***

二人は全身ずぶ濡れで三日月の家まで帰ってきた。
道中二人は無言だったが、繋いだ手だけは離さなかった。
ネコの手は小さくて、握り返す力も弱い。
その分、三日月は強く握りしめて手を引く。
玄関を入って直行させたのは風呂で、ネコも大人しくそれに従った。
いや、従ったのではなく、まだ意志が薄弱としていて、なすがままであったのだ。
だからネコの服を脱がせたのも、シャワーのコックを捻ったのも三日月だった。
冷えた風呂場に湯気が舞う。
紫色の唇をしたネコは、河原にいたときより生気が宿っているが、相変わらず表情は虚ろである。
(とりあえず体を温めるのが先だ)
三日月は寝室に戻ると着替えとバスタオルを持って再び脱衣所のドアを開けた。
曇りガラスの向こうで体を洗っているような音が聞こえてひとまず安堵する。

「ちゃんと温まれよ」

三日月は雨に濡れたネコと自分の服を洗濯機に入れ、床に置かれていたランドセルを手に取ると声をかけて脱衣所を出た。
外は変わらずの豪雨で、窓に当たる雨がパチパチと音を立てている。
テレビをつけるが雨音の大きさが音声を消すため、普段より音量をあげる。
ネコがシャワーを浴びている間に暖房をつけ、湯を沸かし、プリンは冷蔵庫へ仕舞った。
息つく間もなく御子柴に電話し、状況を説明する。
今のネコを自宅へ帰すのは憚れ、一晩預かる許可を得る。

「分かった。明日迎えに行くから」

御子柴は「こっちのことは心配するな」と明るい声で笑った。
彼らしい気の遣いかただった。
こんな状況でも御子柴の結婚に対する決意は揺らがなかった。
普通子持ちでもハードルが上がるのに、親子の間に複雑な事情のある家庭に入っていこうとするのだから凄い。
もはや悔しさなど湧かず、つくづくいい男だと褒め称えてやりたくなる。

その後、電話を代わってあずさが出ると、しきりに謝られてしまった。
電話口の向こうで深く頭を下げているのが見えるほど、彼女は己の不出来を悔い、声を震わせて謝罪をする。
だが、その態度はどこか腹を括ったようにも思えて、三日月は初めてあずさが母親に見えた。
むしろ現状問題があるのは三日月だ。
無断で未成年を保護していた行為はどれだけの善意があっても誘拐罪にほかならない。
あずさが訴えれば三日月は簡単に前科がつく。
そういうことをしていたのだ。

「あずささんは悪くありません。俺が、ただ……幸希君と一緒にいたかっただけなんです」

目を瞑れば楽しかった日々が蘇る。
ほとんどがこの狭い家の中で起きたことで、特別な出来事なんてなかった。
ただ、ネコのいた日常が幸せだった。

三日月は話を終えて電話を切ると、意を決してランドセルを手に取った。
外側の濡れているところは全部タオルで拭いているが、それでも湿った感触が手にまとわりつく。
記憶の中のネコは、このランドセルを触ろうとした三日月を睨み、乱暴にも思えるくらいの力で取り返した。
あのときは、正体を知られまいと隠したのだと思った。
ネコにとって不都合な証拠がたくさん入っているランドセルは、他人に見せてはならないものであると思ったのだ。
(……じゃあ、どうしていつも持ち歩いていた?)
見られたくないなら必要のないときは家に置いておけばいい。
それでも彼が持ち歩いていたのには訳があった。
答えは簡単だ。
それは母親の目に触れることを嫌がったからだ。

三日月はランドセルを静かに開けると、微かな驚きに肩をあげたまま一瞬だけ息を止めた。
己の目を疑うように泳がせたが、唇を噛みしめると、もう一度しっかりと目に焼き付ける。
ランドセルを開けた内側には、子どもが書いたとは思えないような罵詈雑言が油性ペンで書かれていた。
傷つけるためだけに書かれた言葉は、目を覆いたくなるような凄惨さで見た者へ圧力を与えると、心臓の奥深くに突き刺さる。
腹の底で怒りが煮えるような音を聞きながら、ゆっくりと言葉のひとつひとつを辿る。
まるで黒い文字が刃物のように三日月のなぞる指を傷つける。
実際に血は出ていないのに、なぜこんなにも痛いのだろうか。
皮膚で隠れた神経が断裂されていく感覚を伴う。
ランドセルだけではない、教科書やノートも同じような状態だった。
母親の職業に関しても蔑むような文字が書かれている。
……これを書いた子どもの親がそう言っていたのだろうか。
(これじゃ、あずささんにも見せられないよな)
子どもは無限の可能性を秘めた希望だ。
でも、だからといって天使ではない。
未熟だから無垢に見えるだけで、実際は人を傷つけることも平気でするし、その傷の痛みも理解できていない。
いや、きっと理解に乏しいから、ときに驚くほど酷いことが出来てしまうのだ。

「……あ………」

そのとき、背後で蚊の鳴くような声が聞こえた。
振り返ると風呂からあがったネコが三日月を見ている。
ランドセルという禁忌の箱を開けてしまった三日月に、怒りとも怯えともいえない表情で見つめると、ゆっくりと口角を上げる。

「どうしたんですかにゃ?」

まるで屁でもないという態度で問いかける。
しかしその視線はランドセルからも三日月からも逸れている。
膿んだ傷口を隠す。
なかったことにすれば痛くない。
そもそも感じなければ傷は傷ではない。
麻酔で感覚のなくなった肌にメスを入れたところで痛みは感じない。
だけどいつまでも隠せるものではなく、麻酔もいずれ効き目が切れるときが来る。
逃げるのは弱いからじゃない。
立派な防衛本能だ。
向き合った時、正常でいられないと判断した脳が絞り出すように得た最善策が目を背けることなのだ。
それを無下にはしたくない。
だけど、でも。

「別に気にしていないですにゃ」
「そうか」
「だってぼくはネコなんですにゃあ」
「そうか」

三日月は静かな表情でネコの話を聞きながら、なおもランドセルの言葉を指でなぞる。
ゴミ、カス、死ね。
筆跡を辿るたびにネコの顔が固まる。
忘れたい傷に溺れまいともがくように息をあげる。

「あ、そうだ。先ほどは失礼しましたにゃ。まさかあんな場所で靖志さんに会えるとは思わなかったですにゃ」
「そうか」
「あの女性はぼくを拾ってくれた飼い主さんなんですにゃ。御子柴さんにお似合いのとてもいい人だと思いますにゃ」
「そうか」
「ぼくはネコですにゃ。世を忍ぶ仮の姿として人間に化けているだけなんですにゃ」
「……そうか」

無理やり上げた口許が苦しそうに引きつっている。
招き猫のように左手をくいくいと振る姿は見慣れたポーズだった。
繰り返し自分はネコだという姿は、むしろ自己弁護のように聞こえる。
だから大丈夫、だから平気なのだと思おうとしているように思える。
そもそも世を忍ぶ仮の姿として人間になっているなんて、いつ付け加えられた設定なのだろうか。
……多分、思い付きで口にしただけだ。
出会った当初の三日月ならそんなネコの発言に苛々していただろう。
またそんな馬鹿なことを言って、大人を舐めているのかと声を荒らげただろう。
なのに、今は悲しみだけが満ちる。

「じゃあ幸希って名前は?」

三日月は昂った神経を慰撫するような優しい声で問いかける。

「そ、それは…、か、勝手にあの人が呼んでるだけで……知らないですにゃ」
「そうか」

ネコは名前を聞かれてほんの少し動揺を見える。
その場その場で都合の良いことを言い続けてきた彼に綻びが生じる。
強引すぎる言い訳だが、その様子は先ほどまでの虚ろなときと比べてずっと人間らしくて安心する。
三日月はどんな言い分も否定をせず頷いた。
黙ってネコの話に耳を傾ける。
彼の世界に触れようとする。
だが、今までと違うのは、それで終わりにしないことだ。

「なら、ゴミの気持ちは分かったのか」
「え?」
「出会った時、ゴミ捨て場で言っていただろう。ゴミの気持ちを考えていたって」
「………あ………」

ネコは思いがけないところから竹槍で突かれたような顔をした。
名前を聞かれたことより驚きが露だった。
彼は二の句を継げず、咄嗟の言葉も出ないまま固まる。
それは嬉しい反応でもあった。
なぜなら三日月と出会って以降、彼はゴミの気持ちを考えるどころか忘れていたということなのだ。
三日月は目を細めると、濡れたままのネコの頭をタオルで乾かしてやる。

「な、ネコ」
「……にゃ」
「俺は今日、ゴミ捨て場でネコのことを考えていたよ。ゴミ捨て場にいたネコの気持ちを思っていたよ」
「………………」
「でもさ、そこで猫と出会ったんだ。あ、紛らわしいけど本物の猫な?」
「……ぼ、ぼくも本物です、にゃ」

するとネコは頬を膨らませながら小さく文句を言った。
気まずさを漂わせながらも主張を忘れない姿が妙におかしくて、思わず笑ってしまいそうになったがこらえる。

「ゴミ捨て場にいるって人間の視点からだととても可哀想なことだけど、野良猫からしたらちょっと違うよな」

柔らかなネコの髪が指に絡む。

「猫だけじゃなくカラスとかもそうだけどさ、彼らにとってはゴミの中にある食べ物なんかは貴重な食糧なんだよ。俺たちからすれば汚いとか臭いとか思うけど、彼らは生きるためにゴミを漁るんだ」

そういった動物たちによってゴミ捨て場は荒らされ、そこを管理する人たちは大変だと思うし、俺たちにとっても迷惑な話だ。
だから防護ネットを取り付けたり、威嚇するような物を置いて近づけさせないようにすることは仕方がない。
でも、それだって人間の事情であり、動物たちだって餌を確保せねばならない。
背に腹は代えられない。
生きるためならなんだってしなければならないのだ。

「矛盾、なんだよな。ゴミの中にいたお前の生気のなさはさ、ゴミの気持ちを考えてしまうほど追い詰められた気持ちはさ。……だって猫ならそんなもん考える必要ないだろう」
「……………」
「この際だからはっきり言ってやるよ。本物の猫はな、あんな辛そうな顔でゴミ捨て場にいないんだよ。生きるために必死で食い物探してゴミを漁ってんだよ。だからお前は――」

ネコは三日月の意図に気付くと、鋭く目尻引き上げ、彼の言葉を遮るように体を引き離した。
まだ半乾きの髪がふわふわ揺れている。
険しい目元はまるで威嚇する猫のように慄きと警戒を滲ませている。
彼はぐしゃりと潰れるように顔を歪ませた。

「違う、ぼくはネコだ――、人間なんかじゃない!……っ勝手なこと言うなっ、…っ!」

聞いたことのないほどの強い口調で発せられた声は、血を吐くように悲痛で苦しくなる。
まるで無遠慮に爪を剥ぐように、柔い肉を切り裂くように、言葉のひとつひとつに痛みが宿る。
それでもネコは泣かなかった。
渇いた目尻に涙は浮かばない。
むしろ口元は歪な形に笑おうとしている。
壊れかかった心を守っているのは狂気だった。
突然ネコが笑い出す。

「あはははははははははははははは」

彼は己の冷ややかな瞳に相反するようにわざとらしい笑い声を響かせた。
パソコンに打ち込んだ文字を無感情のまま読み上げるように、平らで乾いた笑い声だった。
まるで壊れた玩具のように哄笑する。
愛想笑いとは違い、始めから笑う気のない笑みは醜く暗澹とさせる。
足元には傷つけられたランドセルが転がり、目の前には酷な現実を突きつけようとしている男がいる。
思考を停止させるのに最も都合が良いのが笑うことだ。
ぐるぐる考えているとき、笑うことは難しい。
テレビでは逆に捉えて辛いことを考えすぎないよう笑いを推奨する。
「笑っているときは辛いことを考えない気がする」とカメラを向けられた被災者が気丈な顔で答えていたのを思い出した。

「ネコ……」

三日月は皮膚に張り付くような空笑いを繰り返すネコの体を抱きしめた。
これ以上見ていられなかった。
ネコはそれを嫌がり抵抗すると、乱暴に思えるほどの力で突き飛ばす。
子どもとはいえ加減なく力を使えば大人を倒すことも容易である。
いや、三日月の体は疲れ切っていた。
仕事だけでも疲れているのに、ネコを探すため街中を走り回った。
空腹のうえ冷えた雨にも濡れて肉体は限界に近い。
尻もちをついた体は鉛のように重く、正直辛い。
だが、それでも三日月は諦めなかった。
壁に手をつきながら立ち上がると、いまだ笑わずにはいられないネコを抱きしめ、己の胸に寄せる。
(ああ、エゴだよ。全部俺のエゴなんだよ)

「…………笑うなって……」

いつだって人の目を気にして生きてきた。
すべて自分のためだった。
頼みを断れないのも、面倒事に関わらないのも、困っている人を助けるのさえ、自分のためだった。
ネコを拾ったのも、一緒に生活をしていたのも、その背後にあるものに目を背けていたのも、自分にとって都合が良かったからだ。
ネコと向き合おうとしていたのだって、きっと三日月の都合だった。
ああ、なんて浅ましいのだろうか。
そんな自分に嫌悪感を抱かずにはいられない。
今だって傷ついたネコの姿を見たくないがために抱きしめた。
自己中心的過ぎて反吐が出そうだ。
(それの何が悪い……?)
そうだよ。
三日月の人生は三日月を中心に動いているんだ。
同時に、ネコの人生はネコを中心に動いているのだ。

「笑うなって言ってるだろ!」

三日月は怒鳴った。
雨音を切り裂くような鋭い声に室内は静まり返る。
その声に驚いたネコの目が丸くなった。
彼は思わず三日月を見上げる。
ネコは泣いてないのに、その表情に三日月のほうが泣きそうだった。
だってこんな酷いこと、我慢できない。
それでも笑おうとしているネコが痛々しくて見ていられなくて、はらわたが引き千切れんばかりに痛くなる。

「もう取り繕わなくていいんだよ、馬鹿みたいな顔で笑わなくていいんだよ!……だってこんなの辛い。こんなっ…ゴミだとか死ねだとか言われて平気なわけないじゃないか。お前はネコじゃないんだ。人間なんだよ!だからひとりぼっちで家に居たら寂しいし、甘える人だって欲しい、虐められたら悲しいのは当然なんだよ!」
「……………」
「だいたいな、猫だってちゃんと感情があるんだ。大事に思えばその分だけ返してくれるし、意地悪をされたら傷つく。猫だから平気なんて道理通じるわけないだろっ…なんでそんなことも分からなくなっているんだよ!」

激高してしまったがために意図せず涙がこぼれてしまった。
透明な雫が頬を伝うと、見上げていたネコの顔に落ちた。

「なぁネコ、お前の人生はお前のもんなんだよ!……解るか?だから母親だとか家族だとかクラスメイトだとか学校だとか……全部どうだっていいんだよ。お前がしんどい時点で全部無意味なんだよ!」
「…っ…無意味って…!」
「お前は自分が我慢すればいいって思ってるんだろうよ。ふざけんな!ネコだけが我慢したところで、じゃあお前の人生は何のためにあるんだよ。母親のためか?いじめっ子たちのためか? だがな、お前を虐めている奴らはネコの人生なんてどうでもいいんだよ。考えてもいないだろうよ」」
「……っぅ………」

三日月の服を掴んでいたネコは爪を立てた。
眉間に皺を寄せたネコの瞳は潤み、顎は泣くまいと震えている。
さきほども親の仇を見るかのようネコに睨まれたが、その表情はずいぶん生々しく違う。

「じゃあさ、俺の気持ちを汲んでくれよ。ほとんど家にいない母親や傷つけることも厭わないクラスメイトのために我慢が出来るなら、そんなこと簡単だよな」
「………………」

三日月は、そっとネコの手をとった。
そして両手で包み込む。
ネコは何を言い出すのかと不審がるよう首を傾げる。
その表情に三日月は肩の力を抜くよう息を吐いた。
彼は己の中に眠る慈しみを掻き集めるような優しい声で囁く。

「……幸せでいてくれよ。誰よりも、楽しいと思ってくれよ」

祈るような気持ちで包んだネコの手を強く握る。
再び三日月の目尻に涙が光った。

「俺はネコの周りにいる人間が傷つこうがどうなろうがどうでもいい。母親のもとにいたくないなら誘拐犯になろうが引き離してやる。お前を傷つけた奴は子どもだろうが全員ボコボコにしてやる。それでネコが幸せになるなら構わないよ」
「……っ……」
「俺はネコが幸せになれるならなんだってする。いいよな。俺がしてやりたいことなんだからいいよな?」
「………………」
「な、答えてくれよ、頷いてくれよ、ネコ」
「……や………」
「どうして?引き離される母親が可哀想だから?殴られるいじめっ子たちが可哀想だから?そんなの我慢できるだろう。だってお前はもっとひどいことをされてきたんだ。俺を思ってくれるならそれくらい大丈夫だろう?」

雨は降り続ける。
暗く閉ざされた現実という絶望を表すように終わりのない雨が降り続ける。
水たまりに落ちていく雨粒は、機関銃のように絶え間なくて、もはや水面には何も映らない。
野良猫たちは、この寒く激しい雨をどこで見ているのだろうか。
ひもじさと冷える体に耐えながら、それでも生きようともがいているのだろうか。
そこまでして生きる価値がこの世界にはあるのだろうか。

「……ぼっ……、っ……」

ネコは昂ぶりを抑えるように喉を震わせ、声にならない声を絞り出すが、上手く出ない。
先走る感情に声がついてこられないのだ。
まるで言葉を忘れた人形のようにもどかしく、喉元を切なく衝き上げてくる思いに唇を噛みしめる。
その代わりに首が取れてしまうんじゃないかと思うくらい必死に首を振った。
そのとき、あまりに純粋な涙の雫がネコの幼い顔を濡らすように流れ落ちた。

「…っぅ……ぼ、ぼくのために、……っひぅ……靖志さんが…っ…誰かを傷つける……や…だっ…」

か細く、澄んだ声が空気を震わす。

「ひっぅ、きっと…本当に……傷つくのは靖志さんだから……そんなの……嫌だっ」

溢れた涙と共にポツリポツリと吐露姿に三日月は体を離し、ネコに視線を合わせるよう屈んだ。
そっと涙を拭い目を細める。

「一緒だよ」
「……っぅ…ひっ……ふっ……」
「ネコは優しいから、虐めている奴らを恨むことなく、自分に原因があると思っているんだろう?あずささんのことだって自分がいなければ彼女はもっと幸せになれると思っているんだろう。けどな、それは優しさじゃないぞ。ただ、自分を傷つけているだけなんだ」
「靖志さ……っ」
「それを知ってどれだけ俺も悲しかったか……今のお前なら解るよな?」
「っぅ」
「ネコは優しすぎる。…いや、優しさは美徳でも、自分を壊してしまうなら、それはただの自己犠牲だよ。犠牲によって生まれるのは悲しみばかりだ。俺はネコにそんなもの望んでいない。…だからさ、まずはその優しさを自分に分けてあげよう?――大丈夫。そしたらきっと世界はネコに微笑んでくれるよ」

三日月はしっかりとネコの目を見て諭す。
真剣に話を聞いていたネコは三日月の問いに深く頷くと、顎の震えがひどくなる。
返事をしたかったのに言葉にならなかった。
声を出そうとすると胸腔の辺りに感じたことのない圧迫感を覚え、喉は張り付いたように動かない。
これが感涙に咽ぶということか。
雨音に交じって嗚咽だけが掠れて出る。

「よしよし。今まで偉かったね」

三日月は、最後の最後まで泣くのを躊躇っていた少年の強さと繊細さを慮り、改めてネコを抱きしめた。
後頭部をポンポンとあやすように軽く叩く。
顔が見えなければ泣きやすいかもしれない。
安易とも思える三日月の言葉と気遣いはネコの琴線に触れた。
ネコの中で微かに萌した赦しが、あとから湧き起る感傷という名の記憶と共に突き抜けて、濁流のように押し寄せる涙が瞳いっぱいに溢れると、その柔らかな肌を濡らす。
一度零れた涙は感官を刺激し、コントロールが出来なくなった。
三日月の温かな胸の居心地の良さも相まって、こらえていたものがすべて溢れ出す。

「うわあああああああ」

闇夜に響く慟哭。
きっとネコはこうして激しく泣いてみたかったのだ。
賢さゆえに頭での理解が先に来てしまい、感情はいつも抑え込まれてしまった。
その間に暗い悲しみの澱が静かに溜まっていく。
幼く発散できる術も環境もなく追い詰められてしまった。
行き着いた先が『ぼくはネコ』だとしたら、なんて寂しいものだろうか。
(こんな小さな体で苦しかっただろうに)
触れるたびに体の小ささ、弱さに驚かされた。
今だって力いっぱいに抱きしめたら折れてしまいそうなほど細く柔い。
その彼が壊れたように笑い、張り裂けんばかりに泣く。
三日月は泣きじゃくり震えるネコの背中をひたすら撫で続けた。
落ち着けるまでいつまででもしてやりたかった。
ネコだって本当はすべてを受け入れてくれる誰かに甘えたかったのだろう。
三日月にしがみついて離れなかった。

「うええっ……っひっぅ、ううっ!」

泣くたびにネコの体のこわばりが消えていく。
次第に雨音より大きかった泣き声は小さくなり、外の雨にかき消されるほど微かになった。
それでも漏れる嗚咽に三日月は慰めるよう撫でる手を止めない。
雨のようにネコの心が洗い清められればいいと思った。
三日月は雨上がりの散歩が好きだった。
水素を垂らしたように青く透き通った空に、汚れが流された道が煌めいている。
まさに地球を洗濯したような気分だった。
実際に泣くとストレス発散になるのは有名な話で、涙活なんて言葉ができるくらいだ。
医学的には副交感神経が優位になるだとか、ストレスホルモンが減少するだとか言われているが、そんなことはどうでもよくて、単純に泣いたあとはスッキリしている。
それでいいのだ。

「靖志さん……」

するとその時、泣き続けていたネコが顔をあげた。
丸い瞳は腫れていつもより小さい。
涙は止まれど潤んだ瞳の表面は水分があふれ、まるで水晶のように透明感があった。
目と鼻の赤さが幼さに拍車をかける。
いつもより小さな子どもに見えるのは、今まで我慢していた反動でべったり甘えるような仕草をしているからかもしれない。

「ん、どうした?」

三日月はネコの髪をすくように撫でた。
ネコはくすぐったそうに捩り、口元に笑みを湛えるが、すぐに頬を膨らませる。
彼は切なげに目を細めた。

「……どうしてこんなに良くしてくれるんですか」

耳に潮騒のような雨音が響く。
ネコの射抜くような眼差しに嘘は通用しない。
いや、今のネコに偽りを口にしたくなかった。
それなら事実を伝え、軽蔑されたほうがましだった。

室内はしんと静まり返る。
とうとうこのときが来てしまったという覚悟に三日月は一度深く目を閉じる。
そして口に出そうとしたとき、ネコが遮るように鳴いた。

「にゃあああああああ」

まるで発情期の猫みたいな声だった。
ネコは己の頭を抱え、髪を振り乱して苦悶の表情をしている。
先程までのシリアスな雰囲気は露と消え、まるで百面相のように顔色を変えた。

「うにゃあああああああ」
「お、落ち着け、ネコ」
「にゃにゃー!」

七転八倒しそうな勢いだった。
その様子についていけない三日月は落ち着かせようとなだめる。

「す、す、すみません。ぼく、卑怯なこと言いました!」
「え、どこが」
「だってこんなのずるい聞き方ですにゃっ、自分の気持ちを隠して靖志さんにお任せするなんて猫の風上にも置けないですにゃ!」
「いやだからお前は人間だって……」

しかしネコは三日月の呟きも聞こえず、ふーふー唸っている。

「ぼく靖志さんが好きなんです!」
「……は……」
「相手にされてないことは承知しています。でもこんな優しくされて好きにならないわけがないじゃないですか!」
「ちょっ…、ネコ」

ネコの勢いに負けた三日月は倒れるように後ろへ座り込んだ。
ネコはそれでも止まらず、三日月の上に乗っかってくる。

「お母さんと御子柴さんがやり直すって聞いた時は心のどこかでホッとしていたんです。だって最大のライバルが御子柴さんだと思っていたから。二人がお付き合いを再開させることによって、いずれ靖志さんにもぼくの正体が知られてしまうでしょう。でも、そんなことよりも御子柴さんというお邪魔虫がいなくなることに安堵していたんです。それくらい彼の立場が羨ましかった。……なのに、今日お母さんとも仲良くなっていたことを知りました。お母さんはあの時助けてくれた人のことを誠実で勇気あるいい人と褒めていました。まさかそれが三日月さんだったなんて、世間の狭さに発狂しそうです。あげく、御子柴さんは調子乗ってベタベタと靖志さんに抱きついて……!ついカッとなって二人を突き飛ばしちゃいました……」
「そんな理由で…………」
「だって御子柴さんだけじゃなくお母さんまでライバルになるなんて益々勝ち目ないじゃないですか!……お母さん昔からモテるんです!全然自覚ないのが厄介で…。目を離すと変な男に捕まってたりするし、ポヤっとしてるからすぐ騙されたりするし」
「あー、目に浮かぶ」
「でも絶対靖志さんみたいな恋愛に疎い人の好きなタイプだと思うんです。ぼくはどれだけ一緒にいてもただのネコなのに、そんなの、ずるい……!」

ネコはきゅっと唇を噛んだ。
彼の言い分は理解できるが、三日月にとっては引っかかる部分もある。
(若干、馬鹿にされた気がするのはなぜか)
だがあながち間違いでもないから反論はしなかった。

「まぁ、あれだけ綺麗だったらな」

すると三日月の言葉に、険しい顔をしていたネコがふっと表情を変える。
突然電気が落ちたように暗く憂うような、でも愛しむような複雑な顔をする。

「お母さんは生きるのが下手なんです。人の意見に流されやすいし、強く言われると従っちゃうし、要領悪いから毎日のように失敗しては落ち込んでの繰り返しで……」
「…………」
「でも憎めない人なんです」
「ネコ……」
「ぼくのお父さんはお酒を飲むと暴れる人でした。ぼくは何度もぶたれました。でもそれはお父さんの機嫌を損ねたせいだと思ったから謝ったし我慢しました。ううん、お母さんには知られたくなかった。余計な心配をかけたくなかったし、ぼくのせいで二人の仲が悪くなって欲しくなかった」
「そんなっ………!」

三日月が否定しようとしたところで、ネコがこちらを見て曖昧に笑って見せた。
その表情だけで出かかった言葉が止まる。
ここで正論を述べても余計なことだと悟る。
その様子に、ネコは静かに微笑んだ。

「でも暴力に気付いたお母さんが身を呈してかばってくれたんです。お父さんは強い人で、それまでお母さんは口ごたえも出来なかったのに、結局、ぼくへの暴力を危惧して、家を出るという決断をしてくれた。それからは、ぼくのために朝から晩まで働いてくれた。だからぼくが代わりに家のことをしました。……でも申し訳なかった。ぼくがいなければ、こんなことになってなかったかもしれない。例え離婚してしまってももっと自由に生きていけたかもしれない。ぼくなんかのために、一生懸命お金を稼いでもらっているのが辛かった。ぼくはまだお金を稼げません。どうして早く大人になれないんだろう。そもそも、どうして生まれてきてしまったんだろう、せめてネコのようにひとりでも邪魔にならず生きていけたら良かったのに、なんて安易なことを思いました」
「……それで、ネコ……?」
「それもひとつの理由です。御子柴さんとのことはむしろ応援していました。あの人のことは写真で見せてもらっていたから、靖志さんちで会う前から知っていたんです」
「ん、そんな気はしてた」
「あはは、そうですか。ぼくはお母さんが幸せになれるなら誰でも良かった。離婚してからずっと寝ても覚めても働いていて、それ以外のときはお洒落にも気を使わなくなって、まるで萎れていく花を見ているような気がしていたから、少しでも元気になってくれて嬉しかった。……だからぼくがお母さんに言いました。御子柴さんにはぼくの存在を明かさないでって。だってあんな高嶺の花、子持ちだと知ったら絶対に離れていっちゃうじゃないですか。だから夜もひとりで大丈夫だよって行かせたんです。もうぼくが原因でお母さんの人生を壊したくなかった。元々仕事で夜遅かったですし、なにより都合が良かった。ぼくはぼくで学校で色々あって顔を合わせづらかったから、一緒にいたくなかった。お母さんもそれに気づいてよそよそしかったからちょうどよかった」

自嘲気味に笑うネコはどこか諦めたような顔をしていた。
三日月はなんて言っていいか分からず押し黙る。
こんな子どもが周囲に気を遣い生きてきたのかと思うと、言葉になんかならなかった。
賢いということは時に己を傷つける。
気づかなければ増えなかった傷は、無意識に自分を苦しめる。

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