***

それから一ヶ月後の金曜日の朝、三日月とネコはあくびをしながら朝ご飯を食べていた。
この一ヶ月ネコは三日月の家には来なかった。
その間に季節は移り変わる。
週間天気には雪マークが北海道以外消えて、そろそろ桜予報が始まる。
季節はゆっくり変わるようで、ある時を境に一瞬で切り替わる。

昨日の夜、ネコが久しぶりにやってきたが、彼は何も言わず、テレビを見て眠りについた。
三日月は内心冷や冷やしていた。
最後にネコが泊まりに来た日、寝ている彼に向かって告白まがいのことをしてしまった。
抑えきれずに気持ちを吐露してしまったのだが、もしかしたらあの時ネコは起きていたのかもしれない。
そんな三日月を気持ち悪がって来なくなってしまったのかもしれない。
そう思うだけで後悔が波のように繰り返し襲い掛かってきた。
今までもピタッと来なくなったりするが、一ヶ月は長すぎる期間で、さすがの三日月も動揺を隠せない。
元々ネガティブな性格もあり、どんどん悪いほうへと考えが導かれていった。
――が、ネコはひょこっと現れた。
その面持ちは相変わらず表情に乏しい。
それとなくあの時起きていたか聞き出そうとしたが、どうも知らない様子である。

「あ、そういえば今日金曜だろ」
「にゃ」
「たまには夜どっか出かけないか?今は仕事も忙しくないから定時で終わらせられるぞ」

テーブルの向かいに座り、朝食をとりながら話しかける。
三日月は精一杯歩み寄ろうとした。
先日の勃起事件以来、距離があるような気がしたからだ。
ネコはお気に入りのイチゴジャムをトーストに塗っていた。

「おかまいなくにゃあ」
「でもさ」
「それに今日は予定がってここには来れないにゃ」
「え?」

思わず食事をしていた手が止まる。

「予定ってなんだ?」

普段なら深く聞くことをしない三日月だったが、どうしても気になって問いかけてしまった。
ネコはジャムを塗り終えたトーストをモサモサと食べ始める。

「ネコの集会があるにゃ」

口いっぱいにトーストを頬張りながら、彼はそれだけ答えてくれた。
明らかな嘘である。
むしろネコの集会があるなら行ってみたい。
三日月は口先まで「本当のことを教えろ」と出かかったが、どうにかコーヒーと一緒に胃へ押し込んだ。
(嘘を言うのは知られたくないことがあるから)
そんなのもう慣れっこだった。
虚像だらけの生活でいちいちあれは嘘だこれは本当だなんて判断するのは無意味に等しい。
ネコはこの一ヶ月のことも語りたくないのか口を噤んだ。
いつもそうだった。
遠慮ではなく拒絶。
ネコのそういった態度に、三日月は何度も我慢と辛抱を覚えさせられた。

「ネコ。次うちに来た時、大事な話があるから、きちんと聞いてほしい」
「にゃー」

ネコは眉ひとつ動かさず頷いた。
その顔は心ここにあらずと言わんばかりだった。

――その日の夜、仕事は案の定、定時で終わった。
日中との寒暖差が大きい今の時期では、まだコートが手放せない。
特に今日は一日中重い雲が空を覆い太陽の光を遮っていたから骨身に染みる寒さだった。
午後の降水確率は40%。
微妙な数字で傘を忘れてしまったが、幸い雨は降っていない。
今日はネコもいないし、久しぶりに立ち飲み屋にでも寄って帰ろうか。
そんなことを考えながらエレベーターを降りてエントランスへ向かうと、そこにはよく知った顔がいた。
会社と無関係な男がソファーでくつろいでいる。

「やっほー」

御子柴だ。
無遠慮甚だしい態度で三日月に手を振る。

「お前うちの会社で何してんだ」
「なにってヤッチーを待ってた以外ある?」
「なんでだよ」

あまりにも当然のように言うから約束でもしていただろうかと考え込んでしまった。
しかしここ最近約束はおろか連絡もない。
まだ目の下のクマが酷かったころ飲みに行ったのが最後だったはずだ。

「一生のお願いを聞いてもらってもいい」

すると立ち上がった御子柴が三日月の前までくると頼み込むように手を合わせた。

「理由も知らずに聞けるか」
「いやあ、理由を言ったら聞いてくれないと思って」
「お前は俺に何をさせるつもりだ」

嫌な予感しかしないし、ここでほだされては御子柴の思うつぼなのだ。

「お願いお願い!」

しかし御子柴は食い下がった。
それまでの軽々しい態度から真面目な顔つきに変わる。
まるで人を仏のように拝み「ヤッチーにしか頼めないから」と頭を下げ続ける。
このまま土下座でもしそうな勢いだった。
ここまで必死な姿も珍しかった。
よく何度でも一生のお願いを使うやつがいる。
お前の一生は何回あるんだと突っ込みたくなるが、御子柴から「一生のお願い」を言われたのは初めてだった。
彼は昔から要領が良かったから、一生のお願いを使わなくても上手に人を使う術に長けていた。
その彼が理由も言わずに三日月に頼み込むのだからよほどのことではあるまいか。

「はぁ、分かったよ。分かったからワケを聞かせろ」
「ああんもう。だからヤッチー大好き」
「お前の好きは軽すぎるんだよ」

仕方がなく了承すると御子柴は破顔して抱き着いてきた。
会社のエントランスで勘弁してくれと引き離すが、力の強い彼に敵うわけもなく、いいように抱かれる。
内心早まったかと後悔するが後の祭りだ。
三日月は相変わらず頼まれると断れない性格にぐったりする。
(いや、俺は優しいだけなんだよ)
己に向けて言い訳をする。
付け込まれているだけなのだが、そこは目を瞑る。
人生を楽しく生きるコツはただひとつ、無理にでもポジティブでいることなのだ。

***

御子柴に連れられてやってきたのは三日月と御子柴の自宅最寄り駅だった。
向かう途中、理由は電車の中で聞いた。

「実は、元カノとよりを戻すことにしたんだよね」
「は?元カノって子持ちの?」

三日月は理解できないとでもいうかのように顔を歪ませる。
御子柴本人も同意のようで苦笑いをしながら頷いた。

「結婚を前提に付き合うことを決めた」
「決めたってどういうことだよ。少し前まで文句言ってたじゃん」

子どもがいたことが判明し、別れるが、そのすぐあと、町でほかの男と歩いているところを見つけた。
ショックを受けた御子柴は久方ぶりに三日月のもとを訪れるが、元カノへの愚痴三昧だった。
その後も繰り返し、彼女の愚痴は聞いてきたが、いつの間に復縁したというのか。
(……ん、待てよ)
三日月は電車のつり革を掴みながらふと考えた。
学生時代から人気だった御子柴は別れもあっさりしていて後に引きずることはなかった。
よほど酷い目にあった時は同じように愚痴をこぼしたが、次に会った時にはもう違う彼女が出来ていた。
それを見て御子柴を羨ましく思った。
三日月ならば、恋人が出来ることすら貴重なわけで、未練たらしくひとつひとつの恋愛を引きずってしまうだろう。
その御子柴があれだけ忘れられないというのもおかしな話だ。
しかも振ったのは彼であり、次へ行こうと思えば行けるポテンシャルは持っている。
御子柴は顔もよく、大手企業に勤め、年収だって三日月よりずっと良い。
加えて家柄だって悪くない。
以前は社長令嬢と付き合ってたくらい勝ち組の人間だった。
別にバツイチ子持ちと付き合うメリットはない。
(話を聞いている限りじゃ、人としてもあまり良くなさそうだし)
三日月は失礼にも勿体ないと思った。
だが、それを言えばまた「これだから童貞は」と言われそうで口を閉ざしていた。

「ん、大丈夫。ヤッチーの言いたいこと大体分かるから」
「えっ」
「実は一ヶ月前に彼女から連絡が来たんだよね。話がしたいってさ」

御子柴は複雑な思いを織り交ぜるかのように片方だけ口角をあげた。

「俺もよりを戻すとか初めてだし、彼女の状況を考えたら余計に信じらんない」
「ヤケになっているってわけでもなさそうだな」
「そういう自問はもう死ぬほどしたから。それでも忘れられなかったんだよね。今までの俺じゃありえない話なんだけど」
「………………」
「人間って面白いよね。時に選ぶ必要のないものを求めてしまう。頭ではもっと別にいいものがあるって分かっているのに、吸い寄せられるみたいにそれを選んでしまう」
「ダテ食う虫もいるもんだ」
「耳が痛い話です」

だが、そういう御子柴の横顔に後悔の色は浮かんでいなかった。

「でもどうしても放っておけなかったんだ」
「………………」
「彼女とも腹を割って話した。やっぱり口にしなくちゃ分からないことってあるじゃん。だからお互いに今までのこと、知り合う前のことも全部包み隠さず話したんだ。あ、前に話した別れた直後にいた男は誤解だったよ。そういうのもちゃんと話さないと分からないことだよね。彼女、夜の仕事もしててお客さんだったんだ」
「夜の仕事?いいのかよ?」
「ああうん。それは知ってたから。店外デートとかする人じゃないから勘違いしちゃったけど、事情もあったみたいだし」
「いや、お前そういうとこ案外潔癖そうだから夜の仕事なんか嫌だろ」

むしろ御子柴レベルと付き合える女性は大体大学でも高嶺の花だったり、キャリアウーマンだったりで、健全なイメージだった。
すると御子柴は俺の好みを把握してくれていて嬉しいとニヤニヤ卑しい笑みを浮かべたから三日月は肘打ちしてやる。

「イタタ、ふざけてごめんって。まぁそうなんだけど、昼も夜も働いてるって健気な話をされちゃーねー。理由は今思えば子どものためなんだけど、偉いなあー、支えたいなーって思っちゃうわけよ。散々いいとこのお嬢さんと付き合ってきたからなおさらね」
「…………」
「惚れた弱みというか。…そもそもなんでこんな好きになったのか自分が一番分からないんだけどね。ま、色々あったんだよ」

三日月のほうを見た御子柴は曇りなき眼で笑う。
その色々こそ最も聞きたい部分だったが、下車する駅へと着いてしまった。
金曜の夜は賑やかで、駅はたくさんの人で溢れかえっている。
電車から降りた三日月は空気の冷たさに身震いした。
ようやく春らしくなってきたのに、いきなり真冬に戻ったような冷えた風が頬を撫でる。

「んで、これからその彼女と息子さんに会うから、ヤッチーも一緒によろしく」
「はあ!」

改札を出たところで携帯を取り出した御子柴が、あまりに軽々しく口にするから三日月は固まってしまった。
ここに来るまで彼女と復縁したことを聞かされていただけで何も知らなかった。
(息子も一緒って)

「なんだそれ。一生のお願いってそれか!」
「だってさすがに自分の息子になるだろう子に会うなんて緊張するじゃん!俺こんなだし」
「知るか!俺を巻き込むな、バカ!」
「お願いだよー、ヤッチーしかこんなこと頼める人いないんだよー」

三日月は勘弁してくれと頭が痛くなった。
友人の彼女とその息子に会うなんてどんな集まりだと突っ込みをいれたくなる。
三日月は部外者で無関係だ。
そんな気を遣うだけの集まりなんて大嫌いで今すぐにでも逃げ出したくなる。
三日月はふざけんなと文句を言って帰ろうとした。
それを御子柴が体を張って止める。

「お願いお願い!まじてヤッチーだからお願いしているんだってば」
「はぁっ?俺だって無理だから。コミュ障なのはお前だって知ってるだろ」
「嫌だ、絶対に離さない」

人々の喧騒の中、ぎゅっと掴まれた手が震えている。
強く握られた手はどれだけ力を入れても放せそうにない。

「一生のお願いだから」

御子柴はお得意の軽口も叩けないほど切羽詰まった声で小さく呟いた。
こんな風に懇願された覚えもなく、振り払おうとしていた手を思わず緩めてしまう。

「なんで俺なの」

彼は昔から友人がたくさんいた。
なんだかんだの腐れ縁が続いているとはいえ、頻繁に会うほどの仲でもなく、もっと飲みに行く回数の多い友人だっているはずである。
だが、ここぞという時、いつも御子柴は三日月を求めた。

「やだなあ…。いつも言っているじゃん。ヤッチーを信頼しているからだって」

手を掴まれたままの三日月は御子柴をまっすぐ見つめた。
真意を探るよう剃刀のように鋭く射抜く。
その態度に御子柴はただ優しく見つめ返した。

「信頼は一日二日で出来るものじゃないよ。長い時間見てきたから思えることだよ」
「信頼なんて、そんなたいそうなやつじゃねえし、俺は――」
「いつも言ってるじゃん。ヤッチーはいい人だよ」

三日月が否定しようとするのを分かっていたように御子柴は口を挟む。
それが悔しくて三日月はムッとする。

「俺だっていつも言ってるだろ。都合のいいやつだって。……だいたい、いい人なんてクソみたいだ。打算があるかもしれない、ただ人に嫌われたくなかっただけなのかもしれない」
「打算だとか嫌われたくないとかは関係ない、人の価値は人の数だけあるよ」
「…………」
「他人には都合が良いだけの存在だって、俺にとっては全幅の信頼を置けるだけの価値になる。そういうものだよ」
「御子柴」
「正直俺も相手の子どもに会うなんてビビってどうしようかと思ったけど、ヤッチーと一緒なら安心して会えるって思ったからお願いした」
「………………」
「ヤッチーは昔から自分自身を卑下するけど、俺にとってはそれくらい価値のある大事な人なんだよ」

駅前の人通りが多いとことでいい年をした男二人が手を繋ぎ、愛の告白みたいな恥ずかしいことを言っている。
御子柴はどこにいても目立つやつだから、視線が痛いほど背中に刺さってくる。
(なんなんだよ、この状況は)
見つめる眼差しの深さは、見たことがないほど真剣で逸らせない。
訴えかけるような目つきに思わず唾を飲み込んだ。
(嬉しいなんてアホか)
薄い皮膚を通して御子柴の真摯な気持ちが伝わってくる。
(呆れるほどの女好きが、なに男を口説いてんだよ)
学生時代からの腐れ縁。
だが、その縁を続けさせるのがどれだけ難しいか、社会に出れば誰でも分かる。
年を取るほどに家族や友人の縁は薄くなるし、新しい仲間を作ることの難しさも知る。
三日月は趣味がなかったし、ひとりを好んだから、社会人になってからも友人は出来なかった。
それぞれがそれぞれ生きている場所で根を張り、新しいコミュニティを作る。
そんな当たり前のことから置き去りにされたまま生活をしていたのに、御子柴だけはいなくならなかった。
いつも嫌がって適当に相手にして、友人らしいことなんてしてこなかったのに、御子柴は気取らず変わらずごく自然に三日月と笑って馬鹿な話をした。
それがこんなに大切なことだと、今の今まで気づけなかった。

「御子柴、あのさ――」

三日月は顔をあげた。
だが、彼の言葉は甲高い声によってかき消されてしまった。

「ご、ごめんなさい!遅くなりました」

その声に三日月と御子柴は振り返る。
すると人ごみの中から見覚えある顔が現れた。 

「はぁ、はぁっ…み、御子柴くん…っ」
「……っ……!」

綿菓子みたいにふわふわした髪が揺れている。
息せき切って現れたのは、先日三日月が男と言い合っていたところを助けた女性だった。
走ってきたのか巻いた髪が乱れている。
三日月はその顔を見た時、目を見開いたが、その驚きは次の衝撃によってかき消された。
後ろからランドセルを背負った少年が顔を出す。

「えっ―――」

同時にその場にいた全員の顔つきが変わる。
女性は三日月を見て驚喜の声をあげ、御子柴は少年の顔に幽霊でも見たような吃驚を目に宿す。
三日月に至ってはこの場で卒倒しそうな勢いだった。
(ネコ……!)
御子柴の彼女の息子として現れたのはネコだった。
人違いかとじっくり輪郭をなぞるように見つめるが、他人の空似ではない。
頭が真っ白になる。
すると途端に今見えている景色は色あせ、ネコ以外の人の顔がただの記号にしか見えなくなった。
脳内を強力な洗濯機でぐるんぐるんにかき混ぜられているような気分だ。
もし三日月が体の弱い少女であったなら貧血で倒れていたかもしれない。
自分でも血の気が引いていくのが分かる。
奥歯の震えが抑えられないくせに手足に力が入らない。
三日月はもう一度焦点の定まらない目でネコを見ようとした。
だがネコは素知らぬ顔をした。
ネコは他人のフリをしたのだ。
三日月との生活はなかった。
あの長く温かな日々は所詮知られてはならない闇の秘密なのだ。
御子柴は気付かれぬようそっと視線を隣の三日月へ移す。
その場がまるで冷凍庫のように固まると、それぞれが答えのない正解を求めて逡巡した。

「あ、あなたは……」

その中で唯一ぱあっと顔色を明るくした女性は、ほかの三人の様子など気づきもせず三日月に声をかけた。

「もしかして御子柴くんのご友人って…」
「あ、えっと…あの」
「やだ、こんな奇跡みたいなことが起こるなんて…嬉しいです!」

ここに来るまで多少なりとも緊張していたのだろう彼女は、それを解くようにへにゃりと力の抜けた笑みを浮かべた。
まるで少女のように純粋な笑顔が、妙な空気を柔らかく包む。

「は?えっ、ちょっとなに!なにも聞いてないんだけど!」

御子柴は三日月と女性の間に入ると僅かに声を荒らげた。
さすがの彼も混乱しているようだった。

「あずささんヤッチーにまで手を出したの!ヤッチーは俺のだからそれだけは絶対に許さないよ!」
「いつお前のものになったんだよ。だいたい怒るとこ違うだろ」

それでもいつものペースを保とうとする御子柴に、三日月の頭も冷えてくる。
この時ほど御子柴がチャラいやつで良かったと思わずにはいられなかった。
あずさという名の女性は二人のやりとりにクスクスと笑う。

「ほら、この間話したでしょ。助けてくれた人がいたって」
「あ……」

するとあずさは三日月の前まで来て頭を下げた。

「ありがとうございます。あの時、あなたにまだ大丈夫って言われて覚悟が出来たんです。もう一度御子柴くんと話そう、きちんと自分の気持ちを伝えようって」
「や、別に…そんな俺…たいそうなことしてないですから」

三日月は狼狽してあずさの頭を上げさせるが、御子柴に後ろから抱きしめられて身動き取れなくなる。

「ちょっ……」
「ああんやっぱりヤッチー最高!好き、大好き!結婚して!」
「馬鹿か、彼女とその息子さんの前で何ふざけたこと言い出すんだよ!」

どんな場面かと頭が痛くなる。
恋人とその息子の前で男にプロポーズをする御子柴も、その様子を微笑ましく見守っているあずさも理解できなかった。
ただ三日月は御子柴の腕の中でもがくしか出来なかった。
するとその体が突然引き離される。
ネコだ。
ネコは冷酷にも思えるほどの冷えた瞳で御子柴を睨みつけると、思いっきり体を突き飛ばした。
突然のことに御子柴も避けられず尻もちをつく。

「幸希(こうき)……っ?」

咄嗟にあずさは声を荒らげたが、彼は彼女のことも突き飛ばした。
痛そうに転んだあずさに、ネコは僅かに表情を曇らせるが、一瞥しただけで走り出してしまう。
周囲は騒然とした。
人々は物珍しそうにこちらを見て、首を傾げ去っていく。
いきなりのことに三日月は追うに追えず、御子柴とあずさを起こそうとした。
あずさは御子柴に繰り返し謝り続け、

「今のが息子の幸希です。急にこんなことしてごめんなさい。私が悪いんです。本当は人を傷つけるようなことをする子じゃないんです。いつも私を助けてくれて……」

彼女は涙がこみ上げるのも構わず切々と詫びながら息子を庇い説明をする。
いつも母親を理解してくれる子。
掃除や洗濯、ご飯まで作ってくれる子。
どんなことがあっても不平不満を言わない子。

「……でも…」

何も欲しがらない子。
何も教えてくれない子。

「この町に引っ越してきてしばらくした頃から息子の態度がぎくしゃくするようなりました。何度か話をしましたが大丈夫の一点張りで何も聞けませんでした。でも御子柴くんとのことは応援してくれて。今回も喜んでくれたと思っていたんですが、やっぱり無理かもしれません」
「あずささん……」
「もう息子に辛い思いをさせたくないんです。ここ数ヶ月、夜に家をあけても止めるどころか叱ることすら出来なかった。ようやく話が出来たのが一ヶ月前なんて私は母親失格です」
「待って」

三日月はあずさの言葉を遮った。

「今結論を出すのは早いです。それじゃこれまでと何も変わらない。また逃げるんですか」

三日月はネコが走り去っていったほうを見つめる。
心の表層を撫でるのは怒り、悲しみ、そして寂しさ。
己の心臓を掴むようにぎゅっと拳を握る。

「あなたが母親失格なら、俺は人間失格です」
「…え……」

心の奥にあるのは無常。
あずさは三日月の言葉の意味を理解出来ていなかった。
きっとネコが三日月の話をしていないのだ。
己の罪の重さにのたうち回りたくなるが、そんなものいつでもできる。
(これで終わりじゃない)

「御子柴。必ず俺がネコを連れ戻すからお前は彼女と家で待っていろ」

手分けして探したほうが合理的だと分かっている。
でも三日月は自分の手でネコを見つけたかった。
いや、今彼を見つけなければ後悔すると思った。
三日月の胸の奥で常識という名の楔が壊れる音がする。
途端に溢れ出る想いは収集不可能だ。

御子柴は三日月のやけに精悍な横顔に黙って頷いた。
彼は三日月の一番の理解者である。
それは今までもこれからも変わることはなかった。

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