きな声が聞こえた。
僕と秀樹はその声に反応して顔を上げる。
見れば熊さんが手を振ってこちらにやってこようとしていた。

「はぁはぁ…おはよ」
「あ…」

彼は僕の目の前までやってくると肩で息をしながら深呼吸をした。
傍で秀樹が「たったそれだけで息が切れてるなんて年寄りだー」とちゃちゃを入れている。
それに対して熊さんは「うるせー」と口を尖らせていた。
砕けた物の言い方に秀樹はケラケラと笑っている。
だけど僕はそこに上手く入ることも出来ずに傍観していた。

「……と、じゃなかった」

すると途中で彼は思い直したように息を吐いた。
そして僕に笑いかけてくる。

「…………?」

一際嬉しそうな彼の様子に首を傾げるといきなり腕を掴まれた。
触れた手にぎょっとすると秀樹も同じように驚いている。

「え…あ…」
「じゃあ今日の三太君は俺のチームな」
「はっ!?」
「ちょっ…熊さん何言って!?三太は…っ」
「いいから、いいから」
「わわっ」

すると事態を理解していない秀樹を宥めるように彼は笑顔でかわした。
だが僕だって今の状況を把握出来ていない。
突然やってきた彼は僕の返事も聞かずに強引に連れて行こうとしたのだ。
熊さんのチームは力の配分を考えて小さな子達が多い。
秀樹は相手チームである。
彼はずるずると引き摺られるようにして、連れて行かれる僕に口をポカーンと開けたまま見つめていた。
何せ秀樹は僕と熊さんの仲が良い事を知らないのだ。
いや、知っていてもこんな事になるとは予想だにしていなかったに違いない。
チラッと振り返った彼は、校庭の真ん中で立ち尽くしたまま、間抜けな顔で僕らを見ていた。

「あ、熊さ…」
「ん?」
「ぼ、ぼ、ぼく…僕ね……」

するとチームの陣地傍まで来たところで彼は振り返った。
だが顔見ると熊さんが上機嫌であることが一目瞭然である。

「運動は無理で…」
「うん。知ってる」
「なっ…なら…そのっ」
「大丈夫だって」

まるで何か問題でもあるのかと言いたげなほど、ケロッとした顔の熊さんは平然としていた。
一方の僕は自分なんかがチームに入る事に畏れて泣きそうになっている。
どうせ足を引っ張るのが目に見えているのだ。
そんな惨めな姿を晒して楽しくもなんとも無い。

「大丈夫だから」

二度目の大丈夫という言葉には力強さが感じた。
まるで僕の不安を理解するような言い方に困ったまま顔を上げる。
彼はチームの子達を呼んだ。

「集合!」

熊さんの一声に皆が周りに集まる。
だが皆は彼の傍に立っている僕を不思議そうに見つめた。
何せ今までどんなに誘っても頑なに拒絶した人間がそこにいるからだ。

「三太?」

同級生の一人が目をパチパチしている。
その声には僕に対する心配も含まれていた。

「じゃあ紹介しよう」

すると熊さんは仕切り直すように僕の肩を叩いた。

「今日から俺達のチームの監督になった三太君だ」
「えっ!?」
「これからよろしく」
「え…あ……」

彼は僕の背中をポンッと叩くと前に出るように促した。
どうしていいか分からずペコリと一礼する。
監督なんて聞いてないし、やった事もない。
むしろこんな少年野球に必要だとは思わない。
だが自分の性格としてはこの空気の中で抗う事が出来なかった。
だから戸惑いながら何度もお辞儀する。

「なんだよ~三太っ」
「ぅわっ」

すると仲間の一人が僕の首に手を掛けた。

「よっしゃあ。三太がいれば百人力だぜっ」
「えぇっ…あ…」
「つーかお前、いっつも一人で見てるんだもん。こっちくればいいのに~」
「そうだよー」

どうやら僕はみんなに受け入れられたみたいだ。
それこそ予想外の展開。
彼らは気を遣って僕には無理強いしなかったが、本当はずっと一人朝礼台に座って見ている僕を気にしてくれていたのだ。
例えチームのメンバーに加わらなくても一緒にこっちで見ていれば良かったのに。
――そう言われた時には頭が下がる思いがした。
結局僕の方が変なこだわりや劣等感で皆を遠ざけていたのだ。
一言、そこで見ていてもいい?といえば良かっただけなのに。

「ずりー!ずりー!次はオレのチームの監督だかんなっ」

すると聞きつけて駆け寄ってきた秀樹は羨ましそうに口を尖らせていた。
いつも体育では足手まといだし、秀樹の後を金魚のフンみたいに追いかけていた自分。
その程度の価値しかない事は僕自身が一番分かっていたから自らが歩み寄る事を知らなかったのかもしれない。
だからこんな風に必要とされているなんて信じられなかった。
そう言ってくれるなんて思っても見なかった。

「熊さ…」

振り返れば熊さんは満足げに頷いている。

「うっし。じゃあそろそろ試合を始めるか!」

そして彼は皆を纏めるように言い放った。

その後の試合はいつも以上に楽しかった事を覚えている。
やはり一人でポツンと遠くから見ているより、同じ場所で同じようにボールの行く末を見ていた方が楽しいのだと思った。
わずかな視点の違いが大きく臨場感を左右する。
何もしないのはいつもと変わらないのに。

「よーし、今日は三太君の為にホームランを打ってやるよ」

当然の如く四番打者の熊さんは、そういって笑いかけてくれた。
実際に有言実行した彼は、秀樹が投げたボールを気持ちの良いほど円を描き校庭の柵を越えていく。
彼はガッツポーズをしながら優雅にベースを回っていた。
こちらに手を振る熊さんに、照れながら小さく手を振り返す。

「いいなぁ」

見ていた同じチームの皆が羨ましそうに呟いた。
誰かから羨ましがられた経験など無い。
それはほんの少しこそばゆくてくすぐったい変なきもち。
ホームベースに着いた熊さんは、戻ってくるなり子供達に囲まれていた。
みんな次は自分の為にホームランを打ってくれとせがんでいるのだ。
何せあんな大きなホームランなど見たことがない。
中学生の力でもせいぜいヒットが限界だろう。
それを自分の為に打ってくれる事は、村の子供にとって誇らしいに違いなかった。
子供達に囲まれた中で一瞬熊さんと目が合う。
その外から眺めていた僕は驚いてパチパチと瞬きをするだけだった。
だが彼は右手でピースをすると歯を出して笑ってくれた。
二人は同じチームでありながらほとんど会話をしなかったが、それだけで十分満足だった。

「――よっ」

すると不意に後ろから声をかけられて僕は我に返った。
つい先ほどまでの回想に耽っていたせいで、彼の気配をまったく感じていなかった。
振り返ればポロシャツに着替えた熊さんが立っている。

「午後からまたみんなで遊ぶのか?」
「ん」
「さっきあれだけ野球で騒いだのに元気なことで」

川岸に立っていた僕に熊さんは苦笑しながら降りてくる。
いつもの様に秀樹達はまだやってきていない。
朝から野球の試合をしていた秀樹達は昼ごはんの為に一旦家に帰った。
午後からは川で泳ぐ約束をしていたのだ。

僕の隣にやってきた彼はサンダルを脱いで川の水に浸かる。
そしてぐぐっと腕を伸ばした。

「…………」

その姿はいつもの熊さんである。
子供達に囲まれている時の熊さんは、テレビの中の芸能人より近寄りがたく、野球をしているときの彼は誰よりも格好良いヒーローに見えた。
与えられる情報が少ないゆえに、きっとそんな錯覚を起こすのだろう。
東京から戻ってきたという印象も、それに拍車をかけているのかもしれない。
だからといって村の人達のように敬遠したいわけじゃなかった。
どうともとれない感情に自ら歯痒くて胸元に爪を立ててしまいそうになる。
(いったい僕は彼に何を求めているのか)

「……やっぱりここが一番落ち着く」
「え…?」

不意に彼は空を仰いだ。
真っ青な空に浮かぶ一片の雲は僅かな風に乗り、その姿をゆっくりと変えながら流れていく。
さざらう木々に揺れた木陰は、深緑の匂いを強く残していた。

「空気の匂いなのかなあ」
「にお、い……?」

匂いと言われて咄嗟に周囲を嗅ぐ様な仕草をしてしまった。
彼には僕に感じない匂いを、嗅ぎ取っていると考えたからだ。
だが周囲を嗅いだところで特別強く匂うものなんてない。
しいて言うならば川独特の生臭さが鼻に付く位だった。

「……それとも温度なのかもしれない」
「え?え?」

今度は温度ときたものだ。
僕は慌てて今の暑さを実感する。
川のせいかいつもより涼しいとはいえ、やはり暑い。
皮膚は僅かな暑さを感じ取ってじんわりと汗が滲み出ていた。
足だけが水に浸かり涼しさを満喫している。
(空気の匂い?温度?)
熊さんの言っていることがさっぱり理解出来なくて一人困惑する。
どちらも今の僕には異常が見受けられない。
僕には感じ取れない何かを彼なら感じているのだろうか?
そんな疑問にふと見上げれば熊さんが笑いを堪えている顔と目があった。
彼は口に手を当てて吹き出しそうになっている。

「…からか…った?」

それを見て瞬時に顔を赤く染めた。
熊さんが僕の反応を見ながら笑っていたのだ。
特別その言葉に意味は無く、ただからかわれたのだと解釈すればこれ以上恥ずかしい事はない。

「違う違う」
「…………」
「だから違うって」
「うー」
「そんな恨めしそうな顔で睨むなよ」
「だって…」

別に怒っていたわけじゃない。
ただ――

「ホントはお礼を言いたかったのに」
「え?」

すると今度は熊さんの方がキョトンとしていた。
僕は恥ずかしさに体を縮込ませながら彼を見上げる。

「熊さんに会ったらまずはありがとうって言いたかったのに、それなのに……」

さっきの野球で仲間に入れてくれたこと。
それから僕の為にホームランを打ってくれた事。
相変わらずそこまで詳しく言えないが、それだけは必ずお礼を述べなくてはと考えていたのだ。

「ぷっ」

すると今回は堪え切れなかったのか、熊さんは吹き出してしまった。
それを見ていた僕はさすがに口を尖らせる。
こちらは決して笑わせるつもりではなく、真面目にお礼を述べただけなのだ。

「も、知らない…っ…く、熊さんなんて…」

恥ずかしさと動揺にそのまま川から上がろうとした。
これ以上熊さんの前にいて笑われるのは耐えられなかったからだ。

「ご、ごめんって!」
「わっ」

すると急に強い力で引き戻された。
見下ろせば僕の細い腕に彼の大きな掌が巻きついている。
その力は想像以上に大きなもので、足場の悪い川では膝がカクンと折れてしまった。
――びちゃっ。
咄嗟の事に尻餅をつくと僕の下半身は川の水に浸かっていた。
一瞬の出来事にポカンと口を開ければ、熊さんは大慌てで僕の体を引き上げる。

「わ、わ、悪かった!」

それは彼にも予想外の出来事だったようで、酷く狼狽している。
まるで初めて川で話したときのようだった。
慌てる彼を余所に変な既視感を覚える。
普段は大らかでのほほんといている熊さんが、動揺を露にしている姿は新鮮で面白かった。

「ぷっ」

だから僕は今の状況にうろたえる事無く吹き出してしまう。
気付けば熊さんの服もびちょびちょに濡れていた。
ケラケラと笑い続ける僕に彼は驚いた顔をする。
だが自分の異様な慌てように気付いたのか、しばらくすると同じように笑い始めた。
涼しげな川の岸辺に二人の笑い声が響く。
水音に混じって聞こえるそれは軽やかで優しい音だった。

「……ごめん」
「え?」
「さっきのは三太君をからかったわけでもないし、ましてやバカにしたわけじゃないよ」

すると一通り笑った彼は濡れた衣服を持て余しながら呟いた。

「ただ思い出していたんだ」
「…………」
「初めて会った時から三太君はどんな時もお礼を言うのを忘れないんだって」
「あ……」
「人には向き不向きがあるから話すのが苦手なのは仕方がないと思う。それは悪い事じゃない。それでも三太君はことあるごとに“ありがと、熊さん”って言ってくれた。搾り取るような小さな声でさ。それがどれだけ嬉しかったか、分かる?」

分かる?と、問われて咄嗟に首を傾げてしまった。
すると熊さんはそんな僕に口元を緩ませる。

「じゃあ三太君は意識をしなくても人として大切な事を分かっているんだよ」
「え、えっ」
「だから一緒にいるとホッとする。落ち着くんだ。三太君といるとどこか自分が綺麗な人間になったような気がする。なんて、ちょっと変だな。うん」

最後に彼が自嘲的な笑みを浮かべたのを見逃さなかった。
言っている事はちょっと難しかったけど、理解できない程ではない。
いや、表面的な言葉の奥に何か隠された意味合いを見つけた気がした。
熊さんは時々、そんな風に言葉をぼかす。
それこそ本人は無意識のうちにそう呟いているのかもしれない。
ただいつも明であるがゆえに僅かな曇りにも敏感だった。

次のページ