8

***

それから季節は少しだけ過ぎた。
雑貨屋フルールは相変わらず客足上々で営業している。
やってくる学生たちは夏服から冬服へ、そしてマフラーやコート姿を見かけるようになった。
幸い恭子からの連絡はなくなり、平和な日常を満喫していた。

「ちょうど頂戴致します」

レジを打ち客の女子高生にレシートを渡すと、隣に立っていた成瀬が商品を包装し、フルールのロゴが入った袋に入れて差し出した。
嬉しそうに受け取った少女はホクホク顔で店を出て行く。

「ありがとうございました」

二人の声が重なった。
開いたドアから冷たい北風が吹き込んできて、天井に飾られていた洋風の風鈴が軽やかな音を立てる。
彼女を最後に客はいなくなり、ようやくひと段落ついた。

「いつも手伝わせちゃってごめんね?」

店の奥から紅茶を淹れて持ってくると成瀬はかぶりを振り、

「いえ、おれが手伝いたくて勝手にやりだしたことです」

湯気のたちのぼるマグカップを受け取る。
先ほどまで学生たちで賑わっていた店内は、満足げに帰っていた女子高生を最後に静まり返っている。
雑貨店は四季の移ろいやイベントに敏感で、夏ごろとは様子が若干変化していた。
マグカップやストール、手袋などの可愛い防寒グッズに、そろそろクリスマスや正月関連の雑貨を並べる時期である。
それが終わればバレンタイン、その次が桜のモチーフ雑貨と一年の間に少しずつ商品は変わるのだ。

「お、おれは秋津さんとお店にいられて楽しいんです」

いつからか成瀬が店に立つようになった。
品出しや掃除から始まって徐々に接客まで出来るようになり、今では俺の隣に並んでいる。
人見知りのせいで客と目を合わせるのも四苦八苦していたが、最近は照れなくなり声もはっきり出せるようになった。
彼は器用でラッピングもすぐに覚えた。
無給で働かせるなんて申し訳ないと思ったが、成瀬は本人の言うとおり楽しそうで、それ以上止められなかった。
店のエプロンを制服の上から着て成瀬は顔を綻ばせる。
俺と同じなのに彼には大きくて、まるでおままごとのようだ。
(はぁ……可愛い)
隣のイスに腰掛けて紅茶を啜りながら愛らしいエプロン姿を堪能する。
店内に客がいなくなったあと、レジ台に片肘つきながら眺める光景が至福のひと時だった。
猫舌な成瀬はカップを持ちながらふーふーしている。
水玉模様のカップはフルールで売っている品物で、気に入ったらしい成瀬が何度も見ていたところを目撃して贈ったんだ。
遠慮がちに受け取った成瀬は包装を解いてびっくりした。
まさか自分が欲しかった物が入っているとは思わなかったからだ。
その時の弾かれたように驚いた表情は、今思い出してもおかしくて笑ってしまいそうになる。

「ごめんね。冷ましたつもりだったんだけど熱い?」
「い、いえっ!全然そんなこと――熱っ、ぅ!」
「大丈夫っ?」

飲もうとカップを煽った成瀬は、まだ熱かったようで顔を顰めた。
俺はフキンを渡すとカップを受け取り、奥から冷えた飲料水を持ってくる。

「無茶しなくたって……。そんなに紅茶が好きなの?」

差し出されるがままに水を飲んだ成瀬の喉が波打っている。
温かい紅茶を希望してきたのは成瀬の方だ。
それまで麦茶やジュースを出していたのに、季節の移り変わりと共にホットの紅茶を指定してきた。
寒くなってきたから温かい飲み物が良いのだろうと出したら、ぬるま湯でも熱いと感じるほどの猫舌で苦い顔をしていた。
それでもなぜか紅茶が良いと頑なに他の飲み物を拒む。
落ち着いた成瀬は肩を竦ませたままレジ台にグラスを置いた。

「……だって紅茶って大人の飲み物じゃないですか」
「そうか?」
「す、す、すくなくとも麦茶やジュースより大人な飲み物です。コーヒーは苦すぎて飲めないから……」

膝の上にある拳が悔しそうに震えて、

「そ、それに秋津さんと一緒にふぅふぅしながら温かい紅茶を飲むのに憧れて…そのっ……」

言いづらそうに濁す彼は明らかに気落ちしてしゅんとしていた。
成瀬は子ども扱いされるのを嫌がった。
対等に大人として向き合うことを望んでいた。
なぜそこまで固執するのか定かではなかったが、思春期特有の背伸びしたい年頃なのだと勝手に片付けていた。
理解した上でなるべく気をつけたが、どうしたって年齢差は埋められないし、今の彼は子ども以外の何者でもない。
だけどその気持ちを無碍にはしたくなかった。

「あー良かった」

俺はにっこり笑って後ろから覆い被さるように抱きしめた。
成瀬は慌てて振り返り見上げようとする。

「実は俺、紅茶なんかよりジュースの方が好きだったんだよね」
「え?」
「格好つけて成瀬君の前ではコーヒーや紅茶を飲んでたんだ」

これで無理せず好きな飲み物頼めるわ――と、笑いかけてやる。
成瀬の手の前で交差した腕に力を込めると小さな体をぎゅっとした。
俺としては彼が何を飲んでいようが構わなかった。
紅茶やコーヒーが好きだからって大人だと思わないし、麦茶やジュースが好きでも子どもだなんて決め付けたりしない。
だけど成瀬の世界ではそんな些細なことのひとつひとつが大事で、俺は出来る限り守ってやりたくなる。
いつかは笑い話になりそうなことでも、今がとても大切で、その一瞬一瞬が俺にとっては宝物だった。

「んく……好きです、秋津さん大好きですっ、どうしようもないくらい好きです……」
「どーしたんだよ?俺は事実を言っているだけで、別に成瀬君のことはこれっぽっちも関係ないんだからね」

これっぽっちを強調するように成瀬の顔の前でジェスチャーして見せた。
すると彼は僅かに気を許したように頬を緩めて俺に身を寄せる。
幸せだった。
好きなもので溢れた店内、可愛いらしい客たちに囲まれて恙ない日々を送れている。
腕の中にはいつだって成瀬がいて、手を伸ばせば触れられる距離で微笑みあうことが出来る。
長いこと忘れていた充実感だった。
社会人になってから仕事と恋愛の両立も上手くいかず、索莫たる思いに囚われていたからだ。

「なんか急に言いたくなっちゃって……」

照れたように身を捩る成瀬が愛しくて、僅かに体をずらすと柔らかな頬を手で包み込んだ。
俺の方に向かせたまま固定すると、きょとんとしたまま俺を見上げている。
が、すぐに何をされるか気付いたのか、強く目を閉じて顔を上げた。
唇は力みすぎて小刻みに震えているし、肩はあがり手はエプロンを握り締めている。
何度キスをしても不慣れで、俺にまで緊張が伝わるくらいカチンコチンに固まっていた。
それでも必死に合わせようとしてくれる。

「ん」

唇にそっと触れた。
成瀬の心臓の音が背中を通じて聞こえてきそうだった。
意識しすぎて強張った体が無性に愛しくて、唇を離したあと耳にも口付ける。

「もっと力を抜いて?舌入れられないじゃん」
「ひゃっ……あ、ご、ごめんなさ……っ」

耳元で囁けば、成瀬の顔はうぶな乙女のように頬を上気させた。
口を開けたと同時に自らの舌を滑り込ませて咥内を蹂躙する。

「んぅ!っふ……ふっ、ぅっ、ちゅ…っんんっ、んぅ」

驚いたようだが、身動き取れない成瀬は甘んじて受け入れるしかなく、いいように貪られた。
上顎や歯茎も舌先で刺激されると俺を掴む手が強くなる。
感じている証なのだ。

「んくっ…ぷはっ、ダメ…っです……お客さんが――んっぅ!」
「大丈夫、んっ…、入り口からここは死角になってるし……んっ、ちゅっ…ドアを開ければ音が鳴るでしょ」

キスの合間に吐息を漏らし喋り続ける。
一度キスをしてしまえば、どうしてもっと早くやっておかなかったのかと思うくらい欲してしまった。
それくらい成瀬との口付けはムラムラする。
甘い唇に柔らかな舌、温かな咥内は味わい深いデザートだ。
成瀬と会えた日は最低三回はしているような気がする。
店だろうと構わず、客が店内からいなくなるとキスするチャンスを狙っていた。
店長のくせに店の中で逢引しているなんてとんでもないやつだ。
頭では分かっているのに行動が伴っていない。

「あっ、んぅ…やぁっ、秋津さ……手がっ……」

それどころか俺の手は勝手に成瀬の短パンから出た太腿を触っていた。
撫でるように優しいタッチで手を動かし、彼の反応を楽しんでいる。
次第に足の付け根へと移動して、短パンの中へ突っ込んだ。
成瀬はいやらしい手つきに内股を擦り合わせて逃れようとする。
だが濃厚な口付けの前ではなす術なく、甘えるように身をもたれてきた。
絡ませるように手を繋ぐ。
まだ小さな、愛されるためだけに生まれてきたような掌は温かい。
そうしてキスに酔いしれた。
まだ客は来ない。
足元のヒーターが熱いくらい暖めてくれて、夢見心地に浸る。
成瀬は簡単に俺の理性を奪う。
以前なら店内でこんなことをするなんて想像すらしていなかった。
でも止められなかった。
店の隅で互いの体を擦り寄せ、僅かな時間を満喫しようとしていたからだ。
なぜならば――。

カランカラン――……!

「こんにちはー!」

突然の来訪と共に風鈴の音が響く。
同時に、店内には元気な少女の声が木霊して、俺と成瀬は即座に離れた。
(また邪魔された)
二人は慌てたように唇を拭い、不自然なくらい顔を背ける。
現れたのは雅やその姉、子分たちだった。
寒さをものともしないミニスカートで、颯爽と店へ入ってきた彼女たちに店内は騒がしくなった。
元々狭い店がいっそう窮屈になる。

「いらっしゃいませ」

それでも俺はにこやかな笑みを浮かべると立ち上がって頭をさげた。
成瀬も同じように立って隣に並ぶ。
プールで会って以降、かなりの頻度で冬木姉妹はやってくるようになった。
ほとんどが買い物目的ではなく、成瀬目当てであった。
雅は店でああだこうだ成瀬と言い合ったあと、満足げに鼻歌をうたい供を引き連れ去っていく。
そのたびに成瀬との時間を潰された。
雅との仲を妬くも、こうなったのは全て俺のせいであり身から出た錆なので我慢するしかない。
お客様である以上無碍には出来ないのだ。
内心は複雑である。
さっさと成瀬に告白して振られてしまえばいいのにという大人気ない最低な本音と、進展せずとも幸福感で頬に喜色を浮かべる雅に、憧れにも似た眩しさと呵責の念が細波のように寄せては返した。
同時に彼女にも幸せになって欲しいなんて矛盾と自己満足の欺瞞だらけな思いに駆られたりする。
大人のくせに余裕がない。
それどころか胸の奥がぐちゃぐちゃになって、笑みが引きつった。
いっそのこと俺の笑顔をプリントしたお面を被っていた方が楽だと思えるくらいキツかった。
無邪気な子どもたちの中にひとり薄汚れた大人が混じっている苦痛は尋常ではない。
それでも耐えた。
気を許せば溢れてしまいそうな言葉を呑みこんで優しいお兄さんを演じきった。
……本当は雅が羨ましい。
誰にも訊かれたくない偽りなき本心だ。
恋人は俺なのに、誰よりも成瀬の傍にいるのは俺なのに、なぜ彼女が羨ましいのか。

「ぷぷぷ。相変わらずそのエプロン似合ってない」
「うるさいなー!」

俺はきっと彼女のように成瀬と言い合ったり出来ない。
同じ目線で話も出来ない。
頬を膨らませて、口をへの字にしてじゃれあったりなんて出来ない。
近いのにどこか遠い。
手を伸ばせば届く距離に彼はいるのに、触れようとすれば突如透けて掴みそこないそうだ。
歯がゆくて不意に胸元を掻き毟りたくなる。
成瀬と恋人になって数ヶ月経つが、足音を立てずに近づく死神のように不安が纏わりついて消えなかった。
これなら面倒を適当に流していた過去の恋愛の方が楽だった。
(こんなに幸せなのに、変だな)
誰よりも成瀬の傍にいたいと思っているのに、深入りすることを恐れている。
一線引いたところから盛り上がる彼女たちを見つめて溜息を吐いた。
ふと目に入った紅茶は完全に冷めていて、いつの間にか湯気が消えていた。

***

翌日の夜、大学時代の友人たちと飲みに出かけた。
もっぱら話題は会社の愚痴と結婚についてで、なぜか俺は手厚く慰められた。
恭子と別れてだいぶ経つというのに、一度友人に彼女を奪われた男というレッテルを貼られると、中々消えないようで酒混じりに肩を組まれて諭された。
ついでに可愛い子を紹介してやるよと誘われたが、俺は口を濁して話題を変えた。
恋人がいることを言っても良かったのだが、そうすると今度は会わせてくれと言いかねない。
恭子の時のように結婚結婚と急かされるのもごめんだ。
相手は同性でずいぶん年下なため、彼らの望むような未来はやってこない。
だから成瀬のことは伏せて大人しく失恋男として慰められてやった。
程よい酔い加減で電車に揺られ地元の駅へ降り立つ。
終電間近といことで乗客は少なく、閑散としたホームには冷ややかな海風が吹き付けていた。
疎らにある電灯の下を改札口へ向かって歩き出す。
酔いを醒ますにはちょうどいい寒さで、もう冬なのだと乾燥した肌が先に実感していた。
俺は疲れた顔の駅員を一瞥して改札を出た。
駅前もほとんどの商店が店を閉めてシャッター通りになっている。
一軒だけ開いたコンビニが場にそぐわない明かるさを放っていた。

「秋津さん?」

すると後ろから声をかけられた。
ぼんやり振り返ると、薄闇の中で雅の姉である渚が立っていた。
どうやら同じ電車に乗っていたようで、驚きから相好を崩して駆け寄ってくる。

「こんばんは。こんな時間に帰り?」
「はい。塾で……」
「そっか。終電近くまで大変だね」
「い、いえ。家だと中々勉強がはかどらないので仕方がないんです」

高校生ということは、この時期受験を控えているのだろうか。
重そうな学生鞄には参考書でも入っているのかはち切れんばかりに膨らんでいる。
学生らしいピーコートに太腿丸出しのミニスカートは見ているだけで腹を壊しそうだ。

「夜遅くに危なくない?」

二人は揃って歩き出す。
穏やかな港町だが、夜は人気もないし明かりも少なく女の子ひとりで出歩くには中々危険である。
駅は西口と東口に別れ、俺たちが住む東口は住宅街となっており、さほど栄えてないせいか静かな街並みだった。
深々と冷えた夜は街全体が眠りについて、多少の声があがれど闇に吸い込まれてしまう。
――と、並んで歩いていた渚が笑いかけた。

「普段は自転車で行き来しているので大丈夫です」
「今日は?」
「兄が自分の自転車をパンクさせちゃったみたいで、今朝勝手に乗っていっちゃったんですよ」
「それは災難だったね」

彼女の上に兄がいるということは雅は三兄妹の末っ子になる。
確かにあの気の強さや我侭な感じは、兄や姉に甘やかされて育ってきた証拠にも思える。
だから俺のように年上の男にも気後れせず話しかけてきたのだ。
家族関係を辿れば容易に納得できて、思わず笑みが零れた。

「誰かに車で迎えに来てもらえば?この時間ひとりは危ないでしょ」

まだ駅前だから人もいて街灯が照らしてくれるが、商店街を抜けて本格的に住宅街へ入ると雰囲気は一変する。
人通りはもちろん物音ひとつせず、所々にしか街灯はなくて、擦れ違う人の顔も暗闇でぼやけるような道だ。
男ならまだしも女で、しかも制服姿となれば一際危険な気がした。

「あ、でも家まで十五分くらいなので。迎えに来てもらった方が時間かかりますし、大丈夫です」

渚は気丈に笑ってみせ、東口から商店街のアーケードへ入ろうとしたところで立ち止まった。
左の通りを指し、

「私こっちなので失礼します」

と、頭を下げ、完全に人気の途絶えた車の往来もない道へ歩き出した。
俺はその姿を大人しく見送るが、商店街より暗く物騒な道を行く彼女がどうしても気になる。
別に俺と渚は店長と客という立場で、知り合い程度であり深い仲ではない。
本人が大丈夫といっている以上関わる必要もなく、俺も帰路に着けば良い。
(本当に大丈夫なのかな)
再三彼女は大丈夫と言っていたが、本当に平気な場合は案外少ない。
渚の遠慮がちな性格を知っていると、どうしても嘘くさく思えて落ち着かなかった。
迷う。
今までの俺ならさほど気にせず追っかけただろうが、頭の端に成瀬の顔がよぎった。
しかしゆっくりと深淵へ消えていく彼女から目を離せない。
その後ろ姿がどうにも頼りなくて放っておけなかった。
現在は成瀬と付き合っているが、基本的には昔から女の子に甘い。
それにもし彼女に何かあれば責任は俺にあり、目覚めが悪くなる。

「渚ちゃん!」

考えて考えた結果振り切れずに渚を追った。
声をかけると彼女は一驚を喫するように振り返り、俺の姿にどこか安堵したような表情を浮かべる。
送ると言うと、渚は喜びを額に湛えて目を輝かすように頷いた。
心が浮き立つようなはにかみに、俺も表情を緩める。
もし反応として躊躇うようだったら大人しく引き下がるつもりだった。
彼女から見れば俺だって気の置く男であり、下心あるように思われるかもしれない。
俺は警戒心を煽らないよう距離に気をつけながら、耳が沁むような静寂の道を歩いた。
暦上は冬で、夜空は澄んだ空気によって紺碧のセロファンを広げたみたいに鮮やかな色をしている。
吐いた息が白く染まる。
昼間の陽が出ている間はまだ冬というほど寒くないが、夜はもう真冬のような寒さだ。
海が近いせいか気温はだいぶ下がる。
道は思ったとおり真っ暗で、もし不審者でも現れようものなら逃げられそうになかった。

 

次のページ