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三日月はそれから街中を探し回った。
社会人になり運動をしなくなった体はやけに重い。
こんなことなら少しくらい走っておけば良かったと後悔するが今さらな話だった。
小さな街といえど探す場所は数えきれないほどある。
早く会いたくて焦がれるような気持ちに急かされながら、スーツ姿で駆け回る。
寒くて着ていたコートはいつの間にか荷物として抱えるようになった。
ネコは自分の家には戻っておらず、三日月も自宅に戻るがそこにもいない。
(俺はネコのことを何も知らない)
人で溢れた駅前、賑やかな商店街、その隙間を埋める小道に、葉の落ちた街路樹が並ぶ住宅街。
息を切らし思い当たる限りを調べるが、どこにもネコの姿はなかった。
そのたび痛切に感じる。
彼との間には何もないのだ。
理解や思い出に共通するものはない。
だが三日月は首を振って思考を払った。
自分がネガティブであることは分かっている。
被害妄想に取りつかれるのはネコを見つけた後でいいし、今悪いことは考えてはならない。
人の心はあまりに脆い。
どれだけ強い決意を見せても、その隙間から不安は静かに侵食していく。
悪いほうへと考えるのは傷つきたくないからだ。
自分の想像の中だけで痛めつければさほど辛くないし、実際その通りになっても「やっぱりそうなると思った」と賢い己でいられる。
守ることは悪いことではない。
でもそれによって上手くいかないことに慣れ、諦めに従順になってしまうことが心のどこかで引っかかっていた。
そんな自分に嫌気がしていた。

「あ……っ」

すると三日月は立ち止まった。
ないと思っていたネコとの思い出を辿る。
細く少しでも強引にすれば切れてしまいそうな記憶の糸を引く。
三日月は慌てて近くのコンビニに飛び込んだ。
そこでネコの好物のプリンを見つけると手に取る。
必死の形相をした男がプリンひとつをレジに出す姿は異様で、店員は少し訝しそうな顔をしたが、黙ってスプーンと一緒に袋へ詰めてくれた。
受け取ったビニール袋の微かな重みが今は嬉しい。
同時に瞼を閉じた暗闇にネコの綻んだ顔が蘇る。
彼はこのプリンがとても好きだった。
些細な思い出だとしても、思い出せたことが嬉しくて三日月の心に優しい火が灯る。

コンビニを出ると、空が僅かにゴロゴロと鳴り出した。
重い雲が陰鬱な風を呼び、普段よりも濃い闇を漂わせる。
もう結構な時間が経っているのか、人影が少なくなっていた。
携帯を取り出すが御子柴からの着信がないということは、まだネコは家に帰っていないということか。
心配は募る。
どこで、どんな思いでこの暗い空を見上げているのだろうかと想像するだけで先ほど感じた暖かみが消えていく。
早春の痺れるような寒さが痛みの感覚を際立たせる。

プリンを手に辿り着いたのは、ネコと出会ったゴミ捨て場だった。
いるはずがない、いないで欲しいという思いがどこかにあり、行くのを躊躇っていた。
またゴミに埋もれたネコを見つけたら、きっと三日月の胸は潰れてしまう。
しかしもうゴミ捨て場しかなかった。

「ネコ……いないのか?」

唯一の頼みであったゴミ捨て場は、相変わらず金曜の夜で凄い量である。
三日月はどこかにネコが潜んでいないかとゴミを漁った。
飲食店のゴミは臭くて汚い。
普段なら近寄るのも躊躇する場所であるが、ネコのためなら構わなかった。
三日月は顔を顰めながらも手を止めず、その名を呼び続ける。
(……そもそも、あいつはここでなにをしていたんだ)
ゴミを片手にふと当時のことを振り返る。
初めてネコを見た時、それが人間の子どもだと気付かずぎょっとした。
ゴミの中で蹲るように座っていた彼は生気がなかった。

〝「ゴミの気持ちを考えていたんだにゃあ」〟

あの時はその姿と語尾が強烈すぎて忘れていたが、ゴミの気持ちなんて考えたことがなかった。
多くの人はゴミの気持ちなんて考えない。
考える必要がない。
では、考えなくてはならないという状況はどういうものなのだろうか。
ひとりゴミ捨て場に立ち尽くした三日月は、その心情を推し量るように記憶の中のネコを呼び起こすが、曖昧な姿は霧のように消えて触れられない。
どれだけ三日月が慮ったところでネコの気持ちはネコにしか分からない。
当たり前のことなのに三日月の心はひりついた。
指先から血が凍っていくように冷たくなる。
ゴミ捨て場から見ていた景色。
小さく向けられていたSOS。
自分をネコなのだと思い込もうとしていた少年。

「みゃあ」

するとその時、ゴミ山の端でガサガサと何かが動いた。
ネコかと目を見張るように視線を向けると、一匹の黒猫が現れる。
本物の猫だった。
思わず動きを止めた三日月に、猫は再び「みゃあ」と鳴いた。
しなやかな肢体は、まるで断崖絶壁をくだる山ヤギのように軽やかで、リズムよくゴミの山を下りる。
ネコは人間との歴史が長い動物の中で最も野生を残しているといわれている。
警戒心は強く、獲物を見つめる眼力は鋭利で美しくさえある。

「はぁ、びっくりした」

三日月は肩を落としながら再びゴミの間を掻き分けようと思ったが、黒猫が傍から離れなかった。
闇夜に同化した体と光る瞳。

「どうした?」

やけに人慣れしている猫だと思い触れようとするが、途端に逃げるように距離を取られてしまった。
どうやら三日月の勘違いで人間には慣れていないらしい。
いや、遊ばれているのかもしれない。
(なんなんだ)
猫と遊んでいる暇はないのだ。
三日月は鬱陶しく思いながら次はどこを探そうかと思案していると、再び猫が寄ってくる。

「みゃあ」
「……ん、お前怪我しているのか」

すると傍まで来たところで左足に大きな傷跡を発見した。
だいぶ時間が経っているのか血は出ていないし、動きに支障もなさそうだが、そこだけ毛が薄くなっている。
再び三日月の脇をすり抜けた猫は道の奥を示すように振り返り、尻尾を立てた。
まるで「こっちだよ」と三日月を正しい道へいざなっているようだった。
(そんな馬鹿な)
それこそSFの世界である。
我に返った三日月は愚かだとかぶりを振った。
焦っているからといって安易な夢想を抱くのは現実逃避以外の何物でもない。
今はネコを見つけることが最優先なのだ。
三日月はゴミの山から身を引くと、スーツの汚れを払った。
猫はいつまでもその場を動かず、じっと三日月を見つめている。
その姿には既視感を覚えた。
(そういえば昔保護した猫も左足を怪我していたっけ)
だが、あれは子どものころの話であり、場所だって東京ではない。
あのときの猫がこんなところにいるわけがなかった。
それこそ夢物語である。
だが、黒猫はまだこちらを見ている。
三日月に起こっている出来事のすべてを見透かすように、鋭く、奇しくも慈しみに似た眼差しを向けている。
――待っている。
黒猫と目が合ったとき、唐突にそんな気がした。
三日月は咄嗟にその考えを打ち消すが、直感は粘り強く脳の裏側にこびりつく。
そもそも先ほどから繰り返し否定をしているのだが、どこか可能性を潰しきれない自分がいた。
三日月は信じたいのだ。
起こり得ない事象を奇跡と呼びながら、実は、起こり得る事象しか奇跡と呼ばない。
今この身に降りかかっているのが夢想ではなく奇跡の一端であると思いたかったのだ。

三日月は、藁でも掴むような気持ちで黒猫へと近づいた。
すると黒猫が駆け出したからそのまま追いかける。
黒猫は、時々三日月がちゃんと着いてきているのか確認するように振り返り「みゃあ」と鳴いた。
三日月にはついてこいと言っているような気がした。
走るスピードも気遣うように人間が追えるくらいである。
ただ三日月から逃れたいだけ、興味がなく遊んでいるだけなら、人が追い付けないくらいの速さで駆けるのは容易だし、家と家の隙間に入ってしまえば奇妙な追いかけっこはあっけなく終わる。
それでも黒猫は先導するように黙々と道の中央を走っていた。
三日月をどこかへ導こうとしている。
客観的に見ればそんなのありえないし、そもそもこの猫がそんなことをする必要はない。
だが、時折振り返る猫の横顔には意味深い視線を漂わせており、追いかけずにはいられなかった。
黒猫が横切ると縁起が悪いだとか、魔女の使い魔であるとか、黒猫の忌み的印象は強い。
その反面、幸運の象徴として大切にしている地域もある。
少しだけ角度を変えてみれば、黒い猫にはそれほど恭しさがあるということなのだ。
神聖でもあり、邪悪にも見える崇高な顔立ちは、どこか人を惹きつけてやまない。
現に三日月も黒猫を追いかけながら、ふつふつと希望が湧きおこっている。
そうして街中を抜けると、黒猫と三日月は河原に出た。
闇で塗りつぶされた川が静かに横たわっている。
長く続く遊歩道には疎らにしか街灯はなく、川を挟んだ向こう岸にあるいくつもの建物がぼんやりと鈍い光を放っていた。
そのとき頭上からポツポツと雨が降り始めた。
濁った空から落ちてくる雨粒が三日月の頬を涙のように濡らす。
降り始めの数滴はすぐに激しくなり、黒い幕面にかすれるよう銀の雨が夜の河原に降りしきる。
耳には砂嵐のような騒がしい雨音が木霊する。

「あれ……?」

すると、つい先程まですぐ前を走っていた猫がいない。
いつの間にかいなくなっていた黒猫に、三日月は辺りを見回した。
ほんの一瞬目を離しただけなのに、まるで始めから存在していなかったように黒猫はいなくなっていた。
三日月は肩を落とした。
やはり無意味な遊びに付き合ってしまったと喟然として嘆息を漏らすが、視線はある一点で止まった。
土手の上にいた三日月は、見下ろすように小さな背中を見つける。
(……っ……!)
ネコだ。
見間違えるはずのない後姿に信じられない思いでいっぱいになるが、その姿の寂しげなことに身を切るような痛みが溢れる。
雨は容赦なく肌に当たり、皮膚に感触を残して跳ね返る。
漆黒の冷えた雨がネコと三日月の体温をじわじわと下げていく。
量を増した雨はこの世を責めるように天から落ちて地面に染みこんでいく。
ネコはそれでも微動だにしなかった。
三日月の存在に気付かないまま背を向け、黙って黒い川を見ている。
いつからここにいるのか、なにを見ているのか、解らない。
視界が霞むほどの大粒の雨がネコの姿を儚くおぼろげに見せる。

「ネコ」

大きな覚悟をのみ込んだ三日月は、ネコの傍まで行くと、いつもと同じ声色で声をかけた。
意識をしないように努める。
だが、それでも動かないネコに、三日月は彼の正面へ回った。
ネコに返事はない。
表情もなく、白く塗られた京人形のように生が感じられない。
黒で染まった瞳は前を見つめたままこちらを見ようとしない。
感情が湧かないというのもひとつの感情だ。
だから三日月は動揺しなかった。
また初めに戻っただけだ。
三日月に心を開く前の彼は、いつもこんな風に神経の欠落していた顔をしていた。
すべてを見てきた目は絶望を過ぎて諦めを映している。
怒っていたら良かったのに。
泣いていたら良かったのに。
ネコの顔は濡れていたが、無神経な雨に打たれていただけだった。

「ネコ、帰ろう?」

三日月はありのままのネコを受け入れるように手を差し出すと微笑んだ。
笑う場面ではなかったかもしれない。
そもそも笑うのが苦手な三日月は、表情もぎこちなく酷い顔をしているかもしれない。
それでも胸の痛みを形にはしたくなかった。
ネコに反応はない。
出した手は受け入れられず、掌には雨粒が溜まる。
滑稽な光景だ。
容赦ない雨風が二人に吹き付けられる。
寒さは芯まで染みて凍え死んでしまいそうだ。
それでも三日月は手を引っ込めない。
強引に引っ張って帰ることも出来たが、あくまで返事を待つことに徹する。
ネコに選択の自由を与える。
いつまでもここにいたいのなら共にいる。
何時間でもこの手を差し出したまま待てた。
彼の望みを聞きたかったのだ。

だが、残念なことに気持ちと体の反応は別なのだ。
体温の低下により、出した手が僅かに震えている。
寒さで悴んだ手が体温を上げようと、本人の感情を無視して小刻みに震える。
それが生きるということだ。
人の意志など無視をして、細胞は、内臓は、神経は、生きるために動き続ける。
しかし男として情けなかった。
ここでいつまでも優しく待ってやれたら格好いいのに現実は上手くいかない。
それでも三日月は手を差し伸べ続ける。
体は限界でも気持ちは負けたくなかった。
だって大切なのだ。
ネコのことは何も知らないし、向き合うのも避けていた。
それでも大事でたまらない存在だった。
涙ぐみたくなるほどの愛おしさは消せない事実だ。
するとその様子に気付いたネコが微かに唇を噛みしめた。
人形から人間に戻った瞬間にも見えた。
焦点の定まらなかった瞳に光が灯ると微かに揺れる。
あまりに切なく優しい顔をした彼と目が合う。

「にゃあ」

ネコは自分の手を三日月の差し出した手におずおずと重ねた。
彼の手も三日月に劣らず冷えて震えている。
だが、冷たい手のひら同士でも繋ぐと温かくて心がほぐれていくようだ。
(……まるであの時のようだ)
小さな手の感触を思い出すよう握る力を強める。
あれは出会ってから二度目のゴミ捨て場。
三日月の差し出した手に、ネコは戸惑いと躊躇いを残しながら触れた。
きっとネコにとっては大きな決断であっただろう。
むしろ三日月がどんな人間かも分からないのに、よく手を取ってくれたものだ。
だが、あの瞬間、二人の気持ちが繋がったような気がした。
走馬灯のような記憶の映像が、遠い過去のようで昨日の出来事のように瑞々しく蘇る。
でも、ネコは今ここにいる。
思い出だけで終わることのない実感が、ネコの手を通して伝わってくる。

「さ、家に帰ろう」

三日月はこの場で抱きしめてやりたい衝動を抑えると柔らかく微笑んだ。

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