恋をすること。
それはオレにとって不幸な事なのかもしれない。
「ガリ勉メガネ!!」
「お前な~」
今までただ好きなだけだったのに、恋をすると突然変わる。
好きと恋の間にはこんなに大きな隔たりがあるなんて知らなかった。
恋は嵐。
目を見て話せなくなった。
気軽に話しかけられなくなった。
ケンカ口調でしか会話が成立しなくなった。
恋をするのは不幸な事だ。
近づきたいと希いながら、比例するように心は遠ざかる。
だからふと思う。
恋に落ちなければ良かったのに、と。
***
「小金井。お前も六年生になったんだから少しは大人しくなれって」
「はぁ?大人しくって何だよ。オレは別に問題児なんかじゃない!」
「それで問題児じゃなければ誰が問題児なんだ」
「なんだとー!」
それはHR前の廊下。
騒がしいクラスを横目にいつもの様に言い合っていた。
相手はオレの担任。
「先生の教え方が下手くそだから授業がつまらないんだよ!」
「小金井!お前は最初から先生の話なんか聞く気がないだろうが」
「だからつまらないんだよっ」
「小金井!!待ちなさい!!」
オレは言うだけ言って廊下を走り出した。
予鈴が鳴るまであと少し。
「廊下は走るなってあれほど言ってるだろ!」
「でも先生だって走ってるじゃん」
「っぅ!それはお前がっ…!」
後ろから聞こえてくる先生のお説教を聞き流して長い廊下を駆け抜けた。
すると見えてきたのは自分の教室。
そのまま息を荒げながら中に入ると丁度良く予鈴が鳴った。
だからオレは真っ直ぐに自分の席に着く。
「おはよ」
「うす」
周囲の友人と挨拶を交わした。
するとオレの後を追うように先生が入ってくる。
少し疲れたような顔をした先生はチラッとこちらを見た。
だから即座にその目を反らす。
「起立。きょーつけ」
学級委員の掛け声がかかった。
同時にクラスは立ち上がり先生の方へと一礼する。
オレは前の人の影に隠れるように挨拶を済ませた。
「なーなー」
「ん?」
隣の席の石本が声を掛けて来た。
先生はもうこちらを見ておらず、早速今日の予定について話している。
オレは机に肘を突きながら目線だけ隣を向いた。
「お前また先生とケンカしてただろ~」
「ん、ああ」
「教室まで丸聞こえだったぞ」
「あっそ」
別に誰に聞かれても良かった。
クラスメイトも今じゃオレが先生を嫌っている事を知っている。
「毎日毎日飽きないな」
「べつにー」
「そんなに嫌いならもっと早く来ればいいのに」
石本はそう言って呆れたようにため息を吐いた。
だからオレは眉間に皺を一本追加して口を尖らせる。
「だって朝、苦手だし」
「だからってさ~」
いや、石本の言う事は正論だし分かっていた。
オレは机の上の鉛筆を転がしながら先生をチラ見する。
「最近、ちょっと掃除がいい加減なのかゴミが残っているぞ。各班長は最後にちゃんと確認する事。いいな?」
先生は淡々と連絡事項を話し続けていた。
少し厳しい顔をした彼を見て再度目を反らす。
毎朝続くケンカ。
石本を始めとした皆が彼と同じような疑問を抱いているに違いない。
もっと早く来れば教室に向かう先生と鉢合わせしないのにって。
「はぁ」
だが事実は異なっていた。
なぜ鉢合わせするのかって?
そんなの簡単な事だ。
オレがわざわざ先生が職員室を出るような時間に合わせて登校するからだ。
先生は大体8時25分頃、教室に向かおうとしてくる。
それを分かっているからあえてその時間に合わせているのだ。
「でも小金井って去年まで先生とすげー仲良くなかったっけ」
それはそうだ。
去年初めて彼を担任として迎えてから先生が好きだった。
その時の好き、とはもちろん恋ではなく、一人の先生として好意を持っていた。
去年学級委員をしていた事も相まって先生とは凄く仲が良かった。
まだ若いくせにキッチリとスーツを着て、カタブツそうに見えるメガネを掛けている。
そのくせ、実は抜けている所があったり優しくて一生懸命だったり。
そういう部分が好きだったし、尊敬していた。
「何かあったのか?」
「何もないよ」
だがまさかこれが恋に変わるなんて誰が信じただろうか。
自分でさえ戸惑いに揺れたのに、その感情を止める事が出来なかった。
気持ちを受け入れるより先に待っていたのは酷な現実。
気付けば今までのように接する事が出来なくなった。
なんで?
どうして?
そんな疑問には答えられずに速まる鼓動に胸が痛くなる。
もっと話したい。
もっと仲良くなりたい。
もっともっと近づきたい。
その気持ちと反してオレは正反対の行動しかとれなくなった。
だって目が合っただけでドキドキして自分がどんな顔をしているのか分からなくなる。
今までどんな事を話していたのかさえ分からなかった。
どんな言葉で彼に話しかけていたのだろう。
オレはどんな風に笑っていたのだろう。
「小金井!石本!おしゃべりは休み時間にしなさい」
「は、はい」
「はーい」
結果として今の状態に為らざるを得なかった。
そのくせ、毎日先生を待っているなんて矛盾にも程がある。
こんなにも好きなのに意地悪な事しかいえない。
それはもうドツボにハマっていると言っても過言ではなかった。
――その後、HRが終わって体育の為に外に出た。
今日は気持ちがいいほどの快晴。
気温も暑過ぎず、寒過ぎず心地良かった。
オレは石本と一緒に校庭に出ると体を伸ばす。
クラスメイトのほとんどがまだ着替え終えていない為、校庭には人が居なかった。
「今日ドッジボールだってさ」
「ふーん」
そう言いながら石本は一足先にジャージに着替えた先生を見ている。
彼は体育倉庫からボールを出そうとしていた。
「おーーい!!」
「ん?」
「小金井~石本~!」
突然こちらを向いた先生がオレ達に手招きをしていた。
「ちょっと手伝ってくれー」
彼はそういって手を振っている。
オレと石本は顔を見合わせると先生の元へと駆け寄った。
もちろん嫌な顔をするのは忘れずに。
「こき使って悪いな」
「別に」
ボールの入った籠やラインを引くための石灰を取り出していると先生がニコッとこちらを向いた。
その視線に気付いたオレは心臓の高鳴りを押さえるように顔を背ける。
すると今度はそちらを見れなくなった。
いつまでも彼の視線がオレにあるような気がして胃が痛くなる。
「何だかんだ言って小金井は優しいな」
「ふんだ。オレは元々出来てる人間なんだよ」
そう言ってから心の中でため息を吐く。
どうしてオレの口からはポンポンと可愛くないことばかり出てしまうのか。
自分で言ってて心底呆れてしまう。
だからいつも言った後に後悔して泣きたくなった。
「ああ、そうだな。先生もそう思うよ」
先生はオレの可愛くない言葉に苦笑しながら頷いてくれた。
そう言って素直に肯定されると余計に居心地が悪くなる。
まだいつもの様に言い合っていた方が楽だった。
「っ」
オレは何も反論出来なくなる。
顔が火を噴きそうなほど熱い。
そんな情けない自分を知られたくなかった。
いつも強気でいたかったのは、内面の弱さを知られたくなかった事も含まれているのかもしれない。
うっかりボロを出すと全てがなし崩しになってしまいそうだ。
だが相手は教師であり同じ男である。
もし自分が想っている事を知られて、避けられたら嫌だ。
だからといって優しく諭されたらもっと嫌だ。
それが個人的なワガママだと分かっているからこそ、知られたくない。
この気持ちを一過性のものであると思いこみたかった。
現実にはそれよりずっと先へ進行している。
踏み止まれない切情に胸を掻き毟りたくなった。
もしあの人に軽蔑の眼差しで見つめられたら死んでしまうかもしれない。
――恋をするのは不幸な事だ。
それに気付かなければきっと、最後までいつもの小金井でいられたのに。
その後、ドッジボールの用意を終えると早速チームに別れて試合となった。
体育が大好きな石本は水を得た魚のように生き生きとしている。
それを傍目で見ながらオレは気だるそうにアクビをしていた。
「小金井ー!もっとやる気出せよ」
「はいはい。分かってるってば」
アクビを見ていた石本に注意をされて適当に頷く。
別にやる気がないわけではない。
何より先生が見ているのだ。
こんなオレでも格好悪い所は見せたくない。
だからとっていつもの生活態度からやる気満々なキャラにはなれなかった。
それもまた格好悪いと思ってしまう年頃なのだから仕方が無い。
ピピーー。
すると先生が笛を吹いた。
同時に試合が開始される。
内野に居たオレは相手チームからのボールに構えながら逃げていた。
オレより前に居た石本は目を輝かせてボールの流れを見ている。
後ろでは球技が苦手な女子が無意味にキャーキャー言いながら必死に逃げていた。
「くらえっ」
するとさもスポーツ漫画にありがちな台詞を吐いたクラスメイトがこちらにボールを投げてきた。
だから十分に間合いを取って構える。
「…っ!」
――――ボスッ!!
そのボールは丁度胸辺りに投げ込まれた。
鈍い音を立てながらオレの胸元に収まる。
「小金井っ」
見事キャッチすると一際嬉しそうに石本がオレの名を呼んだ。
同時にピーっと先生が笛を吹く。
無意識に先生の方を見れば彼はニコッと笑っていた。
「よーし。じゃあ今度はこっちからだな」
彼の笑顔に気恥ずかしさが戻って来たオレは顔を背けると石本にボールを渡した。
どうせあとは彼と外野が上手く攻撃をしてくれるだろう。
だから全てを任せることにしたのだ。
「ふぅ」
オレは手で額を拭いながら軽くため息を吐いて後ろに下がる。
再度、先生の方をチラ見した。
「!!」
するとどうしたものか。
まだ先生はこちらを見ていたのだ。
とっくにボールの方を見ているものだとばかり思っていたから思わず目を見開く。
それと同時にバツが悪くなった。
目が合う。
それはつまり向こうからしてみたらオレが先生を見ていた事になるのだ。
彼を覗き見していた事がバレた気がして体がむず痒くなる。
途端に動揺して目を泳がせてしまった。
なんて自意識過剰なんだろう。
相手の視線にこんなにも気を遣うなんて初めてだ。
だから戸惑いに揺れて身動きがとれなくなる。
生徒を見ている先生なんて当たり前だ。
そこに不自然さは微塵にも感じない。
ドキドキしても仕方が無いのに彼の視線に掴まると体が硬直した。
もっと近づきたいと思いながらその視線に囚われる事を恐れている。
どちらも本物の気持ちだからこそやっかいだ。
「っ」
――どうしよう。
一度意識をしてしまったらもう止められない。
まだ見てる?
もう見ていない?
確認したいのに怖くて先生が見れない。
「小金井―!小金井っ!」
すると動揺して自分の殻に篭っていたオレは石本の叫び声にハッとした。
すっかり先生に惑わされていたオレは試合の途中だというのを忘れていたのだ。
「――――え?」
我に返った時にはもう遅い。
目の前にはスローモーションでこちら目掛けて向かってくるボールが見えた。
まばたき一瞬。
来るのを分かっていて咄嗟に体は動かなかった。
だから甘んじてその衝撃に耐えようとする。
――ゴンっ!!
ずいぶんと鈍い音を立てながらそのボールは見事オレの頭に命中した。
周りがアッと息を呑むのが雰囲気で分かる。
ピピーー!!
薄れゆく意識の中で虚しい笛の音が頭に響いていた。
「――…ん」
次に意識を取り戻したのは体に響く振動だった。
ゆっさゆっさと己の体が勝手に揺れている違和感に混濁した意識を取り戻す。
「え…」
目を開けて真っ先に見えたのは先生の顔だった。
こんなにも彼に近づいた事がないオレはそれに驚いて一気に意識を取り戻す。
「えっ!?うわっ……っぅ…」
「おい、大丈夫か?」
慌てて頭を動かしたら痛みと同時に眩暈がした。
だから項垂れるように力が抜ける。
「な…んでっ…」
気付けばオレは先生にお姫様抱っこをされていた。
この状況を理解していないオレは軽くパニック状態になる。
先生はオレを見おろして苦笑しながら話し始めた。
「覚えていないのか?さっきボールが頭に当たって気を失っていたんだぞ」
「え…あ…」
オレは先生の言葉にこめかみを押さえながらさっきまでの出来事を思い出そうとした。
つい先生の事を意識していたオレは試合の途中だというのをすっかり忘れていた。
すると突然石本の声がオレに響いたわけだが、その時にはすでに遅し。
気付けばボールが目の前にあったのだ。
「はぁ」
我ながら情けなくて穴に入りたくなった。
誰だってこんな間抜けなところを晒したくは無い。
好きな人の前でなら尚更。
「あっ…お、ろして!」
だがため息を吐いて己の間抜けさを呪っている場合ではなかった。
今、オレは先生に抱っこされているのだ。
こんなにも近づいた事が無いオレは速まる鼓動の音に手を握り締める。
「せんせっ…てば!」
「ばか。こんなところで降ろせるわけないだろ。あと少しで保健室に着くからそれまで大人しくしてなさい」
「っぅ」
そんなの無理だ!!
どんどん早くなる心臓の音に動悸がしてくる。
こんな風に触れていたら平常心でいられない!!
背中と足に回る腕の感触と大きな胸板の心地良さに眩暈さえ覚えてどうしようもなくなった。
今のオレじゃ緊張と動揺で頭をボールにぶつけた時より具合が悪くなってしまいそうになる。
「そんなことよりちゃんと掴まってろよ」
「なっ…」
今のオレにはそんな風に笑う先生の顔すら毒でしかなかった。
心臓が痛いぐらいに鳴り出して胸元を押さえる。
こんなにドキドキしている事を知られたら、どうしよう。
それだけじゃなく先生の体の感触、熱さ、匂いを感じて早くも自分の体が自己主張しかけていた。
幸い折り曲げられた足と体操着のお蔭で目立たないが僅かに勃起しかけている自分の性器に焦りが生じる。
もしそれがバレたら一巻の終わりだ。
きっと軽蔑されて蔑むような目でオレを見るだろう。
それはなんとしてでも避けたかった。
「…あ…」
「小金井?」
オレはそこで自分の矛盾に気付いた。
(…触れたいのに触れられたくない)
今までずっと少しでも近づきたくて触れたかった。
この恋に自覚するかしないかの曖昧な境界線上に居た時、ちょっと先生の指が触れただけでも飛び上がりそうなほど嬉しくなった。
軽く肩を叩かれればそれだけで一日ハッピーで心が躍った。
バカみたいに舞い上がって思い出しては幸せな気持ちに浸った。
だが今のオレには刺激が強すぎて死にそうになっていた。
(好きなのになんでこんなに苦しいのだろう?)
相手の一挙一動に反応して自分が自分じゃいられなくなる。
先生にとっては大勢いる生徒の中の一人としてオレを見ているだけなのに。
純粋に心配してくれる先生に対して、勃起するほどに感情を持て余している自分が汚く思えた。
一方通行な気持ちに横切る生々しい性的な感情に虫唾が走る。
いつからか先生を思い出して自慰に耽るようになった時、自分の大切な想いは死んだと思った。
ただ純粋に好きだ憧れているんだという気持ちが汚い欲で塗りつぶされた気がした。
だからイった後は気が狂いそうな程に後悔をするんだ。
先生を汚した自分に自己嫌悪するんだ。
「…せよ」
「え?」
「早く降ろせよっ!!」
せっかく先生に触れているのにこんな気持ちでいたら苦しいだけだった。
だから暴れるように言い放つ。
それが余計にオレと先生に隔たりを作ってしまうと分かっていて耐えられなかった。
今はただこの苦しみから逃れたい。
だから必死になって胸元を叩いて抵抗しようとした。
「こがね…っ」
「いいから早く降ろせって言ってるんだよ!!ガリ勉メガネっ!」
「おいっあぶな――!」
「うるさい!ばか教師!!」
危ないなんて関係なかった。
やけくそで暴れてみる。
自分が彼に対して暴言を吐いている事を分かっていた。
だがどうにかして自分の気持ちを誤魔化していたかった。
「――駄目だ!」
「!?」
すると先生は廊下の途中で強くオレを抱き締めた。
思わずオレの呼吸が止まる。
あれだけ叩いていた手さえピクリとも動かなかった。
まるで体の距離を埋めるように抱き締められた体は甘んじて彼の全てを受け入れる。
そのせいで彼の吐息が近い。
「せ…」
「お願いだから、あと少しだから……」
至近距離で見つめた先生は、顔を歪ませて切なそうにしていた。
それはそうだろう。
こんなにも自分の生徒に嫌われていると思えば彼だって傷つく。
「…っぅ…」
なんで自分はこんなに可愛くないのだろうか。
どうして先生をおかずに抜いているクセに彼に好かれる努力は出来ないのだろうか。
「だいっ…きらいだ…」
今度は悲しみが胸を貫いた。
さっきの様なときめきも胸の高鳴りも無くじんわりと心臓が痛くなる。
だからオレは大人しくなった体を持て余すように力の限り胸元の体操着を握り締めた。
面白いほどに空回りを続ける自分に自己嫌悪。
素直になりたい。
謝りたい。
それなのに最後までオレの口は感情とは正反対の言葉しか出てこなかった。
詰まった胸元に声がしゃがれて泣きそうになる。
「小金井」
そんなオレに先生は何か言おうとしてきた。
だから顔を背けると彼に見えないように背中を丸める。
すると先生はそれ以上口を利かずに保健室へと連れて行ってくれた。
―――翌日の朝。
昨日の一件から満足に睡眠をとれずに目を覚ました。
心なしか体が熱っぽくて頭がフラフラする。
オレはゆっくりと階段を降りるとリビングに顔を出した。
「…おはよ」
リビングには先に起きていた兄貴と朝ごはんの用意をしている母さんがいた。
オレは眠気眼をゴシゴシと擦り一度アクビをする。
「おはよう。遅かったわね…って、どうしたの?」
「え?」
すると母さんが怪訝しくオレを見てきた。
だから思わず首を傾げる。
「ちょっと優弥、顔が赤いじゃない」
「そう?」
「体調悪いの?」
「分かんない」
確かにフラフラするし体は熱いけど睡眠不足が祟ってこんな状態なのだと思っていた。
するとやり取りを聞いていた兄貴が救急箱から体温計を持ってくる。
「お前さー、昨日髪の毛洗いっぱなしで乾かさないで寝ただろ?」
「そうだっけ」
「その寝ぐせ見ればすぐ分かるよ、馬鹿だな」
そういってオレに体温計を渡すと鳥の巣状態になっていた髪の毛に触れた。
そして呆れたようにため息を吐く。
「あらやだ。まだ夜は冷えるんだからやめてよ」
「ん、ごめんなさい」
「とりあえず熱があるか計りなさい」
「はい」
だからオレは大人しくソファに移動すると体温計を脇の下に挟んだ。
向こうでイスに座った兄貴が先にご飯を食べているのをぼんやり見つめる。
昨日の夜のことは覚えていないが髪の毛を乾かした記憶がないところを察すると、多分兄貴の言ったとおりそのまま眠ってしまったのだろう。
昨日の先生とのやり取りとか触れた身体の感触とかお風呂の中で思い出していたせいか長湯になってしまったのだ。
若干のぼせ気味に部屋に戻ってベッドへ倒れこみ後はずっとウトウトしていた。
体は凄く眠いといっているのだが、どうにも寝付けずにいた自分を思い出す。
「雅也、そろそろ時間でしょ。早くしなさい」
「はいはい」
すると母さんに急かされた兄貴は慌ててご飯をかきこむと席を立った。
そして傍に置かれたカバンを手に取る。
遠くまで高校に通っている兄貴はオレより家を出るのが早い。
父さんは更に早く会社に行く人だから大抵起きた時には家に居なかった。
ピピピピピピ―…。
するとそこに丁度良く体温計の音が響いた。
だからオレは挟んでいた体温計を取り出す。
見れば電子モニターに38.6度と表示されていた。
元々の平熱が35度台のオレとしては結構な高熱である。
「どうだった?」
すると兄貴を送り出した母さんがひょっこり顔を出した。
だから大人しく体温計を渡す。
それを見た母さんは体温計を凝視すると顔を顰めた。
「あら、熱があるじゃない」
「うん。でも特別気持ち悪いとか頭が痛いとかないし薬飲んで学校行くよ」
本当は結構フラフラで足元が覚束無かったのだが学校を休みたくなかった。
それは朝に先生と会う為である。
二人っきりで話せるチャンスは一日のうちであの時間しかない。
昨日のことを詫びたかったオレはどうしても行く必要があったのだ。
「だーめ。何言ってるの」
「だって大丈夫だから」
「あなたね、昨日の体育でも頭打って気を失ったんでしょ?それと関係があったらどうするの?」
「それはっ」
「いいから今日は学校を休みなさい。母さんがあとで先生に連絡しておくから」
「むー」
「いいわね!」
強く言い切られてぐうの音も出ずに肩を落とした。
所詮母親に勝てるわけがない。
「それにしても学校を休みたくないなんて珍しいもんだわ。去年まではちょっとの風邪でも休みたがって煩かったのに」
「う、うるさいっ」
「あらやぁね。最近の子はすぐに切れるんだから。あー、怖い怖い」
母さんは大してそんな事を思っていないくせにワザとらしく呟いてキッチンの奥へと消えていった。
だからオレは口を尖らせて立ち上がるとリビングを出て行く。