3

「君の友人か?」

クラリオンはいきなり現れた男を、仮面のせいで陛下と気付かず、その態度に戸惑っていた。
誰だって突然睨まれたら困るに決まっている。

「ちょっとおいで」
「はっ……っ、なぜっ……」
「いいから」

クラリオンの腕に絡ませていた手を引き離されて、そのまま連れて行かれた。
振り返ると当惑した二人が心配そうにヤマトを見送る。
その間もユニウスはずかずかと人の間を抜けて会場の二階へと向かった。
そこも一階同様に賑やかな音楽に踊り狂う男女で溢れている。

「離してくださいっ……!」

階段を上がったところまで来て、ヤマトは掴まれていた腕を振りほどいた。
(なんで不機嫌なんだ)
こちらに背を向けたユニウスは明らかに怒っていて、原因も分からず首を捻る。
勝手にここへ連れてきて、あとは勝手にしろとほっぽり出されたのはヤマトとミシェルだ。
やっと雰囲気にも馴染み、クラリオンという面白そうな男と知り合えたのに台無しである。

「私が何か気に食わぬことでもしましたか?」

ヤマトが感情を表すのも珍しいが、ユニウスがこういった態度をとるのは珍しい。
面倒くさいからさっさと謝って逃げたかったのだが、ユニウスは口を開かなかった。
ただ振り返り、ヤマトをじっと見つめる。

「……っ……」

(なんだろう)
眉間に皺を寄せ、唇を噛み締めた表情はどこか切なげで、まるで自分がとんでもなく酷いことをしたような気になる。

「別に何もないよ」

しかし彼は否定した。
極めて淡々とした物言いだが、感情に波が出来ているのは一目瞭然だった。
だが、なぜそうなったか分からないから、地雷がどこにあるのか掴めず、迂闊に謝ることさえ出来ない。
そうこうしている間に再び彼は背を向けてしまった。
そのまま何も言わず立ち去る。

「はっ、ちょっと……!」

だがヤマトは納得いかず追いかけようとした。
腹立たしいことばかりされて、何もないで済ますわけにいかない。
――が、伸ばした手は違う誰かに掴まれた。
喫驚して咄嗟に見上げると、知らない男二人に挟まれている。

「どうしたの?男と喧嘩したの?」
「俺たちと向こうでシャンパン飲もうよ」

ずいぶん大柄な男が、ヤマトの細い腕をいともたやすく引き寄せた。
男といえど、背格好が全く違えば力で敵うわけない。

「やめろっってば!僕はっ」
「おい聞いたか。僕だってよ」
「ははっ、可愛いのに自分のこと僕って呼ぶのか。どこの家の子なの?」

どんなに暴れようがビクともしなかった。
必死の抵抗もむなしく抱き寄せられる。
二人とも酒臭くて酔っ払っていることがすぐ判った。
そのノリで遊ばれたら、たとえ女じゃなくともたまったもんじゃない。

「離せってば!やめろよ」

掴まれた腕を解こうともがくが、そうすればするほど男たちを煽らせ喜ばせた。
悔しさを滲ませながら身を捩るが全く動かない。
その時だ。
突如男たち二人は、とある男に水をぶっかけられた。

「うわあああああ」
「いきなりなにすんだっ」

酔っているせいかいきなりのことに仰天して手を離す。
その隙に水をかけた男がヤマトの腕を掴んだ。
それはさっさと立ち去ったユニウスだった。
騒ぐ男二人から逃げるようにユニウスとヤマトは上の階へと移動する。
慣れないヒールに足はもたついたが、掴まったら今度こそ面倒な目に合うと、一生懸命駆け上がった。
辿り着いたのは屋上で、隅には何組かの仲睦まじげな男女が寄り添い居心地悪い雰囲気だった。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

一気に五階の屋上まで走ってきたせいか息が切れる。
ヤマトは呼吸を整えようと何度も深呼吸した。
早春といえども夜は真冬のように寒く、吐いた息が白く染まる。
ようやく荒い呼吸が治まったところで顔をあげると、ユニウスは苦笑していた。

「やれやれ、まったくそなたは……」
「なんですか?」

掴まれた腕はそのままで、気付いたヤマトが急いで離そうとしたが、どうしても離れなかった。
ユニウスは平然とした顔で掴んだ手に力をこめる。
その矛盾に付き合うのも馬鹿らしいと苦笑し返した。

「陛下。お戯れがすぎるのではありませんか」
「それはそなたの話だろう。ずいぶんクラリオンといた時は楽しそうだったようだが」
「べ、別にっ、楽しくなんか……」
「大体そのような格好をしているから男たちに狙われるのだ」
「その格好をさせたのは陛下でございましょう?」
「似合うそなたが悪いのだ」
「ずいぶん勝手な言い方ですね。ならばこのようなところに連れてこなければ良かったのに」

互いに一歩も引かない。
周囲は恋人たちがいちゃいちゃ抱き合っているのに、微塵もそんな雰囲気はなかった。
冷たい夜風が身に染みる。

「……違う、こんなはずでは」

するとユニウスはバツの悪そうな顔を背けた。
僅かに口を尖らせてもごもごと口ごもる。
何を言っているか聞こえなかったヤマトは、

「文句があるのならはっきり仰ってください」

と、鋭い眼光で睨み、

「元々私は陛下の物ではありません。ならばどこで誰と何をしてようと私の勝手でございましょう」

――と、さも正論とでも言うかのように毅然とした態度で振舞った。
冷めた瞳でユニウスを見つめ、

「これ以上の干渉は勘弁願いたく存じます。もしこのようなくだらないお遊びを続けるのなら、私は城から出て行きます」

そう言って相手の態度を窺うが、ユニウスは頑なに首を振った。

「それはならぬ」
「なぜです?」
「そなたは余のものだからだ」
「はは、戯言を。アルドメリアの国も、その国民も陛下のものでございましょう。ですが、私は異国人。吟遊詩人は誰のものにもなりませぬ。いつだって気ままに自由であることを望んで根無し草になったのですから」

ヤマトは縛られたくなかった。
だから吟遊詩人として放浪の道を選んだのだ。
時に雨の降る寒い夜を軒下で過ごしたこともあるし、厳しい暑さの中、水を求めて彷徨ったこともある。
選んだのは自分だ。
そういう生き方をしたかった。
誰かと関わること、組織の中に入ることを毛嫌いした。
否、嫌いなのではない。
彼は他人との距離に恐れを抱いていたのだ。

「そなたは愛らしいほどに憎たらしい男だ」

ユニウスは手を離す。
月の美しい夜だった。
雲ひとつない空はどこまでも続き果てがない。
宝石をばら撒いたような星は、煌々と浮かんで光り輝いていた。
街の中央にある時計塔は月明かりに照らされて、分針が動いたのが分かる。
もうあと数時間で朝は来る。
一夜の魔法は解けて、いつもの紳士淑女に生まれ戻る。

「あなたは憎らしいだけの男です」

だけど二人の関係は魔法が解けることもなく離れたままだった。

翌日の夕方、事件は起きた。
それは起きるべくして起きた事件だった。
寄宿舎暮らしのミシェルの部屋が荒らされたのだ。
部屋中をめちゃくちゃにされ、学院から借りていたヴァイオリンは完膚なきまで壊されていた。
学院から戻ったミシェルは、嵐が過ぎ去ったように荒れ果てた部屋に腰を抜かし、声をあげることも出来ず動けなくなった。
実家から送られてきた家族の手紙や楽譜、楽器の手入れ用品まで何もかも壊され破られて酷い有様だった。
壊し方には圧倒的な悪意が込められていた。
その状況を知った生徒は大慌てで教師のもとへ向かった。
だが犯人は特定できなかった。
否、特定されなかった。
その場にいた全員が犯人の正体を知っていたからだ。
――といっても、手助けしてくれる者はいない。
ミシェルには別の部屋が宛がわれて終わる。
何もかもを失っても「仕方がない」と、慰めにもならない言葉をかけられて終わる。
何が悪いのか。
なぜ彼がこんな目に合わなければならないのか。
しいていうならミシェルの才能のせいだろう。
優れた音楽家は一音出しただけで凡人との差を見せ付けることが出来るという。
ミシェルは伸びかけの才能の芽を持っていた。
将来その芽は伸びて大きな木となり、いつか必ず花開くだろう。
それは一握りの人間に許された神の賜物で、どれだけ努力しても敵わない確実な違いを見せ付ける驚異の能力だ。
ミシェルは持って生まれた才能に甘んじることなく、音楽だけを愛し、努力でその力を伸ばしていた。
これ以上脅威するべき人間はいないだろう。
それを疎ましく思う人間は大勢いる。
出る釘は打たれると同じこと。
尤も、ミシェルにとって――この国の音楽家にとって不幸なのは、そんな卑劣な真似をするのがこの国一と言われるヴァイオリニストなことだ。
エオゼンは音楽院在学中に宮廷専属のオーケストラに選ばれた優秀な男だ。
彼にも才能はあるし、努力だってしてきた。
自らの力でのし上がり、宮廷オーケストラの一員となった。
だが近隣諸国中の音楽才能溢れる若者が毎年何人も入学してくる。
入学テストは年に二回春と秋に行われていて、ミシェルは秋に入学したばかりの新入生だった。
特にピアノとヴァイオリンは競争率が高く、少しでも気を抜けば専属から外されてしまう可能性がある。
エオゼンは宮廷専属であることが誇りだった。
アルドメリアの宮廷オーケストラといえば世界一有名な楽団なのだ。
誰もが入団を目指して日夜練習に励んでいる。
人々の目標であり憧れの存在なのだ。
もう勤めてから数十年になる。
不動のヴァイオリニストとして君臨しているのだ。
これ以上の名誉はあるまい。
――しかし実態は少し違った。
彼はその権力を駆使して、今まで若き才能ある芽を何人も潰してきたのだ。
歳をとることに瑞々しい若い力を妬ましく思っていたからだ。
しかし入学者全員を弾くことは出来ず、彼は獲物を狙うようにその中でもさらに非凡な人間を選んで追い詰めていった。
その陰険さ執拗さは自らを正当化することで忘れた。
いつだって人間は都合の良い思考を持っている。
彼は自分のしていることが悪いことだと思っていないだろう。
結局、地位も名誉も金もある音楽家に敵う人間はいなかった。
悠然と立ち向かう無謀者はいなかった。
誰も憤慨しない。
当時、城と教会と音楽院は癒着関係にあって、それぞれが金にものを言わせる無法地帯と化していた。
陛下が興味なく暗黙許されていたからである。
城の官職や教会の大司教、音楽院の理事長、学院長、教師と、どれも裏で取引して職種に就いている。
それを牛耳っていたのがエオゼンだった。
つまり音楽院に勤めるということはエオゼンの機嫌を損ねてはならないのだ。
故に理事長といえども口出しすることは出来ず、また金で雇った同学院の生徒に嫌がらせを指示している。
その虐めは徹底的で、エオゼンの標的となった者は全員が学院を去って、ソリストになるか他国のオーケストラに入った。
才能あるエオゼンは、皮肉にもいち早く他の才能を見抜き、育つ前に踏み潰してしまう。
もはやそういった非道極まる行為は日常化していて終わりがなかった。
むしろ加速の一途を辿っていた。
刃向かう者はいない。
エオゼンに嫌われればこの国で音楽家として生きていけなくなる。
それほどの地位についていた。
だから誰も犯人を特定しようとしないし、知らん振りを突き通す。
彼はそうして宮廷専属を守ってきたのだ。
本来あるべき競争や循環がなくなれば、その分オーケストラとしての力は弱まる。
より素晴らしい音楽を奏でる者が選ばれなくてはならないのに、そういった能力ある者は外へ出ていってしまって、凡人だけが残されてしまうのだ。
こうして、人を育てるはずの学院で横行している行為は、全て力ある者に掻き消されて表面には出てこない。
狭い世界の中で無常にも完結してしまう。
善人の顔をした悪魔は、今日も何事もなかったように城へ出入りして陛下に音楽を聞かせている。
いつしか彼は歴史上の人物として残り、後世の音楽家たちは伝説のヴァイオリニストとして持て囃すのだろう。
その影でどれほど多くの人が嘆き悲しみ消え去ったとも知らず。

――しかし忘れてはならない事実がここにある。
そもそも今回の事件を引き起こした一端はヤマトにあった。
彼は〝ついうっかり〟朝食の時に昨日の話を陛下にしてしまったのである。
昔から王宮では食事時やお茶会、人を招く時など後ろで宮廷オーケストラが楽器を弾いている。
当然、悪魔はどんな時も耳を澄まして聞いている。
誰よりも抜きん出た良い耳で密やかに聞いている。
ユニウスは何も知らずに返事をした。

「ほう、昨日のヴァイオリニストはミシェルと言うのか。ずいぶん腕の立つ青年だったなぁ。また聴きたいものだ」
「ええ……本当に」

ヤマトは返事をしながら振り返った。
――何もない。
オーケストラたちは陛下に聞かせるため、より良い音楽を奏でている。
――何もない。
その中にひとりだけ、私憤と焦りに身動きがとれなくなっている者がいるというのに気付かない。
この後、怒りに任せて清らかな心を持った若者の部屋へ荒らしにいく者がいるなど思いもよらない。
(このままだと本当に沼から出られなくなるよ)
高名なヴァイオリニストは冷たい沼に浸かりすぎた。
心は凍てついて鼓動は聞こえなくなった。
もはや自力で這い出ることは出来ないだろう。
あとは沈むだけ。
光の射さない暗闇に沈むだけ。
もう他の誰かをその沼に引きずり込ませてやらない。
(僕が断ち切ってあげるよ)

「可哀想に」

こうして事件は起きてしまった。
過ちでは済まされない。
人だかりの出来たミシェルの部屋を、隙間から見ていたヤマトはそう呟き音学院をあとにした。
自室でひとり昼から酒盛りしていたユニウスに冷えた嗤いを見せる。

「陛下、お話があります」

そのためなら喜んで悪役になれるのだ。

翌日、宮廷専属のエオゼンと、音楽院の理事長および学院長、その他数名の生徒は国から姿を消した。
一晩のうちにいなくなってしまった。
彼らは、地位はもちろん財産まで没収されて国外追放となった。
国王がそれを指示したからだ。
彼の命令ならば反論する者はおらず、夜の闇に紛れて速やかに刑は執行されてしまった。
残された部屋には何もない。
その代わり宮廷オーケストラのヴァイオリンに一人空きが出来てしまった。
急いで補充せねばならない。
本来なら音楽院の生徒に試験を受けさせるのだが、

「やぁ、ミシェル」

ヤマトはミシェルの部屋を訪れていた。
彼は陛下からの令状を渡す役目を担っていたからだ。
しかし部屋にいたミシェルは暗く落ち込み、ベッドに座ったまま動こうとしない。

「もう聞いているだろう。陛下直々のご指名だ。君が宮廷専属のヴァイオリニストになるんだよ」

それでもミシェルは顔を上げなかった。
手に持っていたのは壊れたヴァイオリンの欠片で、一点を見つめたまま瞬きすらしようとしない。
実家から持ってきた物を全て失ったせいか、部屋にはベッドと机以外何も置かれていなかった。
色味のない部屋は無機質で、余計に寒く感じる。
とても侯爵家の息子が生活する部屋とは思えなかった。

「昨日の朝、僕、やっぱり寮を抜け出したことが知られて先生に怒られたんだ」
「ミシェル?」
「それなのに、数時間後また呼び出されて、陛下からの誘いであったならなぜ先に言わないのかと激しく謝られたんだ」

ミシェルは顔を下げたまま淡々と呟き、

「陛下の名前は絶対に出さなかったのに、どうして知られてしまったのか不思議だった。おかしいなと思いながら帰ったら部屋が荒らされてた」
「………………」
「大切なものは全部なくなってしまった。……っぅ、なのに、今日学院に行ったらみんなが僕を避けるんだ」

声が震えて泣くのをこらえている。

「僕に酷いことをしていたのがエオゼン様だったことは知っていたんだ。でも、そのエオゼン様や理事長たちがみんな追放されて、代わりのヴァイオリニストが僕だって……」

ミシェルは顔をあげた。
瞳に涙を溜めて真っ直ぐヤマトを見つめる。
その清さにヤマトは微笑むと、持っていたヴァイオリンケースを開けた。
中には有名な職人の高価な楽器が入っている。
一流の音楽家でも手に入れるのが難しい特殊な代物だ。

「君は実力でその座を射止めたんだ。これは陛下からの贈り物だ。君が持っていた素晴らしいヴァイオリンは先日エオゼン達に壊されてしまったのだろう?明日からはこれを使えばいい」

ヤマトはミシェルに近寄ると楽器を差し出した。
しかし彼は受け取らず、厳しさを増した目を向け、

「……どうして壊されたことを知っているの?」
「君のことなら何でも知っているさ」
「なんで……」
「なぜって、それを分かっているから君はそんな顔で僕を見るんだろう?」

ヤマトは愉快そうに口角をあげた。
机に新品の楽器を置き、どうぞと手で促す。
対するミシェルは疑惑を深めたように顔を歪ませた。

「……昨日からずっとおかしいと思っていたんだ」
「うん」
「でも、まさか……ヤマトの仕業なわけないって」
「僕は何もしていないよ」

直接命令した覚えはない。
朝食時、自由気ままにこう呟いただけなのだ。

〝「昨日、ミシェルのヴァイオリンで唄った賛美歌は気持ちよかったです。彼の音色は音楽院の中でも格段に素晴らしい」〟

その後は、音楽院の理事長へ陛下から渡された詫び状を持って行っただけ。
書けとは指示していない。
勝手に寮を抜け出したら退学になるかも――と、呟いただけなのだ。
そのあとも同じこと。
荒らされたミシェルの部屋を見てきたヤマトは、酒を飲んでいた陛下に事情を説明した。
偶然遊びに行ったら、彼の部屋が壊されて酷い有様だったのだと。
そして調べていたエオゼンと音楽院の関係をうっかり漏らしてしまったのだ。
ユニウスは、ヤマトがミシェルを気に入っていることを知っている。
そのミシェルの将来が、エオゼンによって潰されかけているとなれば動くだろう。
滅多に顔を見せないヤマトが自ら歩み寄ってきたのだから。
事実こうしてヤマトの思い通り事は進んだ。
でも彼は何もしていない。
何かを指示した記憶もない。
そんな力はヤマトにはないのだ。
ミシェルもそれを分かっているから、ヤマトのせいだと確信を抱けずにいる。

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