雨がしとしと降っていた。
ネコはそれからも語った。
転校を機に虐められるようになったこと、土日は母親が家にいることが多く家事もあるため自宅へ帰っていたこと、さらには三日月を変な人だと思っていたこと。

「でも靖志さんを悪い人だと思ったことはないですにゃ」
「なんのフォローだよ」
「最初から。出会った時からずっと良い人だと思っていましたよ」
「ああそうかよ」

ネコは口角を少しだけ開けた。
ようやく気が抜けたような表情を見せて、三日月も張っていた肩がさがる。

「…………」

するとネコは目を細めて微笑んだ。
まるで太陽を仰ぎ見るような眼差しに、三日月は思わず彼の手を掴み引き寄せる。
突然二人の間に距離が出来てしまったような気がした。
咄嗟の行動に再びネコの表情が緩む。

「ずるいなあ」

それは三日月を咎めているというより、参っているような言い方だった。

「ぼくにとって靖志さんは救いでした。……ううん、唯一の希望でした」
「………………」
「今の学校に転校してから毎日からかわれて蔑まされて、傷つけることを厭わないクラスメイトたちも、いちいち傷ついている自分も嫌いだった。学校なんか行きたくなかった」
「…………」
「でもこれ以上お母さんの負担になりたくなかった。お母さんの仕事を笑う人もいて、知られたくなかった。知ったらきっとお母さんが悲しむから嫌だった。次第に夜が怖くなりました。昼の一時間は死ぬほど長いのに、夜の一時間はあっという間で、すぐに朝が来てしまう。そしたらまた学校に行かなきゃいけない。だから家を飛び出しました。寒い中ゴミ捨て場にいると、家より時間が長く感じまました。次第にゴミの中にいると落ち着くようになりました。あはは、毎日ゴミだと言われていたからですかね」
「ネコ、無理するな。無理に笑うな」

三日月はネコの背中を優しく撫でた。
ネコは応えるよう笑うとにゃあと鳴いた。

「ネコは靖志さんに拾われて幸せでしたにゃあ」
「…………………」
「……手を差し出されたときの気持ちは、誰にも、靖志さん自身にもわからないと思います。ぼくの頭上に光が射した気がした。それまでずっと暗くて寒いところにいた記憶しかなかったから、優しい温もりの中で目覚めるたびにこれは夢なんじゃないかと錯覚しそうになった。…きっと、拾われた野良猫は同じ思いを味わいながら少しずつ愛情に慣れていくんです。ぼくも靖志さんといる時だけは心が落ち着きました。あれだけ嫌いだった日曜の夜も、明日は靖志さんに会えると思うと少しだけ楽しみになりました」
「ネコ」
「にゃあ。ぼくは猫になりたかった。誰にも迷惑をかけずひとりで生きていける強さも、どれだけ辛くても泣かない強さも欲しかった。いっそ自分は猫なのだと思おうとしました。そしたらどれだけ傷つけられても痛くない。ぼくは幸希ではなくネコなのだと思うとすべてが他人事に思えたんです」

噛みしめるように呟くネコは三日月の手をゆっくり離すと、改めて絡めるようにその手を握り返した。
一回り以上小さな彼の手は、お風呂に入ったおかげもあり、雨に打たれていた時のような冷たさはない。
温かく柔らかい手のひらの感触は同じ男とは思えなかった。

「でも猫じゃ満足出来なくなりました。全部靖志さんのせいです」

ネコの宝石みたいな瞳が切なげに揺れる。

「好き、なんです…っ……」
「…………っ……」
「気持ち悪いのはわかっています。気持ち悪がられるのも慣れています。それでもずっとこの気持ちを言いたかった。お礼を言いたかった。ぼくは靖志さんのネコでいることが嬉しかった。いっそこのまま猫として生きたかった。でも次第に物足りなくなりました。…ぼくは己のあさましさが恥ずかしい…っ…でも…もう誤魔化せません…」
「ネコ」
「…っぅ…あぅ、ご、ごめんなさいっ……ぼくっ……うぅっ…ひっぅ…泣きたくないのに……」

あれだけ頑なに泣かなかったネコが再び涙を流す。
ぽろぽろと真珠のように溢れる涙が、三日月の感官を刺激する。
そこで三日月の意識は寸断された。

「にゃっ………んっ――!」

そのままネコの手を強引に押し、ベットへ押し倒するとそのままキスをする。
瞬間、目を見開いたネコと視線が交わった。
いや、近すぎて互いの顔はぼやけて見えた。
ネコの嗚咽は三日月の唇によって塞がれる。
ギシっときしむベッドの音がやけに大きく聞こえたがもう止まれなかった。

「俺は良い人なんかじゃない!」

押し倒したままネコを見下ろす。
ネコは一連の出来事を受け止めきれないのか瞬きさえ忘れていた。
驚きで止まっていた涙のうち、最後のひと粒が目尻からこめかみへと流れていく。
ネコとは何度もこのベッドで寝たのに、こうして見下ろすと意識が大きく変わる。

「逆だよ。俺がネコに救われていたんだ。クソみたいな毎日に嫌気が差していたのに、ネコと暮らし始めてから楽しくて仕方がなかった。だから俺は逃げたんだ。ネコの状況は誰が見たって異常なのに、正すことをしなかった。余計なことを聞いて、またうちに来なくなったらと思ったら怖かったんだ。こんなの社会人どころか人間失格だ」

そばでこんなにも苦しんでいたのに、なにもしなかったことを三日月は悔い、懺悔の言葉さえ出てこなかった。
その相手は自分を救ってくれたのに、大切だと思っていたのに。

「でも大事だった。ネコとの日常はかけがえないものだった。社会人失格でも、人間失格でもいいからネコの隣にいたかった」

ネコと三日月では想いの重さが違う。
ネコだって真剣に三日月を愛し、大切に想っているだろう。
でも、まだ多くの出会いを経験していないネコと、たくさんの人の中からネコを見つけた三日月では深さが違う。
些細なことだが大きな事実だ。
これから先、眩しい未来が待つネコと、青春が終わってしまった三日月の間には決して交わらない線がある。
しかしそれでいいのだ。
人間は選択を繰り返しながら生きている。
朝起きた時から眠りにつく時まで、常に何かを選び、何かを捨てている。
人間関係だって同じものだ。
数少ない選択肢の中からネコは三日月を選んだ。
今後は、三日月が他の選択肢に並べられながら生きていく。
(選んでもらえる自分でいたい、なんて)
青臭すぎて吐きそうだ。
御子柴が三日月の心の中を覗いたら、気恥ずかしさにのたうち回っただろう。
だが、それが三日月の本音だった。
人の思考なんてそう簡単に変わらないから、ネガティブな気持ちに苛まれる夜もあるし、今日の選択を悔やむときもあるかもしれない。
だが、ネコの側にいて知ったのは、大人になったとしてもまだまだ変われる余地が残っているということだ。

「好きだよ」
「え、っ…」
「いいや、好きなんてもんじゃないよ。ネコの全部が愛しい。愛しているんだよ」
「にゃにゃっ!あ、い!」

ネコは反芻しながらも言葉の意味を咀嚼出来なかった。
目が点になっている。
それほど彼にとっては信じられないことだったのだ。

「もう一度言うけど、俺は善人じゃないよ。ネコはどうしてこんなに良くしてくれるのかと聞いたけど、俺だって男だ。下心はある」
「…………!」
「もちろん始めから好意があったわけじゃない。少年が好きで声をかけたなんて変態だからな。勘弁してくれ。ただ気になったのも事実で、共に生活していく中で少しずつネコの存在が大きくなっていった。だから……」
「う、嘘です!同情は嫌ですにゃあ!だって男に触られたって萎えるだけだって、ぼくはただのネコだって言ったじゃないですか!」

するとネコは三日月の胸元をポカポカと叩いた。
ネコに性器を触られた時の話をしているのだろう。
彼の瞳が揺れている。
それは期待と不安に揺れているようなものだった。
散々負の面ばかりを見てきたネコは、他人に期待することをやめ、希望を抱くことを恐れている。

「ネコ」
「――――!」

三日月はその手を掴むと、押し倒した姿勢のまま額にキスをする。
すると予想外の出来事に思わずネコの動きが止まった。
そんな芸当三日月には出来ないと思っていたのかもしれない。

「ごめんな。一度でもお前を拒絶した俺が、「信じろ」なんて虫のいい話は言わない。あの時の俺は一方的にネコに好意を持っていると思った。だから大人の汚い欲を見せたくなかったし、軽蔑されたくなかった」
「軽蔑なんて、そんなの生理現象で……」
「ああもう、この際だから正直に言うけど、あれお前で勃ったから!」
「にゃ!」
「当たり前だろうが。映画見て勃起したと思ってたのか。中学生でもあるまいし。確かに童貞だけど、そこまで未熟じゃないから!」

地上波ごときのラブシーンで勃起したと思われていた事実に愕然とする。
ネタとして面白いと思ったのは、あくまでジョークだからだ。
まさか本当にそう思われていたなんて格好悪すぎる。
いや、確かにネコはネコで自分が性的に見られていたとは思っていなかったのだから仕方がない。
だが、ここで誤解を解かなければ一生そう思われていたのかと思うと頭を抱えたくなった。

「だって、その、あの時もお話しましたが、溜まってるようでしたので……」
「それだってネコのせいだから」
「にゃにゃ!」
「好きなやつと毎日一緒に寝てみろよ。しかも相手は無防備な表情でくっついたまま眠っている。体はモチモチ柔らかいし、心地良いくらいに温かいし、同じシャンプー使ってるはずなのにすっげーいい匂いだし。だいたい可愛すぎんだよ。抱きたくてたまらなかったけど、皮一枚の理性でどうにかやり過ごしていたんだよ。お陰で寝不足だし、性欲溜まるし、どこの修行僧だよ、俺は。辛すぎて悟りでも開くのかと思ったよ」
「な、なら別々に寝ようって言ってくれたら……」
「ばーか!言えるわけないだろ。どれだけ辛くたって一緒に寝ていたかったんだ。繰り返すけど俺だって男だ。下心ありまくりなんだよ」

三日月の顔は真っ赤だった。
初めての告白がこんなに情けない内容で死ぬほど恥ずかしかった。
だが、もうネコに隠し事は嫌だった。
ずっとネコを大切に思っていたのに、それを伝えないがために、彼は追い詰められてしまった。
ネコを想って抑えた気持ちでも、それによって悪い方へいくのなら誤りである。
どれだけ自分が恥ずかしくてもネコが喜んでくれるのなら、必要に思ってくれるのなら、どんな暴露だって出来た。
相手を思うというのは、そういうことなのだ。

「な、なら……抱いてくれれば良かったのに……」

ネコは頬を林檎のように染めて、聞き逃しそうなほど小声で呟いた。
重なった体から互いの鼓動が聞こえる。
ドクドクと苦しいくらいの速さで打つ音に酔いそうだ。

「だーかーらっ、お前は……!人がせっかく大切にしようとしているのに、勝手に大人のちんこを触るわ、抜いてやるとか抱いてくれだの言うわ、煽るんじゃねえよ。だいたいどこでそんな言葉を覚えてくるんだ」
「靖志さんが男ならぼくだって男です!……ぼくだって、し、下心はありますにゃ」
「なっ」
「あのとき、靖志さんにとってはただの処理でも、ぼくがそれを出来たらもっと特別な関係になれると思いました。だから勇気を出して誘いました。体だけの関係でも夢のようだった。そもそもネット世代を舐めないでくださいにゃ。エッチな話なんてネット中に転がってます。やり方なんて靖志さんが好きな時点で調べてるに決まってるじゃないですか。なのに、気持ち悪がられて、ぼく、ぼくっ……」
「………っぅ……」
「がっかりしましたか?靖志さんがどんなぼくを好きになってくれたのか知りません。でもぼくは全然清純でもないし、可愛くもない!そういう人が好きなら、やっぱりお母さ――」

言葉を塞ぐための二度目のキスをした。
しかし一度目と違うのは、三日月がネコの口内に舌を入れたことだ。
三日月はネコの唇や舌を蹂躙し、無我夢中でキスをした。

「んっぅ…ふっちゅ……んんぅっ、ちゅ…っ…」

ネコの頭は真っ白になった。
性的なキスは想像以上にエロく、頭の中まで舐められているかのようだった。
合わせた体の熱があがっている。
奥手な三日月がしているとは思えないほど積極的な口づけにネコの思考が霞む。
それ以上に気持ち良くて下腹部にむず痒さを感じる。

「んぅっ……ぷはぁ……はぁ、はぁ」

唇が離れたと同時に肺が酸素を欲した。
涎が糸を引き三日月とネコを繋げる。
見上げた三日月は見たこともないほど目が据わり、雄々しい雰囲気になっていた。
怖いくらいに興奮されている。
まるで自分が追い詰められた子鹿のように思えた。

「俺は清純さなんて求めてねえよ。エロいネコなんて大歓迎に決まってんだろ」
「ほ、ほんとう……?」
「俺だって妄想の中で何回お前を抱いたと思ってるんだ。もう我慢できないぞ」
「にゃ…っ…」

三日月はそのままネコの体をなぞり、服の中へ己の手を差し込んだ。
手の感触に一瞬だけネコは驚いたが、すぐになすがまま身を委ねる。
その様子がますますたまらなくて、三日月は荒くなる息の中で生唾を飲み込んだ。

「んぅ、ふぅっ…っふぅ…」
「はぁっ…ネコ…」

本能のままに体中を愛撫する。
手のひらでネコの小さな体を味わう。
こんなに他人の体に触れるのは初めてだったが、瑞々しい肌は弾力があり、想像以上に柔く触り心地が良い。
いつまでもこうしていたいくらいだった。

「ん、ネコ……ここも、以前クラスメイトにやられたんだよな。縄張り争いをしたって言ってたもんな」

ネコの上着を脱がしながら首筋にキスをする。
そして手首を優しく撫でる。
ネコは躊躇いがちに頷きながら、それでも三日月の愛撫を受け入れる。

「ようやく話が繋がったな。あの時の傷のせいで御子柴と一緒にいたあずささんへ担任から電話がいったんだろ」
「相変わらずお母さんは悪運が強いんですにゃ。携帯を鞄の中に入れたままだったら気づかれなかったものの……」
「いやいや、どっちにしろ子持ちを隠してるわけにはいかないだろ」
「にゃあ…」

ネコは正論だと言わんばかりに肩を落とした。
だがすぐに気を持ち直すと、

「あんなことよく覚えてますね」

ネコは感心したように己の首筋を撫でながら呟いた。

「ネコとの思い出は全部覚えているよ。どんな些細なことだって俺には大切だった。どうだ、重くて気持ち悪いだろう?嫌になったか?」

三日月は自嘲気味に笑ったが、ネコが否定をする前に、その手首にキスマークを残した。
その痕は、所有物の証みたいで、思った以上に自己顕示欲を満たしてくれる。
恋人の首筋に痕をつけるという話を聞くたびに馬鹿馬鹿しいと呆れていたが、ここへきて素直に納得してしまった。

「でも、もう嫌がったって手放してやらないから」
「靖志さ……?」
「拗らせアラフォー男を本気にさせたんだから仕方がないよな?」
「ん、…っ」
「だからずっと一緒にいる。もう隠したりしなくていいんだ。痛いときは痛いと言えばいい。嫌なことは嫌だと言っていい。なにがあっても、どんなネコでも嫌いにならないから、安心して俺のそばにいればいい」
「……っ……」
「野良猫はそうやって人の愛情に慣れていくんだろう?だったらネコも少しずつ慣れていけばいい。そしていつか、鬱陶しいと言えるくらい愛されることに慣れてくれたら、俺はこの気持ちを誇りに思える」

ネコは自分の手首に付けられた跡を見つめ、噛みしめるように三日月の話を聞いた。
瞳に映るのは思い描けないほど色鮮やかな未来と、現実に引き戻すような踏み出す不安、躊躇い。

「にゃぁ…甘やかさないでくださいっ。ぼくっ、今までだってたくさん靖志さんに与えられて、これ以上――」

三日月は言い途中のネコの頬を手で包み込んだ。
それによって言葉が途切れる。

彼の不安や躊躇いは理解している。
誰よりも複雑な子なんだ。
誰よりも繊細な子なんだ。
だからこの世のありとあらゆる害悪から守ってやりたいと思う。
これから先、その純粋で健気な心に傷ひとつ付けられたくないと思う。
そのためならなんだってしてやりたい。

「いくらでも望んでいいんだよ」
「え?」
「幸希の希」
「?」
「希はのぞみとも読めるんだ。幸せをのぞむ、幸せになってほしいとのぞむ。図々しくなんかない。甘やかしなんかでもない。だって幸せを望むのは当然なんだ」

三日月は、まっすぐ射貫くようにネコを見下ろした。
寒くて汚いゴミ捨て場の出会いから数ヶ月。
まだそれしか経っていないのに、もうずっと昔からこの顔を見続けていたような気がする。
それくらい濃密で豊かな時間だった。
結局ネコと出会ってもSF小説の主人公にはなれなかった。
だけどもっと大切な、かけがえのないものを手にすることが出来た。
三日月は、赤く落ちそうなくらい柔らかなネコの頬に触れて、深い愛しさがこぼれ出すよう無意識に破顔した。
それは、ネコでさえ見たこともないほど柔和な表情だった。

「幸希……お前だって素敵な名前じゃないか」

その瞬間、ネコの耳から雨音が消えた。
絹糸のように優しく、春の日差しのように温かな三日月の声が、ネコの胸の最奥にあった鎖を溶かす。

「――っ……」

頑なに守られていたそれが、強引にではなく、あざとくもなく、自然な言葉によって壊されると、鉛のように重かった心が軽くなる。
まるで背中に圧し掛かっていた得体の知れない重荷をおろすように、まるで清涼な風が葉音と共に体を通り抜けるように、囚われることのない自由が目の前に広がる。
そう。
この世界はこんなにも広く、自在なのだ。

「ぼ…くっ…………」

ネコはいつも不思議だった。
どうして三日月は欲しい言葉をくれるのだろう。
(どうしてぼくの気持ちを分かってしまうのだろう)
ネコにとって三日月の存在は希望だった。
太陽のように眩しい存在だった。
彼のような大人が周りにいなかったから、なぜこんなにも人の気持ちを汲んでくれるのかと理解できなかった。
だが、ここへきてようやく納得できる答えを見つけた。
(それは、きっと)
三日月もまた、多くの苦い経験をしてきたからだろう。
釈然としない思いを幾度となく味わいながら、もがき、抗い、それでも生きてきたのだろう。
人を通して人生を見る。
彼に起きた出来事のすべてを知らなくても、言葉が、些細な気遣いが、教えてくれる。
施しとしての優しさ、慈しみとしての優しさ、優しさにも種類があれど、ネコが三日月に感じたのは共感の優しさだった。
同じ目線で、同じ方角を見てくれている。
だから自然に声が届く。

「幸希」

名前なんてどうでも良かった。
だから「ネコ」なんて名前を付けられた。
なのに、今、三日月に呼ばれると途端に特別な意味を持つ。
響きに変わる。
同時に記憶にない過去へ想いが飛んだ。
どんな思いで生まれたばかりの赤ん坊にこの名を付けてくれたのか、父親と母親のことを考える。
物心ついたときから父親の愛情を感じたことはなかった。
母親からの愛情は分かっていたが、自分の存在を負い目に思うほど、どこか家族になりきれていなかった。
家庭環境のせいだとか、両親のせいだとか言われたら、そんなものだと切り捨てられたが、およそ言葉では説明できないほど複雑と矛盾をはらんでいた。
いや、きっと親子だから複雑で矛盾だらけなのだ。
それなのに、今はこの名前が愛しい。
一時のことだったとしても、この名が付けられたとき、両親にとっては幸せになってほしいと思う存在だった。
そう思うと誇らしくなる、嬉しくなる。
ここにいていいんだと自分を肯定出来る。

「もっとぼくの名前を呼んでください」
「幸希?」
「そして、もっと靖志さんで満たしてください」

幸希の瞳は瑠璃色の宝石みたいに燦燦と輝いていた。
憑き物が落ちたような解放感と、いつまでも変わらない素直な眼差しに三日月も応える。
彼は幸希の身体の隅々まで愛した。
青白い明かりの下で一糸纏わぬ姿を見たとき、あまりに美しく、心臓が縮むような思いをしたが、それでも己の興奮を悟られないよう努めた。
怖がらせないように、傷つけないように、時間をかけてゆっくりと触れる。
まるで新雪のように光のこもった肌に指を這わせるたび、喜びを噛みしめた。
三日月に後悔はなかった。
眩暈がするほど年下の子どもと体を重ねることに覚悟は出来ていた。
それはとても幸せな覚悟だった。

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