4

***

夢見心地で自宅へ帰ってきた弓枝だが、待っていたのは思いも寄らぬ現実だった。
事態は一変する。
物事はいつだって急変するから厄介だ。

「これ、どういうことか説明してちょうだい」

今日に限って早く帰ってきていた母親は、隠していたロミオとジュリエットの資料や既存の台本を持っていた。
ゴミ箱を漁ったのか、丸めて捨てた原稿まで皺くちゃなまま伸ばされていた。
それらが几帳面にもダイニングテーブルに並べられており、弓枝は鳩尾を打たれたように声を立てられなかった。
驚きで目を見張る。
もはや言い逃れは出来ないほど証拠が集められており、言い訳のひとつも思い浮かばずに大人しく認める。
否、魂が抜けたように放心状態だった。
足腰に力が入らずリビングの壁に寄りかかる。
鞄はとうに床へ落としていた。
だんまりは肯定していると同じこと。
そもそも彼は親の言うがままに育ってきたせいか反抗する気力がなかった。
彼女たちの前だと途端に小さな子どものようになってしまう。
ある程度知識も経験も身につけてきたのに、なぜか言葉に詰まってしまう。
普段なら適当に流すことも平気でやってのけるくせに、両親の前になると急に頭が働かなくなった。
勝手に意志が薄弱としてしまう。

「こんなくだらないこと、次のテストに響いたらどうするの」
「…………」
「来週の資源回収日に全部持っていってもらいますからね」

弓枝は鞄に隠し持っていた書きかけの原稿も奪われてしまい、台本に関する物は全て取り上げられてしまった。
それどころかこの土日は家から出ることを禁じられ、来週から塾は週五日通うことになるという。
完全に包囲された状態だった。
微かな自由さえなく親の支配下に置かれる。
まだ責任さえ全う出来ない子どもだから仕方がない。
現実の希望のなさに、帰宅前の夢心地な気分は萎み打ちのめされる。
――しかし、さらなる無情な仕打ちが弓枝を待っていた。
彼は母親の顔も見返せないほど虚ろにリビングをあとにした。
思い屈した心が萎縮したまま部屋へ戻ると、部屋の雰囲気が一変している。
本だ。
参考書や辞書以外根こそぎ持っていかれたのか、本棚は寂しいくらいスカスカになっている。
慌てて部屋中を見て回ると、押入れに隠していた小説や思い出の本であるシェイクスピアの詩集までなくなっていた。

「なんで……」

残った僅かな本が支えを失いパタンと倒れる。
虚しい音に耳が震えた。
一通りの確認を終えると、本棚の前で腰を落としうなだれる。
弓枝は憔悴しきっていた。
体の奥深い場所に暗く激しい失望感を抱える。
真っ先に思ったのは、つい先程別れた桃園のことだ。
脳裏に柔和な彼の笑顔が浮かんで、体が引き裂かれそうなくらい痛くなる。
血の出ない胸の奥がひりひりと責めたてるように広がる。
(連絡しなくちゃ)
一連の出来事に意気消沈して虚ろに視界を手繰る。
どうにかベッドに腰を落ち着かせると、鞄を引き寄せた。
あれほど喜んでくれたのに、その笑みを曇らせてしまうと思うと気が沈む。
だが、刃向かえない。
弓枝にとって両親の命令は絶対で、どうしても逃れられなかった。
まるで鉄の鎖で繋がられたように従順である。
十六年間そう教育されてきたのだから無理もなかった。
(断りの連絡を入れなくちゃ)
弓枝は震える手でおもむろに鞄から携帯を取り出すと、慣れない手つきで弄り始めた。
思考回路は寸断されたまま、アドレスから桃園を探すと、登録数が少ないせいかすぐに見つかった。
親に台本を取り上げられてもう続きが書けないこと、明日の約束は取りやめにしてほしい旨だけを簡潔に書いて送信する。
するとそれに対する反応は光の速さで届いた。
送信したばかりで気が緩んでいた時に、急に携帯が動き出して、驚きのあまり携帯を膝の上へ落としてしまう。
不慣れな証だった。
液晶には桃園の名前が表示されている。
どうやらメールを見て即座に電話をかけてきたようだ。
意味なく慄き目を伏せる。
しばしの逡巡。
こんなに早く反応が返ってくるとは思わなくて、心の準備が出来ていなかった。
桃園の心情を想像して気落ちする。
結局弓枝は出る勇気も気力もなく、疲れたようにベッドへ横になると、そのままふて寝してしまった。

そうしてどれほど時間が過ぎたのだろう……。
母親は夕食時に声をかけにきたが、ノックに返事もせず丸まって無視をした。
抗いと呼べないほどの小さな意思表示は、不貞腐れてなげやりになっていたから出来たことだった。
自分でもよくやったと思う。
うっすら目を開けると、時計はもう十一時すぎを差していた。
腹が減っている。
悲しくても憤っていても空腹に人は耐えられない。
だけど何もやる気になれず横臥すると天井を見つめた。
うっかりコンタクトをしたまま寝てしまい目が違和感でゴロゴロする。
面倒くさそうに一息吐いてから起き上がり外してケースへしまった。
代わりの眼鏡を引き出しから取り出してかける。
頭がやけに重かった。
蛍光灯の青白い明かりに照らされて、これからどうしようかと思案に暮れる。
腹が減っているが、もし両親が起きていたらまた何を言われるか分からないため顔を合わせたくなかった。
溜まった怒りの矛先も見つけられず、気持ち悪さが胸元を這う。
(どうしてこうなるんだろう)
思うがままに生きたいなんて高望みはしていない。
だが、少しの望みさえ得られない人生なら、生きている意味があるのだろうか。
これじゃまるでロボットだ。
目的のためにインプットされた思考のまま動いている。
無機質な存在はまっぴらだとかぶりを振るが、今の自分は大差なくて冗談にすらならなかった。
心はしんと底冷えしたように棘棘しく澄み切っている。
再び寝転がったベッドの上で布団を抱き寄せた。
柔らかな布の感触だけが弓枝を慰めているようだった。
――――と、その時、携帯が鳴った。
また桃園からかと憂色を浮かべながら手に取ると、今度は電話ではなくメールだった。
受信画面が映し出されて弓枝は起き上がる。
(無責任だと怒っているだろう)
自分で書き始めた台本を中途半端なまま投げ出したあげく、あれだけ楽しみにしていた明日の約束をふいにしてしまった。
さらには電話にも出ないなんて責任放棄もいいところである。
弓枝は苦々しく顔を歪ませながら、恐る恐るメールを開いた。

「え?」

だが、メールの文章は予想外に味気ないほどあっさりしていた。
「窓を開けて」としか書いていない。
弓枝は大慌てにベッドを這い出ると目の前の窓を開けた。
星影が霞むほどの鮮やかな月光を貼りつけた夜空は、昼間より空気がひんやりとしている。
二階の窓から見下ろすと、すぐ下には暗闇でも眩しい金髪が目に入った。

「桃園っ……」

息を呑むように目を見開くと、夢かと錯覚する。
自宅の下には桃園がいた。
そばに見慣れぬ自転車があるということはそれに乗ってきたということか。
彼は窓から現れた弓枝に物怖じしない人懐っこい笑顔で携帯を見せる。
すると弓枝の背後で携帯が鳴った。
ベッドの上に置きっぱなしだった携帯を取り上げると、桃園から電話が来ている。
急いで出ると窓際へ戻った。

「迎えに参りました、ジュリエット」

電話越しの桃園の声は何となくいつもと違って胸が躍った。

「だからオレはジュリエットじゃねーって」
「まぁまぁ、そこは合わせてロミオと呼んでやってよ。俺喜ぶから」
「嫌だよ」
「ざーんねん」

軽い態度が弓枝の煮え切った頭を冷ましてくれるようで気が楽になる。
くだらないやり取りをしながら張っていた体が緩んでいくのを感じた。
すぐ下にいる男の声を耳元で聞くのも変である。

「あ、でも迎えに来たのは本当だよ」
「え?」
「言ったじゃん。俺、ジュリエットを連れさらうってね」
「ばっ……あれは物語の中での話だろ」
「んー、でも……ほら、俺の手を必要としているでしょ?」

桃園は零れるような親しみを満面に浮かべながら片手を弓枝へ突き出した。
ほら――と、伸ばした指先を広げる。
絶対にここまで届くはずないのに、伸ばせば届きそうに思える優しい掌だった。
故に縋りつきたくても躊躇する。
なし崩しに甘えて、自分の存在が負担になることが怖かった。
桃園といると気持ちに歯止めが利かなくなる。
我慢することは得意なのに、感情のままに求めてしまいたくなる。
弓枝は伸ばそうとしていた手を堪えて胸元で止めた。
固い面持ちで窓枠を強く握ると、次の言葉を捜す。
こんなところをもし両親に見られていたら大変だ。
早く立ち去るよう促さなくてはならない。
だが、言葉なんて見つからなかった。
当たり前だ。
だって弓枝は嬉しかったのだ。
自分へ向けられた想いがどうしようもなく愛しかったのだ。
言葉にならないんじゃない。
言葉に出来なかったのだ。
代わりに艶のある透き通った声が弓枝の耳を――感官を刺激する。

「欲しがりなよ」

桃園はとても静かな神経を慰撫するような声色で、

「そんな物欲しそうな顔で見てないで素直に欲しがってよ。俺は弓枝が望むものなら何でも与えてあげるからさ」
「あ、甘やかすなってば……っ」
「なんで? 何度も言ってるでしょ。めちゃくちゃ甘やかせたいって」
「……だってっ……」
「いい加減我慢するのやめなよ。せっかく博愛主義者じゃなくなったんだからめいっぱいに可愛がらせてよ」

二人の視線が粘っこく絡む。
森閑と更けわたる夜のしじまに桃園の甘い掠れ声が響く。

「いつだって手を伸ばすところに俺はいたいんだからね」
「桃園…………」
「大人しくさらわせてくれたらロミオはどんなことがあってもジュリエットを守りますよ」
「…………」
「例え相手が誰だってね」

いつだって背中を押してくれるのは桃園だ。
新しい世界を切り開いてくれるのも桃園だ。
いっぱい。
言葉では言い表せないくらい感謝していて、でも、改めて感謝を言葉にすると桃園は照れて軽い口調になり「やーね、今さら水くさいこと言わないでよ」なんて言ってくるだろうから胸に秘めていた。
優しい気遣いが沁みこんで窓枠を掴む手が震える。
まるで絡まった糸がほどけていくみたいにしがらみから解放される。

「だって俺は弓枝が好きだから」

電話越しの密やかな告白は、桃園自身も照れているのか声が小さくなっていた。
(好き、桃園がオレを好き)
改めて真っ直ぐ口にされると戸惑う。
だって桃園はロミオじゃない。
本当なら弓枝がロミオで、桃園がジュリエットなのだ。
彼は誰もが憧れる高嶺の花だ。
自分なんかが愛されているなんてありえないし、そんな都合の良い夢早く覚めて欲しい。
でなければ勘違いしたまま踊らされてしまいそうだ。

「好きだよ。好き。俺は弓枝が好きなんだよ」

桃園は弓枝の心に打ち込むように何度も好きだと囁いた。
夢なんかじゃないと教えるように想いを吐露する。
その切なくなるほどいじらしい恋しさが焼くように迫ってきた。
桃園は目の前にいる。
親に意見も言えず拗ねてささくれ立っていた弓枝を助けようと、自転車を飛ばして会いに来てくれている。
(本当はどれくらい前からいたんだ?)
弓枝が電話に出ないことを心配して急いで来たに違いない。
どれほどここにいたのか。
どんな思いでこの二階の窓辺を見つめていたのか。
想像するだけで渇いた心が沁みるように潤っていくようだ。
喘ぐほどの愛情を与えられて、情緒不安定だった弓枝の目尻に涙が浮かぶ。
気丈にも泣きはしなかったが、全身は小刻みに震えていた。
言葉にしようとすると消えてしまう淡い感動を胸にしまう。
大丈夫。
想いはちゃんと届いている。
限りない望みはすぐそこにある。

〝ああ、愛しのロミオ〟

うっかりそんな台詞さえ漏らしてしまいそうなくらい気持ちは詰まってはち切れそうだった。
皮膚の表面がチリチリと粟立つように意欲が湧く。
応えたい。
手を伸ばしたい。
自ら掴み取りたい。
胸の奥を掻き毟るような激しい焦燥を覚えて弓枝はとうとう覚悟を決めた。
それまでの自信なさ気な目元は引き締まり、確認するように周囲を見回す。
今までの弓枝ならこんなことはしない。
考えもしないし、行動も起こさない。

「え、ちょっちょっと――まさかっ!」

電話口の桃園が慌てふためきうろたえた声をあげた。
そのまさかだった。
面食らうのも当然だ。
あの弓枝が窓枠に足を乗せると、躊躇いなく窓から飛び降りようとした。
高くないとはいえ、地面はコンクリートで、もし間違って塀に当たったら怪我をするだろう。
だけど弓枝の決心は揺らがなかった。
彼は見たこともないほどアクティブにジャンプすると窓から飛び出す。
一瞬の浮遊感と、身が竦むような恐怖。
高所恐怖症ではないが、さすがに飛び降りるのは足が震えた。
しかし迷いはなかった。
桃園はその様子にぎょっとすると、携帯を放り出して弓枝の体をキャッチした。
間一髪だ。
桃園は肝を冷やすような顔で弓枝を抱きしめると、爆発寸前の心音を晒す。
まさか本当に二階の窓から飛び降りると思わなかったからだ。
思いもよらぬ行動に頭が真っ白になって、弓枝の体を確かめるよう強く抱いた。
ジュリエットだってこんな無茶はしない。

「もう――」

驚かさないでよと叱ろうとしたところで息を呑んだ。
どくんと脈打つ。
腕の中で弓枝が見たこともないほど満面に喜色を湛え、くすぐったそうに笑っていたからだ。

「ロミオなら受け止めてくれると思った」

***

弓枝は桃園の自転車の後ろに跨ると自宅をあとにした。
学校から帰ってきてすぐふて寝をしたため制服姿だった。
二階から飛び降りたから靴も履いてない。
玄関のすぐ横がリビングで、音を立てたら両親に見つかる可能性があるため、靴を取りにはいけなかった。
外から見ると一階は電気がついており、まだ二人は起きている。
危険を冒す必要はない。
幸い桃園は自転車だったため、乗せてもらえば靴がなくても困らなかった。

「ようこそ我が家へ」

桃園の家へ着くと、彼は真夜中とは思えない爽やかな態度で弓枝を招き入れた。
自宅の外観は台形で、正面は窓がなく白い煉瓦が埋め込まれている。
変わった家だと物珍しげに見上げていると、桃園は、

「うちのお父様、建築家ってやつなんだよねー」

と、苦笑いした。
慣れた説明に、昔から初めて家を訪れた人間は弓枝と同じような反応を示してきたに違いない。

「お邪魔します」

生まれて初めて同級生の自宅を訪れた弓枝は、恐る恐る窺うように玄関をあがった。
桃園が出してくれたスリッパを履くと、彼のあとを追う。
廊下を曲がった先には広々としたダイニングキッチンがあった。
奥はリビングなのか、大きなテレビとソファがあり寛げる空間になっている。
その手前にはダイニングテーブルが置いてあった。
食器棚やちょっとしたマガジンラックまでお洒落で弓枝の自宅と雲泥の差だった。
さすがクリエイティブな仕事をしている人の家だ。
どうやらセンスの違いというやつらしい。
桃園も只者ではないが、さすがその親も常人ではなさそうだ。
弓枝は関心したように辺りを見回していると、ぎゅるるると腹が鳴った。
急いで腹を押さえるも桃園にも聞こえていたようで、くっくっと笑いを噛み殺している。

「まさかこんなに早く俺の料理をお披露目出来る日がくるなんてね」

彼はそういうと弓枝をダイニングテーブルに座らせて、自らはキッチンに立った。
ガサゴソと冷蔵庫を漁っている。
弓枝は遠慮したが桃園は聞く耳を持たなかった。

「むしろ食べて欲しいから大人しく座っていなさい」
「でもっ……」
「ご飯が食べたくなったら連絡してって言ったのは俺なんだから」

そういえば以前そんな話をした。
確か桃園に携帯番号を訊かれた時のことだ。
弓枝だってまさか本当に彼の手料理をご馳走になる日が来るとは思わなかった。

「家庭科五の手腕を発揮する機会がようやく訪れたんだから、ね?」
「料理だけで取ってんのか」
「まさか。縫い物も得意よん。これでも学年一家庭科を楽しみにしている男だからね」
「変なやつ」
「ん、褒め言葉として受け取っときます」

材料を切り始めた桃園は、弓枝に背を向けながらも鼻歌交じりで気分良さそうだった。
小刻みに調子良く切る音が聞こえてくるところを見るに、得意というのは事実なようだ。
見えなくても手際の良さ気な雰囲気は伝わるもので、普段からしょっちゅう食事の支度をしているのだと覚る。
意外な特技だった。
桃園はどちらかといえば可愛い女の子にご飯を作ってもらう立場が似合っている。
出来た料理を上手い言葉で褒め称える姿が容易に想像出来た。

「まぁ、ゆうちゃん。音がすると思ったらご飯作ってたの?」

そこへ寝巻き姿の女性が現れた。
寝ていたのか目を擦り眠そうにあくびをしている。

「母さん。ごめん、起こしちゃった?」

その声に振り返った桃園が苦笑いする。
(この人が桃園の……)
弓枝は慌てたように席を立つと深々と頭を下げた。

 

次のページ