***

次の日、三日月はいい匂いで目が覚めた。
朦朧とした意識の中でデジャヴと共に目を開ける。
起き上がると、部屋にネコの姿がなかった。
昨日はあのあとネコを自宅へ連れて帰った。
ネコはランドセルを背負ったまま脱衣所へ向かった。
よほど三日月に触られたのが嫌だったのだろう。
寝る時もベッドで寝ろと言ったが、彼は部屋の隅にタオルケット一枚包まって寝た。
(マジで野良猫みたいだ)
三日月は生あくびをしながらベッドから出ると、キッチンで音がした。
顔を出すとランドセルを背負ったネコがこちらに背を向けて皿を洗っている。
そのシュールな光景は形容しがたい。
見ればテーブルにはこの間同様美味しそうな朝食が用意されていた。

「おはようございますにゃ」
「はよ」

三日月はだらしなく腹を掻きながら返事をすると水を飲むためネコの横に立つ。
鍋には今日も匂い立つ味噌汁がコトコト静かに音を立てていた。
ネコは味見すると頷いて火を止める。

「お前、ネコのくせにめちゃくちゃ料理うまいよな」
「嬉しいですにゃあ」

表情は変わらずさほど嬉しそうには見えない。
三日月は冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをそのまま飲み干した。
喉に響く冷たい感覚が頭を覚醒させてくれる。
三日月はおもむろに味噌汁を注いでいるネコへと振り返った。

「でも俺昨日言ったよな。余計な気は回すなって」
「……………」
「別に…メシが食いたくてお前を連れて帰ったんじゃないから」

その言葉を最後にキッチン内は無言になる。
ネコの表情はこわばっていた。
ぎこちない仕草で味噌汁を注いだお椀をテーブルに置く。
不安げに、どこか怯えたようにも見えるのは三日月の錯覚だろうか。
別に怒ったわけでもなく、キツイ言い方をしたわけでもない。
だがネコの反応が、その背中がとても傷ついたように見えて、三日月は決まり悪げに咳をついた。

「……悪い。俺、人付き合いがうまくないんだ。傷つけてたら謝る」
「………………」
「あ、それにメシはありがたいと思ってるよ。朝食いつも抜いてるし」

それでも空気は変わらなかった。
調子の良い言い訳だけがペラペラと口を滑る。
ネコは三日月に背を向けたまま動かなかった。
様子を窺おうにもこの状況の中では体を動かすことすら困難で躊躇う。
今ネコは何を思っているのだろうか。
初めて会った時からネコの考えていることが分からなかった。
そもそも夜中のゴミ捨て場でにゃあにゃあ言ってる奴の気持ちなんかわかるはずがない。
だけど気にかけてしまっているのも事実で。
ネコに会ってから三日月の胸の中はモヤモヤでいっぱいだ。
表すことの出来ない気持ちが少しずつ肥大して彼を悩ませる。

「だあ、もう!」

三日月は痺れをきたしたように頭をガシガシと掻いた。
そうだよ。
上手く立ち回れるような人間であれば今ごろ会社でも苦労はしていないし、彼女だってとっくにできている。
いつだって言葉が足りない。
心の内側をどう表していいか分からないくらい表現力は乏しい。
ネコはいきなりの大声にびくりと肩を震わせると恐る恐る振り返った。
三日月はその手を掴んで引き寄せる。

「何もしなくていいから俺のそばにいろってこと!」
「!!」

その言葉に、ネコの目が見開かれたと同時に耳まで皮膚が赤らんだ。
先ほどまでと同じ無音なのに雰囲気は一変する。
まるで潮が一気に引いたような静寂に、スズメのちゅんちゅんと鳴く声が異様に響いた。
三日月はネコのおかしな反応に自分の言葉を反芻して、火を噴きそうなほど顔を赤く染める。
とんでもない言い間違いをしてしまった。

「い、い、い、いやっ…違う。これは、そのっ…あ、ああっと…つまりっ……お、俺が言いたかったことはだな……そのっ、だからっ」

三日月はしどろもどろになって訂正しようとするが、羞恥心に頭は湯立ち何をどう言っていいか分からなかった。
ひたすらオロオロする様は無様としか言いようがなく、格好悪さに死にたくなる。
彼はただネコがあんな寒くて汚いゴミ捨て場で一夜を過ごさなければそれで良かった。
連れて帰ったことに目的なんてなかったし、また朝食を作ってもらえるとも思っていなかった。
いつだってそう。
三日月は見返りを求めていなかった。
むしろそうやって気遣われるほうが苦しかった。
だってそれでは自分のしたことが余計なことになってしまう気がしたからだ。
だが、それを上手く言葉に出来ない。
染みついた偽善臭さは承知している。
本当に思っていることなのに、実際に口に出すと、あまりに建前臭くて吐き気がした。
自分は聖人ではない。
それを証明させるには多少横暴なほうが良かった。
いい人でいるのは疲れる。
でも、そういう態度でいれば周囲に誤解される。
三日月はそんな過ちを幾度も繰り返してきた。

「……っ……」

すると慌てる三日月の服の裾をネコが引っ張った。
なぜかネコは今にも泣きそうな顔で、だが口元には微かに笑みを浮かべている。
真っ直ぐに見上げられた瞳に光が射したように思えたのは、朝日がキッチンを照らしたからだろうか。

「ぼくが、食べたかったんです」

ネコの小さな唇から漏れる声は鈴をふるわすように澄んでいた。
石のような硬さだった表情が和らぐ。
何よりも、三日月を見る眼差しが変化する。

「お腹がぐうぐう鳴って煩かったので、勝手にキッチンをお借りしました」
「………………」
「出来れば〝次〟はもっと色々な食材があると嬉しいです」

彼はそうして朝露の中で生まれた花が咲くように、ゆっくりと柔らかく破顔した。
初めて見る表情に魅入られて思考が止まると、慌てふためていた気持ちが静かに引いていく。
ネコは余計なことは言わなかった。
父親でもおかしくないほど年の離れた大人が、朝からくだらないことであたふたとしているのに、馬鹿にもせず穏やかに笑みを湛えている。
三日月は軽くふうっと息を吐くと目を閉じた。
(……ネコのほうが大人だ)
目を開けて改めてネコを見下ろす。
その目尻には自然と皺が寄っていた。

「――なら、次はもっと食材を買っておくよ」

***

それからネコは平日の月曜から金曜までやってきた。
まるで丸の内のOLみたいだ。
といって毎日というわけでもない。
――が、だいたいは顔を見せた。
来た夜は泊まって朝は三日月と一緒に家を出る。
三日月はネコに合鍵をもたせた。
ゴミ捨て場でにゃあにゃあされたらたまったものじゃないから家で待っていろと命令しておいた。
ネコはおとなしくその通りに従った。
それどころか三日月が買ってきた食材でご飯を作ると待っていてくれる。
だから三日月はスーパーに寄って帰るのが日課になった。
翌日の朝食やその夜の献立に使えそうなものを買って帰った。
「何か買ってきて欲しいのはないか?」と尋ねたが、ネコはそれに応えなかった。
だったらネコが買ってきてよとお金を渡したが、それも頑なに拒まれた。
ネコは三日月が買ってきた食材から調理した。
希望は聞いてくれた。
その年に似合わず包丁を持つ手が慣れているし、出汁の取り方も完璧である。
今まであまり料理をしてこなかった三日月にはネコの手料理がありがたかった。
外食や惣菜には限界があるし、家でゆっくり出来たての美味しい料理を食べられることの贅沢さを噛みしめる。
社会人になり、家を出てからこんなに健康に良い食事をとったのも初めてだった。

「はぁ…疲れた」

その日、駅の改札を出たときには23時を過ぎていた。
本来なら20時には帰れたはずなのだが、直前で上司に呼びだされ、自分の担当じゃない営業先の資料を作らされてしまった。
押し付けられたのは明白で、広いフロアでひとり孤独に仕事を終える。
肩と腰は石が乗ったように重く、目は霞む。
自分より遅くまで残っている社員はいるが、不必要な残業は勘弁願いたかった。
今日こそは断ろうと思ったのだが、どうしても断れなかった。
三日月は陰で上司や同僚から都合のいい者扱いをされていることを知っている。
なのに「頼むよ」と言われてしまうと了承してしまう。
その弱さが嫌いだった。

「あっ……」

すると三日月が不意に声を漏らした。
見上げた先に見えた我が家の明かりが灯っていたからだ。
一瞬何かと戸惑うが、すぐにネコだと気づく。
昨日は来ていなかったネコが今日は来ているのだ。
その瞬間、口元が緩んだのは無意識だった。
(変なの)
誰かが家で自分の帰りを待っていてくれるのが嬉しい。
三日月は高校卒業と同時に上京し、それから十年以上ひとり暮らしをしてきた。
誰もいない寂しさとうるさく言われない清々しさは細波のように寄せては返した。
次第にひとり暮らしが当たり前になってくると何も感じなくなった。
だからすっかり忘れていたのだ。
帰る家に誰かがいるという安心感と温かさを。

「ただいま」

いまだにそう言うのは照れてぎこちなくなる。
するといつもならネコが部屋からトトトッとやってきて「おかえりなさいにゃあ」というのだが、今日は静かだった。
不思議に思いながら靴を脱ぐと、居間へ続くドアを開ける。
六畳ほどのフローリングにはダイニングテーブルが置かれているのだが、ネコはそこで自分の腕を枕に眠っていた。
健やかな寝息と上下する体を慕わしく思い、起こさないようそっと髪をすく。
風呂に入ったのかシャンプーの柔らかい匂いがした。
抱いたことのない優しい感情にはいまいち実感ない。
自分に弟がいたら――、子どもがいたら――、このような感覚なのだろうか。
先ほどまでの疲れが心地よく和らぐ。
ネコは三日月を待っている間に眠りこけてしまったのだ。
そばには作ったであろう夕食が並んでいる。
お腹が減っているだろうに、ネコの分もラップしたまま置かれていた。
いくら言っても先に食べようとはしない健気さに、戸惑い、慈しみを覚える。
同時に、遠慮なんかしないで欲しいと思うのだが、うまく言葉に出来なかった。

「ネコ…、ここで寝ると風邪を引くぞ」
「……んぅ……」

三日月はネコの肩を揺すったが反応は薄かった。
よほど疲れているのか起きる気配はない。
食事もまだで一旦起こそうかと思ったが、時間を考えると可哀想な気もする。
何より嬉しかった。
ひとりでも眠れるくらい、ここはネコにとって安息の場所になれたのだ。
始めのうちは三日月が先に眠らないと寝ないほど警戒していた。
落ち着かないのか部屋の隅でランドセルを抱え丸くなる。
時々チラチラと三日月を見て本当に寝入ったか確認していた。
夜中に三日月がトイレで起きようものなら、すぐに彼は目を覚ました。
気の置く家での反応としては納得できるが、ネコは少々神経質とも思えるくらい様子を窺う子であった。
ならばいっそ来なければいいのにとも思うが、彼は三日月の家へやってきた。
それからしばらくして、三日月より先に寝てしまう日が出てきた。
始めは信じられなかった。
そっと忍び足でネコのもとまで行って本当に眠りについたのかチェックするくらいだった。
(へんなの)
相手が自分に気を許している、多少にでも心を開いてくれていると思うと三日月も自然に接することが出来た。
それまで気遣って饒舌になることも多々あったが、最近は無理に会話せずとも良い気がして黙っている時間が増えた。
言葉数が減っても居心地の良さは失われなかった。
だから三日月もネコをそばに置いておけたのかもしれない。
他人からは理解できない関係だろうとも二人は気に留めなかった。

「おい、ベッドについたぞ」
「ふにゅ……」

三日月は抱っこしてベッドまで連れてくる。
いつもは布団で眠っているが、今日はこのままベッドで寝かせたほうが良さそうだ。
静かにネコをおろして横たわらせようとする。

「ん?ネコ?」

するといつの間にかネコが三日月のスーツを掴んでいたようだ。
離れようとしたところで起きているのかと声をかけるが、ネコの意識はないようである。

「ほら、どうした?ネコ?」
「………ん……んぅ…」
「それじゃ寝づらいだろ。手を離せ」

再三声をかけるが、ネコは眉間に皺を寄せるだけで返事はなかった。
三日月は困り果ててどうしようかと思い悩む。
腹は減っているし、風呂にも入りたい。
しかし、強引に手を離そうとしたらネコの眉間の皺が深くなった。
それが苦しそうにも悲しそうにも思えて咄嗟に力を緩める。

「え、えっと」

三日月の胸に寄りかかったままスヤスヤと眠るネコを戸惑いながらそっと背中を撫でた。
すると喉を鳴らすようにネコは気持ち良さげにすり寄ってくる。
その様子に三日月は苦笑し、食事と風呂を諦めると、スーツのままネコを抱えてベッドに入り込んだ。
彼が風邪を引かないようにと肩まで布団をかける。
寝間着と違って窮屈に感じたが、それ以上に他人の温もりに慣れなかった。
一人っ子であった三日月は誰かとこうして体を寄せて寝たことはない。
ネコとは今までも同じ部屋で眠っていたが、それとはまた違った。
響く鼓動に体は板のように硬直する。
どこに手を置いていいのか分からないくらい萎縮し困惑した。
迷う指先は行き先を知らずに立ち尽くす幼子のようだ。
しかし冬の寒い部屋の中で感じる他人の暖かさはこれほど感官に沁みるものなのだろうか。
乾いた皮膚は疼き、痺れ、熱を帯びる。
同時に心は動揺を持て余し、躊躇い、揺れる。
(こんな気持ち、初めてだ)
三日月の淡い胸を得体の知れない何かが小突いた。
針ほどの細さと鋭さでスッと被膜の奥まで貫かれた気がした。
あとに残った傷口が波紋のように変化を起こしていく。
だがそれに気づかないフリをしてネコを抱きしめると、そのまま闇に身を埋めた。
――そうして彼は逃げたのだ。

次にネコがやってきたのは翌週の木曜日の夜遅くであった。
三日月はネコと一緒にベッドで寝たことをなんとなく気まずく思っていたから、しばらく現れないことにどこかホッとしていた。

「お前、首どうしたんだよ」
「縄張り争いに負けましたにゃ」

久しぶりに会ったネコの首には大きめの絆創膏が貼られていた。
彼が言うには他のネコのテリトリーに入ったせいで、喧嘩になりやられたというのだ。
その割に無表情でやる気のなさそうな雰囲気である。

「ぷはっ、そっか」

三日月は彼の態度に吹き出すと、ドア付近でモジモジしているネコを差し招いた。
ちょうど食事後の片づけをしていたところで、冷蔵庫から買っておいたプリンを取り出す。

「お前の好きなプリン買ってあるぞ」
「にゃ!」
「それとも腹が減っているか?ラーメンならすぐに――」
「プリンがいいですにゃあ!」

ネコは三日月の話を遮るように力強く頷いた。
そしてちょこんとテーブルに座る。
その素直さに笑いをこらえながらプリンを差し出すと、ネコの瞳は微かに輝きを増した。
子どもらしい正直さに目尻に皺が寄る。
ネコは口元に笑みを隠しながらプリンを食べ始めた。
三日月は温かいお茶を淹れてやると向かいに座る。

「寒かっただろ。ちゃんとフーフーして飲めよ」
「にゃー」

様子を見るに怪我のことを気にした素振りはない。
ネコは久しぶりのプリンを噛みしめるように堪能している。
三日月はテーブルに肘をつきながら美味しそうに好物を頬張る彼を眺めた。
年季の入った暖房の動作音がやけに耳にまとわりつく。
その中で自然と言葉が出る。

「……猫の世界だって大変だよな」

相手を慰撫するような声色だった。
意識したつもりはなかった。

「お前はエライよ。俺だったら縄張り争いとか絶対に無理」
「…………」
「ネコは強い子だな。でも、心配だからあまり無理すんなよ」

三日月はネコの頭をわしゃわしゃと撫でてやった。
柔らかい猫毛が指に絡む。
目を丸くする彼に優しい眼差しを向けると、布団の用意をしてやるために席を立った。
だから、残されたネコがどんな表情で三日月を見ていたのか知らない。
どれだけその言葉がネコの心を救っていたのか気づくことはない。

同時にネコも三日月の胸の内を知らない。
三日月は己の放った言葉に嫌悪し、体の内側から侵食していく憂鬱に肩まで浸かりかけていることに気づくことはない。
(ネコのやつ、長袖で隠したってバレバレなんだよ)
僅かに見えた手首の包帯から目を背けた三日月は誰にも聞こえないよう舌打ちをした。
カーテンの隙間から漏れる月明かりが薄く寝室に差し込む。
面倒ごとには関わらない。
求められてもいないのに、手を差し伸べる必要はない。
それでも渦巻く靄のような呵責の念が静かに三日月を追い詰めた。

互いに心を許し始めていた二人だが、その先は違う景色を見ていた。

翌日の夜、ネコと食事をしているところで急にインターホンが鳴った。

「にゃ?」

不思議そうに首を傾げるネコを尻目に、三日月は立ち上がると玄関へ向かう。
ドアを開けると寒さに息を白く染めた男が満面の笑みで立っていた。

「やっほー、ヤッチ―!俺、また別れちゃった!」

酔っているのか顔が赤く、手には土産のつもりなのかコンビニの袋を持っている。
僅かな間のあと三日月は無言でドアを閉めようとしたが、それは男によって阻止された。

「ちょっと、ちょっと!友達なのに冷たくない?」
「…都合の良い時ばかり友人扱いするな」
「やーだ、やーだっ。慰めてー!お土産にお菓子とお酒もいっぱい買ってきたからー!」
「いらねーよ」

三日月は非情にも突っぱねるが、それでも駄々をこねる男――御子柴に、最後は渋々部屋へ通した。
これ以上騒がれたら近所迷惑だからだ。

御子柴は大学時代のゼミ仲間で、家族以外唯一連絡をしてくる人間である。
だが、その頻度は限りなく低く、半年に一度しか会わないこともある。
御子柴は昔から無類の女好きで次から次へと彼女を作った。
恋人がいる間は彼女優先で三日月のもとへはやってくることはほとんどないし、三日月自身もマメに連絡を取るような性格ではなかったからその距離感が丁度よかった。
いつも現れるのは恋人と別れた時である。

「もー聞いてよー、…って、あれ」

知った顔で上がり込んだ御子柴は居間でネコを見つけると驚いた声をあげた。
今まで自分以外が三日月の家にいたことなんてなかったからだ。
ネコも突然の男の登場に警戒しているのか立ち上がると部屋の隅へ後ずさる。
外見が三日月と違い、いかにも軟派だったからかもしれない。

「あー……」

御子柴のあとから顔を出した三日月はしまったと思ったが、さほど動揺はしなかった。
ネコとの生活で多少肝が据わったのかもしれない。
いや、慌てることも忘れるくらい二人の夜が当たり前になっていたからかもしれない。

「え、え、ヤッチーの……子ども?」

振り返った御子柴は戸惑うように三日月を見た。
少しだけ三日月は躊躇う素振りを見せたが、嘘はつかなかった。

「俺が飼ってるネコ」
「ヤッチ―の飼い猫?」
「…………にゃ」

理解できない御子柴は眉間に皺を寄せながら交互に三日月とネコを見る。
しかし酔っているせいもあり、思考が働かないのか、

「あっはっはー!なにそれ、ちょーうけるー!」

御子柴は笑い飛ばして何事もなかったようにイスに腰掛けた。
状況の説明を求めることもなくプシュッと景気の良い音をさせながらビールの缶を開ける。
(こいつはこういうやつだよ)
呆れとも安堵ともいえない感情を抱きながらため息を吐いた三日月は皿を用意し始めた。
だが、いまだネコは近寄ろうとしない。

「どうしたネコ?」
「にゃ」
「そうだよネコちゃん。こっちおいで!ほーいほーい」
「酔っぱらいは黙っていろって」

三日月は御子柴の後頭部をペシッと軽く叩いた。
居間の隅で立ち尽くすネコを窺うように傍へ寄る。

「ごめんな。こいつ、いつも突然で……」
「…………」
「うるさいだろ。もう寝るか?」
「…………」

三日月は少し膝を屈むと優しく問いかけた。
ネコの表情は硬く、何を考えているかは読み取れない。
だが袖から半分隠れた手は強く握られていた。

「ネコ?」
「……ぼくもお酒をいただくにゃ」

すると急に三日月の横をすり抜けたネコは、いつもの飄々とした態度で自分の席へ戻った。
三日月は困惑したまま固まるが、御子柴の「お前も飲めー」の言葉に我に返ると慌ててテーブルへ行く。
そこでは食器棚から出したグラスでネコが御子柴からビールを注いでもらっていた。

「なにやってんだよ」

慌ててネコからビールを取り上げる。

「ケチだにゃ」
「ケチな男はモテないぞ」
「そういう問題じゃない」

こんな子どもにビールを飲ませるなんて言語道断だ。
三日月は注がれたビールをぐぐっと飲み干す。

「おおっ、いいじゃん」

その飲みっぷりに喜んだ御子柴は、気分良さげに買ってきた酒のツマミを開けた。
ネコの作った肉じゃがを美味しい美味しいと口にしながら次々に酒が進む。
ここへ来る前に酔っぱらっていたくせにペースは速かった。
どうやら思っていた以上に御子柴は参っていたみたいだ。
三日月もネコが来てからほとんど酒は飲んでいなかったから、久しぶりの苦みと炭酸を味わった。
ビールはやっぱり美味い。

「聞いてくれよ」

御子柴はビール缶を潰しながら愚痴をこぼした。
いつもそうだった。
彼は恋人と別れると決まって三日月の家へ来る。
そうして眠るまで延々と管をまくのだ。

「でさー」

それはこの日も同じだった。
御子柴は酔って怪しい呂律の中で別れた恋人との思い出を口にする。

「実は子持ちだったんだよ。マジでありえなくない?」

今夜はいつもよりタチが悪かった。
御子柴はハイボールの缶をドンっとテーブルに叩きつけたあと、口を尖らせて同意を求めてくる。
酒には弱くない彼がこの調子では相当参っているようだ。

「知らなかったのか?」
「全然。確かに彼女んちは入れてもらえたことなかったけどさ、普通に俺んち泊まったりしててさ、騙されたって感じー」
「騙されたって……気持ちは分かるけどよ。仮にも彼女だったんだろ?理由は聞いたのか?」
「いやいや、聞くわけないじゃん。だいたい子どもなんかいたら付き合うはずないわ」
「お前なー」

御子柴は守備範囲が広く、上は熟女から下は女子大生まで付き合ったことのある男だった。
その割に三十を超えた今も三日月と同じく独身である。
だが結婚しない理由は、もっと遊んでいたいからという羨ましいことこの上ない理由だった。

「なんで子持ちだってバレたんだよ」
「ん、ああ。エッチしてたら急に電話が鳴ってさー。それが延々と鳴ってるから出れば?って言ったのに気まずそうな顔してんの。だから浮気かと思って俺が出たんだよ。そしたら学校の担任からだった」
「最悪……というか、最低だな」
「でしょー」
「お前もだよ」
「なんでよ!俺被害者!」

御子柴は自分の正当性を訴えるように身振り手振りでアピールした。
その姿を三日月は呆れた顔で横目に見る。
こんな男の方がモテるのだから女は見る目がないと毒づく。
ネコは他人事のようにスルメイカを噛んでいた。

「それが先週の話。で、その場で別れたってわけ。マジありえねー」

御子柴はそう言って不満げに別の缶を開けた。
見ればキッチンには二人が飲み干した缶が散乱している。
その八割がたは御子柴が飲んだものだ。
三日月は深くため息を吐く。

「…別に、本当に好きだったら子どもがいてもいいんじゃないか」

いつもは面倒だから適当に相打ちをして聞く立場に徹する。
御子柴だってただ吐き出したいだけで意見は求めていないのだ。
それでも流せなかった。

「不倫てわけじゃなかったんだろ。だったら――」

すると御子柴はぷっと吹き出した。

「お前はだから童貞なんだよ」

その言葉に三日月はカチンときたが、

「そんな簡単なことじゃない。たとえその人が好きでもその子まで愛せるかは別の話だろ」
「……………」
「第一に、俺の家にいる間、その子はひとりで生活していたってことじゃん。やだよ、そんな女」

御子柴の言い分は尤もで、三日月は童貞だと馬鹿にされた文句を喉の奥に押し留めた。
すると今度は御子柴がため息を吐いた。
やけに辛気臭いため息だった。
どうやら続きがあるようで、

「なのに、あいつ。もう別の男が出来てやんの」
「え?」
「昨日の夜、駅前で他の男と腕組んでるところをすれ違った」
「………………」

どうやら御子柴が最もショックだったのはそこだった。
そうだろう。
これだけモテる男が、子持ちの年上女に騙されたあげく、別れて一週間ほどで違う男と歩いているところを目撃してしまったのだから。
彼の自尊心は傷ついたに違いない。
それは別れて清々するとはまた別な感情なのだ。

「あーあ、俺の運命の相手はどこにいるんだか……」

御子柴は机に突っ伏してしまった。
そのまま寝息が聞こえてくる。
まだ半分意識はあるのか、時折ブツブツと呟くが、音になれども言葉にはならなかった。
限界が訪れたのだとネコと顔を見合わせる。
仕方がなく席を立った三日月は御子柴の肩に手を回すと、隣の部屋まで連れていく。
すると寝かされると気づいた御子柴がまだ飲むと喚いたが無視をした。
ネコ用に敷いていた布団の上におろすと、スーツの上着を脱がしてやる。
すると御子柴は窮屈さがなくなったのか表情が柔らかくなった。

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