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三週間後の土曜日、三日月は御子柴と飲みに出ていた。
平日はネコが来ているせいもあり、夜に外食するのは久しぶりだった。

「目の下のクマ酷いけど、そんなに仕事忙しいの?」

大衆酒場のカウンターで生ビールを頼んだ二人は乾杯をすると、即座に御子柴が切り込んできた。
普段より声が張っているのは、休日夜の賑わいに負けないためである。
人気の老舗店はいつ行っても満席に近く、席を確保するのは運次第であった。

「いや、そんなことないけど……」

三日月は口を濁しながらも、分かるくらい顔に出ていたかと困惑する。
無意識に触って確認したくなるが、それでは認めてしまっているようで躊躇う。

「強がらなくていいよ。ヤッチ―ってばよく面倒な役割を押し付けられてしんどそうにしてたじゃん」
「それ学生のころの話だろ」
「ころじゃなくてからの話でしょ。今だって都合よく仕事を押し付けられてるくせに」
「…………」

御子柴の的確な切り返しにぐうの音も出ない。
付き合いが古いとこれだから嫌なのだ。
どんなに否定したところで説得力はなく、このまま学生時代の話を持ち出されたくない三日月は押し黙る。

しかし、仕事が忙しくないのは事実だ。
といって会社が閑散期のわけでも、上司や同僚が突然変わったわけでもない。
何も変化はない。
ただ三日月自身に心の変化があったせいだ。

話は昨夜に遡るが、

「すみません。A社とB社の概算見積書は出来ていますのでこれで失礼します。お疲れさまです」

定時で仕事を終えた三日月は、毅然とした態度で上司に謝ると、颯爽とフロアから出て行く。
その後ろ姿は、疲れたように猫背だったころと違い、背筋が伸びて堂々としている。

「お、おう。おつかれ」

残された上司とほかの社員は狐につままれたような顔で三日月を見送った。
一瞬だけフロア内が静かになるほどだ。
最近の三日月は死んだような目でパソコンに向かっていたころが嘘のように行動も決断も早く、営業成績だって悪くない。
てきぱきと事務に指示を出しているところを見た時は誰もが驚いた。
たった十数日の間に彼に何が起きたというのか。
問う気すら失せるほどの変貌だった。
そのせいで面倒な仕事を任せる隙もなく、今日も頼もうと思っていたのだが、上手く逃げられてしまった。
ほかの社員を見回してみるが、全員そそくさと顔をそらし帰る支度を始める。
上司は恨めしそうな顔でパソコンに向かうと、重い指をキーボードの上へ泳がせた。

今まで押し付けられるがまま仕事をこなしてきた三日月は、ようやく自分主体で決断する勇気を覚えた。
極力早く帰れるよう能率的に仕事をこなし、あまりに偏った残業依頼は断るか、翌日でも可能な場合は早朝に出社をして片付けた。
ネコのためだ。
自分だけの都合ならば、今も体よく扱われていたかもしれない。
だが、今は違う。
どれだけ残業で遅くなってもご飯を食べずに待っているネコがいる。
あの狭い家でポツンと待っていることを想像するだけで胸に迫るものがあった。

隠されてきた彼の素顔が日々の営みの中で見えてくる。
見せないからこそ見えてきたものだ。
豊かではない表情の裏にどれだけのものを抱えているのか、具体的にはまだ分からない。
だけど出会ってから断片的に見てきたネコの仕草、感情の揺れは、三日月に何度も考える余地を与えた。
無論、それを野次馬根性で暴く権利はないし、覚悟もない。
何より強引に聞き出すことでネコがいなくなることが嫌だった。
(野良ネコは所詮、野良だ。どれだけ愛情を注いでも引き留めることはできない)
三日月はネコのことを何も知らない。
本当の名前も、どこから来ているのかも。
だが、せめて傍にいてやりたい。
不思議だ。
愛と名がつく感情はいくらでもあるのに、導かれるようにネコに惹かれていく。
御子柴に剥き出しの嫉妬心を覚えた夜からこぼれるような恋しさが溢れてくる。
その気持ちをネコには伝えるつもりはない。
衝動的に抱きしめてしまったけど、それが過ちであると反省をした。
だから口には出さずに傍にいる。
ネコの抱えているものが楽になるまで、怪我をした猫を看病するように見守ると決めたのだ。
そのためには自分がしっかりせねばならない。
取り掛かったのが仕事だった。
三日月は新卒からずっと同じメーカーで営業をしている。
大体得意先は決まっているため、新規で取ってくることはあまりない。
元々製品に興味もなければ、売ってやるという気概もなかった。
落ちこぼれでもなければ、頼れるわけでもなく、雑務を任せるには最適な相手であった。
それゆえ同期の中には役職がつく者も現れる年齢になったというのにヒラのままである。

その三日月が初めて残業を断って帰宅した日は周囲は仰天した。
生意気だと腹を立てる社員もいた。
しかし三日月は忙しそうだった。
仕事量が多い日は朝早く出社して片付けている。
彼は今までの営業先を調べなおすと、新たな提案を持ち掛けようとした。
契約が切れてしまった会社までリストアップをして忙しなくアポをとっている。
だが、ヤケになってがむしゃらに仕事をしているようには見えなかった。
むしろシステマチックに思えるほど彼は要領よく動いていた。
故に定時で上がることも珍しくなかった。
そこまで合理的に動かれたら雑務だって押し付けにくくなる。
結果を残そうとしている人間に文句は言えなかった。
(ただネコに頼られたとき、受け止められるような人間になりたかっただけなんだけど)
いざ仕事に向き合ってみたら、そんなに悪いものじゃない。
楽しいと思えるようになるには程遠いが、以前より集中力は増した。
時計を見る回数が減った。
何よりも日曜夜の憂鬱さは軽減された。
……それはきっと、月曜日からまたネコに会えるという要因のほうが大きいのだが。

「と、とにかく、今までで一番仕事は順調だし、上手くやっているぞ」

三日月は鼻息荒く御子柴を睨みつけた。
ついでに女将さんにビールのおかわりを頼む。
しかし刺身をつまむ御子柴は反応もなく、飲み干したビールを机に置いた。
彼はウイスキーを注文する。

「ふーん。じゃあなんでそんな目の下黒いの?」

そして向き合い直すと、話題を続けようとする。

「俺にだって色々と…――」
「仕事じゃないとすると理由はネコちゃん?」
「聞けよ」
「だってこの間驚いたよ。ヤッチーんちに行ったら俺以外の誰かがいるなんて今までなかったことじゃん」
「…………」
「いーなあ。俺もあんな可愛いペット欲しー」
「あ、あいつはペットなんかじゃ!」

御子柴の言い方が引っかかってつい反論してしまった。
ムキになったところであの異常な関係は変わらないというのに、耐えられなかった。
口に出してから複雑な感情が絡みついて声を失う。
そう。
外から見たとき、あまりに三日月とネコの関係はおかしいのだ。
ネコと名乗る見知らぬ少年を夜な夜な保護者に無断で泊めている。
それはいつ警察に捕まってもおかしくないリスキーな行為だった。

「俺はヤッチーを信じているよ」

すると眉を引きつらせたまま下を向いて黙ってしまった三日月の横で、御子柴が柔らかく笑った。
まるで御子柴の思考を読んだかのような言葉だった。
三日月はそのまま視線だけ上げる。
賑やかな店内でそこだけ明かりを落としたように静かになった。

「不器用でお人好しで損ばっかして、出会った時は少し苛々したけど、知っていくうちにそれがヤッチーなんだって思った」
「お前俺を貶してるだろ?」
「そこはポジティブシンキングで行こうよ。つまりはさ、良いやつってこと」
「都合のいいやつだろ」
「ま、ね。要領良く生きてる人にとってはそうかもしれないけど、そんなのしかいなかったらとっくに地球は滅んでるって」
「地球って、いきなり胡散臭くなる話だな」

三日月は呆れたように横目で御子柴を見た。
その時、二人が注文したビールとウイスキーが運ばれてくる。
御子柴はウイスキーを軽く口に含むと目を細めた。

「とにかく、こうして付き合ってくれるのはヤッチーくらいだし、俺が未だに連絡を取りたいと思うのもヤッチーくらいだよ」
「俺は口説かれてんのか」
「あはは。男を口説く趣味はないけど、そう思うくらいには信頼しているって話」
「………………」
「だからヤッチーは自分の思ったとおり進めばいいし、俺は心配していないよ」

眩しいほど破顔させた彼に三日月は照れくさくて居心地悪そうに頷く。
彼にとっても都合の良い存在であると思い込んでいた分、どう反応していいのか分からなかった。
しかし今、御子柴の瞳は真っすぐ射抜くように三日月を見つめている。
彼は昔からいい加減なところはあるが、嘘をついたことはなかった。
少し釣りあがった奥二重は意志の強さを表わしているようで、整った顔立ちに華を添えている。
(こりゃモテるわけだわ)
恥ずかしさと気まずさの板挟みになった三日月は思わず顔を背けた。

「ば、ばーか。そういうは女にやってやれよ」

すると途端に御子柴の目の色が変わった。
また例の子持ち女性と何かあったようだ。

「ちょっと聞いてよー!」

先ほどまでの端正な顔立ちが急に歪む。
格好悪くなる。
結局この日も御子柴の愚痴を延々と聞いてやるのだった。

その後、飲みが終わったのは零時近くのことだった。
久しぶりということもあり、閉店間際まで飲んでしまった。
御子柴は大通りでタクシーを捕まえるとそのまま帰っていった。
三日月も自宅へ向かって歩き出す。
息も凍りそうな寒い夜、呼吸をするたびに冷えた空気が肺を満たした。
薄い雲が地上近くを流れ、透けた朧月は普段より優しい光を放っている。

「やめてっ、放してってば!」

そんな静かな夜に耳をつんざくような声が聞こえた。
ぼんやり空を見上げながら歩いていた三日月は、耳に響く甲高い声に振り返った。
駅前から続く商店街の通りに一組の男女がいる。
男に腕を掴まれた女は、険しい表情で振り払おうともがいている。
(痴話喧嘩か?)

「いい加減にしろ、騒ぐな」
「ムリっ…!嫌だって言ってるでしょっ、手を放して!」

女は嫌だと首を振り、必死に男の体を引き離そうとしていた。
その態度は明らかに嫌がっており、芳しくない雰囲気だった。
(……どうしよう)
恋人同士の喧嘩なのだろうか。
立ち止まった三日月は周囲を見回す。
終電間近だが、土曜の夜ということもあり、人通りはある。
彼らはその男女を一瞥すると、気にした素振りもなく疲れた顔で立ち去った。
皆自宅へ帰る途中なのだ。
三日月は止めようかと逡巡するが、男と目が合って思わず顔を逸らせてしまう。
(どうせ余計なことなんだ。関わらないほうがいいんだ)
握りしめた手に力を込めた三日月は、奥歯を噛みしめると逃げるようにその場から去った。
面倒ごとには関わらない。
自分が関わる必要はない。
繰り返し頭の中で言い訳が廻った。
足早になる体と相反して心は鉛のように重くなる。
先ほどより強くなった風に髪が乱れた。
漏れた息が風下へと流れて消える。
次第に誰の声も聞こえなくなる。
人気のない住宅街を過ぎて、誰もいない部屋へと帰る。
悪夢からの目覚めのように酔いはさめていた。
人の目から逃れるように部屋の鍵を開けて玄関へ入る。
早歩き程度で息を乱す肉体が激しく上下している。
電気はつけなかった。
暗闇は三日月の罪悪感を隠すには都合が良かったからだ。

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