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納得したように手を叩くと、「しょうがないな」と呆れたように――でも全然嫌な感じじゃなくて、頭を撫でられた。
その感触に先ほどの出来事を思い出して、押し黙る。
広文も様子が違うことに気付いた。

「どうしたの?」

窺うように顔を覗きこまれ、慌てて顔を背ける。

「な、なんでもない」

バツが悪くて困った。
視線は置き場をなくして宙を彷徨う。

「それより何?僕に用があったんでしょ」

苦し紛れに出たのは、あからさまな話題逸らしだった。
広文の視線を避けるように空を仰ぎ見る。
雲ひとつない冬空はあまりに綺麗で目を奪われた。
白い息が綿のように膨らんで空気に溶ける。

「鈍いなあ」

すると隣で広文がクスクスと笑った。
頭ひとつ違う体を丸めて、おかしそうに腹を抱える。
何が――?と、思ったのが顔に出ていたのか、額を指で弾かれた。

「今日まだ全然話せてなかったじゃん」
「あ……」
「一年待ったんだ。早く会いたくて、数日前からうずうずしてた」

昨夜、最後にもらったメールにも同じことが書かれてあった。
会いたい、話したい、抱き締めたい。
恋人になってメールの内容が甘くなったのは欲目ではないだろう。
いつだって明るく優しかった広文は、意外と大胆で押されっぱなしだった。
返信に困って「僕もだよ」と送るのはずるい。
だけどいつもそれで済ませた。
他になんて返せばいいのか分からなかった。
思いのままに伝えられたらいいのに、照れて言葉が出てこない。
簡素なメールだが想いは充分に詰まっていて、送信ボタンを押す手すら震えた。
不安と期待が入り混じって余計に眠れなくなると、携帯を抱いて朝を待つ。
胸がいっぱいで毎年楽しみにしていた駅弁もほとんど残してしまった。
表現するのが苦手なだけで、気持ちはいつだって溢れそうになっている。
今だって素直にありのままを言えたら楽になれるのに。

「みーなと」
「えっ?」

すると、広文は着ていたジャケットを脱いで、僕の肩にかけてくれた。
ふんわりと彼の香りがして狼狽する。
温かさより先に体が火照った。

「鼻の頭が赤いぞ。湯冷めしたらどうすんだ」

鼻をツンとされる。
無邪気に笑う顔は見慣れた広文なのに、どこか違った。
それが親戚と恋人の境界線だとするならば、僕らはもう越えてしまったことになる。
理解していたのに、実感は別で瞠目した。

「ね、キスしてもいい?」
「……っ……!」

だが広文は待ってくれない。
僕が最初の段階で躓いてるとも知らず、肩を掴む手が強くなる。
(待って、待って……)
心の準備が出来ていない。
いつの間にか広文の顔から笑顔が消えて、真剣な面持ちになっていた。
滅多に見ないような顔に不安が勝って怖くなる。
どうしよう!
心臓は爆発しそうなほど激しい鼓動を響かせた。
抱き締められたら聞こえてしまうかもしれない。
同性の意地なのか、うろたえているところを見られたくなかった。
初めての恋だと気付かれたくなかった。
対等でいたい。
年齢差がある以上、始めから対等であるわけないのに、格好をつけたかった。
背伸びをしたい年頃で、子供扱いはされたくなかった。
恋愛に関しては初心者なのに、対等でありたいなんて馬鹿げている。
だがどうしても思春期のプライドが邪魔をして、なすがままになんて出来なかった。

「や、やだっ――!」

思わず出たのは拒否の言葉だった。
咄嗟に手を振り払っていて、かけてくれたジャケットが地面に落ちる。

「あっ……」

しまったと思った時には遅く、広文は驚いた顔で固まっていた。
今さら取り繕うことなんて出来ず、それ以上言葉が出ない。
一瞬、北風の音が聞こえた。
それほどの無音が辺りを支配したからだ。

「湊。遅いと思ったら何やってるの?」

そんな僕を救ったのは、窓から顔を出した母親だった。
「早く寝なさい」と怒られて、広文の顔を見られないまま立ち去る。
これっぽっちも思ってないことを言ってしまったのに、何も言い出せなかった。
謝りや否定をしないまま逃げる。
最低だと分かっていながら取り消せなかった。
部屋に戻ると、反応が怖くて携帯の電源を落とす。
些細な誤解は早く解くに限る。
遅くなればなるほど気まずくなるとは、この時の僕は知らなかった。

翌日以降、益々声をかけづらくなった僕は、逃げるように母親に引っ付いた。
彼女と買出しに出かけたり、はとこの赤ん坊をあやしたりと、一日を忙しなく過ごした。
祖母やおばさんは良く働くと褒めてくれたが、まったく嬉しくなかった。
ただ広文から逃げていただけなのだ。
さっさと謝ってしまえば今ごろ二人で仲良く出来たのに、全然楽しくない。
それどころか居心地悪くて窮屈な思いをした。
(嫌なわけじゃないのに)
天邪鬼な自分に嫌気が差してうんざりする。
広文は傷ついただろう。
せっかく会いたいと言ってくれたのに、それを拒絶したのだから当然だ。
きっと怒っている。
現にあの夜以降、二人っきりになることはなかった。
僕が避けているせいもあるが、一軒の家にいて二人になろうと思えばいつでもなれる。
それをあえてしなかったということは、彼なりに考えていてのことだ。
もしかしたら嫌われたのかもしれない。
この一年待ちに待っていたのに、上手くいかないことに辟易とした。

「どうしたの?広文君と喧嘩したの?」

明日は大晦日で、相変わらず父親は先に酔いつぶれて寝ていた。
家族三人川の字になって布団を敷くと、隣で寝る母親に問われる。

「いつも広文君のあとにくっついていたのに、変な子ね」

不審がる彼女はさすが親とも言うべきで、しっかりと変化を見抜かれていた。
このまま新年を迎え、別れていいものかと悩む。
夏から冬より、冬から夏の方が間が長く、それだけ会えない期間が増えてしまうのだ。
大体こんな状態で付き合っているとは言えない。
この先のことも判らない。
(広文はモテそうだし)
そもそもなぜ自分を選んでくれたのか分からなかった。
考え出すとキリがなくて困る。
しかもそういう時は大抵悪いほうへ考えがちで、答えのない堂々巡りをし続けるのだ。
偏った思考だと気付けない。

「とにかく。今年中に仲直りしなさい」

そう言うと彼女は布団にもぐりこんだ。
疲れているのか、すぐに寝息が聞こえてくる。
僕は頭上の明かりを消すと、冷たい布団の中へ入るのだった。

翌日、大掃除はすっかり済んで、思い思いに過ごしていた。
毎年零時を迎えて新年になると、近所の神社へお参りに行く。
周辺の住民がやってくるから大きな列になった。
さほど大きくもない境内には人が溢れ、温まれるように焚き木がしてある。
そこではお汁粉が振舞われていて、焚き木を囲むように食べては、お参りに来た住民と新年の挨拶を交わすのだった。
昨夜また雪が降ったようで、溶けかけていた雪が再び積もっている。
結局何の進展もないまま夜を迎えた。
恒例である大晦日の歌番組を見ながら食事を終えてコタツに入る。
いつも隣に誘ってくれる広文は何も言わず、おじさんたちの相手をしていた。
それを母親も見ていたのだろう。
まだ仲直りが出来ていないと知り、おせっかいをする。

「母さんたちは先に参拝に行くから、広文君と二人で家中の鍵を閉めてから来なさい」

真夏には玄関さえ鍵を閉めないくせに、今さら何を言っているんだか。
それでも大人しく従い、母屋と離れ、分家の鍵を閉めようと歩き回る。
まだ零時にはなっていない。
あと十分。
広文も同じように手伝ってくれた。
先ほどまで賑やかだった部屋はどこも静まり返り気味が悪いほどである。

「湊。こっちは全部確認したぞ」

廊下の向こうから彼がやってきた。
もう出かける支度をしていて、ジャンパーにマフラーを巻いている。

「ご、ごめん。僕まだだから……先に行っていて」

せっかく母親が気を利かせてくれたのに、目を合わすことなく突っぱねてしまった。
言ってからまた「しまった」と焦る。
瞬間、二人の間に流れる空気が固まった。
タイミング良く雨戸に吹き付ける風が、ガタガタ騒ぎ出す。
どう考えても一緒にいたくないという意味に聞こえてしまうだろう。
顔を上げられなくなった。
僕は広文の返事も待たぬまま、急いで廊下を曲がり、階段を駆け上がった。
そうして自分たちに用意された部屋に入ると、一ヶ所に纏められた荷物のもとへ向かう。

「ふ……っ……」

持ってきた鞄を掴みながら不意に涙が零れた。
酷いことをしているのは僕なのに、胸が押し潰されそうになる。
勝手に傷ついて泣いていることが恥ずかしくて、乱暴に服の袖で拭うと、落ち着かせようと深く息を吐いた。
昂ぶった感情を静めようと深呼吸を繰り返すが、いつまで経っても胸の痛みが引かない。

「…………なとっ、湊――!」

その時、強引に手を掴まれた。
力のままに引っ張られて振り向くと、余裕のない顔をした広文がいる。
驚いて力が抜けるとその場に座り込んだ。

「あ、あっ…これはっ…そのっ……」

我に返り自分が泣いていたことを思い出すと、慌てて目元を拭った。
だがいつまで経っても治まらない。
それどころか次から次へと涙が零れて止まらなかった。
泣き顔は見せたことがないせいか、彼が息を呑むのが分かる。

「ごめん」

気遣うように謝られた。
謝るのは僕の方なのに、越されて余計に言葉が出てこない。
(違うっ…違うのに)
先に心が悲鳴をあげた。
ひりつくような思いに、痛みが溢れる。
それも声にならず、嗚咽となって漏れた。
思い通りに振舞えない苛立ちと、素直になりたい歯痒さに気がおかしくなりそう。
ほんの少し気を許せばもっと楽になれるのに、いつまで経っても意地が邪魔をするのだ。

「ひっぅ……ひっくっ……っ」

外は何の音もしない。
時折雨戸を叩く風の音が聞こえるくらいで、それもすぐにまた無音へ戻った。
頭上の拙い明かりに照らされて、僕の泣き声だけが響く。
するとその時――。
明かりが遮られて影が出来た。
驚いて見上げると、広文が急に抱き締めてきた。

「かわいいなぁ」

ずいぶん間延びした声だった。
驚き思わず涙も引っ込む。

「ああもう。ずっと我慢してたけど許してっ、湊可愛すぎる!」

何が起こったのか分からないまま一度体を離した。
目が合うと広文はずいぶんニヤけた顔をしている。
(はて……雰囲気にそぐわない顔なのだが…)
一連の出来事を思い出すと、彼の表情が合わない。
広文を避けて逃げただけでなく、泣き顔まで見せてしまったのだ。
もっとシリアスな場面になるはずなのに、なぜこの男は緩んでいるのか。

「なに笑ってんだよっ」
「いてて」

訝しげに見上げると、広文の頬を手で引っ張った。
それでもヘラヘラ笑うのを止めない。

「湊は昔っから空回りの天才だよな」
「は……」
「俺はこれでもお前のこと良く分かってるつもりだよ」
「どういうこと?」

問うと僕の頬に彼の手が触れてきた。
柔らかく包まれて、気付いた時には顔を逸らせないようになっている。

「それ、言っていいの?」

そう聞き返されたから無性に恥ずかしくなった。
(まさかバレている?)
意識しすぎて避けていたことはお見通しだったのだろうか。
そう考えると格好悪さに深いため息が出た。
僕は全て顔に出ていることに気付かない。
広文は気持ちを汲んで頷くと、それ以上のことは口にせず、目を細めた。

「年に二回しか会えないけど、ちゃんと見ていたからね」
「広文が言うと変な人みたい」
「酷い言いようだなぁ。ま、そういうところを好きになったんだから仕方ないっしょ」
「え?」

そういえばどうして僕なんかを好きになったのだろう。
何も知らなかったから、興味が湧いて彼の顔を凝視する。
今まで散々避けてまともに見ようとしなかった瞳を合わせた。
その表情に彼は笑みを深くして包んでいた頬を撫でた。

「空回りの不器用で、嘘がヘタなところ」
「それ好きになる?」
「あはは。なるなる。大抵疚しいことがあると俺を避けて逃げていただろ。顔にごめんなさいって書いてあるのに、中々謝れなくて、それを自分でも分かっていて、自己嫌悪に陥ってる」

広文の口から出てくるのは短所ばかりで、耳を塞ぎたくなるほどの事実だった。
思えば物心つく前から盆と正月帰省していて、母親いわくオムツも替えてもらったことがあるそうだ。
そんな彼には何もかもお見通しで、ひとり空回りしていただけなのである。
そもそも広文は頭の回転が速く鋭い。
僕のヘタな嘘が通じるわけがないのだ。

「広文、変な人」

それで好きだと言われたってちっとも嬉しくない。
口をへの字にして抗議するが、彼の態度は変わらなかった。
むしろ益々頬が緩んで柔らかい表情になる。

「二度も言われると傷つくぞ」
「だって広文の気持ち、全然わかんない」

僕が広文を好きになったのは、優しくて、頼りになって、物知りで、格好良かったからだ。
憧れから始まり、次第に夢中になり、気づけば無意識に目で追うようになっていた。
彼のような人は周りにはおらず、話すたびに尊敬は増して、広文みたいになりたいと思った。
まさかそんな出来た人と相思相愛になるなんて思ってもみなかった。
だから格好つけたかった。
一挙一動にドキドキして、緊張して取り乱していると思われたくなかった。
いつだって余裕のある広文のように振舞いたかっただけなんだ。

「俺はさ、小手先だけで生きているようなものなんだよ。どんな人だろうと、何が起ころうとある程度対処できるっていうか」
「…………」
「分かりやすく言うと嘘が上手いんだ。でもそういう自分はあまり好きじゃない。むしろ湊のように嘘偽りなく生きている人の方が、ずっと素晴らしいと思う」

広文は年下の僕が理解しやすいように言葉を選んでくれている。
だけど彼が抱えているのはもっと複雑な感情なのだと思う。

「買いかぶりすぎだよ」
「そう?」
「だって僕、避けて逃げたのは保身からなんだ。僕ばっかりドキドキしてうろたえて格好悪いから……、広文みたいに平然と振舞えないから逃げたんだ。それが傷つけることだって分かっていても、自分のことしか考えてなかった」

本当にひどいやつだ――と、顔をしかめると、彼は首を振った。
頬に触れていた手を離し、そっと抱き寄せる。

「平然となんてしてないよ」
「え?」

湿った声に顔をあげようとしたら、強く抱かれて動けなかった。
まるで顔を見られたくないから抱きしめたみたいだ。

「緊張しすぎて出発の一週間前から眠れなかったし、湊に避けられてると気づいた時には少なからず動揺した」
「そんなっ……」
「言ったでしょ。嘘が上手いって。俺は隠してるだけだよ。実はついさっきまで焦っていた。俺のことで泣いてくれていると気付くまで、内心不安だったんだ。もしかしたら本当に嫌われたんじゃないか、意識しすぎて避けてるなんて都合よく考えているんじゃないかって」
「ひ、広文……」
「今だって拒絶されないか怖い。年上の俺がリードしなくちゃ先へ進めないのに、もっとしっかりしなくちゃダメなのに……格好悪いのは俺の方だ」

かろうじて見えた耳は、これ以上にないくらい真っ赤だった。
それだけで広文がどんな顔をしているのか分かる。
そうだ。
誰だって好きな人の前では格好つけたい。
自分を良く見せたがるのは当然のことだ。
だって嫌われたくないし、もっと好きになってもらいたい。
僕は彼を完璧人間だと端からみなして別物と考えていた。
でも本当は広文だって同じで、むしろ、僕より年上の分悩みは多いのかもしれない。
(不器用なのは広文の方だ)
平気な振りをして抱え込むのは、器用な人間のすることじゃない。
上手く表せないのはきっと彼が僕と違った不器用さを持っているからだ。

「好きっ…広文、大好き」

初めて知った短所は、同じ不器用であるということ。
でも嫌いになるどころかもっと好きになった。
もっと愛しくなった。
それが広文の好きと同じような気持ちなら嬉しい。
苦々しく思っている部分も愛せたら、とても素敵なことだ。
僕は背中に手を回してぎゅうっと抱きしめた。
彼の広い胸は心地よくて、いつまでもこうしていたくなる。

「…っ…み、なと。ちょっとくっつきすぎ」
「え」
「俺の理性が……」

頬擦りしていると、戸惑う手が肩を掴んだ。
何のことかと一瞬考えて、ふとあることに気づく。
広文の性器が硬くなっていた。
狼狽してわずかに体を離すと、互いにもじもじする。
僕だって知らないわけじゃない。
むしろこうなることだって簡単に想像できた。
だから会えない間に調べて、妄想に浸っていた。

「――い、いいよ」
「湊……」
「広文なら、僕も……したい」

自ら切り出すのは勇気がいる。
だけどここで僕が動かなくちゃ、広文は上手な嘘でごまかして本心を口にしない。
その方が僕のためだと諭してしまうだろう。
でも――。

「ぼ、僕も素直になる。だから広文は本当のことを言って!僕には…僕だけには…っ、嘘をつかないで」

今までだって僕のためについた嘘はたくさんあると思う。
それはすごく嬉しいことだけど、本当の気持ちが知りたいのだ。
たしかに本音をぶつけて拒否されたら怖い。
でもその恐怖も彼と同じだと思うなら越えられる。
ドキドキだって破裂しそうだけど耐えられる。

「湊……」

広文は甘ったるい声で僕の名を呼んだ。
熱っぽい眼差しが近づいてきて、自然と目を閉じる。
唇に柔らかい感触がした。
胸の奥に火がついたみたいに熱くなって、徐々に体を覆う。
離れた時には全身火照って、真冬なのに汗をかきそうだった。
これがキスなのだと、僕は唇に触れて顔を赤くする。
だが実感している暇はなかった。

「湊を抱きたい」

広文が僕の体を押し倒す。
気づくと頭上にあった天井を見つめていて、いぐさの匂いが濃くなっていた。
見下ろす彼の顔には余裕がなくて笑みがこぼれる。
(一緒)
きっと僕も同じ顔をしている。
柱にかけられた時計は、ちょうど零時を差していて、年が明けた瞬間だった。
しかし僕らにはどうでも良いことで、首筋に顔を埋めた広文に身を委ねるのだった。

 

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