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「疲れてるんですかにゃ?」

翌週の金曜日、寝室のテレビをぼんやり見ていた三日月に、ネコは窺うよう問いかけた。
人形のように無機質な表情だが声色は心配を滲ませている。
ネコの瞳の生気のなさに「疲れているのはお前だろ」と口先まで出かかったがやめた。
代わりに食後のお茶をすすり、丸いちゃぶ台の上に広げたお菓子を口にする。

「いや、平気だよ。今日も比較的早く帰ってきただろ」
「でも顔色が悪いような……」

ネコは三日月の顔を覗き込むと繁々見つめた。
邪気なくあどけない眼差しに三日月は瞠若し目を伏せる。

「あ、マッサージしますにゃ」

ネコは彼の変化に気付いているのか否か、いいことを思いついたと言わんばかりに背後へ回った。
肩を揉もうとしているのかネコの手が体に触れる。

「……っぅ……!」

その瞬間、三日月の皮膚に熱湯を浴びせられたような熱さを感じ、体中を稲妻が駆け抜けた。
触れたところから広がる痺れが血管を進み心臓へ到達すると思考を奪う。
そんな己に抗うかのように飛びのくと、目をかっぴらいて振り返った。
ネコもいきなりのことに驚いて目を丸くしている。

「どうし……?」
「あ、あ…っと……そういえば今日テレビでやる映画見たいって言っていたな。もう始まってる時間だぞ!」

三日月は落ち着かない様子で席を立つと、テレビ横に置いてあったリモコンを手に取った。
今まで見ていたバラエティからチャンネルを変えると、人気のスパイアクション映画に切り替わる。
まだ始まって数分のようで、ネコも大人しく元の場所に座り直した。
三日月は悟られないよう密かに安堵し、気を落ち着かせると距離を取るよう離れたベッドの隅に腰かけた。
(過ちはもう二度と起こさない)
御子柴と飲みにいった時より深くなった目のクマを擦り心に誓う。

あの時御子柴には言えなかったが、三日月がやつれている原因はやはりネコだった。
一緒のベッドで寝るようになり、ネコは嬉々として布団にもぐり込んでくる。
彼は出会い当初の警戒心が嘘のように安心しきった寝顔を晒した。
だが、三日月は健全な男だ。
そこでようやく気付く。
意識している相手と狭いベッドで眠る刺激には耐えがたい誘惑が潜んでいることに。
頭では己の本能を抑制し、見守るだなんだと偉そうに思いながら、実際にそういう状況になったとき、体は簡単に裏切る。
ほのかに甘い体臭と心地よい体温が欲望を増幅させ、少しでも気を抜けばネコに手を出しそうになってしまう。
(ダメな大人にもほどがあるだろ……)
今までそういう状況は未経験だったため、どうしても落ち着けなかった。
お陰で毎晩風呂に入るとき適度に自慰をして反応しないようにし、布団に入ったあとも我慢できない場合はこっそり布団から抜け出してトイレで抜いた。
じゃないと頭の中がいかがわしい妄想でいっぱいになり我慢が出来なくなりそうだった。
故に三日月は日に日にやつれていった。
(ネコに心配されるのは本末転倒だろう)
三日月は己の顔に触れた。
他人に気付かれるほど顔に表れていたというのは内容だけに恥ずかしかった。
まるで思春期の少年みたいだ。
抑えきれない衝動がマグマのようにぐらぐらと熱く滾り、いつ噴き出してもおかしくない。
その体に触れてしまったら、その瞳と見つめあってしまったら。
だが、別々に寝ようとも言えなかった。
今の状態が二人にとって不適切であると分かりつつ、あの温もりを手放したくなかった。
三日月は頭を抱える。
これでは根性なしのむっつりスケベだ。
割り切ることも振り切ることも出来ず悶々としている。
もし洗いざらい御子柴に話したら、また笑われてしまうだろう。
重いため息が漏れる。

「あ、……んっ……」

すると耳が女の甘い声を拾った。
何事かと顔を上げると、テレビ画面では男と女が抱き合っている。
そのうち濃厚なキスが始まり、いやらしい絡みに発展し出した。
映画の見どころのひとつが女性との絡みだった。
イギリスの諜報員である男は何でも完璧にこなすエリートだ。
女の扱いも手馴れている。
まるで三日月と正反対の人間だ。
いともたやすく豊満な女体をリードし、余裕ありげに微笑み、女を虜にする。
(おいおい地上波にしてはエロすぎるだろ)
今ごろ全国のお茶の間が凍り付いているに違いない。

「……っぅ……」

現にここも気まずさで窒息しそうなほど微妙な空気が漂っていた。
ネコの顔面は羞恥に硬くなり、少しだけ視線を下に落としながらも時折チラチラと見ている。
その小さな口元は微かに食いしばり、潤んだ瞳は照れと興奮と緊張を混ぜたような鮮やかな色をしていた。
普段表情が乏しい分、困惑する様子は信じられないほど愛らしく、それを知られまいと隠そうとしている姿が一層三日月の心を奪った。
(はぁ…くそ、かわいい……)
いつまでも目が離せず、ラブシーンが終わったのにネコを見つめる。
俯いた横顔の美しさに、瞬きする間すら惜しく胸を震わせる。
触れたいと疼く手を隠すようにシャツの裾を握りしめた。
どんな叙情的な台詞も霞むほど三日月の想いは深い。

「……………!」

その時、不意に目が合った。
視線を感じたネコが三日月のほうを見たのだ。
すると時が止まったような間が一瞬起こり、次の瞬間には時が動き出したようにお互い顔を背けた。

「こ、こほっ」

三日月は気を紛らわせるかのよう不自然に咳き込んだ。
ネコを見つめていたことが知られてしまった。
しかも己の下半身は元気になっており、トイレへ逃げるどころか体育座りのまま動けない。
原因が先ほどの映画ならネタになるが、それを見ていたネコの反応に興奮して勃起したなど口が裂けても言えるはずがない。

「あの」

するとネコが三日月のもとまでやってきた。
すぐ隣に腰をおろした彼がそっと三日月の太ももに触れる。
瞬間、三日月の背筋をぞわぞわとした何かが早馬の如き駆け上がった。
ズボンのキツさが増す。

「ぼくでよければお手伝いしますにゃ」

余裕のない三日月のことなど露知らず、ネコは取り澄ましたような涼しげな表情で言った。
あまりに普通に言うから意味を咀嚼できずに固まった。
その間に、ネコの細い指がするすると太ももを撫で、頑なに崩そうとしない体育座りの隙間を縫って股間に触れる。
服の上からでも硬くなったソレが分かるはずだが、ネコは手を止めない。

「はぁっ?…ちょっ、おまえ……なにやって!」

三日月は抗い逃げようと体をねじらせるが、ネコは離れようとせず、それどころか積極的なくらいに迫ってくる。
尋常じゃない状況に三日月の思考は停止したまま体を引き離そうとするが、子どものネコに乱暴は出来ず、ズボンの中に侵入を許してしまう。

「くぅっ」

少し冷たいネコの指が三日月の性器の裏筋をなぞった。
思わず噛みしめた唇から声が漏れる。
他人に性器を触れられる興奮と快楽は、今まで味わったことのない刺激と衝撃に彩られていた。
このまま意識を寸断させて芯から湧き出る快感に身を委ねられたらどれだけ幸せなことだろう。
流されるまま関係を持つ男女を馬鹿にしていた三日月は、同じ状況に立って己も同じ穴の狢なのだと嫌でも思い知らされた。
それくらいこの気持ちよさを手放すのは惜しかった。
性器と脳が直結しているかのように快感が頭に響く。
寄り添うネコの匂いがそれを助長させる。
まるで媚薬だ。

「大丈夫ですにゃ。ちゃんとやり方は知ってますにゃあ」

だが、耳にこの言葉が入ってきたとき、三日月はいきなり冷や水を頭からかけられたような気がした。
すっと腹の底が冷えた。
気持ちの良いことに支配されてぼやけていた視界が鮮明になる。
同時に性器に触れていたネコの腕を掴むと強引に引き抜いた。

「にゃ?」

ネコは唖然としていた。
そして全く悪びれた様子はなかった。
つい先ほど
「ネコ。もう一度聞く。お前は自分が何をやっているのか分かっているのか」

あれほど硬くさせていた性器が分かりやすいほど萎むから男の体は単純だ。
いや、繊細なのだ。
三日月はネコと向かい合うとその真意を問おうとした。
ネコが僅かに気まずそうに目を泳がせたのはわずかな間のことで、じっと三日月を見つめる。

「抜いてあげたかったんですにゃ」
「…………」
「………にゃあ」
「ネコ」
「わ、分かりましたにゃ。……あ、あの、気づかないふりをしていましたが、最近、夜一緒に寝ていると、靖志さんお手洗いへ行くじゃないですか」
「っ」
「始めは用を足す回数が増えただけだと思っていたんですが、心配になってトイレに追いかけていったら…その……」
「………………」

三日月は絶句した。
脳を揺さぶられるような驚愕に声が出なくなる。
ネコもまたそれ以上言えずに口をモゴモゴさせる。
親しい人の下半身事情に触れる気まずさは誰だってよくわかる。
道理ですぐに三日月の状態に気付いたわけだ。
(ネコの名前は口走ってないよな)
後ろめたいことがあるときほど人の思考はよく回る。
三日月は瞬時にこれまでのことを振り返ると、羞恥心でのたうち回りたくなった。
いっそこのままここで切腹させてくれとすら思った。
今なら腹を切る痛みにも耐えられる気がした。

「き、き、気を使わせて…わ、わ、悪かった」

動揺しすぎて呂律が回っていない。
せっかく映画の見どころであるアクションシーンが始まったのに、音すら耳に入らなかった。

「だ、だからってお前が手伝わなくていいんだよ。最近ちょっと疲れて溜まっていただけだし」
「ですがっ、別にぼくは……!」
「そ、それに男に触られたって萎えるだけだから」
「……っ」
「勘弁してくれ」

ネコは押し黙った。
まるで言いたいことを口元で堰き止めるように顎を震わせる。
その様子に気付けない三日月を責めることは出来ない。
彼もまた言葉に出来ない想いを抱えて、必死にこらえていたのだから。

「いいか、ネコ。俺はお前に何も求めていないんだよ」
「にゃー」
「だから何もしなくていいんだよ。お前は猫なんだから気を遣う必要なんてないんだよ」
「にゃー……」

そっとネコの頭を撫でる。
ネコは返事をするように鳴いた。
三日月は自分の中に眠る優しさをかき集めるように言ったのに、ネコの声はどこか悲しげだった。

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