9

「へぇ、秋津さんもお兄さんがいるんですか」
「ん、そう。顔も雰囲気も全然違うから、昔から兄弟だと思われる方が少なかったな」
「見てみたいなぁ」
「一応店のオーナーだから、タイミング良ければ会えるよ。店にゴツイ男がいたら多分うちの兄だから気味悪がらないであげて」
「あはは」

雅といると大抵聞き役に回っている渚だが、道中他愛ない話で盛り上がる。
店に来る時は大勢いて彼女とこんな風に話す機会がなかったから新鮮だった。
渚は髪をひとつに結っており、歩くたび尻尾のように軽やかに揺れている。
友人や雅の話をする彼女は晴れやかに微笑んでいて、きっと学校でも家でも愛されているのだろうと想像する。

「あーあ。俺にも兄じゃなくて、渚ちゃんや雅ちゃんみたいな妹がいれば良かったのにな」

実際妹や姉がいる知人の話を聞くと、そういいもんじゃないと返事が返ってくるが、男兄弟はむさ苦しくて嫌だった。
兄貴が暑苦しい性格をしていたから余計にそう思うのかもしれない。
俺が可愛いものを愛でたいとの信条も元はそこから来ているのだろうか。
姉や妹は一種の憧れだ。
想像でしか作られないから特別良く思い羨ましがるのかもしれない。

「……妹、ですか?」

すると渚の足が急に止まった。
隣にいた少女がいきなりいなくなって俺も立ち止まると振り返る。

「渚ちゃん?」

道は街灯と街灯の間が離れていて、彼女の表情は窺い知れない。

「あ、いえ……秋津さんって今付き合っている人いるんですが?」

次に一歩踏み出した時には、いつもと変わらない渚に戻っていた。
再び並んで歩き出した二人は緩やかなカーブに差し掛かり、反対車線からやってきた車のライトに目を瞬かせる。
暗闇に慣れていたせいか光が目に強烈な刺激を残した。
彼女も眩しそうに目を細めている。

「うん。いるよ」

俺はニコッと笑って空を仰いだ。
チクチクと刺すような痛みを肌に覚えながら、冷たい手を擦り合わせる。
今日も閉店までいた成瀬を思い出して自然と表情が柔らかくなる。
拙い街灯の明かりの下、渚はその横顔を見上げて問いかけた。

「どんな人……なんですか」
「どんなって、そうだな……」

俺は顎に手を当てて考えてみるが、具体例を言ったら相手が成瀬だとバレてしまいそうで口ごもる。
そういえば成瀬がどんな人なのか考えたことがなかった。
可愛いなと毎日のように思っているけど、じゃあ可愛い以外何があるのだろう。
真面目、優しい、照れ屋で笑うと急に周りが華やかになったような気になる。
あげればキリがないが、どれも無難な回答で、外れじゃないけど正解といえるほど踏み込んだ答えでもない。
成瀬の内面にまで触れていない気がして、急に彼の姿が薄くなったようだ。
プールの時みたいに多少強引にしなくちゃ自分の気持ちを隠してしまうような人だし、始めからそれを理解していたから当たり障りなく接するような時もあった。
(そうか。俺、成瀬君のこと何も知らないんだ)
彼が俺を好いてくれていることに甘えて何も知ろうとしていなかった。
可愛いという枠組みに押し付けて、そのフィルターでしか成瀬を見ていなかった。

「ごめん。分からないや」
「え?」

木枯らしのような風が胸元を這う。
それは初めて感じる寂しいという気持ちで、成瀬以外にこの寂寥感を埋めてくれる人はいない。

「おかしいね。恋人なのに何も分かってないなんて」

ひりつくような痛みに身を焦がす。
なんか変だ。
ここ最近痛いことばかり起こる。
成瀬の言動が気になったり、やきもち妬いたり、自分が嫌悪していた醜い雌みたいな思考に陥ってばかりだ。
俺は浅ましい一面が顔を出すことを異常に恐れている。
そんな姿を成瀬の前で見せたら、幻滅するに違いない。
俺と違って彼の周囲にはたくさんの可愛い子がいるんだ。
大人の執着染みた感情を押し付けたって息苦しくなるだけである。
成瀬の年でそれを背負わせたくない。
寒さが身に沁みた。
悴んだ手をぶっきら棒にポケットへ突っ込むと、渚を見下ろし力なく笑う。
その顔はどうやら自分で思っている以上に引きつっていたようで、渚は俯くと家までの間口を閉ざしてしまった。

翌日は一段と寒い日だった。
朝から厚い雲で覆われていて、街全体が普段より暗かった。
昼には雨が降ったり止んだりを繰り返して、暖房をつけずにはいられないほど冷えた一日だった。
天気予報士は夕方以降に雨が降った場合、寒冷前線がどうとかで雹か雪になるかもと言っていた。
もし降れば例年よりだいぶ早い初雪となる。
そんな思わしくない天候のせいか、店は閑散としていて、いつもなら学校帰りの生徒で溢れる時間もほとんど客はやってこなかった。
(今日は早仕舞いでもするかな)
僅かな動作音さえ耳に響く静かな店内で、俺は立ち上がると木目調のドアを開ける。
窓ガラスは外と中の気温差に曇っていた。
結露のせいで垂れた雫が窓枠を濡らしている。
店の外も人は疎らで、葉を落としたイチョウ並木は孤独を噛み締めるように立っていた。
早秋のころまでは日も長く、今の時間ならばまだ昼のように明るかったが、移り変わった季節に曇りも相まって仄暗い。
辺りはまどろむような静寂に包まれている。
シャツにエプロンでは寒いのも当然で、深く吐いた息が目の前でわた飴のように広がった。
今日はまだ成瀬が来ていない。
腕時計で確認すれば、もうとっくに学校は終わっている時間だ。
昨日の渚との話からちゃんと向き合って話がしたいと思っていたのに、そういう時に限って都合が悪かったりする。
人生は上手くいかないから面白い――というのは余裕がある人間にだけ言えることで、上手くいかない旨みは、立ちふさがった壁に四苦八苦している人間にとっては苦味以外の何物でもない。
その苦味を味わえるようになれば渋くなるのだろうか。
渋くなれば懐深い人間になれるのだろうか。
人生の酸いも甘いも知り尽くすほどの経験はなく、また、そんな経験はしたくない。
その時、上空から白い光の粒が落ちてきた。

「……どうりで寒いわけだ」

予報通りに雪が降ってきた。
灰色の重い空から風に靡き舞うように落ちてくる雪は軽くて掌ですぐ溶ける。
雨が降るより寒いはずなのに、雨より心が弾むのは、きっと幼いころに雪で遊んだ思い出が印象を良くしているせいだ。
降り始めればあとは早く、街を覆いつくさんばかりに降ってくる。
もし明日の朝まで降り続ければ地面に積もり一面を白く染めるだろう。
俺は寒さに腕組みながらも空を見上げてぼうっと突っ立っていた。
音なく降る雪に全ての音は遮断される。

「吉信!」

その中で聞き覚えのある声が蘇った。
ゆっくり視軸を下げると、そこには見慣れた女の姿がある。
俺は鋭く凝視したあとに目を見開くと声を失った。
咄嗟に信じられないとばかりに口を手で覆う。
厚手のコートに茶色のピンヒールを履いた彼女は、一年前と全く変わっていなかった。

「恭子……?」

まだ会社が終わる時間ではない。
呆然と立ち尽くす俺に、彼女はずかずかと近寄ってきた。
眉間に皺を寄せて凄い剣幕である。
別れる直前はいつもこんな顔をした恭子と喧嘩をしていた。
だからかその顔にさえ懐かしさを抱いた。

「どうして私じゃだめなの――!」
「え……っ?」

しかし彼女は怒るどころか俺に抱きついてきた。
驚いて見下ろすと、先ほどまでの迫力が嘘のように泣きそうな顔をしている。
エプロンを強く掴まれて振りほどくことも出来なかった。

「忠士を選んだのは私が悪かった。謝っても許されないことをしたのは分かってる!」
「何言って……」
「でもじゃあ次は女子高生?私じゃもう無理なのっ?」

恭子の手が震えていて必死にしがみついてくる。
潤んだ瞳には女の弱さが滲み出ていて、俺は単純に可哀想だと思ってしまっていた。

「誤解だよ。あの子は彼女じゃない。大体高校生だぞ。いくつ年が離れていると思ってんだ、馬鹿馬鹿しい」

俺は恭子の肩を掴むと引き離した。
彼女の話から俺の恋人が渚ということになっていると瞬時に判断して首を振る。
原因は分かりやすかった。
まさか昨夜の渚を見られていたとは思わなかった。
いや、恭子が見ていたのではなく、俺を知っている誰かが偶然見て彼女に連絡したのだろう。
むしろそっちの方が厄介だった。

「嘘よ」
「なんで」
「だってあなた昔から凄くモテてた。可愛い後輩から年上の女性までより取り見取りだったじゃない。私はそのたびに不安で寂しくて仕方がなかった……!」
「はぁ、なんだそれ。俺は一度だって浮気はしなかったぞ。なのにすぐ疑われて勘ぐられてどれだけ嫌だったか分かってないだろ」

なぜだろう。
苛立ちしかなくて、冷静になれない。
本当はこうなるから恭子と会うのを避けた。
連絡を取ろうとしなかった。
今さら過去のことを持ち出して互いに傷つけようとすることは明白だったからだ。
まるで付き合っていたころに戻ったみたいだ。
不毛なやり取り。
証拠もなく水掛け論のように、互いの主張で揉めて気分悪いまま終わる。

「吉信だって分かってない!」
「何が」
「全然分かってないのよ……」

ふいに恭子の瞳から涙が零れ落ちた。
密やかに降る雪の中で、赤く色づいた頬に一筋の痕が残る。
恭子とは喧嘩になっても泣くことはほとんどなかった。
もしかしたら俺の前では我慢していたのかもしれない。
怒鳴りあいの喧嘩になっても彼女は決して口で負けず、反論をやめなかった。
だからこんなに簡単に泣くとは思わなくて、次に言おうとしてた文句が喉の奥で詰まった。

「……七年も付き合っていたのに、吉信は全然分かってなかった。分かろうともしなかった。なぜだと思う?」
「………………」
「私を愛してくれなかった。少なくとも私は愛情なんて感じなかった。キスもセックスもしたし、いろいろな場所へ旅行もした。サプライズだってしてくれたし、彼氏としては最高だったのに、心はどこか満たされなかった」
「どういうことだ?俺は恭子を愛していたし、理解もしていたつもりだ。結婚か?確かに結婚は誤魔化していたけど……」

すると恭子は力なくかぶりを振った。
やっぱり分かってないのねと言わんばかりの仕草だった。
ゆるりと夜の帳が降りてくる中で、二人きり向き合う。
時折通る車以外誰もいなくて、この世界には二人しか存在していないようだった。

「忠士君は優しかったよ」
「…………」
「あれは最後の賭けだったのよ。彼の気持ちに甘えて利用した私が最低なのは自覚してる。私に吉信を責める権利なんてない。でも、どうしてもあなたに追いかけてきて欲しかった」
「まさかそれで……」

恭子は俺の気を引くために忠士のもとへ行こうとしたというのか。
胸の奥がひやりと冷たくなった。
雪の中薄着でいるより、肉体で隠された心の方が寒いなんて変だ。
だけど指先から凍えるように麻痺して動けなくなる。
無意識に奥歯を噛み締めた。
俺との付き合いで、彼女に不満があったのは分かった。
だけど、それでもやって良いことと悪いことはある。

「俺が……俺が、忠士に恭子を取られてどんな思いをしたと思ってるんだ……」
「なら追いかければ良かったじゃない。私に行くなって言えば良かったじゃない!」
「言えるわけないだろ!」

思わず声を荒げた。
いきなりのことに恭子が驚いて瞬間静止する。

「お前はずっと結婚を望んでいて、俺はその望みを叶えてやれそうになかった。なら別のヤツとくっついた方が恭子も幸せになれるって思うしかないだろう」
「馬鹿じゃないの。女を舐めないでよ!結婚出来れば誰でも良かったんじゃない!吉信と一緒にいたかったのよ!」
「だからっ」
「結婚できなくても、恋人としてでもいいから一番近くにいたかった!ただ、不安だったから……結婚って証が欲しかっただけで……結婚に拘っていたわけじゃないっ」
「…………」
「吉信はいつもそう……。自分のことばかり。自分の考えが全て正しいなんてまやかしよ」

恭子は寂しそうに顔を顰めて、

「あなた、本当に人を好きになったことないのね……」

それは雪に溶けそうなくらい小さな声で、痛々しい涙を拭うと俯く。
拭っても次々に溢れてくる涙を止める術を知らないのだ。
(人を好きになったことがない?)
初恋はちゃんとあった。
その後も……ちゃんと付き合っていた――。
(でも、何が〝ちゃんと〟なんだろう)
恭子だって愛していたつもりだった。
でなければ七年間もひとりの女とだけ付き合うなんて無理だ。
なのに言葉が出てこなかった。
まるで見透かされたみたいに心臓の奥に恭子の言葉が突き刺さった。
実感を伴わない痛みが赤い血を流す。
愕然とした。
彼女の告白は、目を背けたくなるほど真実を告げたからだ。
愛情を持って接していたはずの恋人は、愛情の欠片も感じず絶望している。
彼氏の友人を利用するほど追い詰められて、何度こうして声を押し殺して泣いたのだろうと考えさせられる。
恭子は被害者だ。
俺が彼女にこんな辛い告白をさせてしまった。
だが俺の胸に宿る痛みだって本物だ。
別れた時、忠士とのことがあった時の痛みも本物だ。
突っぱねて辛くなんかないと自分に言い聞かせていたが、そこにはちゃんと気持ちがあったんだ。

「今さらこんな話無意味だろ」
「……そうね」
「俺たちはもう終わったんだ。二度と俺の前に姿を現すな」
「こんな男に未練たらたらだったなんて馬鹿みたい……」
「そう思うならさっさと忘れてくれ」

本当は分かっていた。
それでも恭子は俺に期待して、引きとめることを望んでいる。
だから優しい言葉はかけなかった。
下手な優しさは相手を傷つける。
今の俺には成瀬がいる。
表面だけの優しさで恭子の気持ちを受け止めたところで、傷つく人が増えるだけだ。
恭子は俺を見ようともせず背を向けると雪の中を去っていった。
辺りはもう真っ暗で並木道の街灯に明かりがともる。
闇の中を浮かび上がった雪は儚げで美しかった。
何もする気もないまま消えていく元恋人の後ろ姿を見つめ手を握り締める。
思い出すのは付き合いたての初々しい恭子と俺で、気さくな彼女は友達のようで一緒にいて楽しかった。
(友達のようでって最悪だな)
一緒にいながら不安を感じていた恭子は、少なからず俺のそういった部分に感づいていたのかもしれない。
それでも俺はひとりで誠実な付き合いだと思い込んでいた。
彼女にはなるべく不安にさせないようにと気遣っていたつもりなのに、結局何も伝わっていなかったと知り、無性に虚しくなる。
全てを否定されて、何のための七年だったのかと肩を竦ませて笑う。
恭子が去っても胸の痛みは引かなかった。
糸のように細く引いた微かな淋しさが身を切るように纏わりつく。
このまま深い雪の中で溶けてしまえたら、どれだけ楽になれるのだろうと思い、声のない笑いが口許を掠めた。

きゅっ――……。

すると強く握り締めていた手に何かが触れた――いや、何かに包まれた。
驚いて肩越しに振り返ると、半歩後ろに成瀬がいた。

「な、なる――」

口を硬く結び、珍しく険しい表情で道の先を見ている。
恭子が去っていった方向だった。
それだけで彼が一部始終を見ていたのだと気付く。

「……ごめん。今の元カノ」
「…………」
「でも大丈夫。もう関係ないから」

成瀬は黙り込んでいた。
俺が取り繕うように声をかけても微動だにせず、手を握っている。
彼の手は氷のように冷たくて、とても数十分外にいた程度とは思えなかった。

「いつから待っていたの?」

多分成瀬は俺がひとりで店番していた間も、店の外にいたのだろう。
中に入りもせず、寒い空の下で佇んでいたのだろう。

「どうして……?」

その問いにも応えなかった。
強さを増す雪に、気付けばイチョウの枝がうっすら白くなっている。

「追いかけて下さい」

しばらくしてようやく成瀬が口を利いた。
恭子の姿が見えなくなってかなり経ったころだった。

「おれ、知っています。いつだったか店にハンカチを忘れた日、慌てて取りに戻ったら秋津さんとお兄さんが話をしていて、つい立ち聞きしてしまったんです」
「うそ……」
「ごめんなさい。お二人にどんなことがあったのか、おれには関係ありません。でも、このままじゃダメです」
「何言ってるの?自分で言ってること分かってるの?」

俺は振り返って正面から成瀬を見た。
成瀬のために恭子を冷たく突き放した。
ただでさえ不安定な俺たちの関係に気遣って突っぱねたのだ。
成瀬だって恭子を追いかける意味が分からないわけじゃない。
むしろ分かっているからそんな辛そうな顔で一点を見つめているのだろう。

「俺が恭子のもとへ行ってもいいってこと……?」

その言葉に成瀬の顎が僅かに震えた。
唇を噛み締める力が強くなったような気がする。
それでも彼は俺を見ず、腹を決めたという風に頷いた。

「分からないよ。俺、成瀬君がどうしてそんなこと言うのか」

昔から付き合った女の子たちは元カノの存在を毛嫌った。
だから新しい恋人が出来ると、前の彼女からもらった物や一緒に撮った写真は全て捨てた。
うっかり捨て損じているのが見つかった時、烈火のごとく怒るか、未練があるんでしょと問い詰められて泣かれるからだ。
だから俺は極力排除し、今は君が一番だという態度を取り続けた。
(……そういえば俺、よりを戻したいと思ったことないや)
躊躇うことなく思い出を捨てている姿が蘇る。
今さら気付く自身の不誠実さが頭を痛めた。
しかし大切なのは過去ではない、今だ。
今の関係を大事にするのは当たり前のことで、さほど非難されるような行為でもあるまい。

成瀬にも不快な思いを欲しくなかったから恭子のことは話していないし、今日のことも知らなければ知らないまま終わらせるつもりだった。
だから「二度と姿を現すな」なんて酷い台詞が吐けたのだ。
世の中知らなくて良いことはたくさんある。
なのに成瀬は追いかけろという。
本心じゃないだろうに、どうしてそんな馬鹿なことを言うのか。
追いかけるわけないと言う俺を望んでいるのか。
――いや、彼がそんなずるい駆け引きをするはずがない。
どんなに自分が辛くても追いかけて欲しいと思っているのだ。

「だって……だって……」

すると成瀬は痛いくらい手を握り締めて、それから離した。
必死な思いで俺に目を合わせる。

「恭子さんが可哀想だから……」
「は……?」
「あんなことを言われたら、せっかくの二人の思い出も嫌なものにしか残らなくなってしまいます!」
「でも、それはっ」

成瀬が言うことなのか。

「それに、あのままじゃずっと傷ついていた秋津さんをも否定してしまうことになるじゃないですか」

それはまるで恭子との別れに抱いた痛みを知っているような口ぶりで、

「プールでおれに問いましたよね?どうして告白したのか」

彼は店へと視線を流した。
店の窓からは甘く光が差している。

「……あの時は言えませんでした。口に出すのが怖かったから、逃げたんです」
「逃げた?」

成瀬は背筋を正すと、店を眺めながら、

「こうやって店の外からでも、見ていると多くのことに気付きます。秋津さんが優しいこと、真面目なこと、お店が大好きでお客さんを大切にしていること」
「…………」
「そして深く傷つき、悲しみと戦っていたこと」
「別にそこまで傷ついてなんか……」
「強がらないでください。口先で平気な振りをしていたって、おれはずっとあなたを見ていたんです」
「成瀬君……」
「店で恭子さんを見たことがなかったから、それが別れる前なのか後なのか分かりませんけど、誰かを想ってそういう顔をしているんだなとは感づいていたんです」
「…………」
「もし少しずつ元気になっていったなら、おれは告白しませんでした。気持ち悪がられると分かっていて、想いを伝えられるほど強くありません。でも秋津さんは日に日にため息の数が多くなって、ふとした時に寂しそうに天井を見上げて……そのうち笑っている顔を見るのも辛くなったから、おれは決心したんです」

店を見る眼差しは優しげで、きっとそうして店と俺を見守っていてくれたのだと覚った。

「振られても構わなかった。秋津さんのことをちゃんと見ている人はいる、想ってくれる人はいるって伝えられたらそれで良かったんです。おれなんかの告白でも役に立てられれば、それで……」
「だから、あんな無謀な告白を?」
「……はい」

思い返すのは告白された夜のことだ。
その場で告白を受け入れた俺は、自宅へ帰りベッドに寝そべってもらった手紙を開いた。
笑ってしまった。
内容はラブレターというより励ましの手紙だったからだ。
締めの言葉は「これからもお店頑張ってください」なんていう応援で括られていたのだから、腹を抱えて哄笑した。
彼の年齢じゃこの程度だよな――と、純粋な好意に納得して、その真意まで探ろうとしなかった。
本当は――――。
本当は俺自身さえ気付かない空虚な感情を汲み取って告白してくれたのに。
大人であらねばならないと思っていたのは俺だけだったんだ。
その前に彼は色んな俺を知り、それでも秘めた気持ちを募らせてくれていた。
(何が余裕があらねばならないだ)
成瀬は始めから従容とした俺なんて求めていなかった。
あるがままを望み、愛してくれていた。

「それなら益々恭子のことなんて追いかけない、追いかけたくない」

こんな状態の成瀬を放って、元恋人のもとへなんて走れない。
何よりも、成瀬はまだ俺に言ってない。
どうしてそんな冷えた体で外にいたのか。
なぜ店へ入ってこようとしなかったのか。

「もういいんだよ。恭子もちゃんと理解している。俺たちはもう別々の道を歩き出したんだ」
「…………」
「なんで首を振るの?そんなに俺に行って欲しいの」

成瀬は無言で首を振ると俺を遠ざけようとする。
(どうして引き止めてくれないのか)
心の底でそう呟いた時、ふといくつもの映像が浮かんだ。
それは忠士と付き合うと言った恭子の顔。
それはつい先ほど雪の中で淋しげに笑う恭子の顔。
今になって痛いほど彼女の気持ちが沁みて、俺は反論途中のまま何も言えなくなってしまった。
口の先まで出かかった言葉を凍結させる。
そうだ。
きっと恭子も同じ寂しさの中で俺の言葉を待っていたに違いない。
必要なのは聞き分け良く受け入れる理性ではなく、恥も外聞もなく「行くな!」と腕を引く意志だったのだ。
(丸っきり同じことを、俺は求めて……)
恭子の切なげに揺れる眼差しが残像のように瞼の奥へ貼り付いた。
それは振り払っても消えることなく、暗澹たる瞳で物言いただけに口ごもらせている。

「…………」

俺が何も言わなくなったせいで、辺りは閑寂な住宅街へ戻った。
傘も差さない二人の間で舞う雪は、降り始めより大粒となって視界を邪魔する。
成瀬は黙り込んだ俺に笑みの溢れる愛情こもった目で笑いかけた。

「――女の子には優しくしなくちゃダメなんですよ」
「……っ……」
「バカって言われてもバカって言い返しちゃダメなんです」
「成瀬く……」

彼は自分の巻いていたマフラーを外し、

「そう教えてくれたのは、誰でもない秋津さんじゃないですか」

と、俺の首にかけてくれた。
成瀬がいつも巻いている水色の温かなマフラーが心地好く馴染む。
それは彼の体温のお蔭だった。
いや、体温だけじゃなく、その感触が、優しさが気持ちを柔らかく丸くしてくれる。

「お願いします。追いかけて下さい」

後押しするように同じことを呟くと、持っていた傘を差し出した。
俺はそれを見下ろし、喉もとまでせりあがってくる成瀬への想いを唾と一緒に飲みこんで、覚悟を決めたように頷いた。
渡された傘を受け取って雪が降る中恭子を追いかけようと体を反転させる。
成瀬に背を向けた俺はそのまま駆け出した。
足元は解けた雪でびちゃびちゃと濡れている。
コートを取りにいく時間すら惜しくて、久しぶりの全力疾走に息を乱し走り抜けた。
後ろからやってくる追い風が急げと言っているようで、振り返ることなく前だけを見つめる。

そうして俺の姿が見えなくなったころ――成瀬は店の前で泣き崩れて拙い嗚咽を漏らした。
たぶん自分が泣いたら、どんなに背中を押しても恭子のもとへは行かないと思ったからだろう。
誰もいなくなって心に張っていた糸が切れると、成瀬は誰に憚ることなく泣いた。
その声は雪に呑まれて俺の耳にまで届かなかった。

 

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