「マジでヤッチ―が女だったらいいのに。そしたらお嫁さんにもらってやるのに」
「お前と結婚なんて死んでも嫌だよ」

夢うつつに呟く酔っぱらいを寝かせると、ようやくひと息ついた。
つけたばかりの暖房から流れる温風が頬の上をすべる。
すると服の裾をくいくいと引っ張られた。
振り返るとネコがいる。

「悪い。お前は今日俺のベッドで寝てくれ。俺はこいつの隣に寝るから」

三日月は押入れから毛布を取り出す。
だがネコは首を横に振った。

「ぼくがこの人の隣に寝ますにゃ」

そうして御子柴の横に寝ようとするから慌ててとめた。
ネコは不思議そうな顔をする。
彼のパジャマは三日月のスエットでサイズが合っていない。

「いいよ。俺が寝る」

そう言ってネコにベッドを勧めるが、彼は頑なに御子柴の横で寝るといってきかなかった。
隙あらば布団に入り込もうとする。
そのたびに三日月が止めた。

「ちょ、ちょっと待て」
「にゃ?」

なぜかモヤモヤした。
三日月の家に泊まりだしたころは警戒心丸出しだったのに、今日会ったばかりの御子柴のすぐ横で眠れるのだろうか。
最初は部屋の隅へ後ずさるほど慣れていなかったのだ。
その後もネコが懐いた様子はない。
会話らしい会話もしていないというのにどうしてなのか。
胸にこびりつくのは形容しがたい苛立ちで、味わったことのない苦味を奥歯で噛みしめる。
途端に頭が痛くなる。
ある事実に気づいてしまったからだ。
そう。
三日月は御子柴に嫉妬している。
自分と一緒に眠れるまで結構時間がかかったのに、今日会ったばかりの友人にはすぐ隣で眠れてしまうのかと腹が立ったのだ。
それは独占欲ともいうべき感情なのか。
あまりに女々しく狭量である。
しかも相手は恋人でもなければただのネコである。
(別にどうでもいいことじゃないか)
心ではそう言い聞かせるのだが、恨めしくも口は言うことをきいてくれない。

「とにかく俺がこいつの隣に寝るからお前も早くベッドで寝ろ!」

余裕のなさから少しばかり語尾が強くなってしまうが、ネコが即座に言い返してくる。
珍しくネコも反抗的な態度だった。

「そんなにその人の隣で寝たいんですか!」
「はぁ?なに気色悪いこと言ってんだよ!」
「だってそういうことでしょ」
「俺はただっ――」

御子柴の隣で寝たがるネコが嫌で――と、言いそうになったところで、ふと我に返った。
どうにか口の先まで出かかった言葉を凍結させる。
危なかった。
また感情に先走って変なことを言ってしまいそうだった。
思わず冷や汗が流れる。

「ただ――、なんですか?」

言葉に詰まった三日月に、まるで尋問するかのような鋭い目つきのネコが詰め寄る。
もはやにゃあという語尾は忘れているようだ。
三日月は居心地悪そうに視線を逸らすと、毛布をネコに渡した。

「……分かった。じゃあ好きにしろ」
「え?」

そのままベッドへ潜り込むとネコに背を向ける。
後ろでネコが戸惑ったような声をあげた。
三日月は無視して目を閉じる。
大人げない言い合いをしてしまった恥ずかしさも伴い、三日月はネコに背を向けたまま布団を深くかぶった。
背後で何か言いたそうなネコがじっと三日月を見ていたが、その視線は無視した。
深々と更けた夜。
人気のない住宅街は息が詰まりそうなほどの静けさに満ちている。
狭い路地に囲まれた場所では車の音すら聞こえない。
唯一聞こえるのは呑気な御子柴の寝息ばかりだ。
自分が言い合いの火種になっていることも知らず、憎らしいほど穏やかな寝顔を晒している。

「……え……?」

すると突然三日月の掛け布団が膨らんだ。
何事かと驚いて振り返りそうになる手前、背中が温かさで支配される。

「ネ、コっ…?」

三日月は素っ頓狂な声をあげた。
いきなりネコがベッドに潜り込んできたのだ。
そのまま彼は三日月の背中に寄り添うよう体をくっつける。
突然のことに戸惑うが、先に気付いたのは震えたネコの体だった。

「ごめ…なさいっ……ごめんっ…な……さい!」

途切れ途切れに聞こえる声はひどく思いつめていて、自分が酷いことをしてしまったような気になる。
むしろ先ほどまでの態度と変わりすぎて一瞬冗談じゃないかと思ったくらいだ。

「……ごめ……さ…」

なんて声を出すのだろうか。
三日月は体の奥の奥が刺されたように痛くなった。
ネコは壊れた人形のように繰り返し謝り続ける。
闇夜に溶ける声は、耳を澄まさなければ音と認識出来ないくらい細く弱かった。
その声が背中越しに響くたび、湿度を吸い込んだように重い空気が漂う。
(なんでこんなことになったのだろう)
ただ御子柴が酔いつぶれて寝てしまったから、どちらかが彼の隣で寝なければいけなくなった。
三日月は一緒に寝たがるネコに嫉妬して自分が寝ると言い張った。
だが両者とも頑固だからお互いに自分が御子柴の隣で寝ると言い合いに発展した。
そして負けた三日月が先に布団に入った。
ただそれだけだ。

なのに、ネコは命乞いでもするかのように必死に詫び続けている。
まるで奴隷が主人の機嫌を損ねてしまい、その仕打ちを恐れるかのようにひたすら許しを乞う。
その姿は異常だった。
つい先ほどまで得意のネコ語も忘れるほど言い合ったことなど思考の外に弾かれてしまったようだ。

「…ごめんなさい…」

スエットの端を掴むネコの手が明らかに震えている。
(…………ネコ)
三日月はネコのほうへ振り返ろうとしていたが、気張ると真っ直ぐ前を見た。
目の前に差し迫ったのは年季の入ったオフホワイトの壁だ。
豆電球の明かりによって己の影が出来ているが、背中にいるネコの影は三日月の影と重なり映されない。
これで耳を塞げばひとりで寝ているかのようだ。
それくらい彼はまだ小さい。
何度そうして……誰に、謝ってきたのだろう。
(ネコは今、どんな顔をしている?)
三日月には見当もつかなかった。
ネコの心中をどんなに慮ったところで想像には限界がある。
そして、きっとネコはその限界の先で体を震わせ、声を振り絞るようにして謝っている。
彼は悪いことをしていないのに。
謝る必要なんてないのに。
(あんな些細なことで怒るなんて馬鹿か、俺は)
星屑のように消えてしまいそうなネコの声が三日月の感官を震わせる。
抱きしめたいと思った。
この手で守ってやりたいと思った。
だから躊躇わなかった。
三日月は深く息を吸うと、ネコの体を引き離すように振り返った。
電球の萎びた橙色がネコの幼い顔を照らしている。
その表情を見た時、三日月は言葉に出来ない焦燥を覚えたが、鳩尾に力を入れるようにぐっとこらえた。

「お、お、お前が謝るな!」
「……え……」

ネコは三日月の突然の行動に唖然となった。
まるで意図していなかったと言わんばかりの声が漏れた。

「俺が悪いんだからネコが謝る必要ないだろ!」
「なに言…っ」
「だから俺が勝手にヤキモチを妬いたの!ネコが御子柴と初対面なのに隣で眠れるっていうから腹が立ったの!」
「……そ、そ…それは、御子柴さんの隣には寝かせないということですよね……?」

ネコは三日月の迫力に押されていつの間にか震えが止まっていた。
それどころか目を白黒させて動揺を露にしている。
しかし三日月は止まれなかった。

「違うっ。なんで俺がお前に妬くんだ。…あいつだよっ、御子柴に嫉妬したの!俺とはようやく同じ部屋で眠れるようになったのに、なんで御子柴は会ったその日に隣なんかで眠れるんだって悔しくなったんだよ。だから御子柴の隣には寝させたくないって思ったんだ!」
「……っ……!」
「その結果がふて寝だよ。別にネコに対して怒ったんじゃなくて、こんな格好悪いこと言えるわけないから寝ちまえと思った。お前は家主の俺に気を遣って言ってるって分かってるから、なおさら合わす顔がなかった」
「あ……ぅ……」
「……くそ、三十過ぎのおっさんが気色悪すぎだろ……」

三日月は布団の中で頭を抱えた。
恥ずかしくて火だるまになりそうなことを本人にぶちまけてしまった。
言葉にすると一層気持ち悪くて吐き気がする。
ネコは余計なことを聞かない俺を便利に思って居ついているだけなのに、なに懐かれた気になっているのだ。
そもそも、三日月だってこんなガキに好かれたところでどうとも思わないはずなのに。

「こ、こほん……。と、とにかくもう謝らないでくれ」

腹に溜まっていたものを吐き出すと途端に冷静になるから不思議だ。
それまでの熱が冷めるように俯瞰して考えると、己の醜さが浮き彫りになる。
穴があったら入りたいとはこのことか。
三日月はもうこの話題から手を引きたくてモソモソとネコから距離をとった。
狭いベッドの中で壁に背を預けるように身を引く。

「……ぼくだって同じです」
「は?」

すると逃げた先からネコが追いかけるように距離を縮めてきた。
三日月はもう後ろにさがれないというのに、体が触れるところまでくっついてくる。

「あなたが御子柴さんの隣で寝たがっていると思って……そしたらなんか嫌で……」
「それは…」
「だ、大体友達はいないって言ってたのに嘘じゃないですか!」
「いや、別にあいつは」
「馴れ馴れしくヤッチ―なんて呼んで…お嫁に欲しいって、どういうことですか」

異形な者に思えるくらい黒い瞳が、一切の誤魔化しを許さないかのように三日月の顔を覗き込む。
暗がりでは黒に黒を塗りつぶし、その先には果てすらないように思える。

「いやいや…ちょっとたんま」

三日月はかぶりを振ると起き上がった。
ネコもつられて起き上がる。

「呼び方については俺だって嫌だったけど、昔からずっとそう呼ばれるから諦めたというか……」
「……………」
「嫁の話だって別に酔っぱらいの戯言だし、それくらいモテなかったから…同情しているだけだと思う」
「……………」

ネコの目は検閲している――というより、旦那の浮気の真偽を見極めているような鋭いものだった。
眉ひとつ動かさない姿は冷然としながら奥にくすぶる熱量を感じる。

「じゃあぼくも同じように呼ばせて頂きます」
「は?」
「…やっぱり御子柴さんにしか呼ばせない名前なのですか」
「いや、いやいや……」

ネコの曇った表情が益々怖い。
――と、その時、三日月は思った。

「あれ?お前、もしかしてそう呼びたかったの?」
「――――!!」
「なんだ。それなら別に……」
「ちがっ!」

するとネコの瞳が大きく見開かれた。

「や、違っ…その……あのっ……!」

いつも無表情なネコが酷く狼狽している。

「名前…っ、ぼくも……呼びたくて…でもっ…どうして、いいか……っ分からなくて…なのに、あの人は馴れ馴れしくて…そのっ」

照れくささと比例するかのように少しずつネコの声が小さくなる。
今まで名前すら呼ばれたことがなかった。
一応こちらの自己紹介はしたつもりだが、一向に呼ぼうとしないから覚えるつもりもなく忘れてしまった――それくらいネコにとって三日月はどうでも良い人というカテゴリーにいるのだと思っていた。

「……っ……」

ネコの顔が真っ赤に染まった。
まさに完熟林檎のような赤さだ。
首も、耳も、柔らかな頬もすべてが侵食されていくかのように色づく。
暗がりでも分かるくらいの変化はネコにしては珍しい反応だ。
さらには視線を少し下げ、左右へと揺らしうろたえている。
唇はきゅっと噛み、微かに下がった口角は、恥じらいを隠しているように見えた。
(なんだコイツ。可愛いすぎかよ…)
いや、三日月の想いはそんなものじゃなかった。
胸の奥が痺れるように熱くなった。
謝るネコの声を聞いていた時、引き裂かれんばかりに痛んだ体の奥が、今度は熱くてたまらなくなる。

「俺、ネコには名前で呼んで欲しい」
「あ…や、ヤッチ―さん…?」
「じゃなくて最初に教えただろ。俺の名前は靖志だって」
「……で、でも…ぼくなんかが……」
「三日月でも靖志でもどっちでもいいからちゃんと呼んで欲しい。呼びたくないならヤッチ―でも…いいけど」
「や、や、やっ、すしさん!」

するとネコが食い気味に三日月の名前を呼んだ。
三日月としては逃げ道として苗字でも愛称でも呼びやすいように配慮した言い方のつもりだったが、ネコとしてはそれが不服だったようだ。
裏を返せば、ずっと三日月を名前で呼んでみたかったのだと分かる。
今まで我慢していたのだと分かる。
そんな遠慮いらないのに、ネコとしてはとても大事なことだったのだ。
もしかしたら何度かそれを打ち明けようとしていたことがあったのかもしれない。
だけど言えずにズルズルここまで来てしまった。
そこへきて急に友人だという男が現れた。
しかも親し気に愛称で呼んでいたのだからネコとしては面白くなかった。
(そう思うくらいには好かれていたのか、俺は)

「や…靖志さん」

ネコは噛みしめるようにもう一度三日月の名前を呼んだ。
言葉にして音の響きに喜ぶかのように一層頬は赤らむ。
三日月はその頬が甘く美味しそうに思えた。
だから無意識に手を伸ばして頬を包む。
温かくて産毛の柔らかな感触が手のひらに伝わる。

「ん、これでも俺、自分の名前を気に入ってるんだよ」
「自分の名前が、ですか?」

ネコは頭にハテナマークを思い浮かべるように目を瞬かせる。
悪意なく理解出来ないという表情だった。

「靖って漢字は、安らかなとか静かなって意味の他に善いとか清らかって意味があるらしいんだ」
「…………」
「俺、生まれた時はすげーデカくて、しかも朝も夜も泣き止まずにぎゃあぎゃあうるさかったんだと」
「靖志さんがですか?」
「そ。で、親父とお袋が、穏やかに――というかいつも心安らかで落ち着いた人間になるように、志を持って善い行いが出来る人間になるようにって急きょ考えた名前なんだとさ」

子どものころから繰り返し聞かされてきた名前の由来。
一緒に生活していたころは当たり前のように呼ばれていたけど、ひとりになって感じる。
自分は愛されて生まれてきたのだと。

するとネコは自分の頬を包む三日月の手の上から己の手のひらを重ねた。
柔らかく破顔した彼が慈しむように目を細める。

「素敵な名前ですね」

その眼差しに射られた三日月は、出口を失った想いが溢れるかのようにネコを抱きしめていた。

「や、靖志さん…っ?」

小さな体を己の胸に押し込める。
咄嗟だった。
ネコの頬に手を寄せた時とは違った無意識が衝動的にネコの体を求めていた。
手のひらにしか感じられなかった彼の体温を体中で感じる。
薄い皮膚を通して温もりを得る。
こんなこと初めてだ。
今までだって好きな人はいた。
それでも衝動に駆られて触れるなんてことは出来なかった。
三日月は臆病で奥手で相手の気持ちを先に考えてしまうから大胆なことなんか出来なかった。
だけど今はこうしたくてたまらなかった。
じゃないと心が破裂してどうにかなりそうだった。
ネコの背中に回した手に力を込める。
触れて実感する肉体差。
視覚から情報を得ていたはずなのに、実際に触れて改めて理解する。
小さくて細くてか弱い存在であるということ。
ネコを抱っこしてベッドまで連れてきたことはあるのに、まるで初めて触れるかのような衝撃が指先から伝わってくる。
きっと寒さのせいだ。
冷えた空気がよりネコの温かな体を際立たせているのだ。
互いの息が漏れる。
緊張しているのか微かに荒い。
左胸は固まったまま秒針より何倍も速く刻んでいる。

「あの…どうし……」

腕の中のネコが身じろいだから、さらに力を込めて抱きしめる。
放したくないという明確な意思だ。
頭では疑問符だらけなのに、体がネコと離れることを拒んでいる。
ずっとこの胸の中に置いておきたいという欲求が生まれる。
その先のことなんて何も考えてない。
だが、今この瞬間、こうしてネコの存在を感じていたかった。
初めて誰かを抱いた腕は力加減も分からず、ネコは少し窮屈な思いがした。
しかし不格好な抱擁は心地よくて逃げられなかった。
彼もまたこんな風に求められたことは初めてだったからだ。
されるがまま身を預ける。
そんなネコの態度が三日月の理性を削っていくことに気づかなかった。
三日月の本能が呼び覚まされてくる。
だってたまらないじゃないか。
長らく忘れていた気持ちだった。
面映ゆいとでもいえばいいのだろうか。
三日月だって男だ。
慕わしいとか恋しいとか綺麗な想いと同じ分だけ肉欲はある。
体の奥深くで淀んでいた血が波立ち騒ぐようなざわめきが聞こえる。
素性が不明だとか小さな少年だとか頭の端にあるストッパーは崩壊寸前だった。

「俺、俺っ…ネコのこと……っ」
「……っ……」

するとその時だ。
森閑とした室内にカサカサと音が響いた。
マンションの外だ。
すぐに音の主は判明する。

「にゃー」

猫だった。
正真正銘本当の猫だった。
静かな夜はその呑気な声を通らせる。
思わず二人の間が無言になった。
その鳴き声に誰より反応したのは腕の中のネコで、*

「……にゃー」

まるで自分は猫だったのだと思い出したかのように鳴いた。
聞いたことがないほど間抜けな声をしていた。
視軸を下げれば眉を垂らしたネコが困惑した顔をしている。
三日月はそれに思わず苦笑してしまった。
同時に気が抜けた。
張り裂けんばかりの興奮が潮が引くかのようにすうっと消えていく。
三日月はネコを抱いたまま寝転んだ。
彼を抱いていた力を緩める。

「あの…っその!」

するとネコは慌てたような声色で三日月にすり寄る。
体を離したくないと言いたげな様子だった。

「ネコは暖かいので一緒に寝たら湯たんぽ代わりになると思いますにゃ」

その必死さがおかしくて可愛くて、三日月はネコを抱いたまま布団を肩まで掛けなおすと笑みを深くした。

「じゃあこれからは毎回一緒に寝てもらおうかな」
「お任せくださいにゃあ」

出会った夜に見たネコとはまるで違う表情の彼が愛おしくて満たされた気持ちのまま眠りにつく。
今度は安らかな気持ちになれた。
きっとネコと少しは想いが通じ合えているような気がしたからだ。
だが、この時の判断はのちに後悔することになる。
二人の眩いばかりの青さが原因だった。

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